パーリ仏典を読む
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパーリ仏典を読む→沙門果経(6) 第二章 六師外道 (三)アジタ・ケーサカンバラの教え
沙門果経(6)
第二章 六師外道の話
  (三)アジタ・ケーサカンバラの教え
A・スマナサーラ長老

〔前号までの話〕 マガダ国のアジャータサットゥ王は、宗教家のプーラナ・カッサパ(非業論者)とマッカリ・ゴーサーラ(運命論者)を訪れて、「出家をすることにどんな意味があるのか」と、沙門の果報を尋ねました。しかし、カッサパ師もゴーサーラ師も自説を述べるだけで王様の疑問に答えようとしません。二人の教えに満足いかない王様は別の宗教家を訪ねます。今度の人はAjita Kesa-kambalaという名の厳密な唯物論者です。

アジタ・ケーサカンバラの教え

生命は四つの要素と感覚器官で成り立つという唯物論

 当時のインドには、唯物論は七種類ありました。この経典にはアジタ・ケーサカンバラとパクダ・カッチャーヤナの哲学が入っています。現代の我々が知っている唯物論はたったひとつ、マルクス氏が考えた唯物論だけですが、この人はもうちょっとレベルの高い唯物論を唱えるのです。

 ケーサカンバラ師が説く唯物論はこうです。生命は地、水、火、風という四つの物質元素と、感覚器官でできている。感覚器官というのは、見る・聞く・嗅ぐ、そういうふうな働きをする、いわゆる心です。この五つで体ができている。人が死んでしまえば、地は地の元素に戻っていく。水は水の元素に戻っていく。風は風の元素に還る。火は火の元素に戻る。死ねば、見る・聞く働きなど何もないから、感覚器官もただ消えてしまう。それから遺体も火葬場まで見えるだけです。そこで灰色の骨は残ります、と言うのです。

魂はあるが不滅ではない

 ここで彼は「絶対的な魂」を否定します。魂の存在は唯物論者も一応認めていたのです。でも「魂は不滅である」ということは否定するのです。魂はあるが不滅ではない、死んでしまうと残らない。つまり、人は良い行為をしたり悪い行為をしたりしても、行為の結果を記録する永遠な魂がないのです。壊れてなくなりますから、行為には意味がないのだと言うのです。ですから彼の説はわかりやすいと思います。冒頭の部分を読んでみましょう。

「大王よ、布施されるものはない。供犠されるものはない。献供されるものはない。善行、悪行の業の果異熟はない。この世はない。あの世はない。母はいない。父はいない。化生の生けるものたちはいない。この世とあの世を自らよく知り、目のあたり見て説く正しく進み、正しく実践している沙門、バラモンは世にいない。この人間は、四大要素から成り、死ねば、地は地界に入り行き、水は水界に入り行き、火は火界に入り行き、風は風界に入り行き、もろもろの感官は虚空に転移する。棺を第五とする人々は死者を火葬場まで運んで行く。諸句が知られる。もろもろの骨は鳩色になる。供物は灰に帰す。この布施なるものは愚者の定めたところである。誰であれ、有説を唱えれば、それはその者たちの空言であり、戯れ言である。愚者も賢者も、身体が滅ぶと、断滅し、滅亡し、死後には存在しない」 

唯物論は宗教も文化も否定する

 最初に出てくる「布施されるものはない」というところを少し説明します。この日本語の「布施」は、パーリ語でdinnaといって、普通に行なわれる一般的な布施です。人は人にものを与える。インドで宗教的な供養儀式を司っていたのはバラモン階級でしたから、人々はみなバラモン人に布施をしたのです。師は N'atthi dinna お布施をしてもその結果はない、と言うのです。「供犠」yittha というのは、お供えをする対象のところに供え物を持って行って、鈴や太鼓を鳴らして踊りを踊り、賛美歌を歌って供養する宗教的な行為です。それの結果はないと言います。「献供」hutaは、もっと儀式的に決まりとしてやらなくてはいけないお布施です。インドでは、例えば父親が亡くなったら、決まっている日にちで儀式をやらなくてはいけないのです。日本の仏教だったら、初七日や四十九日というのがそれにあたります。またお盆にはほとんどの家で先祖供養をしますね。その決まっている日で行なう布施儀式を huta と云います。

 体が壊れたら魂も無くなりますから、結果を期待して布施をしても供養をしても意味がない、結果がない。死んだら終わりですよという話なのです。

 それから「この世はない、あの世はない」ということも同じ意味です。この世はあるということは、生命の我々が生きているこの世を認めることです。彼は我々が生きているこの世も、死んでから行く世も認めないのです。

 次の「母はない、父はない」ということはどういうことでしょうか。それも唯物論的に言っているのです。人間には母と父に対する特別の感情があって、これはどんな文化にもあります。例えば中国には、道教や他のいろいろ宗教があるでしょう。殊更のわけは言いませんが、ものすごく親戚、両親を徹底的に大事にしなくてはいけないというふうに教えているのです。インドにしても同じで、両親は自分の命を与えてくれたとか適当なことを言って、すごく大事にするのです。でも唯物論的にみれば、親といえども格別の価値があるわけではないとケーサカンバラ師は言うのです。

 今現在、父親を知らない子供は試験管でつくるでしょう。アメリカだったら精子バンクがありまして、子供を欲しい女の人は自分の好きな条件を言って、精子をひとつもらって自分の体に置いてもらうだけのことで、生まれた子は何も知りません。実際のバイオファーザーはいても、自分が精子を提供しただけで、これは誰がどのように使うかということはその人も知りません。さっぱり関係もない。単なる物質的な働きだけ。ケーサカンバラ師もそういう目で見ているのです。人といってもただの物質ですよ、人の体もお墓までで、燃やしてしまったら、灰と骨だけは残ります、と言うのです。このような唯物論を語ることで、彼はバラモン人の宗教から人間を解放してしまうのです。苦しめられていたんだから、楽にしなさいと。

呪術宗教は怖れで人を縛る

 彼は必ず宗教家を否定しなくてはいけないのです。インドでは、「私は超能力者で、自分の過去はいくらでも見られる。天眼があるから、あなたの運命は全部見られるんだ」という呪術師がいくらでもいたのです。そうすると、みんな怖くなっちゃうんですね。インドの物語には呪術師に脅された話がものすごくたくさんあります。必ずというほど、誰かがちょっとした間違いを犯したことで、ある仙人が怒って呪いをかける。その呪いのおかげで大変に苦しむというふうなストーリーなのです。それでいまだにインドの人々は、(いな)、インドに限らずインド文化の人々は誰でも、精神的なくだらないことをやっている人々は何か恐ろしい力があるんだと信仰しているのです。そこでインチキで何かやってもみんな怖がるのです。

 スリランカでも(まじな)い師や祈祷師は、ものすごく繁盛しています。家を造るときは誰でもその人に祝福してもらう。あるいはいろいろお守りを厳密につけてもらったりするのです。

 占いにも文化がありまして、いろんなテキストを読んで計算して占うから、専門の知識が要るのです。私はよく効くと評判の祈祷師を知っているのですが、彼はそんな深い勉強をしないで平気で祈祷するのです。ブラックマジック(呪術)の場合は、火葬場の灰を持ってきて、相手の家の前に呪文を唱えて撒く。ほんのちょっとでもその上を踏んだら、その人は必ず呪いを掛けられます。灰が火葬場から取ってきたものではなく手近な台所の灰でも、その人はムチャクチャその日から不幸になってしまう。 

 祈祷師は人の精神的な弱みを知って、それを利用するのです。それで人はいとも簡単に怯えてしまう。脅すことができてしまう。これは大臣であろうが偉い政治家であろうが関係ありません。玄関の前にほんのちょっと灰を置いてみてください。二、三日たつとその人は病気になって倒れるか、あるいはありったけの有名祈祷師を頼んで、除霊の祈祷をしてもらうことになるのです。祈祷師本人に訊けば、部屋にあった糸を3メートルぐらい編んで、そこに少し灰をかけて帰るだけのことなのです。これも仏教の国の話です。仏教はこれほど厳密に論理的に科学的なことを説いているのに。だから文化の恐ろしさというのはものすごく根深い。それによって人間の苦しみは際限がないのです。

スリランカの除霊儀式

 私は小さいときはすごく研究熱心でしたから、もし自分の知っている誰かがお化けに脅されて病気になっていると聞いたら、ワクワクしたものです。除霊儀式の太鼓の音などが聞こえると、もう居ても立ってもいられずに、本当かないか調べに行く。他人の家に泊りがけで行くものだから、母親に怒られました。親戚関係も友達関係も持たない家に行って子供がごはんを食べたら、親にとってはちょっと困るのですね。それでも行って見ていると、除霊といっても何のこともない。ただ暗示をかけるだけなのです。

 例えば女性に幽霊が憑いたとします。まず太鼓をたたいて呪文をとなえ始めると、女性に幽霊が乗り移って踊りだす。それから祈祷師が幽霊にいろいろ訊くのです。「お前は誰だ。何のためにこの人の体に移っているのか」と。そこで幽霊が言うには、「私はこの人の血を飲みたい。血を飲んだら出て行くぞ」とセリフも決まっている。そこで祈祷師が、「お前なんぞに人の血をやるわけにはいかん」と怒るのですね。すると祈祷師に怒られて幽霊が一歩下がるんです。そんな力があったら、祈祷師がお前の言うことは聞かないんだと言えば、それだけで終わっちゃいますけど、そうは言わずに祈祷師がまた脅すのです。「そんなことをしてみろ、お前を海の向こうに追っ払ってくれる」。それで幽霊が、それだけは勘弁してくれという感じで怖がるのです。そして「その代わりに生贄がほしい」と言うのです。

 祈祷師が生贄に何を持ってくるかというと、かわいそうに、鶏です。しかし祈祷師たちもみんな仏教徒でしょう。キリスト教徒やイスラム教徒なら動物を殺して肉を売りますが、仏教徒はさすがに自分では鶏を殺さないのです。鶏を持って、いろんな踊りを踊って、幽霊のために作ったお堂にお供えをする。鶏のとさかに傷をつけて血を絞り、これを七杯飲みたがっている幽霊のためにと、七枚の葉っぱに血をチョンチョンと入れて、呪文を唱えて万事解決となるのです。それで幽霊は出ていく、本人は治るという筋書きでした。我々は翌朝、お菓子とか食べ物をもらって、食べて帰ったものです。

 そういう儀式儀礼を見ても、いけにえもあげないで結局やりとりで幽霊をだますというインチキははっきりわかるでしょう。これは子供の頃見たものだから、今スリランカに行っても、消えてしまってほとんど見ることはないのです。

土着宗教の功罪

 これは宗教と言えば宗教なのです。土着宗教です。ですから宗教の世界で人はかなり束縛されるということはありますし、まあ逆に、それはある側面で見れば、人はそういう信仰で大変な病気になったら、また治してくれるのもその宗教なんですね。だからこれはもうやり切れないのです。信仰したらそうやって怖い。夜歩きたくない。いっぱいお守りを持たなくちゃいけないし。

 中国文化もそうでしょうし、タイ文化もそうでしょう。こちらだったらお札ですが、向こうはお札だけでは足りません。特別な葉っぱにいろいろ模様を描いて呪文を書いて、百八回、あるいは一千回ぐらい呪文を唱えて唱えてお札を作るから、かなりの仕事です。それをちゃんと身につけていないと、お化けか鬼が乗り移ってしまって危ないのです。それでほんのちょっと魔よけに失敗して乗り移られると、またその宗教が祈祷してその人を解放する。このような宗教の出所は結局すべてインド文化なのです。

 ですからインド文化では、こういう悪いことをしたら罰が当たる、宗教家に逆らったらとんでもない呪いが繋りますよ、母に逆らったらとんでもない罰が当たりますよと言ったりして、宗教の世界で人はかなり束縛されます。そこでこのケーサカンバラ師が、「地、水、火、風だけで何もないのだ」と堂々と言ったところで楽になる。だから彼の教えの中で最初はこの儀式のことを否定して、それからなぜお布施も供犠も供養も意味がないか論理を言うのです。なぜなら地、水、火、風だからと。

 これはアジタさんが、当時インドにあった人間の並々ならぬ苦しみの問題に何か解決方法がないかと思って教えた教えなのです。王様の質問にはちょっと合わなかったので、黙って帰ることになってしまいました。
 (次号に続く)

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

次の講義へ→
HOMEパーリ仏典を読む→沙門果経(6) 第二章 六師外道 (三)アジタ・ケーサカンバラの教え
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.