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沙門果経(3)
第二章 六師外道の話
 (一)プーラナ・カッサパ
A・スマナサーラ長老

プーラナ・カッサパ
 道徳的束縛からの解放

 王様はあるとき、Pûrana Kassapa 師を訪ねて、この「現世において、目に見える沙門の果報というものを示すことができましょうか」、という質問を出しました。

 経典というのは普通は唱えあげるものです。そして暗記するものだから、同じ言葉の繰り返しが出てきます。この経典でも、王様が六人の宗教家に会うたびに同じ質問を繰り返しますが、説明するときは同じ言葉を繰り返す必要はありません。カッサパ師が王様の問いに答えるところから見ていきましょう。

 「大王よ、行為しても、行為させても、切断しても、切断させても、苦しめても、苦しめさせても、悲しみを与えても、悲しみを与えさせても、疲れても、疲れさせても、震えても、震えさせても、生き物を殺しても、与えられないものを取っても、つぎ目を破っても、掠奪しても、一軒のみをねらっても、大道に立っても、他人の妻と通じても、嘘をついても――行為するものに罪悪が作られることはない。たとえ、周りが剃刀のような輪(チャッカ)でもって、この地上の生きものを一つの肉山、一つの肉積みにしても、それによって罪悪はなく、罪悪が現れることもない。たとえ、ガンジス川の南岸に行って、殺害しても、殺害させても、切断しても、切断させても、苦しめても、苦しめさせても、それによって罪悪はなく、罪悪が現れることもない。たとえ、ガンジス川の北岸に行って、布施をしても、布施をさせても、供養を行なっても、供養を行なわせても、それによって功徳はなく、功徳が現れることもない。布施によっても、制御によっても、自制によっても、真実語によっても、功徳はなく、功徳が現れることもない」。

 ここまでがその人の教えです。《何をしようと、その行為に罪はないし、罪が現れることもない》とカッサパ仙人が言うのです。これはわかりやすく言えば、世の中にある道徳的な怯えを捨てている教えです。だから大胆に言葉を選んでいます。

 切断というのは人の手足を切断しても、ということ。人を悩ませても、人を脅しても、殺生しても、泥棒しても、待ち伏せをして商人のお金を全部掠奪したりしても、べつに罪悪はない。逆に、すごい修行をしたり、お布施をしたりしてもべつに徳があるわけでもない、と言い切ります。

 何故そこまで反道徳的なことを言うのかというと、当時の人々は罪悪感でかなり束縛されて悩まされていたのです。それともうひとつ、バラモンたちが徳の教えを押し付けて人を搾取していたのです。日本でも「お布施しなさいお布施しなさい、御利益ありますよ」と騙したり脅しをかけて、人々のお金を奪ったりすることがよくあるでしょう。バラモンたちはそれをやっていたのです。例えば、人が病気になって薬も効かないと、バラモンに頼る。「これは怨念だから除霊しないと救われない」と祈祷師のバラモンに脅され大金を要求されて除霊してもらう。でも状況は変わらなかった。そうすると、「特別な祈祷をやらなくては悪霊が払えない」ともっと厳しく搾取されるのです。

 これは人間の弱み、罪悪感の問題と徳の問題ですから、そんな精神的束縛は捨ててしまいましょう、と彼は言うのです。当時のインドの社会で、人は考えられないほどバラモン階級に苛められ束縛されていました。いまだにインドでは、バラモン人たちが作り出したカースト制度は揺らぎもしません。現代になっても人を差別することだけは絶対やめません。なぜならばカーストに宗教的な解釈があるから。そういうことで自由でもないし平等でもない、民主主義でもない。だからカッサパ師は、一旦その概念さえ捨ててしまえば、みんなそれぞれ楽に生きていられるのではないかと言うのです。

非道徳的な言動で自由を説く

 誤解してほしくないのは、この人は強盗や殺人を認めているかという問題です。罪がないからすき放題やってもいいとか、やりなさいということは言っていないのです。なぜならこの人も真面目に修行している宗教家です。だから精神的な束縛を破って社会に自由を与えようとして、大胆なことを言うのであって非道徳なことを勧めるわけではない。

 当時の人はバラモン人に些細なことで、「永遠に苦しむ呪いをかけてやるぞ」と脅されたりすると、ずうっと怯えて悩むのです。その問題を何とかしたいのですね。そこで、有名な仙人(カッサパ師)が出てきて人を搾取しているバラモン制度に対して、「性格が悪いなら自由に批判しなさい。そんな罰が当たるわけではない」と教えてくれる。それでかなり人は自由を感じるでしょう。

 だから本当に恐ろしい革命家です。恐ろしさというのは《罪悪はない、功徳もない》と断言するところで、そこはとても危険。でも「常識的な道徳を守って互いに仲良くしていましょう。人を不幸に陥れるような罪を犯しては幸せになれません」のような、一般的な社会道徳を認めていたかもしれません。人々に「しかし、あなたは布施をした、徳を積んだからといって、特別何か得をしたと思わないほうが良い。また間違って悪いことをしたとしても、地獄行きだと、自分を捨てない方が良い」ということを言っていると思います。しかしカッサパ師は、社会の一般的な道徳を守ったほうが、現世において幸福だというひと言葉も言っていないのです。社会道徳まで否定すると、宗教家にはならないのです。

 今まで私はプーラナ・カッサパ師の教えを弁解しようと試みてきました。仏教研究書では、このような試みはあまりないのです。この六人が社会的に認められていたことだけは事実ですから、哲学がものすごく発展していたインドで、いい加減無責任で無知なことを言って、有名になるわけではないと推測できます。

永遠不滅の魂は道徳を捨てる

 カッサパ師とその他の宗教家たちも修行を試みていたのです。だから、それなりの宗教哲学を持っているのです。カッサパ師の哲学は、《自分が何かをやる、人にやらせる。そのような行為は自分の魂に何の影響も及ぼさない》というものです。それはこういう理由だと思います。この人々は絶対的な魂を信じているのです。人間に永遠なる魂がある。人が死んでも魂自体は死ぬことはない、永久に存在し続けるというならば、魂というのはものすごく偉大なる存在なのです。永遠です。ということは、変化しない、汚れないということです。外から何の影響も受けません。ちょっと人を殺しただけで汚れる魂だったら、どうして永遠だ、不滅だと言えますか。だから魂論を語ると、道徳論を捨てなくてはならないのです。

 ここでプーラナ・カッサパ師が、個人個人に永遠不滅の魂があるという前提があって、それを本気で信じているのです。魂は偉大で何の影響も受けないものであるならば、人を殺したから魂も汚れてしまったとなると、これはちょっと理屈が合わない。嘘をついただけで汚れる魂だったら、我々も着ている服と同じでしょうに。だから理屈に合うように、厳密に論理的にしゃべっているのです。

 これでプーラナ・カッサパ師の教えがお分かりになるでしょう。絶対的な魂を信じて、「魂は行為によって変化はしません。変化することは不可能です」と言うのです。

 このカッサパ師の理屈で王様は納得いきますか。納得いかないのです。王様が「在家の我々の仕事には御利益はありますが、あなたがたの修行に何か御利益はありますか」と訊いているのに、師は自分の修行の結果さえも否定しているのです。王様が言外に尋ねたのは、「あなたの生き方で何か意味がありますか」ということでしょう。師は、自分の修行は何の意味ももたない、何の御利益もないものだと言っているようですが、王様と我々読者には、問いに関係無く持論をだらだらしゃべっているように感じてしまうことは、否めないのです。

 このカッサパ先生はあまりにも自分の思想哲学だけにしがみついて、実際の世界は見ようとしない。ものごとをすべて自分の宗教の尺度で判断する。世間に迷惑をかけたハルマゲドン論と同じなのです。頭が狂っている人が「ハルマゲドンが来る」と言ったら、その角度だけで世の中を見てしまう。自分たちだけどこかに隠れて身を守ればいいのに、その前にほかの人々を殺さなくちゃいけないと思ったりしたでしょう。哲学は悪いと言えないが、ひとつの考え方に入ってしまうと論理性もなくなるし、精神的に病気にもなるのです。科学万能主義だ、平和主義だとか、主義を決めたら危ないのです。知識人ではなくなってしまう。この問題はこの先生がたにもあったのです。

 王様は具体的な世の中のことを訊いているのに、それには答えない。「それならあなたがたの修行は意味がない。人を殺してもお布施をしてもどうでもいいなら、我々はこのままで生きていればいいのだ。あなたはもういらん」、ということで結局王様が諦めてしまう。

行為は魂に影響を与えない

 この人の哲学は、akiriyavâda と言います。ワーダは論で、キリヤは行為です。否定形を示すaが入ると、非行為になるのです。非行為論の主旨は、行為自体は魂に影響を与えないということです。行為と精神の関係で行為は精神に影響を与えるという考えを否定する。日本訳は非業論になっているのです。

 でも彼もそれなりに、社会に大変貢献したのです。人々はいろんなことで宗教に束縛されていた。人が間違って人を殺すと、もう永久的に地獄に堕ちるという教えは恐ろし過ぎなのです。現代の世の中でも、「神に懴悔しなかったら、生まれつき罪人で地獄に堕ちるのだ。神様を信仰しなかったら、あなたは動物と同然だ」というたぐいの教えがあると、それで真面目な人なら、よく悩むことになるでしょう。そこから解放して自由にしてくれるのだから、かなりの貢献だと思います。しかし、仏教の立場から見ると、彼が何の躊躇もなく人間の道徳を全体的に否定するだけの人です。

 そこで経典には、「それはちょうどマンゴーについて問われながら、ラブジャ(瓜)のことを説明したり・・・」。これを現代風に入れ替えてみると、「一番おいしいリンゴというのはどういうリンゴでしょうか」と訊いたら、「キャベツは春が旬ですよ。あれは柔らかくて」と言われたようなもので、相手がおかしいのではないかと思ってしまう。そこで王様は、その人を否定することもしないで、認めることもしないで帰ってしまったのです。

 仏教の立場でいうと、人の話は否定するか肯定するかと先を急ぐよりは、まずそのまま理解しておいたほうが良いのです。理解したということは、決して認めたという意味ではありません。

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

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