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HOMEパーリ仏典を読む→沙門果経(17-19) 第三章 仏陀の話 出家の論理的な生き方《小戒》
沙門果経(17)
第三章 仏陀の話
 出家の論理的な生き方《小戒》
A・スマナサーラ長老

命をかけても他の生命を慈しむ

 この章で説明するのはその仏教の優れた特色です。結局お釈迦さまがやっているのは他宗教批判なのです。しかし、他宗教の批判だと誰も気付かないほど、巧みに語られているのです。仏教を研究する学者にさえも、仏陀が他宗教を批判しているところを見破ることができないのです。理由は、論理的に事実に基づいて語っているからです。ここはお釈迦さまがほかの宗教を批判していることを分からないと、仏教がいかに優れている宗教かも納得いかない所です。

 これから「小戒」のなかで他宗教にはない特色をひとつふたつ説明します。

「大王よ、比丘は殺生を捨て、殺生から離れている。棒を置き、刀を置いている。内の恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住んでいる。これが比丘の戒です」。

 「比丘は殺生を捨て、殺生から離れている」。

これは有名な戒律でしょう。次の言葉は、「棒を置き、刀を置いている」。殺生しないだけではなくて、もっと深く「棒を置いておく」と言うのです。いわゆる、《武器を持たない》という論理。―― ここで武器は棒と刀だけですが、人間というのは自分を守るためにいろいろ武器を持っているでしょう。その武器を使って何をしているのですかというと、他の生命をいじめているのです。

 仏教で殺生戒というのは武器を置くことです。自己防衛さえしてはいけないのです。そのポイントで普通の宗教との差がわかると思います。なぜならば、ジャイナ教でも殺生はやめましょうと言っている。でもそれほど明確に言わないのですね。仏教では殺生をやめる。即ち、一切の武器を置くことだと明言する。

 出家はいろいろな悪霊から自分を守るために、ちょっとしたお守りを身につけたりします。それはミャンマーならいっぱいあるし、タイも迷信的なお守りなどきりなくあります。スリランカも負けてはいません。初期仏教を実践するこの三つの国ででも、悪霊から自分を守るお守り文化があるということです。しかし、守りを武器にして悪霊を脅すことさえも、良くないと思います。武器を置くといえば、お守りも置いた方が良いのです。実は、出家はお守りを身につけてはならないのです。

 例えば、お坊さんにいろいろ悪い霊が邪魔をする。それらから自分を守るために何かお守りを身につけているとします。厳密に言うと、お守りもひとつの武器なのです。悪霊が人間をいじめようとする。でもお札を見たら、悪霊がみんな怖がって逃げ出したとか、中国の物語の世界にたくさん話があります。それは物語としても、厳密に言えば出家には微かなお札もお守りもいりません。お守りを持つと、何か他の生命を脅すことになるのではないですか。

 皆さまにはあまり馴染みがありませんが、インド文化の世界では、いろいろな種類の霊がたくさんいるのです。自分に不幸を招く悪霊や、大変親切に守ってくれる守護霊等の考え方は、ごく普通にあるのです。あの場所には悪霊がいる。でも別の場所には大変すばらしい守護霊がいる、幸福の霊がいるのだと人々は思っているし、生まれた場所、生まれた時間によっても人間の幸福は変わるとか、言い伝えはいっぱいあります。その場合はいろんな呪文を唱えたり祈祷をやったり、お守りを作ったりして自分を守るのです。

 スリランカでは、子供が罹る特別な病気があります。『子供に来る病気』という名前をつけて、ある悪霊が子供に乗り移ったら、その子は病気になって死んでしまうと考えられているのです。そこで、その病気から赤ちゃんを守るために、玄関に札として看板を書いておくのです。どういう看板かというと、小児病の名前を書いて、「『子供に来る病気』は今日ではなくて、明日ですよ」という看板なのです。なぜ書きますかというと、その悪霊が赤ちゃんがいると家に来る。来たら看板を見て、「あっ、今日ではないか」と言って帰る、とただそれだけの理由なのです。看板を見て、「あっ、明日か」と。明日来ても、看板は同じだからまた帰る、と。あれはお守りなのです。それで子供は守られます。大体十歳、十二歳になったらその病気にはかかりません。

 それを小さい時聞いて、私は笑ってしまったのですね。霊に文字が読めるかという問題もあるし、それぐらいのことで騙されるかという問題もあるでしょう。しかし、スリランカの人々は、悪霊が来ると子供がその病気に必ず罹るものなら、どんな工夫でもして守ろうという考えで、大人たちがそんな看板を書いて悪霊を騙して子供を守ってきたのです。

 その騙す祈祷というのは、スリランカではいっぱいあります。スリランカの祈祷は、ほとんど騙すものなのです。すごく上手に霊を騙します。何か冗談で考えているみたいでしょう。タイではもっと真剣ですが。

 でも、出家者は本当はそれぐらいのお守りもいらないのですね。自分が病気をしてたとえ霊が来ても、お守りを持っていると霊が怖がって逃げるでしょう。それぐらいも脅しなのです。ですから本業をやる出家にはお守りさえもよくない。それは本業をやっていない在家には大丈夫です。そういっても実際は、お坊さんたちはお守りをよく持っているのです。出家も、まあみんな人間だからごく一般的なその国の文化の人々です。お坊さんたちがいろいろお守りを体につけているの見てからかって、私は怒られたことがいっぱいあるのです。

 この殺生をしないだけでなく、武器を置くこと、つまり生命を脅さないということは仏教だけにある出家の戒律です。自己防衛もしないというのです。

 それから、「内の恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生命を益し、同情して住んでいる」。私はこのお守りにしても、誰かを脅しているのではないかと恥じるべきだと思います。守ってもらうのではなく、生命を守ってあげる生き方が不殺生戒なのです。守ってもらうことは恥じるのです。それからすべての生命に対して慈しみを持つ。

 このように、たった殺生戒一つとっても、すごい高度で広大な人生論というか、哲学です。すべての生命に対して慈愛があって、同情があって生活するのが比丘の戒律である、というのです。

 皆さんは戒律のことがわからない、仏教の戒律はうるさいと思うならば、小戒の項目ひとつひとつ読んでみてください。うるさいでも何でもなく、とてつもなく高邁な哲学を教えているのだとわかると思います。

〔前号までの話〕 
 解脱を目指す仏教の出家者はパーティモッカという戒律に従い、心の汚れから自分を守って生きることになります。
 仏教では殺生をしないだけでなく、すべての武器を置きます。つまり生命を脅すことさえしないのです。これは他の宗教には見られない仏教だけにある戒律です。出家は生命を守らないことを恥じ、すべての生命に対して慈しみを持って生活するのです。

与えられたもの以外は取らない生き方

 次に盗むなという戒律があります。

「与えられないものを取ることを捨て、与えられないものを取ることから離れている。与えられるものを取り、与えられるものを持ち、盗み心がなく、自ら清潔にして住んでいる。これもまた、比丘の戒です」

 これは物に関する戒律のことです。我々にとって物は必需品でしょう。生きるためには食べ物・服・家・家具などだけではなく、ボールペンとメモ帳まで必要です。他の必要なものやサービスを買うためにお金も必要です。ですから、物は持たなければならない。在家は仕事をして必需品を得なくてはならないですが、親の財産など相続するものもあります。出家は文字通り家を出たものだから相続するものはないし、仕事もしてはいけないのです。仕事して、生計を立てる行為は在家行為です。しかし、必需品がなくては生きていられません。出家者が使用するものは自分に与えられた物でなければなりません。

 それは在家の仏教徒も同じです。与えられたもの以外は取ってはいけません。盗んではいけません。「与えられたもの」というのは、自分がその分、仕事をして合法的に得たものという意味です。自分が仕事をして世界にいくらか貢献している。その貢献した分を我々は世界から頂くのですね。それは自分のものですから安心して楽しく使えばいいのです。合法的に得た財産に対してプライドを持っていても、達成感を感じてもかまいません。

 ときどき若者が贅沢な外車に乗ったりします。昼も夜もせっせと働いて金を貯め、気に入った外車を買って「どうだい、私のものは」と得意がって女の子に見せびらかしたりする。そういう贅沢は一向にかまわないのです。見ているこちらも楽しいのです。なぜかというと、自分の努力で買ったものだから。でも、いろんなカラクリをして帳簿をごまかして一千万の外車を買って威張るなら、これは誉められません。恥じるべきなのです。贅沢するのは悪いことではないが、その分自分で世界に貢献しなさいという意味で、与えられてないものは取ってはいけないと言うモラルが成り立つのです。

 この盗んではならないという戒めの意味は、一人一人が使用する必需品は自分の努力で、社会に何かを貢献したことに対して得た報酬であるべきだという事です。「盗む勿れ」と簡単に言えるところを「与えられてないものを取ってはいけません」と回りくどく言っているのではなく、このモラルの意義を表しているのです。

 盗み心がなく、自ら清潔にして住んでいる。という文でさらにこの意義が明確になります。食べるもの、着るもの、住む所、薬、他の必需品は合法的に得た報酬なのです。それで、命を支えているのです。ですから、自ら清潔なのです。違法的なもので身体を維持管理しているのではありません。汚れたものを食べると身体が悪くなること、病気になることは当然ですね。こちらで言っているのも似たようなことです。道徳を犯して食べていると身体自体も不浄で、不善ということです。表面的にいくら格好よく、美しく見えても、体を維持するために使用するものを得た手段が不善なら、身体は醜く、臭いという風に言えば理解できるでしょう。

世間では行い難い清らかで優れた生き方

 次の戒律を説明してみましょう。意味はわかり易いと思います。しかし、また、釈尊はこのように説かれるのです。

「非梵行を捨て、梵行を行い、非梵行から離れている。性的行為や粗野な慣行を離れている。これもまた、比丘の戒です。」

Brahmacârîというのは優れた、清らかな生き方という意味で日本訳は梵行です。一般的な、俗世間的な生き方は非梵行(abrahmacâri)になるのです。それだけでは、道徳・戒律としての意味ははっきりしないのです。曖昧に、善い生活しましょうと言われても、「それはどの様な生き方でしょうか」と疑問が生じる。また、自分勝手に理解してしまう可能性もあるのです。ですから、釈尊は次に梵行の意味を明確にするのです。俗世間では妻帯して、性行為を行いながら家庭を築くのです。それは一般的な生き方です。出家は俗世間より優れた、俗世間に実行できそうもない生き方をしなくてはならない。ですから性行為そのものを戒めるのです。次に「性行為」という行為そのものを純粋に考察するのです。その場合は動物も同じことをして子孫を作っていることでしょう。妻帯しなくても、人間も遊びで、快楽目的で性行為していることがある。それは、決して品格のある行為とは言えません。ですから、性行為に「粗野な慣行」という言葉をつけるのです。

人格を高め役に立つ言葉を語る

 次に出てくるのは言葉に関する戒律です。

「妄語を捨て、妄語から離れている。真実を語り、真実と結ばれ、正直で、信頼され、世間を欺くことがない。これもまた、比丘の戒です」。

 妄語とは嘘のことです。嘘を捨てて、嘘から離れると二つの単語を強調するために使うのです。捨てるというより、「嘘をつくのは止める」といえば日本語的ですが、これは仏教用語です。不潔で、汚いゴミなんかは、われわれはいとも簡単に捨てるでしょう。捨てていい気分になりますね。嘘という不潔で、汚い行為を捨てるのです。近づかないのです。清らかな気分になるのです。ただ、嘘をつかないことだけを言われると実践する比丘は困るのです。意味は曖昧になるのです。それで、何をしゃべるべきかと肯定的に語って意味を定めるのです。「真実を語り、真実と結ばれ」という言葉がそれです。気分のままに、赴くままに俗世間で会話をするのは普通ですね。それも、また出家には相応しくないのです。語るものは事実、真理でなくてはならないのです。その場合は聞いた人の役に立つのです。事実、真理、本当に起きたことだからといって、何でもかんでも話して良いのかという問題は起こるでしょう。事実であっても人間には他人に知って欲しくないものもある。国家秘密のようなものもある。「旦那が浮気している」と奥さんにばらすことで家族みな不幸になってしまう場合もある。ですから、「真実を語り、真実と結ばれ」だけでは戒律は完成しないのです。「世間を欺くことがない。」という言葉はこのためにあるのです。このように「如来は完全に語る」のです。

 言葉の戒律の二番目を読んでみましょう。

「離間語(りけんご)を捨て、離間語から離れている。こちらの人々を離反させるため、こちらで聞いてはあちらで話すとか、あちらの人々を離反させるため、あちらで聞いてはこちらで話すということがない。離反した人々を結びつけ、仲よくしている人々をさらに仲よくさせ、和合を喜び、和合を愛し、和合を楽しみ、和合をもたらす言葉を語っている。これもまた、比丘の戒です」。

 「離間語(りけんご)とは単なる噂では済まない話です。あちらで聞いたことをこちらでいうのは噂話です。俗世間ではこのような、ワイドショー的な話はよく盛り上がります。暇つぶしになくてはならないようですね。しかし、流す情報は聞く人の役に立つこともあるから、簡単にダメと言えないのです。耳寄り情報もあります。この戒律で釈尊が禁じているのは離間語です。仲たがいさせる言葉が非道徳ということです。人間の中に和合が必要です。平和が必要です。喧嘩別れをしている人々の間でも誰かが仲介して仲直りさせなくてはならないのです。そういうわけで、話してはいけない言葉は仲たがいになることばです。たとえ事実であっても言ってはならないのです。では話すべき言葉は何でしょうか。人々を仲良くさせる言葉なのです。

 だからといって、出家は平和大使になってあちらこちら喧嘩している人々を仲直りさせたり、戦争を止めさせたりすることを仕事にすると大変なことになるのです。世の中で、喧嘩というものは絶えないものだから心の安らぎはなくなってしまうのです。一組みの夫婦の喧嘩さえ、止めようと思うと一生かかる作業になるのです。夫婦は生涯喧嘩しますからね。ですから、出家は平和大使役を勝手に担うのではなく、平和・和合を愛する、和合を喜ぶ、和合を楽しむ人になるのです。釈尊はお節介を止めさせたのです。出家は平和主義であって、平和運動家ではないのです。現代社会で見られる平和運動も結局は戦いでしょう。平和のために戦うという言葉さえも矛盾でしょう。釈尊の戒律にはこのような曖昧さはありません。完全に実践しやすく、いかなる時代にも合うように普遍的に語るのです。

 言葉の三番目の戒律は

「悪口(あっく)を捨て、悪口から離れている。過失がなく、耳に快く、愛情に満ち、心に響き、優雅であり、多くの人々に愛され、多くの人々に喜ばれる、そのような言葉を語っている。これもまた、比丘の戒です」。

 「悪口(あっく)」とは粗暴な言葉です。怒って喧嘩するとき使うことばなのです。誹謗中傷的な言葉です。差別用語を使って他人を傷つけることです。これは言語の問題ではありません。粗暴な言葉でも相手がそのことを喜ぶ場合はあります。子供は大人びたことをやろうとして失敗したら、親が「まだまだ、ガキだなぁ」という場合は誹謗中傷ではなく愛語なのです。釈尊は人々の言葉の使い方、表現力、方言などを戒めているのではありません。言葉を巧みに使えることは素晴らしい才能なのです。出家は落ち度の無い、心地よく心に響き親愛に満ちた、多くの人々に歓迎される言葉をしゃべらなくてはいけないと戒めるのです。

 言葉に関する四番目の戒律を読んでみましょう。

「軽薄な話を捨て、軽薄な話から離れている。ふさわしいときに語り、事実を語り、意義を語り、法を語り、律を語り、心に残る、比喩のある、区切りのある、意味をともなった言葉を適時に語っている。これもまた、比丘の戒です。」

 これは、「無駄話」を戒める戒律です。俗世間では心地よく語る言葉です。あまり悪いことだと思っていないようです。単純に会話を楽しむために話す場合は結構無駄話になってしまうのです。言葉が達者で機関銃のように喋っても仏教の立場からは格好いいとは言えません。その逆で格好悪いのです。責任を感じないで話す場合は、人は自分が思ったこと、感じたこと、感情のままで言っているだけです。何か思考が頭の中に起きたら、頭の中は興奮した状態になる。わかり易く言えばストレスが溜まるのです。そのストレスを発散するために話す。相手に聞く気持ちはなくても話す。止まることなく話す。時間が経ていることにも気付かず話す。これは「無駄話」ということです。無駄話をすると人は人格的に、知識的に成長しない。聞いた人にも役に立たないので成長しない。ですから、具体的に、比喩を使って、意義のあるものを語らなくてはならないのです。発音にも気をつける。延々と話すのではなく、意味をよく通じるように区切りをつける。相手の理解能力が向上するように、道徳感が増すように語る。難しいと思われるでしょう。しかし、挑戦してみると、自分は確実に成長するのではないでしょうか。社会の役に立つ人間になるのではないでしょうか。 (次号に続く)


   沙門果経(18)
〔前号までの話〕 
 釈尊の戒律には曖昧さはありません。完全で、実践しやすく、いかなる時代にも合うように普遍的に語るのです。

 前号では物に関する戒律、性行為を禁じる戒律、言葉に関する四つの戒律((1)嘘を戒める、(2)仲たがいさせる噂話を戒める、(3)人を傷つける粗暴な言葉を戒める、(4)「無駄話」を戒める)を説明しました。これらを守ることで出家者は非道徳から遠ざかり、より道徳的な人間になります。確実に成長し社会の役に立つ人間になるのです。

(続き)
植物の命まで守る生き方

種子類、草木類を傷つけることから離れている。

 佛弟子として出家した者は、種や草木も傷つけてはいけないということになっています。出家したものが命を守るのはあたりまえのことですが、植物の命まで守りなさいと釈尊は戒めるのです。これは出家の戒律なので在家の人は真剣に心配する必要はありません。しかし、この戒めの意義を理解したほうが性格的に優れた人間になると思います。

 生物学的に見ると動植物は殆ど似ているようです。違うところは? 植物は葉緑素を持っていることぐらいでしょうね。植物も自分の命を守りたいでしょう。生き続けるために必死です。子孫を残すためにあらゆる工夫をしています。人間が生きるためには植物を取らざるをえませんが、出家は植物の命さえも守ることを徹底するのです。

食事も修行

一食をとり、夜食を避け、非時の食物から離れている。

 出家の食事は一日に一食です。一食だけですから、一度に三回食分の量を食べるということではありません。「一食」は一回という意味ではなく、「午前中のみ」という意味なのです。人の食事を大雑把に分けると、午前、午後、夜になります。時間的に言えば、6時から12時、12時から18時、18時から0時までだとしましょう。この分け方で、朝6時から12時までの食事を、「一食」というのです。律蔵に詳しい説明があります。出家は自分の一食分を午前中なら、何回分けて食べても構いません。しかし、ご飯を食べて、「今日の食事はこれで終了します」と決めたら、その日の午前中であっても再び食べられません。ですから朝6時にご飯を食べて、また11時30分にも昼食をとる計画がある場合は、二度食べても戒律違反にはならないのです。ポイントは、自分で食事の終了宣言をいつするのかと言うことです。

 経典で強調しているもう一つの大事なポイントは、腹いっぱい食べることは良くないということです。それで夜食を摂ってはならないとリピートするのです。お釈迦様の別なところにある説法を参照すると、健康でいるためと説かれています。また、こころが育ちやすくなるし、雑事が殆どなくなるし、夜遅くまで修行できて、朝早く、気持ちよく目が覚めるのです。

人格完成を邪魔するものから離れる

  踊り、歌、音楽、娯楽を観ることから離れている。
  装飾、虚飾、粉飾のもとになる華鬘、香水、白粉から離れている。
  高い寝台や立派な寝具から離れている。

 
 踊ったり、遊んだり、娯楽を楽しむことは欲を刺激するだけで、優れた人間にはなりませんから離れましょうと言う。見栄や高慢のもとになるお化粧や着飾ることも勿論駄目でしょう。豪華な家具や、金銀で装飾されている寝台など、そういうものは何の意味もないからやめましょうと戒めます。

 踊りや歌、他の芸術などは元々宗教の儀式から世に出たものです。現在も、宗教の世界では、踊りも歌も演奏も、ドラマもお色直しも、またその他のものもあるのです。神様の機嫌を直して、祝福してもらう狙いもありました。また、音楽、踊りに集中して耽ると、恍惚として我を忘れることはしょっちゅうです。それをそれぞれの宗教が、神秘体験とか神が降りた、などというのです。

 しかし、仏教は迷信の宗教ではありません。生きることの苦しみを具体的に観察する、客観的に事実に基づいて考察する教えです。興奮して恍惚状態になることは高度な経験ではなく、麻薬、酒などで酔うことと同じなのです。いわゆる禅定という超越した体験ではなく、それと反対の混乱興奮状態です。ですから、音楽、踊り、歌などは修行の一部になりません。

 この戒律で、音楽、装飾、虚飾、粉飾などを禁止した意味はもう一つあります。これは本当の意味だと思います。

 私たちはなぜ踊ったり、踊りを見たり、歌ったり、歌を聴いたりするのでしょうか? 普段の人生は大変です。疲れるしストレスが溜まります。いやなことがいっぱいあります。しかし、やることがなくなると退屈で堪らなくなります。それで、音楽の出番なのです。楽しませてくれる。問題を一時的に忘れることができる。時間がある人の場合は時間を潰すことができる。強いて言えば、私たちは音楽で、感情に陥る・時間を無駄にする・問題から、苦から一時的に逃げているのです。

 では、理性を育て智慧を開発する・問題を解決する・苦から逃げるのではなく苦を乗り越えることを目指す人が、音楽や踊りに耽っていいのでしょうか? 虚飾で自分をごまかして大丈夫でしょうか? お洒落とは、結局自分を隠すことです。見た目の良い、上っ面を社会に見せることです。こころの裏の裏を正直に観る人には無意味なことです。

 では、豪華な寝台、椅子、ペルシャ絨毯なども悪いのですか? もし、「一切の執着」を捨てるために励む人、生きることだけではなく輪廻が苦だと発見しようとする人が、ペルシャ絨毯でなくては腰を下ろしませんと言ったら、矛盾でおかしいでしょう。程度を超えて肉体に贅沢させると怠けてしまいます。活発性がなくなります。こころの成長をあきらめることになります。 

 いずれにしても、王様や億万長者たちが使用する、自分の社会的な位置を示す豪華な家具は禁止なのです。たとえば玉座は椅子というより王位を示す象徴です。このような自分の位を示す家具が、俗世間にはいっぱいあります。仏教では、道具が本来の目的から脱線することも大きな問題、苦しみの原因として観ています。本来の機能だけなら、ベッドも椅子も、絨毯もOKですが、「自分が金持ちだ、権力者だ、親王だ」と示すものなら、禁止なのです。

苦しみを生む経済活動から離れる

金や銀を受けることから離れている。

 金や銀また金貨などを受けること、またお金を使用することをお釈迦様は禁止しているのです。出家はものを持ちません。俗世間の生き方、経済活動を止めているのです。それで他人からお布施をもらうことになります。

 在家が経済活動をして家族を養うのは当たり前のことです。また与えられていないものを取らないという戒律を守ります。だから、経済活動(仕事)をして収入を得るのです。得た収入は、自分に与えられたものです。ということは、経済活動が障害などのせいでできない場合以外、在家はものを乞うことは惨めな生き方になるという意味です。 

 では、在家がやらなくてはいけない経済活動は、なぜ出家に禁止でしょうか? 出家には先ず、養うものがいません。あるのは自分の身体だけです。また経済活動は、精神的に、悩みや心配を抱え、不安と恐怖を感じながら競争することで成り立っているのです。経済活動をすると、他人を怒鳴ったり、侮辱したりもする。自分も怒鳴られたり、侮辱されたりするのです。そして苦難を味わってやっと得た財産や収入はそれに執着しないと、つまり大事に守らないと、簡単になくなります。これでは、在家生活する人々にこころの落ち着きを感じることは不可能に近いでしょう。出家も株取引をしながら、修行して完全たる精神の安穏を得るということはありえません。ですから、金銀を受けないことで、経済活動をやめることだけでも、出家は瞬時に、こころの安らぎを感じるようになるのです。

 しかし、物を持たない出家が生きるためには最小限のものが必要です。そこで在家の方々が、在家には難しい大事な修行をして自分たちのことも祝福する出家に、必要なものをお布施するのです。出家はわがままを言わず、布施されたものを受け取らなくてはならないが、いくら「これはお布施ですからもらってください」と言われても次のような物はもらってはいけません。

命を守り、調理の煩いから離れる

生の穀物を受けることから離れている。

 ひとつはâmaka-dhañña、米などの生の穀物を受けてはいけないのです。生の穀物には命があるでしょう。出家はそれを自分で調理して食べられないのですね。大豆などをもらえば、それを水に浸けて柔らかくして料理しなくてはいけないし、水に浸けて次の日に見たらもう芽が出ている。だからそんなものはもらってはいけません。植物も命ですようという話は先にいたしました。では何故、また生の穀物などを受けてはならぬ、という戒律があるのでしょうか? これは、当時のインド社会の様々な行者たちの生き方も参考にしているのだと思います。

 特にバラモン系の行者たちは布施として金銀も、穀物も、また動物、召使まで受けることがあったのです。妻帯していた行者たちは布施でもらう品物で家族を養っていたこともあったのです。仏教から見ると「何の出家か?」という疑問が生じる。仕事をしないだけで、楽々と収入を得て生活している。これでは、だらしない生き方だというしかないのです。こころの平安・安穏はありえない。欲をなくすということも期待できないのです。

 それから、たとえ、仏道の人でも穀物を戴くと、前に説明した通りに料理方法などを考えて料理しなくてはならなくなる。それに、時間と労働がかかるだけではなく、様々な食器や、道具なども必要になります。昔、一箇所で住むことはしなかったので、なおさら大変なことになるのです。でも、仏教がインド社会に広がるにつれて、在家の方々が寺を寄進したので、料理はそれほど難しいことではなくなりました。とは言え、料理をすると味や好き嫌い、好み、体調に合うか否かなども当然考えてしまうのです。自分で料理するのに、自分の身体に合わないものを作らないでしょう。だから、初期仏教はいまだ、料理してはならないという決まりは変えません。信者の方々が料理の布施をする習慣が流行っているので、今では托鉢はしたり、しなかったりするのです。

 律蔵によると、例外として飢饉のときなど一般の方々が苦しんでいる場合、料理したものがどうしても手に入らない場合に限って、出家の料理を認めています。お釈迦様の在世当時に、出家が三ヶ月間、自分で料理するはめになったことがありました。その時はご馳走を作ったのではなく、穀物一種類で、お粥と団子を作ったのです。

生肉を受けることから離れている。

 生肉、魚の場合は命があるということにはなりません。既に死んでいる死体なのです。ですから、もし人々が肉を生で食べる習慣がある場合は布施でそれらをもらうことにもなるのです。しかし当時ジャイナ教の影響があって、生肉を受けることは仏教でも品がない行為としてみなしたのです。(文化人が魚・肉などを料理して食べたようです。)

 出家が加熱調理することになる生ものなら当然受けてはならないし、そのまま食べられる生肉であっても、受けることは品のない行為で、出家に相応しくないのです。生命に対する慈しみがなくなるおそれもあるのです。

(次号に続く)


   沙門果経(19)
〔前号までの話〕 
 出家が守るべき小戒の中で、植物も「命」として扱うべきこと、何故出家が一食しか取らないのか、詩、音楽、踊りなどは何故いけないか、また、お洒落、化粧などで身を隠し、外見を良く見せて高慢になるのでは、こころを清らかにすることは出来なくなるということを説明しました。さらに、出家が受けてはならない物のリストの中で、金銀、金貨などを受けることの意味と経済活動とはどのようなものかなどの説明もしました。

■出家の倫理的な生き方 《小戒》(続き)

今月も、出家が受けてはいけないもののリストを続けます。

土地はサンガの公共財産

  婦人や少女を受けることから離れている。
  女奴隷や男奴隷を受けることから離れている。
  山羊や羊を受けることから離れている。
  鶏や豚を受けることから離れている。
  象や牛や牡馬・牝馬を受けることから離れている。
  耕地や宅地を受けることから離れている。
    (※テキストは「耕地や荒地」)

 お布施されるものならなんでも良いわけではなく、余計な物はもらうなというのです。出家は人格完成の邪魔になる俗世の煩いから離れていなければなりません。

 生命は平等だから、奴隷どころか、鶏一羽でも受けると「人権(生命権)侵害」です。他の生命を自分の使用物にすることは不可能です。正しくないのです。

 またサンガ(集団)として、寺、建物、宅地などを受けますが、それは出家の公共財産です。不動産は個人私有を禁止するのです。

在家を心配しても使用人にはならない

 使いを出したり使いに行ったりすることから離れている。

 当時の出家は毎日のように、旅をしていました。一般の人は仕事や、家を守ることがあるので、遠く住んでいる親戚の様子を伺うことなどは容易いことでもなかったのです。ですから、信頼している出家に頼みごとをしたくなるのも当然だと思います。しかし出家は使いとして出たり、言付けをこちらに伝えたりしてはいけません。
 原文を見ると、dûteyya‐pahinaとあります。これはいわゆる郵便屋さんです。出家は人から頼まれても、郵便配達のような仕事を引き受けてはいけないということなのです。なぜならこれは、インドにあった一つの正規の仕事なのです。出家が無料でそれを引き受けると誰かの仕事がなくなる。また、俗世間の欲の話や、喧嘩の話、政治に関わることなどに触れてしまう。結局は出家でなくなってしまいます。こころの安らぎが消えるのです。

 また、出家が在家の人々に尊敬を受けている。在家が出家の指導を受けている。出家が在家に対して、先生でもあり、指導者でもあるのです。お使いは使用人がやることで、格が低いのです。在家の雇用人になってしまうと、指導もできなくなるし、佛弟子として、在家社会に貢献することもなくなる。「人の言付けを伝えてもたいしたことではない」と思ってはならないのです。在家生活に関わることになるので、出家から俗の世界に逆戻りになるのです。

 とは言っても、仏教信徒同士なので心配するときは心配する。伝えなくてはならない出来事があったら報告する。それは、出家の自由で、心配の念を抱いて行なうことです。頼まれて、使用人のように、言付けはしません。

俗世の不正行為から離れる

  売買から離れている。
  重量のごまかし、貨幣のごまかし、寸法のごまかしから離れている。
  賄賂や詐欺や虚偽といった不正行為から離れている。

 世間の一般の宗教では宣教の一環として商売をしたり、教育組織を作ったり、病院経営などをするのです。また、インチキや詐欺をやる人もたまたまいるのです。餌をまいて人を釣ることは卑怯です。宣教は理性で、納得づくでやらなくてはいけない行為です。また、この戒律リストで、俗世間の人々が生きるために犯している、様々な違法行為に警鐘をならしているのです。

  傷害、殺戮、拘束、待伏、略奪、暴行から離れている。

 傷害、殺戮などは、宗教の人間はやらないと思うかもしれませんが、そうでもないのです。例えば、十字軍の戦争は、〔何でもあり〕でした。待ち伏せ、略奪、殺戮などは宗教者といえども非常時には簡単にやってしまいます。暴行もやるでしょうし、乱暴なこともするでしょう。

 それより宗教の世界で当たり前のように目にするのは、人々にものすごい額の布施をさせて限りなく財宝を集め、巨万の富を築いて大金持ちになったりすること。ですから、出家なら正しく節度ある生活をするのは当然ではないかと思わないほうがいいのです。実際に、宗教の中で不正、不公平、搾取行為は度々見られます。だから仏教では、人格完成を邪魔するものには全部やめなさいと、わざわざ言うのです。 (後半に続く)

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

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