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HOMEパーリ仏典を読む→沙門果経(22〜27) 第三章 仏陀の話 出家の論理的な生き方《大戒》
沙門果経(22-27)
第三章 仏陀の話
 出家の論理的な生き方《大戒》
A・スマナサーラ長老

  沙門果経(22

〔前号までの話〕
 前号では出家が守るべき中戒の中で、無駄話を謹むこと、宗教の修行の一つになっていた争論を謹むこと、在家の使いにはならないこと、ごまかし、なぞかけ、脅しなどの卑しい行為を謹むという戒を説明しました。

 佛弟子たちは、このような基本的な戒律を守って生活しています。これら全てを完全に守れるわけではないが、守ろうと心がけているうちに、しっかりと道徳的な正しい人間ができてくるのです。戒を守る生き方は誰からみても尊い生き方です。何の役にも立たないことを止めて、意味のあることをしながら自分も成長することになる戒めなのです。

■出家の倫理的な生き方 《大戒》

犬畜生にも劣る卑しい下品な仕事

 当時のインドでは出家していても、聖職者と名乗っていても、何かの仕事で生計を立てていることがありました。仕事の収入で生計を立てて、その上宗教家や聖職者であることは、我々在家より偉いのではないか、と日本的に考えれば思われるかもしれません。修行に専念している在家が、仕事をして生計を立てるのは申し分のない生き方でしょう。在家ですから自分の修行を収入獲得に使っていないのです。では出家も修行を行いながら仕事をするならば、在家と何が違うのでしょう。

 出家者は精神向上のために、修行に一生を投じていると定義するならば、仕事で生計を立てる場合に、二つの問題が生じます。

  1.仕事は半端になる。または、 2.修行が半端になる。それではすべて中途半端になり人生は失敗する。
 更に、不正に収入を得るという悪果になることもあり得ます。「あの人は修行している、出家だから信頼できるのだ」、と一般人に思われると商売繁盛しますね。同じ仕事をしている妻帯者の在家にとっては不公平で、とんだ迷惑です。それだけではありません。「出家者には報酬に、お布施としていくらか上乗せしてあげないといけないのでは」と一般人が思う場合も確実にあります。結局は、修行は建前で、出家した本音はボロ儲けするためだということが明らかになります。ですから、「出家が仕事をして何が悪い?」、ではないのです。

 この大戒の説明でお釈迦様が批判する数々の仕事の種類を学べます。当時の様々な他宗教の出家者が何をやっていたかも解ります。これからも現れるであろうと思われる出家者には、本来の道から脱線しないための注意にもなります。

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、肢体の占い、前兆の占い、天変の占い、夢の占い、身体的特徴の占い、ネズミの齧りあとの占い、火の献供、杓の献供、籾殻の献供、糠の献供、米の献供、バター油の献供、油の献供、口の献供、血の献供、肢体の呪術、宅地の呪術、王族の呪術、墓地の呪術、鬼霊の呪術、土の呪術、蛇の呪術、毒の呪術、サソリの呪術、ネズミの呪術、鳥の呪術、烏の呪術、寿命判断、矢の呪術、獣の輪といった、このような無益な呪術によって邪な暮らしをしている。しかし、かれはそのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている。これもまた、比丘の戒です。

 この冒頭部分は、訳がちょっと抜けています。原文では tiracchânavijjâ という言葉が入ります。Tiracchânaは畜生、vijjâは知識・技術という意味です。賤しい知識・技術という意味の言葉になります。ある尊敬すべき沙門、バラモンたちが、畜生同様の、ものすごく下品な、レベルの低い技術で生計をたてているのだと言うのです。

 Vijjâ というのはサイエンス、技、技術、学問という意味です。学問や技をいろいろ身につけるために、我々が勉強するのです。その学問のこともパーリ語で vijjâ と言います。ですからピアノを習って、プロになったらそれもヴィッジャーですし、数学を勉強して生計をたてられるようになったら、それもヴィッジャーと言う。一般的には学問、サイエンス、それからテクノロジーという意味も入る言葉なのです。

 ここでポイントになる言葉は tiracchâna です。ティラッチャーナというのは動物のことです。動物たちの生き方を人間が真似をすると文化社会では生きていられません。理性的で道徳を重んじる人間社会に相応しくない学問や技術があるようです。例えばピアノのプロが厳しい訓練を受けてその技術を身に付けるのです。では、すり(pickpocket)はどうでしょう?素人には出来ませんね。ピアニストと同じく高度な技術を身に付けなくてはならないが、その技術は誉められたものではありません。非難するべき学問も技術もあることを覚えておきましょう。

 そこで次のポイントを見てください。お釈迦様が最も非難的な言葉を使って卑しめる仕事はどんなものかと言うと、占い、いろいろな儀式儀礼、あらゆる呪術なのです。仏教では、そんなことは犬畜生にも劣る人間がやることで、文化的な品格のある出家者はそのようなことはしません、という否定的な立場なのです。

占い

 現代の日本でも占いは人気があります。若い女の子が占い師の格好をしてコーヒー占いや紅茶占いをやったり、タッロット占い、星占いなど沢山あります。占い師の方々は、大体、相手の不安な気持ちを和らげて、望みを持てるようにしてあげるのです。カウンセリングみたいなものです。その点で役に立っていると言えるが、カウンセリングを受けるなら、資格をもっている専門家もいますよ。

 仏教は、確実に人の役に立つ仕事なら宜しいという立場なのです。出家、聖職者には迷信に基づいたことを禁止しているが、世間で占いを仕事にしている人に何かを言っているわけではありません。

呪術の効き目

 占い、呪文、呪い、祈祷などを迷信だと批判したので、大好きな、頼りになるものを軽視されたと、ブッダの教えに違和感を覚え始めたところだと思います。余計だと思いますが、少々説明いたします。

 IT時代、宇宙開拓時代になっていても、原始時代から信仰してきた迷信の大部分が未だ健在です。何の影響力もない真っ赤な嘘なら、とっくに自然死していることでしょう。何かがある筈です。占いが的中した、予言が当たった、祈祷で治った、と言う話もたまに聞きます。本当かと科学的に調べようとする人はいないので、仮に本当だと信じておきましょう。

 説明はいたって簡単です。こころは瞬間に他のこころの影響を受けます。暗い人は明るい仲間のなかでは明るくなるし、明るい人は暗い仲間の中では明るく振る舞うことは出来なくなる。また、暗い人は同類の暗い仲間と付き合うことで落ち着く。明るい人は明るい仲間なら落ち着く。

 他人が自分のことを嫉妬したり恨んだりすると、自分がその人のことを嫌になったり、敵視したりする。精神的に弱い人はそのまま環境の影響を受けるが、精神的に強い人は環境に影響を与えたりする。奥歯まで見せて笑いながら占い師に「あなたは運の強い方ですね」と言われると、落ち込んでいるこころは頑張る気持ちになる。「○○さんはあなたのことを怨んで死にました、気をつけてください」と言われると、やっぱり怨霊が怖くなる。聞いたことでこころが不安に満ちたから、これからやることはうまくいかない。スキーに行ったら骨折するし、帰りに交通事故にも出会う。

 「こころは支配者である」とはブッダの言葉です。人間の幸不幸はこころの法則で具体的に、明確に説明できるのに、また、それが真理なのに、呪文に力があるということは「尾っぽが犬を振っている」というようなものです。仏教に批判されたからと言っても、人間に不安・恐怖感があるかぎり、占い・呪術業は倒産しないので心配することはないと思います。

祝福文句を口癖にする

 お祓いや祈祷とは違いますが、仏教徒も普段の生活の中で祝福文句を護呪のように、よく口にするのです。これは必ず祝福するためのものであって、ただ言葉を言うだけでも効き目があるのです。祝福は慈しみのこころですから特別な技術がなくても、「あなたはどうぞ気をつけて」「どうぞ幸せに」「お元気で」「成功を祈る」などの祝いの言葉はだれでも言える。それは効くのです。言う人と言われる人の精神状態によって効き目に差がつきますが。口癖のようにいつでも祝福文句を使うというのは大変大事な善行為です。

 決して間違ってでも、人を呪う言葉を使ったりしてはいけません。冗談ででも「死んでしまえ」というような、のろい文句は言ってはいけません。相手が死ななくても、自分の憎しみのエネルギーは自分への呪いになるのです。また、悪業です。

 祝福文句は言葉の意味だけではなくて、慈しみのこころの波動が相手に伝わるのです。「末永く幸せに」と言われた瞬間に気持ちが柔らかく、明るくなる。言った人に対して慈しみが生まれる。柔らかい気持ちがあると、どんどん性格が明るくなって、人間関係がよくなってしまいます。瞬間的な、無意識で起こる慈しみさえも良い結果を出すので、すべての生命に対する慈悲の気持ちを表現する「生きとし生けるものが幸せでありますように」、という言葉は最高の祝福文句です。

仏教の祝福

 『宝経』には「etena saccena suvatthi hotu(この真理で幸せでありますように)」というフレーズが繰り返し出てきます。これは、お釈迦様の発見した真理は確実にすべての生命を幸せに導くものだと明言している所です。祝福にも法則がある。祝福する人の心が弱くて、幸福でないなら、他人を祝福することはできないのです。効き目が弱いのですね。ですから、完全たる幸福な状態にあるお釈迦様が真理を賭けてする祝福は最高の威力があるのです。この言葉のうらを読むと、相手が幸福にならなかったら、ブッダの悟りも、教えた真理も嘘になると言う意味です。もしある医者が、「この治療であなたの病気が治らなかったら、私の医師免許を取り消します」と言ったならば、その医者に確実に自信があることになるのです。仏教の祝福はこのような調子で行うものです。

 そもそも、何故、仏教で祝福するのでしょうか?

 1.呪うより祝福することは善行為です。
 2.人々は自信を持って生きていきたいです。
 3.相手が仏法僧を冒涜しない限り、確実に幸福になります。
(次号に続く)


  沙門果経(23

〔前号までの話〕
 前号から大戒に入りました。大戒には当時のありとあらゆる種類の占いや呪術が出てきます。釈尊はこれらを犬畜生にも劣る卑しい仕事だと、仏弟子たちに厳しく戒めます。占いや呪術は、人々を益々無知に陥れても、智慧の方向へ、理性の方向へ導くことになりません。ましてや人の弱み、期待、希望に応じて呪術などで生活することは、佛弟子にとって恥ずべきことです。しかし祝福は、人々に安心感や自信、活力を与える善行為ですから、仏教でもしばしば行うのです。

■出家の倫理的な生き方 《大戒》

相占い

 初期仏教の経典には、呪術や呪文は見当たりません。仏教に呪文が入ったのは、後代ヒンドゥー教の影響でしょう。お釈迦様の無我と因縁の教えはバラモン教とは異質のものでした。当時のバラモン達は三種のVedaを唱えていたのです。四番目のAtharvan Vedaもあったのですが、仏典はあまり関心を持っていなかったようです。Atharvan Vedaは呪術に関わる教えです。祈祷・呪い(white magic & black magic)系はサブカルチャー的に流行っていたようで、社会の上位に立って活動したバラモン達は興味を示さなかった可能性はあります。ブッダはバラモン達の祈りの習慣さえも文化的でない、と厳しい態度を採られていましたので、祈祷・呪い系は仏教には何の関係もありませんでした。

 インドでは、仏教が衰退して行く過程の最後の段階で「密教」というものが現れました。密教の特色は呪文です。呪文によって、不幸を除くことも、幸福を築くことも、悟りを開くことも出来るのだと説き始めて、独特の呪文文化を密教仏教が開発したのです。ヒンドゥーの呪文をコピーしたのではなく、呪文の雛形に合わせて大量の呪文を作成しました。

 良かれ悪しかれ、哲学的な不二論も、論理学も、迷信的な呪文文化も、インド文化に提供したのは、衰退していった仏教なのです。ブッダが説かれた初期の教えとは関係ないことだと理解したほうが宜しいのです。

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、宝石の相、杖の相、衣服の相、剣の相、矢の相、弓の相、武器の相、女性の相、男性の相、少年の相、少女の相、男奴隷の相、女奴隷の相、象の相、馬の相、水牛の相、牡牛の相、牝牛の相、山羊の相、羊の相、鶏の相、鶉の相、トカゲの相、カンニカーの相、亀の相、獣の相といった、このような無益な呪術によって邪な暮らしをしている。しかし、かれはそのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている。これもまた、比丘の戒です。

 当時は様々な相占いがありました。動物や人間の顔かたちを観て、いろいろな出来事を占うのですね。たとえば耳や目がこんな形だから、こんな事故が起こるでしょうとか。占い師の仕事かも知れませんが、出家した比丘にとっては邪な生き方だとブッダが説くのです。出家は食べるために、生きるためにこのような品のない占いなどは行ってはならないのです。

 相占いは禁止です。しかし、人相について仏典には記してあります。バラモン達の教えでは、人類を超越する人、悟りを開いてブッダになる人に32の人相があると記してあったので、優秀なバラモン達は釈尊にその32相があるのかと調べたところで、全て揃っていることが判明したのです。(Majjhima Nikâya, II,133-146, Sutta No.91,92)

 ブッダの理論によると、生命は業によって生れるのです。過去の業の報いは身体で、又こころで受けることになるでしょう。ですから、こころの状態によって身体が形を作ることになるのです。徳の高い人は美しい身体になるし、並の徳を持つ人なら普通の身体になったりするのですね。それで、最高の徳を持つブッダの身体でしたら、普通の人より違い相を具えていることがあり得るのです。Dîgha Nikâya(長部経典)のMahâpadâna sutta, Lakkhana sutta, No.14,30ではどのような善行為の結果としてブッダの32相が現れたのかという説明があります。と言うことは身体の形でその人の運命、幸不幸などはいくらか顕になる可能性は理論的に言えるが、それは占いとして仕事にすることは出家には禁止だとなります。

戦争占いは現代の政治・軍事評論

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば『諸王は進軍するであろう、諸王は進軍しないであろう』『味方の諸王は到着するであろう、敵の諸王は退却するであろう』『敵の諸王は到着するであろう、味方の諸王は退却するであろう』「味方の諸王は勝つであろう、敵の諸王は負けるであろう』『敵の諸王は勝つであろう、味方の諸王は負けるであろう』『このようにしてこの者は勝つであろう、この者は負けるであろう』といった、このような無益な呪術によって邪な暮らしをしている。しかし、かれはそのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている。これもまた比丘の戒です。

 昔はよく戦っていましたから、王様が占い師を集めて戦争の前にいろいろ占いをやったりしたのです。いつ戦争を始めるか、どんな戦術を使うかなど、王様も不安だから戦いに関するいろんなことを、占い師が進言したりする。

 戦争は政治のひとつでしたから、現代的に言えば政治評論家、軍事評論家です。経済的な評論をしたりもする。そういうものも出家にとって邪な生活です。ブッダの政治論では戦うことは断然禁止です。王様は国民を我が子のように愛するべきなのです。動植物を守ることも王の仕事です。国が異論なく、不安なく、搾取することも、されることもなく、一つの家族のような状態になっているならば、例えスケールが小さい国であっても攻撃は受けませんという立場です。と言うわけで、王様の欲望、権力欲を仰ぎ称えるための行為自体は非仏教的なものになるのです。

 現代に到るまで、戦争を応援すること、戦士達に《永遠の天国》というニンジンを見せて、大事な命を粗末にさせること、他殺に駆り立てること、戦い・搾取などに倫理的な言い訳をすることなどは殆どの宗教の管轄です。つまり宗教界は人の運命、将来、死後の世界、命に対して独占的な権限を持っていると思っているのです。

 しかし、ブッダに教えは徹底的に違います。因果法則によって成り立っている「命」に対して誰にも権限がないのです。自分の命に対して自分自身に自由がないのです。しかし、生きることは苦です。ですから、物質の法則、こころの法則を理解して、苦を作り出す悪循環である因果の流れを解除することが正しい選択なのです。この真の生きる目的を知っている出家比丘は醜い、汚らわしい戦争などを応援しないのです。

星占いは天文学に迷信が絡む

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば『月蝕があるであろう』『日蝕があるであろう』『星蝕があるであろう』『月と太陽は軌道を進むであろう』『月と太陽は軌道をそれるであろう』『諸星は軌道を進むであろう』『諸星は軌道をそれるであろう』『流星が落ちるであろう』『四方が燃えるであろう』『地震がおこるであろう』『雷が発生するであろう』『月・太陽・星は昇り、沈み、汚れ、浄まるであろう』『月蝕がおこり、・・・(中略)・・・これこれの結果になるであろう』といった、このような無益な呪術によって邪な暮らしをしている。しかし、かれはそのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている。これもまた比丘の戒です。

 これはインド一般的な星占いの世界です。現代で言えば天文学になります。昔からいろんな計算に基づいて行われた技術ですが、それは仏教ではやりません、ということになっています。

 上のリストを見るとこれは只の星占いに限っている禁止項目でもないことが解るのです。人間の生活には天体の運行を知る必要もあります。日にちを計算すること、季節の変わり目、雨期・乾期などは知っておいた方が便利です。人生を運命に任せないで管理できます。天体の運行を知るためには、正しい観察能力と計算能力が必要です。そこまでは迷信でもインチキでもありません。

 しかし、現代でも、このセクションは人に関係のない宇宙のことまで発展してゆく。人間の知的欲求は、知っても知らなくてもどうでも良い所まで、調べるのです。天文学者のロマンのためにかなりの人類の財産がなくなるのです。仏教は適度を知っているので、日にちを知ること、季節を知ることぐらいは比丘達も学ぶべきこととして認めているのです。

 この天文学に人間の欲望、願望、迷信、信仰などが絡んでくると「星占い」になります。水星、流星、日蝕、月蝕、惑星が交差するように見えることなどで、人の占いをするのです。このような占星術は出家に禁止です。

気象占い――天気予報

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば『大雨があるであろう』『旱魃があるであろう』『食べ物が豊富になるであろう』『食べ物が欠乏するであろう』『平和になるであろう』『恐怖があるであろう』『病気になるであろう』『健康になるであろう』とか、指算術、計算術、目算術、詩作術、詭弁術といった、このような無益な呪術によって邪な暮らしをしている。しかし、かれはそのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている。これもまた、比丘の戒です。

 今の天気予報は科学的な根拠に基づいていますが、昔の天気予報はただの迷信に基づいて予報を行っていたのです。たとえば東の空が赤くなったら旱魃です、などのように科学的な根拠はなかったのです。迷信に基づいているものを仏教では否定しますが、現代科学的な天気予報まで否定しているわけではありません。

 乾期になるか、雨期になるか、洪水になるかなどは農民達が先に知りたがるのは当然です。しかし、科学的な観察データに基づいてでも、明確に予報することは今も難しいのです。

 要するに、明日は天気になろうが、台風が来ようが、竜巻があろうが、「今日やるべきこと」をやっておいた方が好いのではないかといえるのです。出家が気象占いなどを行って生活するならば、出家は修行どころではなく占いが職業になってしまうのです。食べるための出家ではないのです。こころを清らかにするための出家です。俗世間の迷信に費やして無駄にする時間がないのです。

 指算術、計算術、目算術、詩作術などは呪術ではありません。しかし、それも占いなどに使用するのです。

計算術

 計算術はインドにあった特定の専門分野です。苦労して学んだ計算技術士たちは、王様や億万長者たちに雇われて高収入を得たのです。もし、出家が出家したのにもかかわらず計算技術で収入を得るならば、それは出家としてとても賤しい生き方になるのです。お寺や道場に住んでいる僧侶達が、会計士の資格を取って、一般向けに会計事務所を経営することをイメージして見てください。たとえ料金は三割低く設定してあっても、その僧侶達は欲に塗れて生活する羽目になるのです。

詭弁術

 詭弁術はインドでは人気がありました。これは話術でもあるのです。例えば、上手な詭弁士はみごとに、「カラスは白いです」と証明して見せる。(これは注釈書にある例えです。決して、カラスの色は白いと言わないところは微妙ですね。)聞いている人々は明らかに嘘だと知っていても反論できず唖然とする、驚愕する。そこで詭弁士は大金を手に入れる。即興で詩を謳って金儲けをする職業もあります。結局は言語を自由自在に操って遊ぶことですね。

 言葉は人に大事な情報を伝えるために不可欠な道具なのに、このような遊びをすると、大事な教えも、大事な情報も、無視されて笑われて終わるのです。

 仏教では有意義な言葉以外語ってはならないのです。無意味な言葉を巧みに喋って人を笑わして、あるいは脅かして生計を立てることは、出家にとって賤しいことなのです。在家はくだらない能力でも売って生活しなくてはならないが、出家はキッパリ止めるべき行為です。仏教は詭弁と詩作術の代わりに、いかにコンパクトに金言を語れるのか、人の役に立つことを語れるのか、覚えておくべき、思い出して見る価値がある言葉を語れるのかを重んじる世界です。詭弁は糞言で仏教は金言です。

 詭弁論は基本的に人の意見、考えを排除させるものです。分かりやすく言えば、人の考えをバカにするのです。ただ述べるだけで、正しい考えを提案しないのです。詭弁士の仕事は意見を壊すことで、自分が意見を提案しては不味いのです。ですから、言葉が達者なだけで十分です。何かを学ぶ必要も、知識人である必要もないのです。人間には完璧に語れないという弱点があります。これは言語自体の問題でもあります。ですから、人がいかなる大事なことを言っても、「穴探し屋」に弱点は簡単に見える。この能力は大したことではありません。子供にもあります。折角大事なことを教えようとする大人が、子供の反論に負けてしまうことは日常茶飯事の経験です。

 無知を正当化する、真理を知ることに邪魔をする、人格向上の妨げになる、時間を無駄にする、言葉を無用なものに、オモチャにするので、詭弁論は仏教では禁止です。だからこそ、お釈迦様が、「自分が語る真理は批判できない、言葉は完全である」と挑戦なさったのです。詭弁士は誰ひとり、釈尊には勝てなかったのです。

詩作

 詩作の問題も考えて見ましょう。立派な詩であるならば、単語をぎりぎりの所まで節約します。延々とだらしなく語るなら詩になりません。また、詩は暗記し易いのです。完全に語ることに、無駄話を全面禁止することに力を入れる仏教が「詩作」に挑戦する。仏教では、大事な真理を語るとき、覚えて欲しいとき、日夜思い出して欲しいとき、日々念じて欲しいとき、その真理を詩で語るのです。詩のための詩、言葉の遊びとしての詩、意味を持たない詩は禁止です。意味深く、智慧をもたらす、人を悪行為から守ってくれる、解脱を促す詩をブッダも弟子達も謳うのです。しかし、ブッダも弟子達も、詩人ではありません。出家する者がかつて詩人であっても、それは止めなくてはならないのです。

  (次号に続く)


  沙門果経(24

〔前号までの話〕
 当時のインドには相占い・戦争占い・星占い・気象占いがありました。これらの実用的で科学的な一面は否定しませんが、占いには人間の欲や迷信が絡んでいるので、お釈迦様は仏弟子たちに厳しく戒めます。計算術や詭弁術、言葉の遊びとしての詩作も仏教では禁止しています。しかし大事な真理を覚えて欲しいとき、日夜念じて欲しいときには、ブッダも弟子達も、その真理を詩で語りました。人々を悪行為から守り、智慧をもたらし、解脱を促すために、口ずさみやすく意味深い詩は有効なのです。

■出家の倫理的な生き方 《大戒》 (続き)

庶民の生活は占いに依存する

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、嫁とり、嫁やり、和解、分裂、借金の取り立て、金の貸し出し、幸運をもたらすこと、不運をもたらすこと、流産した母胎の治療、舌を硬直させること、顎を動かぬようにすること、両手を挙げさせる呪い、顎の呪い、耳の呪い、鏡への問い、少女への問い、神への問い、太陽崇拝、大いなるものへの崇拝、火を吐くこと、シリ天への招請といった、このような無益な呪術によって邪な暮らしをしている。しかし、かれはそのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている。これもまた、比丘の戒です。

 この段の「嫁とり(âvâhanam)、嫁やり(vivâhanam)、和解(samvadanam)、分裂(vivadanam)、借金の取り立て(sankiranam)、金の貸し出し(vikiranam)」などは日本語でそのまま読んでもわかりやすい。これらは、呪術と関係のない一般的なことではないかと思われるのは当然です。しかし、出家して信者さんのお布施で生活しながら、このようなことを行うならば、それは賤しい生き方になるのも当然です。実はこの仕事も呪術に入るのです。若い男女の星座、その家族の星座などを星占い(インドではホロスコープ)でうらなって、適切な家を推薦するのです。若い男女が恋に落ちていても、占いで凶がでたら、両親は結婚を認めません。

 借金取り立ての場合も宗教家が脅しに行くのではなく、「強引にでも、暴力を振るってでも、相手から借金を取り戻せるように、貸し倒れにならないように」と、取り立てに行くべき日時などを占ってあげる。「幸運をもたらす、不運をもたらす」という場合も祈祷・呪いなどになります。別れた誰かと和解したいとき、また、誰かとしっかり別れたい時もその期待を叶えるために、どんな日でどんな時間で実行開始すればよいかと占ってもらうのです。

 「流産した母胎の治療(viruddha gabbha karanam)」と日本訳をされていますが、意味は少々違うのではないかと思います。viruddhaとは反という意味です。gabbhaは妊娠、母胎です。ですから、子が宿っている母胎に対して呪いをかけることになります。呪術または、薬で流産させる、死産させることです。これが一般的にあったということは、どういうことでしょうか。

 子供は宝・財産として考えていたのですが、「子供が生れたら困る」ということもあったでしょう。例えば、資産家が二人の奥さんをもらったりする。先に子供を産んだ婦人は第一夫人になって、資産の所有権を握る。それは、もう一人の妻に面白くないでしょう。また、色々考えられる原因もあったでしょう。しかし、呪術で、あるいは何かを食べさせる、飲ませることで大事な子供が亡くなったら悲しいです。流産で母の命も失う恐れもあります。ですから、今でも、迷信を信じる女性は妊娠したら、身体にいっぱいお守りを付けておく習慣があります。

 「舌を硬直させる」というのは、よく喋る人の舌を動かなくして、喋れないように呪文をかけることです。裁判で証言をするときのことを想像してください。もし話せなかったら被告人は有利ですね。

 「顎を硬直させる(hanusamhananam)、両手を勝手に動かさせる(hatthâbhijappanam)、顎・口を勝手に動かさせる (hanujappanam)、相手の耳に自分の言葉が聞こえないようにする(kannajappanam)」というのも呪文・マントラをかけるのです。注釈書は裁判の例えで説明します。起訴人も被告人も一緒に証言するときは、こちらの証言が相手の耳に聞こえないように呪文をかけると相手が適切に反論することも、弁解することも出来なくなる。呪文の力で、物事を自分の都合の好いように操れると信じていたようですね。

 次の三つを説明します。「鏡への問い(âdâsapañham)」は鏡面あるいは反射するものに神を写してもらって質問することです。占ってもらう側の質問を神に訊くのです。「少女への問い(kumârikapañham)」は少女に神を憑依してもらって質問に答えを頂くのです。「神への問い(deva pañham)」は神懸かりの身体に神が憑依してもらって占うことです。この三つの仕事は神霊信仰に基づいています。神なら何でも知っているということでしょうか。また占いが外れても占い師はセーフです。

 最後の四つです。これらは金のために、高収入を得るために行うものとして纏めているのです。「太陽を崇拝して金を儲けること(Âdiccupatthânam)」は自分の信仰なら金になりませんが、おそらく人々のために崇拝儀式を行うことでしょう。「大いなるものへの崇拝(mahatupatthânam)」は、このままでは良く分からないのです。金目当てで、大金持ちや王様、大臣達などの信仰・崇拝係になることだと理解することもできます。注釈書はmahatiを大梵天だと解釈する。それなら、梵天崇拝になります。梵天に祈るときも仲介として聖職者が必要ですから、結構収入になります。よく理解できないのは次の「火を吐く(abbhujjalanam) 」というものです。呪文で口から炎を吹き出すことだと注釈書が記す。それなら、只のマジシャンがやっている出し物と似ています。Abbhujjalanamを abhi + ujjalanaと分けると、輝く・燃えるという意味になります。口と決まってないのです。身体から炎が燃え上がるように似せることだと理解することもできます。呪文を駆使して宗教家が自分の聖力を他人にアピールすることだと解釈できる。

 しかし、迷信は似ているものをセットにして語られていると推測してみましょう。決してこの経典では、思い出した順に無作為に語られたわけではありません。戒として語っているのです。Ajjhâyakâ manta dharâ (読誦する、マントラ・ヴェーダ聖典を学ぶ人々)のような文書からabbhujjalanamも何とか似ているのではないかと思える。読誦が俗語として訛った言葉ではないかと、結構無理をして推測出来る。更に、推測して解釈すると、一般人のために経典・マントラを読誦して回ることになる。これなら、収入にもなります。前の二つの習慣にも適合する仕事です。かなり、無理をした解説なので無視した方が安全だと思いますが、一応、三つの迷信をワンセットにしようとした解説です。

 「シリ天の招請(sirivhâyanam)」というのはラクシュミー(吉祥天)神のことです。財産を支配する神です。学問・芸術を司る神としても信仰しています。呪文・祈祷・儀式・儀礼などを行ってシリ神を招請する。それなら、湧き水の如く財産が溢れることでしょう。

 これらの賤しい、迷信的な、人々の伝統的な、文化的な信仰に乗って生計を立てることは仏弟子に禁止なのです。出家は生活の手段ではなく、解脱するための手段なのです。

 この戒では呪文の項目が幾つかありました。呪文も言葉を唱えることなので、それに似る読誦もありました。尊い般若心経の最終結論は呪文なので、呪文を否定することは仏教を否定することではないかと、心配もあるでしょう。般若心経が仏教であるならば、正しい心配です。自信がない人、気が弱い人、悩みや心配事で落ち込んでいる人、何も努力をせず最高の結果を期待する人、正当な道を歩まず裏口で目的に達したい人、理性・論理を否定する人、迷信・神秘を堅く信じる人、怠け者などには、呪文を唱えることで精神的に安心することは出来るのです。希望が叶っても、叶わなくてもあまり気にしないのです。そのような方々が呪文を信じるのは構いません。

 しかし、仏教的に言えば、何か希望があるならば、それが叶うように努力した方が良いのです。希望が叶うためには呪文や迷信ではなく、具体的に論理的に行動を開始しなくてはならないのです。怠けを潰さなくてはならないのです。

民間療法には迷信が混じる

 また、ある尊敬すべき沙門・バラモンたちは、信者から施された食べ物で生活しながら、たとえば、願かけ儀礼、願解き儀礼、鬼霊儀礼、土の儀礼、精力回復の儀礼、精力減退の儀礼、宅地化儀礼、宅地の撤布儀礼、口すすぎ、沐浴、供犠、嘔吐、下痢、上部の浄化、下部の浄化、頭部の浄化、耳用油を煮ること、眼用油を煮ること、鼻の治療、眼に薬をさすこと、眼に薬を塗ること、眼科治療、外科治療、小児科治療、根と薬草との調合、薬の除去といった、このような無益な呪術によって邪な暮らしをしている。しかし、かれはそのような無益な呪術による邪な暮らしから離れている。これもまた、比丘の戒です。

 この段落は治療系の話だと思います。原文の単語を参考にして解読してみます。先ず、昔の人は病気になるのは細菌のせいだと知らなかったのです。細菌、ビールスだけが病気の原因ではないがそれは置いておきましょう。悪霊のたたり、神の怒りなども病気の原因だと昔は信じていました。

 「願かけ儀礼(santikammam)」とは病気になった人のために良い霊や神、星座などに「早く健康にしてください。幸福にしてあげて下さい」とお願いを立てる儀式です。「願解き儀礼(panidhikammam)」とは患者が健康になったところで、あの良い霊に感謝する儀式です。その時には以前約束した供養もお供えします。「鬼霊の儀礼(bhûtakammam)」は神のランクより低いランクの霊のことです。この霊によって病気になったり、不幸になったりすると行う儀式です。「土の儀礼(bhûrikammam)」とはある場所に住み着いている霊の影響に対する儀礼ですので、祈祷師はそちらに出頭しなくてはいけません。

 この段の後半は、当時行われていた様々な医学的な治療が載っています。説明がなくても理解できるところです。インドの治療というのは一部呪文や呪術が混じっていることがあります。お釈迦様はそういう呪文や呪術が混じっている治療方法で出家が生活することを断っているのです。では、呪術の混じらない医学的な治療ならば、許されているでしょうか。それも駄目です。修行の傍ら、在家の時得た専門知識で治療を始めると、出家しても職業を続けることになります。出家には禁止です。では、金を頂かないで奉仕として、人助けとして行う治療は如何でしょうか? 駄目ですね。医者の仕事を奪ったことにもなります。自分で薬を探したり、作ったりしなくてはならないことにもなります。無料の治療になると患者は絶えないだろうと思います。在家の医者でいたときよりも忙しくなるでしょう。そうなると何のために、何をしに出家したのでしょうか?

 また出家戒律をむちゃくちゃ破らないと治療できません。たとえば、異性の身体を触ったり、見てはならないと決めている所まで見たりしなくてはならない。それから、治療する人は俗世間から尊敬される。奉仕で治療すると尚更です。お布施も沢山もらうでしょう。他の出家は軽視されることもあり得る。もし医者の出家のせいで、解脱している出家まで俗世間に軽視されたら、仏教そのもののメッセージさえも世間に伝わらなくなります。これが、ブッダに対する冒涜なのです。また、本人が「私は、人の役に立つ立派な出家だ。他の比丘達より優れているのだ」と思ったら、それは傲慢という煩悩に犯されたことです。悪行になります。肉体の病は身体の専門家に任せて、出家はこころの病の治療に専念するものです。医学は俗世間的には尊い仕事ですが、出家にとってはやってはならない賤しい行為なのです。

仏教の治療法

 しかし、出家同士で治療は認められます。律蔵の中で、お釈迦様がいろいろな治療法を教えた文言が入っているのです。治療に対する知識は結構ありました。でもお釈迦様の治療は簡単単純で、難しい治療ではないのです。たとえば、お腹を壊したらお粥飯か、ご飯のおこげを溶かして飲みなさいとか、体調を崩したら牛の尿をとって飲みなさいというようなしごく単純な薬なのです。牛はいっぱいいるから尿はいつでも貰えるし、誰にも迷惑はかけません。金がかかる、戒律を犯すはめになるものではありません。釈尊に認められたものは出家に一貫して合法的(合律的)です。

 それですまない場合もあります。あるお坊さんが貧血病に、栄養失調にかかったのです。牛の尿で治らないのですね。その出家が修行も出来ず落ち込んでいました。お釈迦様が、その比丘に住むところを替えることを薦めるのです。お釈迦様が推薦した村は漁師たちの部落でした。そこに住んだその出家の病気が治りました。適切な栄養を取れるように配慮なさったのですね。

 お坊さんは自然の中で生活していましたから、蛇にやられることも多かったのです。特に、毒蛇に咬まれたらたちどころにするべき手当が説かれてあります。蛇から身体を守る護経もあるのです。お経をあげたら蛇に咬まれません。しかし、呪文ではないのです。慈しみという論理的なこころの法則を使用してあるのです。慈しみには植物まで良い反応をしますからね。怖いではなく、可愛いと思えるようになると、蛇のこともペット感覚になります。

  (次号に続く)


  沙門果経(25

〔前号までの話〕
 占いや呪術祈祷は当時の人々の生活に深く根を張っていました。結婚や金の貸し借り・相続・裁判、そして高収入を得るためにも呪術や祈祷、神霊への問いかけは欠かせませんでした。しかし人の弱みを利用することになるこれらの仕事は、当然出家には禁止です。
 人々は病気や怪我をした場合も呪術祈祷・迷信が混じった民間療法で治療したのです。医学は俗世間では尊い仕事ですが、迷信療法は当然のこと、たとえ迷信の入らない医学的な処置でも、無料で人を救う治療でも、出家にとってはやるべきではない卑しい行為なのです。出家はこころの治療に専念するのです。

■出家の倫理的な生き方 《大戒》(続き)

 さて、大王よ、このように戒をそなえているその比丘は、いかなる場合にも、戒の防護から、恐怖を見ることがありません。大王よ、それはたとえば、灌頂即位し、敵を制している王族が、いかなる場合にも、敵から、恐怖を見ることがないようなものです。大王よ、それと同じく、このように戒をそなえている比丘は、いかなる場合にも、戒の防護から、恐怖を見ることがないのです。かれは、この聖なる戒蘊をそなえ、内に、罪過のない楽を感知します。
 大王よ、このように比丘は戒をそなえています。

 お釈迦様はアジャータサットゥ王に、出家した人が、まず戒律を守って道徳的な生き方をするのだと詳しく説法なさったのです。少々脱線して考えましょう。

 私たちの社会でもいろいろ道徳を守っている人々の話は耳に入ることがありますね。よく聞こえてくるのは難しい行をしている方々の話です。「私は菜食主義です。テレビを見ることも、ラジオを聞くことも止めています。都会での生活を止めて自給自足生活をしています」などの話も耳に入ります。この場合、私たちは「難しいことをなさっているのだ」と関心を持ちます。ある人が自分の自由意志で苦行をすると、社会はそれに感動するのですが、その苦行によってどのような得があるのかはわからないのです。

出家の戒律には有り余るご利益がある

 お釈迦様がアジャータサットゥ王に説かれた出家戒は、出家組織が偉いことをやっているということで在家の王の関心を惹きながら、戒を守っている出家がいかに安らぎの生き方をしているか、また出家の戒を重んじる生き方は社会に貢献していること、そして社会の模範になっていることを明確に解るようにしているのです。

 王の質問のポイントを思い出しましょう。「商売する人が金を儲ける。では、出家者の修行に何の利益があるのか」です。そこで、お釈迦様が、俗世間の立場から観ても、現世的な得も有り余るほどあるのだと言うことを明らかにして語られるのです。

 人間の生き方にはトラブルが多いのです。悩んだり、苦しんだり、戦ったりしなくてはならない。敵も、ライバルもたくさんいる。恐怖感も、不安も絶えない。安心することもできないし、安全もありません。社会に見られる罪、犯罪、詐欺、偽善、裏切り、奪い合い、憎しみ、恐怖などの原因は、社会が道徳的な生き方を無視して生きているからではないかと、お釈迦様が間接的に示されているのです。

 しかし、たくさんある出家の戒を在家が守る必要はありません。在家戒は少ないのです。日常戒は五つです。修行するにしても八戒か十戒です。出家の戒の中に、より詳しく在家戒も入っているのです。

 出家戒は律蔵として整理整頓・編集されています。しかし、アジャータサットゥ王に出家戒について語る場合は、律蔵のように、「法律」的な色はありません。一般的な説法です。社会人の生き方対出家の生き方という立場で説かれるのです。社会人としての生き方を背景にして、出家の生き方を描いているのです。コントラストは厳しいのです。と言うわけで、人間が倫理を守って生きてみるだけで、ほとんどの社会的な、経済的な問題は消えてしまうのだと間接的に説かれているのです。

 では、倫理を背景にして社会のことを少々考えてみましょうか。

貪瞋痴があるところに矛盾がある

 人生をより豊かにする、より幸福にするという建前であらゆる分野で研究や開発、発明などが発展していくのです。高度で複雑な経済システムが現われてきて、日常生活をしっかり管理している。

 薬産業や、バイオテクノロジーなどで行う遺伝子改良の研究は、人類を病気から救うためという目的で発展していく。しかし、世界的に見ると幸福になる人間よりは更に不幸になってしまう人々の数が多い。未だに、予防注射、教育さえも受けることが出来ない子供達がたくさんいるのです。一方で、病気をなくす、長生きが出来るような研究しながら、他方では人口が増えることに警鐘を鳴らす。経済成長の結果は自然破壊になる。不必要なものをどんどん作って強引に売る。

 何があっても、人は幸福にならない。争いは消えない。貧富の差は狭まらない。様々な差別、搾取などは消えない。とにかく何でもかんでも矛盾です。簡単に言えば、俗世間では道徳と言う概念がないのです。金を儲けるならばそれで良しという考えです。結果はどうであっても、ミサイルや核兵器などを開発すれば良しです。

 何より先に、全ての生命は仲良く、助け合って、心配し合って生きるべきだという考えはありません。競争破滅の道で、共存は正しい道だと知っていても、それでは儲からないと思っている。いわゆる生きる衝動は貪瞋痴なのです。人は呼吸するべきだというのは当たり前の事実です。そのように、人は道徳的であるべきだと納得するならば、社会の矛盾は殆ど消えると思います。

道徳は真理の世界への入り口

 仏教は「人間なら守るべき普遍的な人間共通の道徳」を、真理を語る過程で先に説くのです。その道徳論も更に発展させて、在家倫理と出家倫理との二種類にしているのです。人が倫理を重んじるならば、この世の中はそのまま天国のようなものになります。

 道徳はほかの宗教にもあるのではないか、社会でもあるのではないかと思うでしょう。確かにあります、が曖昧なのです。例えば、「殺すなかれ」と言いますが、例外も作るのです。戦争で人を殺して良いのです。嘘を言ってはいけないと刑罰まで作るが、国は国民に嘘をいう。国は他国に嘘をいう。どこを見ても「極秘」という概念はあるのです。

 しかし、真理の世界では曖昧ということはないのです。例えで言うならば、毒は身体に悪い。人間の身体にも、他の生命の身体にも悪いのです。非道徳は幸福を目指す人に毒なのです。例外は成り立ちません。しかし、毒を飲んだら死ぬと言っても、死ななかった人もいると反論するとしましょう。しかし、死ぬほどの苦しみになるでしょう。決して幸福には、健康にはならないでしょう。非道徳の結果にも微妙な差があるかも知れませんが、人を不幸に陥れることにはかわりありません。

 社会的な立場で見ても、道徳を守る出家比丘は在家の人が羨ましがるほど利益を得ているのだ、と最終的に説かれて、次に、精神的な安らぎ、こころの幸福の方へ話しを進めるのです。

■こころの戒律 《感官の防護》

 ではまた、大王よ、比丘はどのように、もろもろの感官の門を守っているのでしょうか。
 ここに大王よ、比丘は、眼によって色を見る場合、その外相を捉えることもなく、その細相を捉えることもありません。この眼の感官を防護しないで住むならば、もろもろの悪しき不善の法が、貪欲として憂いとして、流れ込むことになります。そこでかれは、その防護につとめ、眼の感官を保護し、眼の感官を防護するに到ります。
 耳によって声を聞く場合、・・・ 鼻によって香りをかぐ場合、・・・ 舌によって味を味わう場合、・・・ 身によって触れられるものに触れる場合、・・・意によって法を識る場合、・・・意の感官を防護するに到ります。

 かれは、この聖なる感官の防護をそなえ、内に、汚れのない楽を感知します。大王よ、このように比丘は、もろもろの感官の門を守っています。

 戒律というと、一般的にこころに浮かぶイメージは、生き方を制御する規則です。例えば、何を食べれば良いか、何を食べてはいけないか、飲んではいけないものは何なのか、妻帯するべきか否か、服装はどうするのか、などのようなものです。

 しかし、お釈迦様が説かれる戒の目的は、行儀作法で人を縛ることではないのです。その反対です。完全たる精神の自由です。こころが汚れているから行動は汚れる。悪行為になる。それで他人に迷惑をかける生き方になる。返ってくる結果によって、自分も不幸になるという理論です。

 生き方を制御するという戒律を守ると、その人のこころでそれを実行しなくてはならないのです。ですから、行為を戒めると、その結果、こころも戒められるのです。それから、その行為自体が他人の迷惑にもなりません。自分にも善い結果が返ってくる。これが、善い循環になってこころが徐々に清浄になってゆくのです。ですから、仏教の戒律はこころの煩悩を減らす目的です。儀式、儀礼ではありません。

 今まで、小・中・大戒として説明して来たのは表面的に見える生き方のことです。それから、よりレベルの高い、内面的な戒律になるのです。

煩悩を減らすための戒律

 輪廻転生する生命のこころは、基本的に貪瞋痴で汚れているが、それほど実感があるものでもありません。しかし、一旦生れてから生きようとすると、こころの汚れに気づくのです。欲、怒り、嫉妬などが現われるのです。何故でしょうか? 眼・耳・鼻・舌・身に色・声・香・味・触という情報が入るからです。 

 何かを見る。美しいと思ってしまう。欲が現われる。何かを食べたり、何かを聴いたりするときも同じです。それから、見たもの、食べたもの、聴いたものが気に入らなかったら怒りが現われる。感覚器官に情報が入ることは避けられないことです。

 従ってこころは汚れることも避けられないというと、話にならないのです。そこで、お釈迦様が感覚器官を警備することを戒律として教えます。

 戒律は4種類あるのです。
1番目の戒律はパーティモッカ(pâtimokkha samvara sîla)です。出家するときに受けて守る227項目の大きな決まりです。
2番目(âjîva pârisuddhi sîla)の戒律は出家の品格の良い生き方です。「小戒」・「中戒」・「大戒」の中での「大戒」がそれに当たります。出家として品格のある正しい生活をするということ。
そして3番目の戒律がこれから説明する「感覚器官の防護」(indriya samvara sîla)になります。
4番目の戒律(paccaya sannissita sîla)とは、着るもの・食べるもの・住むところと薬を量とその目的を知って、不浄を観察して、執着しないようにすることです。

眼から入る情報を制御する

 比丘は、眼によって色を見る場合、その外相を捉えることもなく、その細相を捉えることもありません。

 眼を通して入ってくる情報を色といいます。具体的に眼が感じるのは色と形です。一応我々は目から形を受け取りますね。その場合も出家者は、ただ見ているだけであって、詳細に区別、分析、判断して見ないのです。例えば、異性だ、若い人だ、可愛い、服装は似合います、足が細くてきれい、歯が美しい、笑顔が美しいなどです。不細工だなどの反対の分析もしない。

 この眼の感官を防護しないで住むならば、もろもろの悪しき不善の法が、貪欲として憂いとして、流れ込むことになります。そこでかれは、その防護につとめ、眼の感官を保護し、眼の感官を防護するに到ります。

 目は色という情報が入る窓口です。それをコントロールしないで放っておくと、いろんな悪い不善の法が心の中に、貪欲として憂いとして流れ込むことになる。ですから出家の人々はこころが汚れないように、眼を守りなさいというのです。これは戒律だから出家の人々は必ず眼を護ることはしなくちゃいけない。

 眼を防護していないと、どうしてもabhijjhâ(アビッジャー)とdomanassa(ドーマナッサ)という2種類の不善の法が入るのです。アビッジャーは貪欲という余計な欲です。ドーマナッサは怒り、気に入らないということです。眼を護らないで放っておくとどこまで汚れるか、分からないのです。不必要なものも、得ることは出来ないものも欲しくなるし、関係のないものに対しても怒ったりする。それから、生き方として規制の戒律を守っていても、感覚器官を防護していないと、こころに煩悩が溜まって、修行を止めて俗世間に戻ってしまうこともよくあります。

世直しではなく自分をコントロールする

 我々は簡単に眼をコントロールすることができるのです。それは、「余計な欲を生みだす雑誌などを出版するな」などと言って世間を攻撃するより、効果的で簡単です。淫らな雑誌、映画、テレビ番組がなければ、こころのきれいな人になるとは言えないのです。確かに自己管理することがなく、そのようなものを閲覧すると余計な欲と感情が生れます。しかし、世間と戦えない。世間が自分を護ると言うことは、囚人に看守がついているようなものです。立場が悪いのです。

 世の中をコントロールしようとするのではなく、自分自身をコントロールすれば済むのです。これは世間と戦わずに心を清らかにする方法です。

 だから各個人が自分自身をコントロールしなくてはならない。文章を書くならば心の中で、「この文章は人間のためになりますか。読んだ人はそれで幸福になりますか、役に立ちますか」と自分で自分をコントロールする場合のみ、言論の自由は成り立つのです。

 人には他人に迷惑をかけたり、人のものを盗んだり、害を与えたりする自由はないのです。それは結局、こころの汚れ・汚物を世に撒き散らす自由がない、ということです。こころを制御している人にのみ、言論の自由も行動の自由もあるのです。

 見るときだけではなく、聴くときも、香りが鼻に入って嗅いでしまうときも、味わう時も、身体にものが触れるときも心の中が汚れないように、欲と怒りが現われないように、ガードしなくてはならない。それで、憂い、悲しみなく、穏やかに生きることが出来るのです。

 というわけで、出家が在家と違って、戒律のお陰で、特権的な生活をしているのです。それも、まさに、在家生活と比較すると、出家が経験する果報です。御利益です。

  (次号に続く)


  沙門果経(26

〔前号までの話〕
 お釈迦様はアジャータサットゥ王に、出家が守るべき戒(表面的な生き方の戒め)について語ってきました。出家は行為を戒め、その結果こころも戒められる。人格的に向上し、その行為自体が他人の迷惑にもならない。自分にも善い結果が返ってくる。これが、善い循環になってこころが徐々に清浄になってゆく。出家は戒律のお陰で、在家のできない特権的な生活をしているのです。

 次にお釈迦様は、よりレベルの高い内面の戒律を語ります。それは六根から入る情報を制御して、こころが汚れるのを防ぐ戒律です。

■こころの戒律 《感官の防護》続き

 ではまた、大王よ、比丘はどのように、もろもろの感官の門を守っているのでしょうか。
 ここに大王よ、比丘は、・・・耳によって声を聞く場合、その外相を捉えることもなく、その細相を捉えることもありません。この耳の感官を防護しないで住むならば、もろもろの悪しき不善の法が、貪欲として憂いとして、流れ込むことになります。そこでかれは、その防護につとめ、耳の感官を保護し、耳の感官を防護するに到ります。 鼻によって香りをかぐ場合、・・・ 舌によって味を味わう場合、・・・ 身によって触れられるものに触れる場合、・・・意によって法を識る場合、・・・意の感官を防護するに到ります。
 かれは、この聖なる感官の防護をそなえ、内に、汚れのない楽を感知します。大王よ、このように比丘は、もろもろの感官の門を守っています。

 出家者は六根の感官を守ることで、こころを汚さないように気をつけます。
 見るときはこころの中が汚れないように、欲と怒りが現われないように、眼をガードしてこころの清らかさを守ります。それで、憂い、悲しみなく、穏やかに生きることが出来るのです。

 他の感官、耳・鼻・舌・身・意に対しても同じ言葉を繰り返しています。この繰り返しは、読むときは煩雑だと思うかもしれませんが、簡単に暗記して自分で唱えることができるように、パーリ語で同じ言葉を使うのです。だから一行勉強すれば6つの言葉を覚えていることになります。 

耳・鼻・舌・身体の感官を防護する

 次にあるのは耳に音が入る場合です。世の中にいろんな音があります。耳に入るときは、「この場合はどういう音ですか」と、特徴を捉えることになったら、ーー たとえば音楽ですか、あるいは人の声ですか、内容は何ですか ーー などと追いかけてしまうと、こころは乱れてしまうのですね。ですから音が入ったら、ただ単に「音」、「声」、と止めてしまえば、こころの中の冷静さはそれで守れるのです。

 〈音楽を聞くなかれ〉、〈淫らな話しを聞くなかれ〉のように、戒めることも簡単かもしれません。そのように禁止すると、「行・儀式・儀礼」になります。苦行を語る宗教ならそのように説く可能性もあります。

 しかし、厳密に形を守る、行になる律は、仏教で禁止するのです。行に捕らわれてしまうと、煩悩になってしまう。仏教では、音を聞くな、とは言っていません。普通に生活していれば、当然音が耳に入るのです。人の話は聞かなくてはいけないし、ブッダの説法も聴かなくてはいけない。でも、ある特定の音が入ると、こころが乱れて煩悩が現われ、堕落してしまう可能性は確実にあります。

 そこで出家者は、役に立つ、勉強になる、心清らかになる音なら、こころに入ることを許可するが、貪瞋痴を引き起こす音には入心を却下するのです。これは、耳を閉じることは出来ないから音は耳にふれて入る。入っても自分が落ち着いて、いつも冷静でいるということです。

 舌で味を味わう場合も、同じことです。出家してもご飯を食べたりするのだから、味を感じるのです。身体に味が入っても、これは何の味ですか、どういう風に作る味ですかとか、いちいち追いかけていってこころを乱すことはしない。余計な欲と憂いが生まれないようにするのですね。

 五番目は、身体にいろんなものが触れる場合です。

 我々の身体にものが触れたら、そこで感触が生まれます。その場合も、これは気持ち好いか、気持ち悪いかとか、その感触を追いかけてはいけない。追いかけてしまうと余計な欲が生まれてくる。

 たとえば、普通の人々が家具など買うときは、座ってみて、寝てみて、触ってみてとか、いろいろチェックするのです。そのように一般の人は体の感触に大変とらわれているのですが、出家の場合はそうではいけません。どんな感触が入ろうが、ただ気にせずにそこで留めます。そうしなければ、体の感触から欲と怒りという2種類の汚れが入ってきます。

 釈尊の時代で、出家が修行に入る場合は、空き地、森、洞窟、墓場などの場所に住んでいたのです。身体には良い感触はほとんど無かったでしょう。しかし、蚊、虫、ムカデのようなものは触れる。落ち葉の上に横たわる。暑さ、寒さが攻撃する。かなり、困ることになるでしょう。苦しみを感じてこころが混乱すると、修行なんかは全然出来なくなる。そこで、比丘は身体に触れる感覚に対して、嫌な気持ち、怒りなどが生れないように気をつけるのです。

意根を守る

 最後に6番目のこころ、意によって法を識る場合です。

 この〈法dhamma〉は仏教でいろんな意味で使っています。ブッダの教えも、真理も法です。この同じ文章のなかに「不善の法」が出てきます。その場合は余計な欲と憂いに、〈法〉という言葉を使います。「意によって法を識る」、と言う場合は、こころに入る対象のことです。

 ですから、意(こころ)によって、〈もの〉を考えるときも、特徴を捉えないで、細密に分析して深入りしないことです。この場合も主に管理するのは欲と怒りです。分かり易く言うならば、思考でこころが汚れない、乱れないようにすることです。

 こころの管理は簡単ではありません。眼・耳・鼻・舌・身の管理より難しいのです。

 例えば、眼に色と形は入ります。こころが乱れそうになると、眼をそらすことも出来るし、閉じることも出来る。その場所から離れることも出来る。しかし、心の中に、何かの考えが入ったら、感情が入ったらどうしましょうか。どこへ行ってもこころと一緒で逃げられません。怒りの思考、欲の思考などが入ると、絶えずその感情が付きまとうのです。こころは限りなく乱れてしまって、病気にまでなるのです。

 それだけではありません。こころで認識出来る対象の幅が大きいのです。眼・耳・鼻・舌・身の対象は色・声・香・味・触と決まっているのです。こころで、この五つも認識できる。過去と未来のことも認識出来る。実際にあるものも、全く存在しないものも認識出来る。ですから、三十年前に見たものでも、今思い出して、欲を作ったり、怒りを作ったりすることは簡単にできる。やっかいです。

 戒によって、意を守る場合は、何か思考・妄想がこころに入ったら、深入りしないで、直ぐ流すようにする。捨ててしまう。思い出しただけにして、忘れてしまう。こころを清らかになる別物を考えたりする。

 これで、比較的にキレイな思考でいることが出来るようになる。しかし、こころを根本的に清らかにするためには冥想実践が必要なのです。戒律は、こころの汚れを管理できる範囲で制御してくれるのです。眼耳鼻舌身意という六根を守っておく。守っておくと、かなりこころの中の乱れ、感情の波というのはなくなって、随分落ち着いてきます。

世間の楽は、苦しみのカラクリで成り立つ

 かれはこの聖なる感覚器官の防護を備え、うちに汚れのない楽を感知します。

 この「聖なる」という言葉は、お釈迦様が仰った仏道という意味として理解します。お釈迦様が理性的という意味でも使用なさっていたのです。この優れている防護法、六感を制御することで、すごく楽しみを感じると言うのです。俗世間の考え方と随分違います。

 俗世間では、美しいものを見て楽しいではないか、美しい音を聞いて楽しいではないか、美しいものに触れて楽しいではないか、美味しいものを味わって楽しいではないかと思うのは普通です。
 しかし、それは思うだけのことで、決して楽しいわけではないのです。混乱だらけの生き方になって、ものすごく苦しいのです。美しいものを追いかけていくと、それなりにかなりの苦しみもついてくるのです。精神的な問題が出てくるし、経済的な問題も、社会的な問題も、いろんな問題が出てくる。誰も認めようと思わないが、トラブルだらけなのです。

 たとえば一年間必死で働いてお金を貯めて、一週間外国旅行をしたとします。美しいものを見て喜んでも、それはほんのつかの間でしょう。本当は楽しむときでも神経を使ってイライラして大変だった時間のほうが多いのです。お金やら精神力やら体力やら、いろいろなものも使いますから、結局苦しみで終わってしまいます。

 また、人々はたくさん苦労したほうが、楽になるのだと思っているのです。「苦あれば、楽もある」。このスローガンで頑張っているが、楽から苦を引いてみるとかなりマイナスです。

 確かに苦が強いほど、楽も強烈に感じるのです。三日間、四日間なにも食べること出来なかった人には、お粥を食べても、極楽にいるような気がします。三食を食べていて、空腹の苦しみがない人にお粥は美味しくない。食べたくもない。やはり、飢えた人にはお粥が天国の味です。

 二年も三年も浪人して試験に合格する人は、驚くほど感激します。受験勉強の苦労もなく、一回で合格する人に強烈な感激は生れません。

 健康がどれほどありがたいことかと解る人は、重病で倒れて、死の間際からやっと抜け出した人なのです。毎日健康でいる人は日々生きることで幸福を感じません。

 一文もなかった人はたった千円をもらうだけでも感激します。豊かな人には残念ながらお金を得る感激は味わえないのです。

 世の中で、楽・幸福と言っている現象は、現在悩んでいる苦しみが一時的に消えたことです。

 それから、俗世間で言う幸福はものに依存するのです。

 耳で楽しみを感じるために音に頼らなくてはならない。眼で楽しむために色に頼らなくてはならない。身体を楽しませるために、健康的な肉体がなければなりません。その他の楽しみを得るために金に頼らなくてはならない。楽しむために、家族に、友人に依存する。気持ちを明るくするために講演で散歩をする。また、パーティをしたり、ハイキングしたりする。

 この依存して得る楽しみにリミットがあります。食べることを楽しもうと思ってもリミットがある。金で贅沢しようと思っても必ずリミットがある。

 それだけではありません。依存するものは自分から必ず離れて行く。金は消えて行く。子供達は大人になって離れて行く。友人達はわずかな時間しか一緒にいない。体力も健康も消えて行く。楽しみを作ってくれる対象が消えて行くと、その楽しみも消えて行くのです。

 これは俗世間が徹底執着している楽しみ・幸福の本当の顔です。

ブッダが依存しない楽を推薦する

 ブッダが、感覚器官を制御することで、俗世間の次元より優れた幸福を感じるのだと教えるのです。感覚器官から、こころを汚す、こころを乱す、苦しみを作る情報を放すのです。離れるのです。何かが無いから楽しいという場合は、その楽しみは長持ちします。音楽を楽しむよりは静けさを楽しむなら、何時間でも楽しいのです。こころの落ち着きを楽しむ人に、快楽から生れる疲れも、苦しみもありません。パーティを楽しんでも後で疲れるのです。離れる楽しみにはこの副作用もありません。

 このように世の中は、苦しみを沢山積み重ねたところで、ほんの少々の楽しみが得られる、いっぱい苦しんで少々楽しむという生き方です。それは普通の世の中の生き方なのです。

 お釈迦様が言われるのは何も苦労しないで楽しめる方法です。この優れている防護法に従って、ただ眼耳鼻舌身意をコントロールすると、こころの中に落ち着き、静けさが生まれてくる。それは何も苦労しないで生まれてくるものだから、苦しみを伴わない純粋な楽なのです。仏道で言っているほんとうの楽しみが得られるのです。

 ここで、お釈迦様がアジャータサットゥ王に、出家の利益を明確に示しているのです。

 在家は商売・農業で利益を得て楽しんでいる。出家はその在家生活を止めたことで、比較にならないほど優れた幸福を味わっている。質の高い、副作用のない、長持ちのする幸福を楽しんでいる。また、この幸福は苦労して、苦労してやっと手に入れた幸福というものでもありません。

 (次号に続く)


  沙門果経(27

 〔前号までの話〕
お釈迦様はアジャータサットゥ王に、よりレベルの高い内面の戒律を語ります。それは眼・耳・鼻・舌・身・意の六根から入る情報を制御して、こころが汚れるのを防ぐ戒律です。この優れている防護法に従って、眼耳鼻舌身意をコントロールすると、こころの中に落ち着き、静けさが生まれてくる。それは何も苦労しないで生まれてくるものだから、苦しみを伴わない純粋な楽なのです。こころの落ち着きを楽しむ人に、快楽から生まれる疲れも、苦しみもありません。これは仏道で言っている本当の楽しみです。

 在家は商売・農業で利益を得て楽しみますが、出家は在家生活を止めたことで、比較にならないほど優れた幸福を楽しむのです。質の高い、副作用のない、長持ちのする幸福で、これは苦労して苦労してやっと手に入れるものでもありません。

ヴィパッサナー冥想《念と正知》

また、大王よ、比丘はどのように、念と正知をそなえているのでしょうか。
ここに大王よ、比丘は、進むにも退くにも、正知をもって行動する。
真直ぐ見るにも、あちこち見るにも、正知をもって行動する。
曲げるにも、伸ばすにも、正知をもって行動する。
大衣と衣鉢を保つにも、正知をもって行動する。
食べるにも、飲むにも、噛むにも、嘗めるにも、正知をもって行動する。
大便・小便をするにも、正知をもって行動する。
行くにも、立つにも、坐るにも、眠るにも、目覚めるにも、語るにも、黙するにも、正知をもって行動する。
大王よ、このように比丘は、念と正知をそなえています。

 出家した人は感覚器官をコントロールして、つぎにこの正念と正知を実践します。
 ここで書いている正念と正知は「ヴィパッサナー冥想」の実践として知られているところです。ヴィパッサナーで、正念の実践をするときには、正知とつなげていなければいけません。
経典では念と正知は「sati-sampajañña」というセットフレーズです。パーリ語で正念は sammâ sati、正知はsampajânaです。念(気付き)の場合は、satisammâ satiという単語二つも使われています。

超越した沙門果へのアクセスポイント

 サティ・サンパジャンニャは冥想の大変大事なポイントです。例えば、車で、高速道路に人が入ったとしましょう。目的地に達するまでその人は車を運転しなくてはならないのです。そのように仏教の場合は、仏道という高速道路に入ったなら、解脱という目的地に達するまで運転を続けなければならないのです。人を無知から智慧へ成長させる高速道路は仏道です。運転とは冥想の実践です。ですから修行者は冥想実践という運転を続けて目的地の解脱まで進むのです。その運転が、念と正知(sati-sampajañña)の実践なのです。

 言葉の表面的な意味だけで考えると、「気をつけて生活することではないか」と思われる可能性もあります。それも大切なことです。しかし、これぐらいのことは「沙門果」と言えるほどのものではありません。念と正知(sati-sampajañña)の実践こそが、超越した沙門果に達するアクセスポイントなのです。要するに、冥想修行の始まりです。

 先月号で、戒律の最高位にあたる六根の戒めを説明いたしました。眼・耳・鼻・舌・身・意は六根ですね。それらに触れる情報は色・声・香・味・触・法と言います。情報は身体に勝手に触れるから管理できるものではありません。そこで、情報が触れても、こころが欲と怒りで汚れないように気をつけるのです。それでこころは、清らかな状態になります。しかし、気をつけることを怠ると、こころが汚れてしまいますね。常に、感覚器官に気をつけておかなくてはならないのです。悪・汚れを押さえる行為なので、この戒めは戒律になります。

 次に、出てくる問題は、人の意図的な行為・行動です。立ったり、歩いたり、座ったりすることは、人が意図的に、自分の意志で行う行為です。意志的な行為によって、人は新しい情報を得たり、考えたり、知識を発展させたりするのです。これらの意図的な行動も、こころが汚れます。ですから、悪になる行為も戒律で禁止してあるのです。

正念と正知で、「生きる」ことの発見をする

 出家は仕事などの経済活動はしませんし、在家修行者も修行中は一切の世俗的な行為をやめます。それでは、本当にやることがなくなりますね。することとして残るのは、「生きている上で」必ず起こる基本的な行為だけです。

 たとえば、座ったり、立ったりする。呼吸をする。手足を延ばしたり、引いたりする。大小便をする。服などを着たり、脱いだりする。などのとてもシンプルな、基本的な行為です。「生きている」と言って生命が行っているのは、このようなシンプルな行為なのです。

 では、「仕事をしている」、「研究開発している」と大胆に言っている場合は何か違うことでも行っているかと言えば、そうではありません。その時でも結局、手足を延ばしたり、引いたり、回したり、捻ったりなどのシンプルな行為をしているのです。

 ここで、具体的に「生きる」という行為が見えてきますね。「生きるとは何か」と、この正念と正知の実践で、客観的に、具体的に、合理的に発見することができるようになるのです。命についての哲学、宗教、神話、思考などに頼らず、観察することができるようになるのです。

 このポイントは何回でも繰り返し、強調しなくてはいけないと思います。なぜならば、一般的に人は、「魂とは何か」、「神はいるか否か」、「天国はあるか否か」、「地獄はあるか否か」、「死後はあるか否か」、「魂は永遠か断滅か」、「命は創造されたものか、自然発生なのか、偶然か」、などの観念的なことに興味を持っているのです。これは、ただ、思考のカラ回りで、決して明確な結論に達することはできない思索なのです。あれこれと限りなく考えるということは具体的な、確かなデータがないということなのです。

 例えば、私の前で犬が座っているならば、「ここに犬がいる」と難しく、力んで考える必要はありません。他人に「ここに犬が座っているのだ」と言っても問題にならないし、相手が反論しようともしません。

 しかし、その犬の誕生日を、私も相手も知らない場合は、「この犬は何歳でしょうか」と推測しなくてはならないのです。「二歳ぐらいだと思う」。「三、四歳かもしれません」。「よく成長していますから歳はわかりません。」などの意見がたくさんでます。しかし、どれひとつも決まり・決定ということになりません。私の意見を相手に言っても、相手も賛成したり、反対したり、訂正したりするのですね。もしかすると、私と相手が対立する可能性もあります。では、結論の出ない問題点は? 十分なデータがないことです。

概念による真理への到達は不可能です

 十分なデータもない、勝手な主観的な意見であっても、われわれは自分の意見に強く執着をする。正当化しようとする。強引にでも成立させようとする。相手の意見を否定しようとする。

 そのようなことになると、人間はいつまでたっても、真理に達しないのです。無知なままなのです。争い、戦いが絶えなくなるのです。

 戦いに勝ちたいから、「預言者のことばです、聖書のことばです、超能力者のことばです」などの権威を作ってそれに依存する。そうなると、「あなたの引用する聖書は本物ではありません。私の信仰している聖書こそが本物です」という争いも成り立ちます。

 また、人間は自分の感情・好み・希望で物事を考えることも、よくするのです。

 「生きることは楽しいのだ」と生に執着する人は、「死後も生き続ければよい」という希望があるので、死後永遠の魂、永遠の天国の逸話を考える。また、それを納得できるように考えることができない場合は、「死ですべて終わるから、生きているときは思う存分楽しまなくては損だ」と説く。生きることは苦しい、失敗ばかりだと言う経験がある人は、「この命は死で終われば良い」と希望して、死後の断滅を語ろうとする。
 このように、この世で思考だけは無制限にあるのです。だれにも、勝ちも負けもありません。だれの意見にも結論はありません。要するに、だれにも十分なデータがないのです。「私の前に犬がいる」と言えるように、明確に、具体的に語れないのです。

ブッダの最終結論は、今ここにある

 ブッダは一切の概念に対して、最終的な答えがないのか、と観察したのです。そこで「今、ここで私は生きている」と認識する場合、言う場合には何を指すのでしょうか?

 具体的に言うと、歩いたり、立ったり、食べたり、呼吸したり、大小便したりする、とてもとてもシンプルな行為を指しているのです。見たり、聞いたり、味わったり、感じたりする、とてもとてもシンプルな行為を指して言っているのです。

 それなら、「生きる」というこのシンプルな、なおかつ、小さな行為を主観・感情・希望を捨てて、客観的に観察すれば良いのではないでしょうか? 「生命の秘密、命の秘密、神の秘密、創造の秘密」云々と混乱していることに答えが見つかるのではないでしょうか? 人のあらゆる疑問に、将来に対する不安に答えが見つかるのではないでしょうか?

 出家が戒律の段階を合格して、沙門果として大変な安らぎ、平安を感じている。かれに今残っているのは「生きている」というシンプルな行為のみです。そこで、

「進むにも退くにも正知をもって行動する(abhikkante patikkante sampajâna kârî hoti)」のです。
「真直ぐ見るにも、あちこち見るにも、正知をもって行動する(âlokite vilokite sampajâna kârî hoti)」のです。
「曲げるにも、伸ばすにも、正知をもって行動する(sammiñjite pasârite sampajâna kârî hoti)」のです。
「大衣、鉢と衣を持つにも、正知をもって行動する(samghâti-patta-cîvara-dhârane sampajâna kârî hoti)」のです。
「食べるにも、飲むにも、噛むにも、嘗めるにも、正知をもって行動する (asite pite khâyite sâyite sampajâna kârî hoti) 」のです。
「大便・小便をするにも、正知をもって行動する (uccâra-passâva-kamme sampajâna kârî hoti) 」のです。
「行くにも、立つにも、坐るにも、眠るにも、目覚めるにも、語るにも、黙するにも、正知をもって行動する (gate thite nisinne sutte jâgarite sampajâna kârî hoti)」のです。
 固定概念、先入観、主観、好み、希望などで頭が汚染されてないならば、「生きるとはこの程度のものだ」と理解できると思います。

「ありのままに知る」ための工夫

 「正知-sampajâna kârî」とは何か、とは次の問題です。

 「ありのままに知っている」という簡単な訳はできます。「ありのまま」とはデータを改良・改革しないことです。捏造しないことです。とても、簡単な、シンプルなことです。言い換えれば、体に触れるデータについて、考えないこと、妄想、想像、思索、論理立て、解釈・解説しないことです。しかし、四六時中、妄想に明け暮れている人間には難しい作業なのです。ですから、思考・妄想を停止させるために、何かの工夫が必要になるのです。

 したがって、実践の方法を説明するときには、たとえば、手を伸ばすときは「伸ばします、伸ばします」。曲げるときは「曲げます、曲げます」。「座ります。運びます」と、言葉で確認するように、と我々はアドバイスしているのです。頭に、妄想する余裕、感情を引き起こす余裕を与えないようにするのです。強引なやり方だと思いますが、しかたがありません。これは、唯一な方法・工夫になるのです。

 お釈迦様が言葉で確認しなさいと仰っているのでしょうか? ほかの優れた方法はないのでしょうか?

 これは、「はい、はい」と簡単に答えられない疑問です。四念処経では、「長く吸っています、長く吐いています、短く吸っています…(〈私は長く出息する〉と知り、〈私は長く入息する〉と知ります。)」とありますから、言葉で確認することには釈尊の認可があるのです。

 しかし、言語は不完全なもので、何事にも単語があるわけではないのです。また、英語、日本語、中国語など、国語によっても使い方が変わったりもします。日本語では単語があるが、英語ではない場合も、その逆もあります。ですから、食べる、嘗める、大小便をするなどの場合は釈尊が見事に「正知」という語だけにしておくのです。行為につける単語が見つからない場合は、問題はありません。そのとき使う言葉は「感じる、感じている」なのです。

 身体はすべて、感じる行為をしていますが、最初から「感じる、感じる」とだけラベリングしても、思考は止まってくれません。集中力は向上しません。知恵は現れません。修行が進むと、物事は、とても早く、瞬間的に、変化してゆく事に気づくのです。そのとき言葉で確認すると、「時間的に間に合わなくなるのです」。現象の瞬間的な変化を取られるところまで集中力が成長すると、やっと、「感じる、感じる」という単語が適用できるのです。

 感じるはvedanâです。感受することから、渇愛が起こるのです。Vedanâ paccayâ tanhâです。それから、「因果法則」も、「無常の真理」も発見して、悟りに達するという道順なのです。

サティの実践は正知をもって

 言葉で確認することは気づき(sati)の実践ですが、正知(sampajâna)も同時に必要です。余計な事を何も考えず、「何が起きているのか」と知っていることです。この条件が欠けると修行は進まないのです。最初は言葉で確認することも、精一杯ですが、言葉にも制限があることも覚えておかなくてはならないのです。

(次号に続く)

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

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