パーリ仏典を読む
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパーリ仏典を読む→沙門果経(4-5) 第二章 六師外道 (二)マッカリ・ゴーサーラの教え
沙門果経(4ー5)
第二章 六師外道の話
   (二)マッカリ・ゴーサーラの教え
A・スマナサーラ長老

マッカリ・ゴーサーラの教え-(1)

マッカリ師は因果関係を否定する

 アジャータサットゥ王はプーラナ・カッサパ師を訪ねて質問を出したのですが、師の「非業論」を一方的に拝聴して引き上げました。

 次に王様は、マッカリ・ゴーサーラ師を訪ねて同じ質問を出すのです。
王様が、「(前略)さまざまな技能の者があり、また他にもこれに類するさまざまな技能の者があります。かれらは、現世において、目に見える技術の報酬によって生活しています。かれらは、それによって、自分自身を安楽にし幸福にし、母と父を安楽にし幸福にし、子と妻を安楽にし幸福にし、友人・知己を安楽にし幸福にし、また沙門やバラモンに対しては、天界にふさわしい、安楽の果報のある、天界をもたらす、すぐれた布施を確立させております。

 尊師よ、ちょうどそのように、現世において、目に見える沙門の果報というものを示すことができましょうか」、という質問をするとマッカリ・ゴーサーラ師はいきなり、
 「大王よ、生けるものたちには、汚れの因もなければ縁もない。生けるものたちは、因もなく縁もなく汚れる。生けるものたちには、清浄の因もなければ縁もない。生けるものたちは、因もなく縁もなく清浄になる。」と話し始めます。

 これでは何のことかおわかりにならないと思います。「汚れの因もなければ縁もない」、という一節で、パーリ語で使っている言葉は、hetu(因)と、paccaya(縁)です。hetuとは「原因」、paccayaは「条件」という意味で今は概ね使っています。結局同義語で「原因」だけで理解しても構わないのですが、区別したければ、hetuは、因・原因、paccayaは、コンディション・条件と考えてください。

 例えば、ご飯の原因は米でも、米だけではご飯になりません。米に適量の水を入れて、決まった時間炊飯器で電気を通して熱を与えます。できたら混ぜて蒸らすとか、食べるまでいろいろな条件を加えます。いくらおいしいご飯を作っても、食べるときに自分の機嫌が悪い場合は、またおいしく感じないのです。ですからおいしいご飯と言うためには原因だけではなくて、いろいろな条件も揃わなければいけない。機嫌がいいこととご飯のおいしさには、全然因果関係はないのです。でも、まったく無関係だとも言えないのです。それで、原因と条件というふたつに分けて考えるようになっています。

 お釈迦さまの経典ではそんなにうるさく区別しているわけでなくて、まあ簡単に原因ですよという程度で理解してもかまいません。師が「生命に対して原因、条件というのはない。何もないのだ」と否定するのです。つまり、生命の因果関係を認めない。これは、突然現れるという意味の「偶然・accident」という言葉になります。

自分の力も他人の力も認めない

 マッカリ・ゴーサーラ師が否定するものがまだいくつかあります。

 「自己による行為はない。他者による行為はない。人による行為はない。力はない。精進はない。人の精力はない。人の努力はない」。

 これはまったく哲学らしく感じないのですが、本当は大変大事な思想のポイントなのです。パーリ語で書くと、atta-kâra(自己による行為)、para-kâra(他者による行為)、purisa-kâra(人による行為)、bala (力)、viriya(精進)、purisa-thâma(人の精力)、purisa-parakkama(人の努力)で、これらはセットなのです。

 アッタカーラというのは「自分で為すこと」。いわゆる自分で何かをする「自作」です。ですから自己の原因、自分のせいという意味になります。

 パラカーラ、プリサカーラというのは、いわゆる「他作」。プリサというのは人ということで、「他人」のことです。そうすると、「他作」、他人のせいになるのです。彼が自作も他作も否定するのです。

 例えば、「自分がよく頑張って勉強して偉くなりました」、と言うと、それは「自作」、自分のせいでしょう。「両親が厳しくてすごくうるさかったから、いやいや勉強して今は一応偉くなっています」、と言えば、「他作」なのです。つまり自分の力で努力することは、アッタカーラ。他人の力のおかげでものごとが変化するのは、パラカーラです。

ものが本来持つ力も認めない

 バラというのは力ですが、特別な「力」を意味します。自分か他人かどちらとも言えない、ものが本来持っている力のことを言っているのです。

 いまの例で考えると、自分で勉強して知識人になっても、親のせいで勉強して知識人になったとしても、どちらでも本人に能力は必要なのですね。本人に全く勉強する能力がないと、いくら頑張っても良い結果は出てこない。全く能力のない人が、いくらうるさい親に育てられても勉強ができて知識人になることはないのです。やっぱり自分の本来の力も必要なことはこの例でおわかりになるでしょう。ですからバラは自分か他人かどちらとも言えない、ものが本来持っている力のことを言うのです。

 もっと具体的な例を出します。包丁でニンジンを切るのは自分の手の力でしょう。でも手の力だけでなく、包丁がちゃんと切れるぐらいの力(バラ)も必要です。包丁の刃が曲がっていたら、ニンジンに当たっても切れません。でも、いくらカミソリのように切れる包丁であろうが、人が使わないかぎり何も切れません。そういうことで力もいろいろあると理解してください。 

 ですから包丁でキャベツを千切りにしましたという場合は、アッタカーラとバラカーラというふたつの力がちゃんと働いているのです。包丁の力と切る人の才能、能力。だから千切りにしても上手な人はきれいに切るし、下手な人はものすごく大きさがバラバラで指まで切ってしまう。そこは皆さまに常識でわかります。マッカリ・ゴーサーラ師は、そんなものはないのだと否定するのです。

三種類の精進も否定する

 Viriya, thâma, parakkamaというのはパーリ語やサンスクリット語ではニュアンスが違う三つの言葉なのですが、日本語になると「精進」「精力」「努力」というぐらいの意味になります。

 パーリ語のニュアンスを言うと、ヴィリヤというのは、精進すること、頑張ること。ターマというのは、ものすごく根気強く、諦めないで粘り強くやり続けることなのです。めったなことで諦めない。いったん始めたらとことんやり続ける根気をターマと言うのです。パラッカマというのも精進ですが、なかなかできるものではない、それでもやってみるという類の努力です。80歳のおじいさんがエベレストに登るような、普段できないものにチャレンジする力を、パラッカマというのです。常識的に一般の人ではちょっと無理かもしれませんが、それでもある人々は限界を乗り越えようとチャレンジする。その努力は、パラッカマ。精進、努力にもいろいろ種類はあるのです。

 マッカリ・ゴーサーラ師は、そういうものによってものごとは変化しない。そんなことは関係ないと否定するのです。

完全な他力本願

 そこで彼が言うのは、
「すべての生けるもの、すべての呼吸するもの、すべての存在物、すべての生命あるものは、自在力がなく、力がなく、精進がなく、ただ運命により、結合により、性質により変化し、六種の階級においてのみ、楽と苦を経験する」。

 Sabbe sattâ(すべての生けるもの)、sabbe pânâ(すべての呼吸するもの)、sabbe bhûtâ(すべての存在物)、sabbe jîvâ(すべての生命あるもの)は、avasâ(自分では何の力も持っていない)。Abalâ(力もない)。Aviriyâ(自分には努力はない)。

 これは完全たる《他力本願》のことを言っているのです。この世は自分の力ではどうにもならないのだと諦めて自らは何もしようとしない宗教もあるのです。私がここで使う《他力本願》という言葉は、ある特別な宗教を指すのでなく、一般的な意味で使っています。他人任せでもなりゆき任せでも神任せでも、自分以外の他の力をあてにするとき、日常的にこの言葉を使うでしょう。

 そこで彼が理由を言うのです。「運命 niyati」、「結合 sangati」、「性質 bhâva-parinatâ」という言葉が理由として挙げられます。正直なところ、この言葉は三語か四語かも、はっきりわからないのです。そしてインド哲学のどんなテキストを探してもなかなか明解な解釈はできないのです。辞書をひけば簡単な言葉かもしれませんが、このような哲学思想は、いろいろ文献を調べないと明確に分かったと言えないものなのです。印刷もない貴重な古文献『シャッダルシャナ』というテキストなどで微かにちょっと触れているようです。ここでは一応簡単に触れておきます。

すべては「定め」と「組み合わせ」で成り立つ

 ニヤティは「定め」という意味です。すべては定まり決まっていることをニヤティと言うのです。

 サンガティは「組み合わせ」という意味。合成している、セットになって出来上がっているということです。ものごとは決まっていて、もうどうすることもできないという意味で使う「運命」という言葉でもいいのです。だから定めとほとんど似ているのです。

 例えば我々の地球は24時間で一回転するでしょう。それはセットされて決まっているのですね。お正月でいっぱい遊びたいから一日30時間にしようと思っても、地球は遅く回ってくれません。軌道から外れて地球を遠くに置けば可能ですが、それもまた無理なのです。太陽があって、ある位置に地球があって、そこでセットされたら決定済みで、地球の将来はどうなるかということまでわかる。それはサンガティという意味なのです。子供が生まれると、遺伝的な組み合わせがあって、ある時期が来たら病気であろうが何であろうが、それは必ず出てきてしまう。そのように全部はじめから組み合わせになっているというのがサンガティです。

変化のパターンは変えられない

 次にバーヴァ・パリナター。バーヴァというのは「存在」のことで、パリナターというのは「展開すること」。ものごとは決まっている方向へ展開していく。存在するものは変化し続け、それには手を加えることはできませんと言うのです。

 わかりやすく言えば、人が生まれるときは赤ちゃんで生まれて、どんどん大きくなって、年をとって死んでいく。そこに手を加えることはできない。決まっているパターンで変化していくのです。
 だから彼が考えたのは、宇宙のことを見ても、生命のことを見ても、どう見ても決まっているパターンで動いているのではないか、そのパターンを変えられますかという問題です。季節ごとに植物は変化していきます。春になると花が咲く。秋になると実をつける。これは変えられません。「そんなことはない、人間は自然の摂理まで変えるすごいことをやっている」と反論するかもしれませんが、それは変えているわけではなくて、条件をちょっといじっているだけのことです。例えば今、クローン技術があるでしょう。神の世界にも手を出して、クローン羊やクローン牛を作って食卓にも入っていると威張ったりしますが、それは決まっている法則の中で操られているだけなのです。包丁でキャベツを千切りにすることと全く同じことで、そんなに大変なことではありません。人間には知識という能力があるからそれを使っているだけで、法則を変えることは不可能です。できるかできないかということは最初からも決まっている。

「アージーワカ」は宗教グループ

 このマッカリ師は、ほかの経典でもうひとつ別の哲学の言葉を入れているのです。それは、「issara-nimmâna-vâda」という哲学です。イッサラは「絶対的神」、ニッマーナは「創造した」、ワーダは「論」ですから、いわゆる、全ては絶対的神に創造されているという考え方です。絶対的な唯一の神を信じるという概念も彼の哲学に入っているのです。

 この宗教は、一人で一色の宗教を作るというよりも、似ていることを教えている人々でアージーワカという宗教グループをつくって活動していたのです。一緒にいろいろ哲学を語っている人々がいて、ある程度似ている。でも言っていることはちょっとずつ違います。そこは言葉の中で見えるのです。ニヤティとサンガティ、バーヴァ・パリナターというのはそれぞれの哲学者の考えであって、まったく同じではない。絶対的な全知全能の存在があって、全てはそこからものごとをつくっているという哲学者の考えも入っている。だから似ているようで似ていない。それをみんな一緒にまとめてアージーワカの教団にしていたのです。

 問題なのは、テキストを読んでもそれらの考えが渾然となって入っていて、なかなか学者にさえわからないのです。この文章の中にも、バーヴァ・パリナターを説いた人々の考え方も入っているし、ニヤティ哲学者の考え方も入っている。あまりにごちゃ混ぜで、判別するのが容易ではない。だから研究する人々もお手上げで、ほとんど研究していない。この経典ではニヤティ論者の言葉も、イッサラニッマーナ論者の言葉も一緒にまとめてしまいますから言葉の流れはあまりよくない。

現代にも根を張る運命論

 現代で考えてみると、私たちも運命論的な考え方は持っているのです。いろいろ頑張っても悪い結果になると、それは運命だと言ったりする。また、神のみぞ知る等の言葉は、日常でも軽々と使っています。その場合の神は、厳密に神を信仰しているかないかではなくて、『私にはどうすることもできません』という意味なのです。科学者まで「神様が作ったとしか思えないほど生命は不可思議だ」ということを言うのです。この神様には『自分には分かりえない、どうすることもできない』という意味が入ってくる。

 日本の仏教的な文化背景がある人々は、「業」という言葉を使ったりします。ある女性の方が「自分はすごく業が深いのですが、冥想すれば業がなくなりますか」と私に質問したのです。業が深いと思ったとたん、自分にはどうすることもできないという考え方が入っている。そのように、意識せずに日常生活で使っている言葉の中にも、この問題が隠れているのです。

大慈悲の絶対神はなぜ残酷か

 お釈迦さまは、厳密に論理だけ取って、この教え全部に反対するのです。特にほかの経典で「イッサラ ニッマーナ ワーダ」の宗教を、徹底的に否定します。これはものすごく残酷な考え方なのです。

 人類生命体が神に創造されたならば、我々は被創造物で神は偉い主人になります。だから作られたものはどうなるかということは向こうの(神の)責任であって、我々の責任ではない。その人の将来を知っているのも神です。神は全知全能であって、すべての能力がある。全知とは過去、現在、未来のすべてを知っているということです。だから神は何か創造するとき、自分が作るものがこれからどうなるかということはちゃんと知ったうえで作るのです。予測以外のことが起きたというならば、神に力がなかったのです。全知全能ではない。故に神ではないことになります。

 神は全知全能であることは、一神教では定説です。全知全能でないと人を創造することはできない。それなら被創造物の運命はすべて神が前もってしっかりと定めている。ということは、人間はまったく無能である。単なる操り人形であるということになるのです。

 だからといって全知全能の神を信仰しているキリスト教などは実践的にはそんな恐ろしいことは言わないかもしれません。でも論理的にデジタル的にその問題を見ると、神しか何も存在しないはずなのです。たとえばキリスト教のある宗派が、「神は絶対的で大慈悲ですから、すべてそのまま受け入れればいい。逆らってはいけません」と言って、何人か子供たちが治療も受けずに死んでしまった例があります。そのような残酷な結果を作り出す人々の考え方は、昔も今も何のことなく世の中にあり続けているのです。

人が自分の責任を放棄する哲学

 絶対唯一の神を信仰するならば、一切すべては他作、他力なのです。
伝染病で人が死んでいくのを苦労して助けても神の計らいだし、何もしないでみな死んでしまっても、神が決めていることだから仕方ない、ということになってしまう。これは、人が自分の責任を捨てるという哲学なのです。人が殺人者になっても大泥棒になっても、神の定めで自分の責任ではなくなるのです。そういうわけで、マッカリ師はこのアッタカーラ(自作)を否定するのです。でも神を信仰したら、殺人を犯したのは他作=神の力になるのです。ではなぜ他作を否定するかというと、ニヤティ(定め)がありますから、そこで神もいないのです。だから他作を否定する言葉も入れなくてはいけないのです。これでものすごく混乱するのです。ごちゃまぜですごく複雑なのですが明確に考えると解けると思います。

 仏教は、因縁論を語る教えです。一切のものごとは、因縁により生じて、因縁により変化して消えるのです。因縁論によって「定め(ニヤティ)」も、一神論も成り立たないのです。仏陀の教えは、因縁論を否定するゴーサーラの教えと正反対なのです。
 

マッカリ・ゴーサーラの教え-(2)

 マッカリ・ゴーサーラは運命論や絶対唯一神論など完全な他力本願を説く人々とアージーワカという宗教グループをつくって活動していました。因縁論を語る仏教では、運命論も絶対唯一神論も成り立ちません。そこで厳密にこの教えに論理で、反対するのです。

仏教は他力に反対する

 仏教の因縁論では、全知全能の神というものは単なる人間の妄想概念であるとして、まったく認めていないのです。それを完璧に理解するにはものすごく深い仏教の智慧が必要ですから、誰にでもできるわけではありません。でもお釈迦さまは簡単に、「道が二つに分かれていたら、左に曲がるか右に曲がるか自分で決めて行くでしょう。なぜ自分には意志がないと言うのですか」と、その考えの矛盾を指摘します。日常で我々はいつでも自分の意志を実際に使っています。だからそれを否定するなと言われるのです。

 貧しく生まれた人は自分の意志で、何とか良い方向にいこうと努力するでしょうし、豊かに生まれた人でも、安住して怠けてしまえば人生は暗転して不幸になってしまうでしょう。とにかく自分の意志が働いているのだから、いい加減なことを言うなと、お釈迦さまはこの教えをほかのところできれいに否定します。

 神仏は人の苦しみを和らげる

 この宗教になぜ他力の話が出てくるかというと、ゴーサーラ師も他の宗教家と同じように、人間の持つ苦しみを救えないかと考えたのです。

 神戸で地震が起きたときは、かなりの人々が阿弥陀様を信仰するようになったそうです。この災害で子供は死んでしまうし、家族も行方が知れなくなってしまった。生き残った人々は自分ではどうすることもできない、認めたくない結果になったのです。あまりの悲しみに自分の精神状態をコントロールできない。そこで、「阿弥陀様が迎えに来たのだから」という一言葉を聞くと、諦めがつくのです。その信仰の世界では、死んだ家族が美しい金のハスの花の上に生まれて、何の苦しみもないというふうなことを言うと安心して気持ちが軽くなります。そういうことで人間の苦しみを瞬時に直してあげることはできます。

 ヨーロッパで、苦労してやっとの思いで授かった子供が白血病で死んでしまった例があります。ひどい悲しみにそういう人々は徹底的に神様を信じるようになるのです。「私たちはこんなにも恵まれているのに、こんなにも子供のことを愛していて、抜群の豊かさで幸福に育てられるのに、なぜ子供が死んでしまうのか」と悔やんでしまう。でも神様を信仰すれば自分で悔しがる必要はない。「子供が早く天国に行くか、遅く行くかということは神様がお決めになるものだ。私たちが何かできるわけもない。」、といって責任放棄して楽になるのです。

 ですから絶対的な神様を信仰するならば、一日にして自分の家族がみんな死んでしまっても、生き残った人は正々堂々と生きていられるのです。それは自分の責任ではないのだから。寂しさとか、悲しみは乗り越えなくてはいけないけれど、神様の試練だと思えばことは簡単に運びます。ゴーサーラ師が考えていたのはそのような結果なのです。

殺戮の戦国時代

 当時のインドは、政治的に想像を絶する戦乱の時期でした。歴史に残っているだけでも十六の大国が群雄割拠して、お互いに征服しようとねらっていたのです。だから、殺戮は日常茶飯事でした。お釈迦さまが活躍される頃には、ほとんどの国々が壊れてしまい、南の方の国は一つ二つ残りましたが、大きくあったのはマガダ国とコーサラ国だけなのです。釈迦族の国は、目の前で壊されて一族の人々はみな殺しにされたのです。

 隣の国が軍隊をもって、自分の国を征圧して潰してしまう。それはもう人間に想像できる苦しみではないのです。刃向う人はみな残酷に殺されます。いったん征服されてしまうと、人々に独立、自立という考え方が生まれただけでも処刑される。だから征圧されてからは完全な折伏状態で、自分のプライドというものは全くない状態で生きていくことになるのです。

 考えてみて下さい。戦争に負けるのは、戦いたくない平和な人々でしょう。軍隊を持たない平和な国だったら必ず豊かなのです。その豊かな、平和な国を強力な軍隊を持つ貧しい国に残酷に潰される。強力な軍隊を持っている国は、人々が高い税金を払わなくてはいけないから、全体的に貧しい。昔ですから、軍隊を持つ国は平和で豊かな国を侵略して、当たり前のごとく人々から略奪する。宗教家や哲学者にはこの状態を見ていられないのです。だからお釈迦さまは美しい平和な世に生まれたわけではなくて、ものすごく最低の残酷な時代に生まれたのです。このように当時は戦っても殺される。戦わずにいても殺される。殺されるのは「運命」だと言ったほうが楽なのです。そこでゴーサーラ師の話はぴったり合うのです。時代を反映して、人間の苦しみにこれしか答えがないと、運命論、定め論にたどりつくのです。

バラモン教の締め付け

 人々の苦しみはそれだけではありません。王様たちにはバラモンの宗教がついていました。それは徹底して差別的な教えなのです。人は生まれると同時に両親の出身で、カーストが決まります。一生の仕事も決まってしまう。人々は人種差別、搾取で恐ろしく締め付けられていたのです。

 たとえば、人々はバラモンカーストの聖職者たちを貶しても批判してもいけません。バラモン教のテキストにはこう書いてあるのです。「ほかのカーストの人を殺したバラモン人に対して、殺されたカーストの者が怒るならば、その者は地獄に落ちる。人殺しであろうともバラモン人であるならば、何も返してはならない」と徹底して自分の立場を守ろうとしていた。また、宗教的な儀式、儀礼はバラモン人にしかできません。「もしヴェーダ聖典を唱えていて、シュードラカースト(奴隷階級)の人が聞いたなら、その耳にロウを注いで聞こえないようにしなさい」とあるのです。実際にやったかどうかは別の話ですが、それぐらい差別的な話が聖典たる本に書いてある。

 世界的に素晴らしい作品だというバガヴァットギーターというヒンドゥー教の聖典も全部「定め論」なのです。何ひとつ道徳はない。「神に定められているのだから、神に言われたとおりにやりなさい」と道徳を否定する。自分が人を殺すような王家に生まれたら、「それはあなたが人を殺すのではなくて、神様が創った世界のあなたの役目です」と殺人を肯定する。人を殺すのも、自分を捨ててしまって神のためのカルマヨーガ(修行)をやればいいのだと言う。カルマというのは行為ですが、行為自体が修行である。自己という概念は何もないのだという気持ちでやれば正しいと言う。日本でもバガヴァットギーターを紹介したテキストがありますが、専門家でもこれは道徳を否定していることに気がつかないのです。

仏教から見た定め論

 仏教は厳密にいろいろな面からものを見ます。自我がないということは別に悪いことではないのです。でも私に自我がないから、あなたを殺してやるぞというのはどういうことですか。仏教は「いかなる理由があっても他人を殺すな、バラモン人が怒ったから人を殺してもいいなど冗談ではない。あなたが王様だからといって何をしてもいいわけではない」と言う。どんな理由があっても殺す権利はないという立場です。その立場をとったのは仏教とジャイナ教だけです。

絶対唯一神信仰は道徳を否定する

 今も世界で、神の名のもとに人を殺したりするでしょう。でも自分たちが神を信仰しているから豊かで幸せかというと、結果は逆なのです。「偉大なる神様を信仰していれば必ず勝ちます」、という迷信だけはしっかりありますが、結局戦争で両方ともやられることになる。お釈迦さまは「戦争をすれば、どちらも悲惨ですよ。ただそれだけですから、正義の味方などというくだらない概念で人を殺してはいけない」と言われるのです。

 でも、いわゆる絶対神の宗教、哲学はいまだに人間の中にうろうろと生きているのです。ものすごく危険なのです。もし人間が忠実に、絶対的な神を信仰すると、これほど世の中で恐ろしい危険な考え方はないのです。それですべての道徳的生き方は否定されてしまいますから。誰も厳密には信仰していないので我々もなんとか平和で生きていられるのです。

輪廻には回数券がある

 このバラモン教のおかげでインドの社会で、かなり人々が苦しんでいたのです。例えば、善い業を積みたければ、バラモン人に多額のお布施をしなくてはいけない。貧しい人はバラモン人に葬式を頼まないと、死んでも天国にいけないのです。そこでバラモン人の機嫌をとって、彼らが要求するものは全部あげなくてはいけない。人を搾取ことはものすごく残酷なレベルで起きていたのです。だからこのゴーサーラ師が革命的なことを言って、苦しむ人々に精神的な安らぎをあげようとする。

 お読みになれると思いますが、輪廻に回数があると言います。人は決まった回数は王様になる。ある回数はバラモン人になる。あるいは宗教家に、あるいは奴隷カーストに生まれる。決まっているから、今がどうあれ、苦しむことはないのだ、と人を安心させる。この宗教で輪廻は否定してないのです。例えば今いわゆる奴隷カーストで生まれて、何で私は奴隷で生まれたのかと悔しがらなくてもいい。王様でも自分の回数券が終わったら奴隷になるのだ、と一切の生命に平等に回数券を与えたのです。そこで犬になる回数も猫になる回数もあって、まあ楽にいればいいのです。

 ですから彼らが人間の苦しみ、人間が味わっているこの惨めな感じ、悔しい気持ちを何とかしようと思って、こんなとんでもないことを言ってしまったのです。お釈迦さまは、これで問題は解決するわけではない、間違っていると言って、ほかの経典できれいに否定しています。

 そこで読みにくい文章かもしれませんが、回数券のところは皆さまにわかると思います。

「業には五百種があり、…(中略)…。六十二種の中間劫があり、六種の階級があり、八種の人地があり、四千九百種の職業、四千九百種の遊行者、四千九百種のナーガ蛇の住処、二千種の感覚器官、三千種の地獄、三十六種の塵界がある。七種の意識のある胎、七種の意識のない胎、七種の節のある胎、七種の神、七種の人間、七種の鬼、七種の湖、七種の結び目…(中略)…そして八百四十万の大却があり、そこで愚者も賢者も流転し輪廻したあと、苦の終わりを作ることになる。そこには、『私は、この戒によって、あるいは務めによって、あるいは苦行によって、あるいは梵行によって、まだ熟しきっていない業を成熟させよう。あるいはすでに熟しきった業にはくり返し触れ、滅ぼしてしまおう』とかいうことがない。まったくそのようなことはない。楽と苦は枡で量られたようなものであり、輪廻は限定されたものであって、そこには増減もなく、盛衰もない。愚者も賢者も、丁度糸玉が投げられるとほぐれて解けてしまうように、流転し輪廻したあと、苦の終わりを作ることになる」。

 これらの数字は当時であったいろいろの信仰でしょう。彼はとにかくありったけのものをまとめてしまう。ある宗教で、生命には階級が七つあると言ったら、これは認める。時間的に何千万劫あると言ったら、それも認める。だから全部にみな回数券があって、回数券が終わったらそこで終わるのだという。

 不思議なことに、我々の細胞にも回数券があるのですね。細胞が何回分裂できるかということはDNAの中で決まっている。それが終わったら、人は死んでしまいます。現代では、移植という皮膚や血管などを養殖して埋め込んだりする技術があるでしょう。特にヤケドなどしたら皮膚を移植しなくてはいけないのです。アメリカでは子供が生まれるとき、男性の場合は割礼で切った、増える回数券をいっぱい持っている皮膚を全部取って培養体で育てる。そこで移植したら自分の皮膚になる。日本では本人の皮膚を取って、増えるように違う技術を使っています。今の医学はそれを利用して、皮膚も血管も神経もつなげたり、移植したりする。しかし、細胞分裂にも回数は決まっているから、移植技術を駆使しても、人は永遠に生きることはできないのです。

定め論で苦しみは解決できない

 この人が最後に言うのは、「愚か者も賢者も自分の業の回数券を使い切ったら、みんな輪廻を終わるのだ。誰も苦労するな。最終的には解脱が得られるのだから気にしなくてもいい」と。今は愚か者でも、あるいはとんでもない殺人者でも、気にしなくてもいい。今、その回数券を使っているだけで、それが終わったらまた違う方に行って、最終的には解脱が得られるのだと安心させるのです。

 彼の例えは、凧を上げるとき使う糸巻なのです。糸巻を投げると転がっていって、糸が終わったところで止まる。その様にみんなに回数券があるというのです。これでいくらか人間の苦しみを和らげてあげましょうと思ったかもしれません。

 でも論理的に考えてしまうと、例えば地震が起きて、孫と子が死んで、おばあちゃんだけが残ったとする。そのおばあちゃんに、「阿弥陀様のお計らいだから苦しまないで感謝しましょう。有り難がりなさい」と言っても、バカバカしいのです。なぜ私を先に連れていかないかと、訊きたくもなるでしょう。こんな風にほんのちょっと論理的に、ちょっと意地悪に考えると納得いかないことになります。でも、なんでも受け身で見ると、その分は楽なのです。

 つまり、受け身になるか、論理的に考える人間になるか、それぐらいのことで宗教は成立してしまうのですね。言うことを何でもそのまま鵜呑みにする間抜けな人間だったら、神様は成立する。言うことは聞かない、わがままでいつでも何かいろいろ質問したり考えたりするなら、成立しなくなる。この宗教をまとめて言えば、あまり根拠が強い教えではないのです。ただひとつの意見だけなのです。

 そこでこの王様が、「この宗教には何か徳がありますか」と聞いたら、この人の立場から見れば答えられないでしょう。宗教に徳があるどころか、農業をやっても徳がないとこの人は言う。王様がいくら偉そうにしていても、回数券が終わったらお仕舞だという立場でしょう。彼の答えは、徳があるかないかは別に関係ない。彼の神秘的なレベルから考えると、みんな回数券を持っているのだからその分その分の仕事をしているだけと言うわけです。だからおそらくゴーサーラ師が答えたつもりなのです。でも王様はそれで納得いかないことになりました。

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

次の講義へ→
HOMEパーリ仏典を読む→沙門果経(4-5) 第二章 六師外道 (二)マッカリ・ゴーサーラの教え
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.