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沙門果経(7)
第二章 六師外道の話
  (四)パクダ・カッチャーヤナの教え
A・スマナサーラ長老

〔前号までの話〕 マガダ国のアジャータサットゥ王はアジタ・ケーサカンバラ師を訪れて、「出家をすることでどんな意味があるのか」と、沙門の果報を尋ねました。しかしケーサカンバラ師は、人間は地・水・火・風の四つの要素と感覚器官からできており、死ねばすべて無になるという唯物論の立場で自説を述べるだけで王様の疑問に答えようとしません。納得のいかない王様は次の宗教家を訪ねます。次に出てくる人は、Pakudha Kaccâyanaという宗教哲学者です。

パクダ・カッチャーヤナの教え

生命は絶対的な七つの元素で構成されている

 パクダ・カッチャーヤナは唯物論を説くのですが、前回登場したケーサカンバラ師の唯物論とは、ほんのちょっと違うのです。彼は絶対的な七つの元素を認めるのです。七つを、パーリ語と日本語で書くと、
 (一)Pathavî=地。(ニ)Âpo=水。(三)Tejo=火。(四)Vâyo=風。
 (五)Sukha=楽、体で感じる楽の感情。(六)Dukkha=苦、苦しみ。(七)Jîva=命、あるいは生命。
 これら地・水・火・風・楽・苦・命、この七つの元素です。
 近代の化学では、元素はいくつかあって、それは絶対的存在だと言っていたでしょう。例えば水素だったら、他の元素と組み合わせても水素の原子のままで何も変化できません。だから、atom という言葉を使っていたのですね。元素は英語で element と言うのですが、atom というのは、もうそれ以上は壊れないという原子です。時代がたつとその考え方はまたどんどん崩れていってしまいましたが。パクダ・カッチャーヤナも近代化学の原子論のような考えを持っていたのです。

絶対的だから元素同士は影響しあわない

 カッチャーヤナ師は、存在には絶対的な七つのものがある。その七つは一緒にはいるけれど、何の変化も起こらないと言うのです。これは生命の体のことだから、地、水、火、風という四つの物質的元素と、苦しみ、楽しみという感覚がふたつ、それから命、生きているという働き。その七つは別々で、ただ一緒にいるだけでどうすることもできません。絶対的ですよと言うのです。

 この「絶対的」という言葉は延々と言っているのです。七つの元素はそれぞれがお互いに何の影響も与えない。他の存在があることで何の変化も起こりませんと。だから地の元素は地の元素で、風の元素とは何の関係もない、他の元素ともまったく関わりがないと、そんな風に断言していたのです。

 「大王よ、これら七の身は、作られたものではなく、作らせられたものではなく、創造されたものではなく、創造させられたものではなく、生み出すことはなく、山頂のように不動であり、石柱のように直立している。それらは、動揺することがなく、変化することがなく、互いに害しあうことがなく、互いに楽のためにも、苦のためにも、楽・苦のためにもなりえない。その七とは何か。地の身、水の身、火の身、風の身、楽、苦、第七として霊魂である。これら七の身は、作られたものではなく、作らせられたものではなく、・・(中略)・・楽・苦のためにもなりえない。そこには、殺害する者も、殺害させる者も、聞く者も、聞かせる者も、知る者も、知らせる者もいない。たとえ鋭い剣で頭を断ち切っても、誰も誰の生命を奪うことにならない。ただ七の身の間にある裂け目に、剣が落ちるに過ぎない」

 この教えで人を殺すと、例えば刀を持って人を殺すとします。刀というのは地水火風の物質的元素だけでできているのですね。そこで殺される人も地水火風と、楽・苦・命、この七つの元素でできているのです。殺せません、何も。ただそこで穴を開けるだけです。穴を開けるということは地水火風の間があるから、そこに刀が入るだけで魂というものは何の影響も受けません。地水火風も何の影響も受けません。彼が言ったのは絶対的な実体論です。

 例えば我々の科学的な視点から見て、地球のゴミを減らせますか。全く我々に1グラムもどうすることもできません。まあ今は宇宙船に乗せて宇宙に捨てることはできるかもしれませんが、それでもゴミを減らしたことにはなりません。よく考えると、我々の地球で新しいものを作ることは何ひとつもできませんし、存在するものを一つでも消すことはできません。ただいろいろカラクリをやっているだけで。

 それでも、ずうっと太陽の光が当たっていると、地球の質量が増えるのではないかと思えます。なぜならば光は重いでしょう。太陽の光もかなり重い。それで太陽が当たるといっぱい植物が出てくる。もし、トラックごとにそれを切って切って運ぶと、一年以内で何トンもになるでしょう。あれは、土が減るわけでもない。木が大きくなったということは、当然、水やらミネラルやら吸い取りましたが、それだけでは育ちません。いっぱい太陽エネルギーを吸収しているのですね。ですから太陽から降ってくる大量の光の質量は地球上に増えているのではないかと思えます。でもその分、太陽のエネルギーは減っているのです。

 だから宇宙的規模で見ると、何ひとつも増えることもないし、減ることもない。お互いに何の影響も与えないという考え方なのです。だからこの地水火風の論はインドではかなり考えてあったのです。ヨーロッパで元素の概念が発展する以前、インドでは物質元素は四つしかないと言っていた。

 特に仏教もその考えを受けているのです。地というのは質量をつくるエネルギー、 水というのはお互いに引き合うエネルギー、火というのは回転させる、変化させる熱エネルギー。風というのは引き離すエネルギー。これは、物質は四つしかないというふうな感じで考えていたいわゆる素粒子論なのです。人の体が腐ったりするかもしれませんが、素粒子だからそれ自体は変化しないという考え方です。

絶対的実体論で人は楽になる?

 存在を地水火風で考えるインドの唯物論は結構進んでいたのです。生命の場合は、それにパクダ・カッチャーヤナが苦と楽と魂を入れたのです。魂は永遠だから誰の影響も受けません。人を殺したからといってあなたには何もできません、と絶対的実体論を語る。このような話を聞くと、人は楽な気分になるのです。

 ですから道徳的な宗教に束縛されて大変苦しい思いをして生きていた人々にとっては、そういう教えはすごく気持ちがいい。殺されても、相手には自分に何をすることもできません。また自分が殺しても後悔したり悔しがったり悩んだりする必要もない。ですから本当に都合のよい教えなのです。インドでは殺す側、殺される側、両方いたのだから、どちらにでも便利な教えになってしまったのですね。その分、哲学的にも結構説明しなくてはいけないことはいっぱいありました。

 これでは王様が、「あなたは修行して何か徳があるのですか」、と質問しても答えることはできない。なぜならば、彼が言っているのはそんな話ではなく、もっと厳しい話ですから。質問は置いておいて、真理はこういうことだ、とパクダさんは教えただろうと思います。ただ王様があまり機嫌がよくなかっただけです。

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

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