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沙門果経(2)
第1章 王様の質問
A・スマナサーラ長老

満月の日には「こころ」を磨く

 経典はある満月の夜から始まります。注を見ると雨季の四ヶ月が満ちた十一月十五日の満月の日となっています。インドでは満月、新月の日は、宗教の日で精神的なことに励む決まりなのです。

 満月の夜、アジャータサットゥ王が「今日は誰かに会って話したい。誰がよろしいか」と大臣たちに尋ねます。ここはなぜこの経典ができたか、といういわれを語った所ですから、必ずしも事実どおりではなくて、「今日はお釈迦さまに会ってみようかな」というふうになった可能性はあります。ただ彼が一番先にお釈迦さまに会ったわけではなく、それまでにもいろんな宗教を探検していた。その経歴をまとめてストーリーにしているのです。

 王の質問にある大臣が答えて、
「陛下、それならばPûrana-Kassapa(プーラナ・カッサパ)という者がおります。彼こそ教団を統率し、集団を統率し、集団の師としてよく知られ、誉れが高く、創唱者であり、多くの人々に善人として尊敬され、経験が豊かで、出家して久しく、長い人生の旅人であり、高齢に達した者です。陛下は、そのプーラナ・カッサパに会えば宜しいのではないでしょうか」。

 プーラナ・カッサパは当時大変有名な宗教の創始者で、ものすごく尊敬されていたのです。いわゆる仙人として崇められていた人なのですね。でも、王様が黙っている。

 そこでほかの大臣が、「それだったらMakkhali-Gosâla(マッカリ・ゴーサーラ)という仙人に会ったらいかがでしょうか。その人も大変有名な仙人です」。でも王様が気に入らない。
もうひとりの大臣が、「Ajita Kesa-kambala(アジタ・ケーサカンバラ)という人に会ったらいかがでしょうか」。
次から次にPakudha-Kaccâyana(パクダ・カッチャーヤナ)、Nigantha Nâta-putta(ニガンタ・ナータプッタ)、Sañjaya Belatthi-putta(サンジャヤ・ベーラッティプッタ)という高名な宗教家の名前が挙げられます。
これらの先生方は当時、大変有名な宗教をつくった人で、ものすごく尊敬されていたのです。日本訳ではそれ程感じませんが、原文の言葉はものすごいほめ言葉です。Sâdhu-sammat、いわゆる仙人として崇められていた人達です。


「六師外道」は宗教界の革命家たち

 ここで、名前が挙がった人々がどういう人たちだったのか、簡単に説明しておきます。日本でも仏教を勉強している方々は、「六師外道」という言葉を聞いたことがあると思います。仏教以外の教えを説いている六人の先生、というほどの意味で仏教で使っています。でも、ここに登場する六人は外道という蔑称で簡単に切り捨てられる人々ではなかったのです。

 この人々はインドの当時の宗教世界で革命を起こした大物の六人です。その教えは、我々がインドの宗教として知っているヒンドゥー教のような生ぬるい教えではありませんでした。ヒンドゥー教は、昔のバラモン教から伝わったインドの独特な宗教です。ですからバラモン教は土台であって、かなり大きいのです。その中で大胆な教えを説いて革命を起こした人々なのです。バラモン教の悪弊に縛られて苦しんでいた社会の中に天才たちが現れてきて、とてつもないことを言って人々の目を覚ましてしまった。

 宗教の例で言えば、ユダヤ教に革命を起こしたのはイエス様でしょう。イエス様はユダヤ人でしたが、旧約聖書に新しい約束事を入れて全部ひっくり返したのです。いわゆる、怒ったら怒り返せという一対一の教えに「右の頬を叩かれたら左の頬も出しなさい」と説く。ですからかなりの革命なのです。それを後の人々が新約聖書ということにして、旧約聖書につなげてしまった。歴史的な流れは同じかもしれませんが、キリスト教とユダヤ教は別の宗教です。

 科学の世界で言えば、アインシュタインも同じです。それからカール・マルクスも社会に対して大変な革命を起こしたのですね。マルクス主義は消えたからといって、彼が貢献したものは消えたわけではない。苦しんでいる人々の気持ちも考えなさいということは、いま資本主義の世界でも何とか生きているでしょう。そうやって革命を起こす人々というのは、百年ごとに何人かは必要なのです。そうでないと人間というのはだらしなく、人の言う同じことをだらだらと繰り返すのです。

 ですからこの六人は宗教世界の革命家で、厳密に考えなくてはいけない六人なのです。お釈迦さまはその上をいくものすごい革命家だったのですが、それでこの人たちの宗教が軽々しい教えというわけではないのです。今でもニガンタ・ナータプッタの始めたジャイナ教は、インドでヒンドゥー教と一緒に大変元気に頑張っているすごい教えです。

 これから読む『沙門果経』の目的は、お釈迦さまの出世間の世界を説明することです。でもお釈迦さまだけではなくて精神革命を起こそうとした六人の偉い先生の教えも紹介する。紹介してそれを壊すことも認めることもなく置いておいて、仏教の世界を紹介する。聞く人々、読む人々は自分で比較して自由に判断してください、ということなのです。

 そういうわけで仏教の中身を話す経典に、なぜこの六人が入り込むかという疑問が生まれますが、仏教の教えを比較して、仏陀の教えの特色を楽に理解してもらうために紹介しているのです。

 今のインドでは、ジャイナ教以外、他の五人の教えは残っていないのです。経典もない。だから学者はこれをどうやって理解すればいいか、比較する資料がない、ということで結構悩んだりしました。いまだにはっきりと解決してないが、それなりに研究はあります。もしかすると、論文は英語でしかない可能性もあります。

仏教の押し売りはしない

 大臣たちが次から次へと、「この先生に会ったらいかがでしょう」と六人の宗教家の名前を挙げるのですがアジャータサットゥ王様は気に入らない。黙っているのです。その間ジーヴァカは王様のそばにずっと黙って座っていました。なぜかというと彼は、お釈迦さまと親しかった父王を殺したこの王様はもう仏教には縁がないと思っている。それで王様から貰った土地までお釈迦さまに寄付して、一人で頑張っていたのです。ここに仏教徒のひとつの性格が見えます。

 普通の宗教では、自分が信仰するものを他人に押し付けよう押し付けようと大きなお世話をやるのです。いまも我々はいやになるほど経験していますが、昔もそうだったろうと思います。概ね信仰中心の宗教は人のこころを盲目にしてしまう。自分の角度だけで世の中を見るものだから、世の中が見えなくなるのです。でも仏教は智慧の宗教だから、いつもこころを開いて、目を覚まして、すべてありのままに見ることを重んじるのです。《無知でいる限り人は誰でも騙される、操られてしまう。奴隷にもなってしまうかもしれない。身を守るのは自分が持っている知識と智慧です。だから、いつでも智慧を磨いておきなさい。ものごとは自分で判断しなさい》という教えです。人をいかに独立させるかというのが仏教のねらいなのです。いわゆる一般に知られている宗教とは正反対の性格です。「信じなさい」と言うことはひと言葉もない。「私の言うことを聞かなかったら罰が当たりますよ」という脅しは微かにもない。いつでもその逆を言う。常に客観的に合理的に論理的にものごとを見るべきだと言って、その方法まで教える。教え総てがものすごく厳密で科学的なのです。例えば人が実際に見聞きして伝えていることでも、自分で見ない限りそのまま信じることを仏教では認めません。そういうところでものすごく厳密なのです。この経典ではあまり触れませんが、他の経典でそこはしっかり説明しています。

仏陀の不思議な性格

 ジーヴァカは自分が悟りまで開いているのです。だから、いろんな人を奨められても王様が気に入らないということは分かっていました。でも自分からはしゃべらない。王様に「ところで、友ジーヴァカよ、そなたはなぜ黙っているのか」と促されてやっと口を開きます。その態度は、ジーヴァカがお釈迦さまから受け継いだものなのです。

 お釈迦さまは自分が悟りを開いたからといって、誰彼かまわず説法はしなかったのです。興味のない人を捉まえてまで福音のメッセージは喋らないのです。普段は誰にも迷惑をかけずにひとり静かにいる。人々がお釈迦さまを訪ねて質問したりすると、それには抜群に答える。失礼な質問でもしたら、その百倍にして返してあげる。お釈迦さまを論争で負かそうと思って来た人には、冷や汗が出て体がガタガタ震えるまで言うのです。悟ったからといって、お釈迦さまは借りてきた猫みたいに聖者ぶっていたわけではありません。その場でその場で親切なことも言うし、きついことも言う。

 特にお坊さんたちを叱っているときというのは、ものすごくきついのです。弟子たちがちょっとでも怠けたりすることがあるでしょう。今でも経典を読むと怖くてたまらなくなるくらい厳しい言葉で叱責するのです。「出家の身で何故そういうことをするのですか。がんばりなさい、怠けるな」と。

 ですからお釈迦さまはものすごく不思議な性格なのです。何一つも煩悩はない。完璧に悟っていたし智慧の完成者でした。性格の中でこれという短所は一つもなかった。だからといって宗教の世界でよくある善人ぶるとか、罵られてもニコニコと黙って聞くということでもなかったのです。その相手次第で変わるのです。

 あるバラモン人がお釈迦さまを散々口汚く罵ったのです。お釈迦さまは黙って聞いて、「終わりましたか」。「終わりました」。そこでこう言います。「あなたの家で友達や親戚をたくさん招くパーティーを開くとします。いろんなごちそうを作りますね。でも誰一人パーティーに来なかったら、そのごちそうをどうしますか」。「それだったら私と家内と子供たちで食べます」。「ああ、そう。あなたはいま私にきつい言葉、悪口をごちそうしたのです。でも残念ですけど私は食べません。受けません。ですからあなたと奥さんと子供たちでどうぞ受け取ってください」。それはその人が怒ったことよりずっときつい返し方になるのです。今まで言ったことを、全部本人と家族に戻してしまう。

 お釈迦さまのそういう智慧の鋭さを私はとても気に入っているのです。それは我々が現代社会でうまく生きていける、上手に問題を解決して乗り越えていくための方法なんですね。ですから仏教という宗教は、根性が弱くて逃げる道ではありません。勇気を出して堂々と行動することを教えているのです。でも私たち人間というのは、世の中で思い通りに堂々と行動できるわけではないでしょう。なかなか自信がない。いろんな心配ごとがある。不満がいっぱいある。そこで自信のないところ、不満なところ、堂々と活動できないところは仏教が全部たたき直してくれる。この経典の中にもそれに必要ないろいろな智慧は、チラチラと出ているのです。

お釈迦さまを推薦する言葉

 王様に尋ねられてジーヴァカはお釈迦さまを推薦します。
 「陛下、実を申せば、阿羅漢であり正自覚者である世尊がおられ、私どものマンゴー林に、千二百五十人の比丘からなる大比丘僧団とともに住んでおられます。その世尊には、つぎのようなすばらしい名声が挙がっております。『このことによっても、かの世尊は、阿羅漢であり、正自覚者であり、明行足であり、善逝であり、世間解であり、無上士であり、調御丈夫であり、天人師であり、仏であり、世尊である』と。陛下は、その世尊に親しくお近づきになるとよろしゅうございます。世尊に親しくお近づきになれば、きっと陛下の御心は浄められることでありましょう」。

 そこで今までの宗教家に使った誉め言葉と、お釈迦さまのために使っている誉め言葉はまた変わっています。これまでの宗教家の場合は、たくさんの弟子たちに取り巻かれ、大勢の信者さんがいる偉い人だという。いわゆる弟子や信者さんの数を言うのです。でも人気があるからといってその宗教が正しいわけではないのです。だいたい人気があるならば、ちょっと考えたほうがいい。これも世の中のひとつの考え方なのです。世の中の人々は、大勢の人々に支持されて人気があるとなるとみんなそれに靡いてしまう。「人気があるなら私も」、ということになってしまうのですね。でも仏教は智慧の宗教だから、こう考えるのです。「子供も若者も老人たちもみんな行くなら、ろくなものじゃない。おそらくたいしたことはないでしょう」と。だいたい人間というのは単純なものに引かれるでしょう。例えばすごい人気がある歌手がいるとします。歌う姿がかっこいいとか、冗談が上手くてみんなをよく笑わせるとか、そういうことで、俗的な人気は出てくるのですね。ものすごく大事な本を書いても売れないが、マンガみたいにチャラチャラふざけて全くというほど中身がない本だったらすぐベストセラーになってしまいます。我々の心というのはそんなものなのです。

 だから仏教は大勢の人が信じているというと、ちょっと待ったをかけるのです。もし知識人がほめているなら、何かあるに違いないと調べてみるのです。そういうわけで、お釈迦さまに対しては大変な人気者だということは言いません。その代わりにお釈迦さまの性格のことを説明するのです。

仏陀の九徳

 Iti pi so bhagavâ araham sammâ-sambuddho
 vijjâ-carana-sampanno sugato loka-vidû
 anuttaro purisa-damma-sârathî, satthâ
 deva-manussânam buddho bhagavâ ti.

かの世尊は阿羅漢であり、正自覚者であり、明行足であり、善逝であり、世間解であり、無上士であり、調御丈夫であり、天人師であり、仏であり、世尊である

 このパーリ語の仏陀を表す言葉は仏陀の九徳として知られているものです。しかし、日本訳の注では『仏の十徳でありまた十仏名として知られる』とあります。実は、十ではなく九徳なのです。

・ Iti pi so bhagavâ araham アラハンである。
日本訳で「阿羅漢」というこの言葉は、特別な仏教用語ではありません。当時の一般的な冥想の世界を探検した宗教家たちが理想的な境地を表すために使っていた言葉なのです。冥想修行して完全な理想に至った人はみなアラハンと言う。それを仏教でも使って仏教的な定義をしているのです。

 宗教家、特に当時のインドの修行者たちはみんな正直者でした。ただ金のために、有名になるために、あるいは食べるために、宗教家を目指すようなニセ者はいなかったのです。ほとんどの人々は財産を捨てて、体ひとつで修行に出た人々なのですね。だからかなり正直で、誰も軽々しく「私はアラハンになりました」とは言わない。修行する、納得いかない、また修行をする、ずっとアラハンを目指して頑張っている。つまり普通は、修行中の人々は公言しないものなのです。

 お釈迦さまは真理を悟ったのだから「アラハンになりました」と言ったのですが、それで疑った人々もいるのです。「ものすごく長い間修行してきた大変な年寄りの仙人たちも自分がアラカンだと名乗っていないのだ。あなたは若いくせによく言う」というふうにお釈迦さまに詰問した人もあります。ということは、いかにこの言葉自体が大変な言葉かということです。それを堂々とお釈迦さまに使っている。いわゆる、完全に悟っているという意味なのです。

・ 次の言葉はsammâ-sambuddha

人類の中で、自分の力で完全に悟った初めての方という意味です。悟りを開けば誰でもブッダ、覚者と呼ばれますが、自力で悟った初めての独覚者という意味で、正自覚者というのです。

・ Vijjâcaraza-sampanno
日本語で「明行足」。この日本語はどういう意味か分かりませんね。一般的な意味は、「明」は「智慧」、「行」というのは「性格」なのです。智慧も性格も完成している。それも人間として必要なポイントなのです。

 世間には、頭はいいが性格が悪い人々がいるではないですか。一方、性格はいいが頭は駄目という人もいて、なかなか両方揃わない。それは世の中で普通にあることなのです。例えば、頭は悪くて判断能力は鈍いし何かやったら失敗する人は、性格でそれを補う。あまり激しいことは言わないし、みんなに親切にふるまったりして、人々から性格は立派だ、正直者だというふうにほめそやされる。でも何かあったら相談に乗ってくれるかというと、それは無理です。逆に頭のいい人々は乱暴でわがままでいい加減で、性格は悪い。そうすると人々は、あの人は頭はいいが性格はもうひとつだというふうに言う。完全な人というのは智慧も抜群に完成して、そのうえ性格も完成しているという意味なのです。

 本当の注釈はそれだけでは終わりません。明行具足というのは二、三時間かけても説明できないほど大変難しい仏教の専門用語なのです。注釈書ではお釈迦さまの「明」とは何か、「行」とは何かをはっきりと定義しています。お釈迦さまが身につけていた「行」というのは性格というよりも冥想の力なのです。大変な冥想の達人で、ありとあらゆる精神的能力を持っていたのです。それに付け加えて、智慧もありました。
 ここで皆さまの場合は、「智慧もあって、人格も完璧で正しい」という一般的な理解で十分だと思います。

・ Sugato
スガトーは、「善逝」と訳しています。Sugata は、注に「正しく行ったこと」とあります。Gata というのは「行」。出家者ですから修行はもう完全に卒業しましたという意味なのです。お坊さんが経典を勉強する場合は、ものすごく厳密な専門的な注釈は別にあります。でも一般的な理解では、自分の仕事は完成しました、というぐらいの意味で結構です。

・ 次に、loka-vidû
この伝統的な訳は、「世間解」。「解」というのは、理解している。「世間」というのは生命のことです。人々のこと、生命の問題はもう解いてしまっているのです。現代風に言えば、「命」という大きなテーマは何ですか、とみんな宗教の世界で探しているでしょう。「私は誰ですか」、「命って何ですか」、「死んだらどうなるのですか」、「なぜ生まれてきたのですか」、というふうにどんな宗教の世界でも扱う問題がありますね。神に創造された宗教でも、「死んだら地獄か天国に行く」とか、人間の問題を語るのです。

 ですからこの「世間解」というのも、もう生命という問題を解決した、人間の問題を解いてしまったという意味になります。パーリ語でもうひとつ、すべてのことは知っているという意味もあります。

・ Anuttaro purisa-damma-sârathî
これは、「無上士であり」ではなくて、「無上調御丈夫」と私たちは一緒に読みます。Anuttaraというのは「偉大なる」。日本訳の「無上」は「この上ない」ということ。Sârathîというのは「リーダー」という意味です。Purisaの意味は「人々」。Dammaというのは「調教」のことです。
 ブッダは我々の性格をたたき直して立派な人間にする調教師なのです。知らないことを教えてくれるだけでなく、弱みやゆがみだらけの情けない我々の人格をたたき直して立派な人間にしてみせる先生なのです。だから、お釈迦さまに勝る先生はいないという意味です。
 優しくてみんなにニコニコ顔して性格のたたき直しはできるわけはないのです。イエス様はものすごく親切で優しい受難の方として描かれていますが、お釈迦さまは大人しく黙って自分一人でみんなの苦しみを受け入れるのではないのです。それは、お釈迦さまが失礼で乱暴だという意味ではありません。本当に人のことをものすごく心配していたのですが、心配したからこそみんなに怠けは認めない。お釈迦さまはこの上なく厳しい調教師でした。

・ 次にsatthâ deva-manussânam
「天人師」とあります。これは人間の先生と言うだけでなく、天にも先生だと限りなく威張ってしまう。「神々であろうが出てこい、教えてあげるのだ」と言うのです。

 何故そんなことを言いますかというと、宗教は人間がすごくレベルを低くして尊い神に祈るというのが、一般的な宗教の形でしょう。祈りというものは宗教には欠かせないものです。でも仏教には神ヘの祈りはありません。反対のことを言うのです。祈ってかなうならみんな祈ればいい。「金持ちになりたい、きれいになりたい、年をとりたくない、病気になりたくない、死にたくはない」等々祈ってなれるのだったら、そんなことはみんなやるのだと。ですから仏教は祈りの宗教ではないのです。

 そのお釈迦さまの特色、仏教の特色を言うために、神も入れなければいけないのです。「人間の師は、神に対して何者か。神のしもべですか、あるいは神の使者ですか」という問題が出てくるでしょう。それにきれいに答えるのです。「神も出てこい、教えてあげます」と。ここでほかの宗教と、お釈迦さまがこれから教えようとしている仏教の違いを明確にしているのです。

・ Buddhoブッダというのは「智慧の完成者」ということ。

・ Bhagavâ
バガヴァーというのは徳が高い人、尊敬に値する人です。日本訳で「世尊」であると書いています。このバガヴァーもインドの一般的な言葉です。宗教家に敬語を使う場合はいまだに、バガヴァーという言葉を使います。並の宗教家には使いません。例えば皆さまも知っているサイババさんのようにかなり人気のある大物にだけ使います。

《智慧》による世界への勝利宣言

 このように誰にも使えない言葉を全部使って、お釈迦さまは智慧で世界に名乗りをあげる。これは、信じなさいという次元のことではないのです。かなり大胆な、かなり革命的なお釈迦さまの特色を言って世界に《勝利の宣言》をするのです。これは偉大な挑戦であって、決して高慢なことではありません。スポーツの世界選手権で優勝すると世界一でしょう。例えば、日本のサッカーチームがワールドカップで世界制覇すると、その瞬間で我々は世界一だと言っても誰も文句を言わないでしょう。

 「私は世界一だ」ということは偉大なる勝ち名乗りなのです。それを、お釈迦さまは《智慧》で世界に宣言する。これはお釈迦さまが本当に名乗りをあげられる状態にいたということです。だから普段は使わないあまりにもおおげさな、誰にも使えない言葉を全部使って宣言しているのです。それは、「私を信じなさい」ということではない。お釈迦さまはみなにチャレンジをかけているのです。それを受けて、立ってほしいということなのですね。それだけではなく、できない人々はちゃんと直してみせます、とまで言うのです。

 「あなたはそのブッダにお会いしてみたらどうですか」とジーヴァカは勧める。王様にしてもこれはすごい挑戦です。

王様の選択

 王様は、ほかの大臣たちよりはこのジーヴァカのことを信頼しているのです。一緒に宮殿で育てられたからやっぱり信用できるし、いろいろわけがあって王様はすごい臆病者なのです。そこで、「あなたは全部準備してください。象に乗って行きましょう」と、牝象を五百頭用意させて出かけることにします。

 どこかに行くときにはインドでは象に乗って行くのです。象は安全なのです。現代のような車はないし、馬や馬車では敵に捕まってしまう。でも象ならば誰にも捕まえられません。インドに遠征したアレクサンダー大王でも象隊が出てきてなかなか歯が立たなかったのです。普通は馬に乗って戦争するでしょう。インドでは象なのです。馬は速いから勝てると思っても、象を見ると馬が逃げるのです。

 そこでなぜ牝象かというと、雄象より信頼できると注釈書で説明があるのです。雄象はたまに繁殖時期になると、人の言うことを聞かないでかなり乱暴するのです。象は凶暴になっても人を殺したりする気持ちはないのですが、体をちょっと振っただけで周りの人々が死んだり大怪我をしたりします。牝象の場合はそういう心配はないのですね。

 王様は、彼が準備した五百頭の牝象の隊列を作って、お釈迦さまに会いに出かけます。

智慧に満ちた僧団は静けさの世界

  アジャータサットゥ王様は侍医であるジーヴァカの言葉に促され、満月の夜に五百頭の象隊に守られてお釈迦さまに会いに出かけます。しかし王様はジーヴァカに闇討ちでもされるのではないかと怯えるのです。

「友ジーヴァカよ。そなたは私をだましているのではあるまいな。友ジーヴァカよ。そなたは私を欺いているのではあるまいな。友ジーヴァカよ。そなたは私を敵どもに売り渡すのではあるまいな。千二百五十人もの比丘からなる大比丘僧団に、くしゃみの音もなければ、咳の声も話し声もないとは、いったいどうしたことか」。

 ジーヴァカは、「あなたを裏切ることではありません。お進みください。円形坐堂にはいくつも燈火がともされています」と先にたって案内します。王様は象から降りて徒歩で進み、「世尊はどこにおられるのか」。「中央の柱にもたれ、比丘僧団の前に東面して座っておられる方が世尊です」。

 そこには見渡すかぎりお坊さんがいるのに、澄み切った湖のように何の音もない。静まり返っているのです。――これは仏教の世界の特色を言っています。人間はものを知らない愚か者ほどよくしゃべる。ものごとを知っている人ほど寡黙になる。「からの器は音がする。満杯になったら音はしません」ということわざがあります。仏教の世界は智慧が発達していけばいくほど、みんな黙っているのです。いわゆる、人に聞いて欲しいという苛立ちがないのです。問題が起きても本人が智慧を持っているから、瞬時にそれを解決して終わってしまう。普通の社会でもちゃんと仕事をする人というのはあまりしゃべりませんし、自慢しません。そのように智慧の発達した世界の特色は静かだということ。

王様の心が一変する

 王様は、まったく感情の荒波がない比丘僧団を見ただけで、全部のこころの悩みがサーッと消えて落ち着いてしまいました。そして「今、比丘僧団がそなえてる、この寂静を、わが太子ウダヤバッダ(ウダーイバッダ)もそなえてほしい」 と声が出るのです。親にとっては自分の子供は可愛くてたまらないものだから、この環境を見て真っ先に頭に浮かんだのは、自分の息子のことです。同時に王様のこころはサッと明るくなったのです。

 お釈迦さまはそれを聞いて、「あなたの心はやっぱり愛する人にいくのですねえ」と王様に声をかけます。日本語で、「あなたも親バカですよ」という言葉です。

 そういう反応で、すぐに人はお釈迦さまに親しみを感じるのです。仏陀は偉大なる仙人として一般の人に会うのではなくて、友人として会う。初期仏教の世界はみんな互いに助け合っている横の関係なのです。普通の宗教の世界によく見られる、ものすごく偉大なる尊敬すべき対象の開祖様で、絶対服従しなくてはならないというような縦の関係ではないのです。

 お釈迦さまの言葉に王様も、「ええ、やっぱり息子のことは可愛いんですよ」と素直に応じると何のことなく同じレベルの人間関係、友人関係が成り立つ。お釈迦さまに礼をして気持ちがいいのです。

王様の問い   その真意

 ジーヴァカ医師に大胆に爆弾をしかけられビクビクものでしたが、お釈迦さまに会ってみたら何のことなく友達のようにしゃべってくれる。そこで王様はずうっとリラックスして王らしい質問をします。

「尊師よ、もし世尊が、私のために、質問に対する解答の機会をお作りくださるならば、ある点について世尊におたずねしたいと思います」

「大王よ、お望みの通り、おたずねください」

 お釈迦さまは質問されなければ話さないのです。この質問自体は皆さまも考えたほうがいいと思います。

 「では、尊師よ、たとえば、象に乗る者、馬に乗る者、車に乗る者、弓術者、旗手、司令官、戦士、王族出身の高級武官、突撃兵、大象のような猛者、勇者、皮の鎧をつけた兵士、生まれながらの奴隷兵士、料理人、理髪師、沐浴下僕、菓子作り、華鬘作り、洗濯人、織物師、葦細工人、陶工、計算人、指算人といった、これらのさまざまな技能の者があり、また他にもこれに類するさまざまな技能の者があります。かれらは、現世において、目に見える技術の報酬によって生活しています。かれらは、それによって、自分自身を安楽にし幸福にし、母と父を安楽にし幸福にし、子と妻を安楽にし幸福にし、友人・知己を安楽にし幸福にし、また沙門やバラモンに対しては、天界にふさわしい、安楽の果報のある、天界をもたらす、すぐれた布施を確立させております。
 尊師よ、ちょうどそのように、現世において、目に見える沙門の果報というものを示すことができましょうか」

 これは当時インドで、人々が就いていた仕事を書いています。象に乗る者、馬に乗る者というのは、象あるいは馬に関する仕事をしている人々という意味です。料理人、理髪師、菓子作り、洗濯人、織物師、陶工、計算人、指算人など、これらは今もないわけではない。 

 例えば料理人が、なぜ料理を習得したかというと、それで給料をもらって生計を立てたいからでしょう。会計士も同じです。そういう人々は現世において、技術を身につけて仕事に就き、結果を得ています。王様は、「世間の人々は現世において、自分の修行(技能習得)の結果を得て、楽にごはんを食べて、家族も養って生活している。友達や親戚の面倒も見ている。それだけでなく宗教家にもお布施をして、より頑張っている。あなたがた宗教家にもそういう修行によって何か徳がありますか」、と尋ねます。これはすごく失礼な質問でもあって、すごく賢い質問でもあるのです。

 例えば、人が医者になるためには、かなり苦労します。医学校に入るのは難しいし、6年間ハードな勉強をしなくてはならない。それからも2、3年間インターンをやらなければいけない。それは一種の修行なのです。やっと一人前になっても、まだ自信がなくて大変です。でもその人々は苦労した8年間の修行の結果がすぐ得られるでしょう。給料はよろしいし結婚して家族を養うことも、車を買ってあちこち遊びに行くことも何でもできる。だから修行の結果が目の前にあるのです。我々の勉強は、趣味は別として、皆そのように必ず何か仕事に就くようになっているのですね。

 王様は政治家であり経済家です。政府というのは、経済システムも政治システムも両方守らなくてはいけないから、王様から見れば出家する人々がたくさんいて、この人々も我々に何か役に立つのかという率直な疑問なのです。例えば、来世を信じて徳を積もうと思っても、それをやるのは在家の人々です。人々は仕事をして報酬をもらって、その一部を宗教の人々にお布施をする。では「その布施で生活を立てている出家の人々はこんな修行をして何の意味がありますか、経済的に何の意味もないのではないか」という意味の質問なのです。

 昔は全部肉体労働だから、仮に千人の出家者に畑でもたんぼでも耕してもらえば、かなりの経済効果があるでしょう。ドラマティックに言うならば、王様がお釈迦さまに礼をして、「あなたがたはこんな大勢の人々を集めて、本当によく無駄なことをやっているものですねえ」というふうな質問になります。

 このように王様の質問はものすごく大胆なチャレンジです。普通だったら年上の偉い宗教家に向かって失礼ではないかと言われますが、お釈迦さまはそんなことはありません。質問されたら答えるのです。

お釈迦さまの王様への依頼

 お釈迦さまは答える前にこの王様のこころを読み取ります。〈この人は単なる意地悪でこの質問をしているわけではない。それなりにこの問題について真面目に考えている。おそらくこの人はいろんな宗教家にこの質問をしただろう。だから私にも出しているのだ〉と。それを理解して彼に、「大王よ、あなたは、この質問を他の沙門・バラモンになされたかどうか、おぼえておられますか」「おぼえております、(後略)」「それでは大王よ、もしあなたに差支えがなければ、かれらがどのように答えたかを、ありのままに、お話しくださいませんか」。「それは一向にかまいません」。

 お釈迦さまから見れば、この王様が息子ぐらいなものでしょう。それでも失礼でなければ教えてくれませんか、と丁寧な言葉を使われる。そういうふうに言われたら、王様も「はい、わかりました」と気持ちよく答えるのです。

 この経典は、王様がほかの宗教家に質問を出して、返ってきた答えから始まるのです。これからが経典の内容で、先述した六人の哲学を説明することになります。

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

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