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HOMEパーリ仏典を読む→沙門果経(8-9) 第二章 六師外道 (五)ニガンタ・ナータプッタの教え
沙門果経(8ー9)
第二章 六師外道の話
  (五)ニガンタ・ナータプッタの教え
A・スマナサーラ長老

ニガンタ・ナータプッタの教え
徹底した道徳肯定論

 王様は次に、ジャイナ教の開祖Nigantha Nâta puttaを訪ねます。ナータプッタ師はマハーヴィーラという名称でも知られるかなり立派な人物です。ジャイナはJainと英語にもなっていて、今もインドでしっかり生き続けている宗教です。今までの四人の教えは哲学としてあちこちに隠れて残っていますが、宗教としては存在していません。仏教もイスラム教によって滅びてしまい、インドではジャイナ教だけが生き残ったのです。
 ジャイナ教がなぜ生き残ったかというと、その教えでは道徳を否定していないのです。今までの四人は人に何か救いをあげようと思って、道徳を全部きれいさっぱり捨ててしまいました。しかしナータプッタ師は徹底的に道徳を認めるのです。どれほど徹底的かというと、お釈迦さまが「あまりにも極端だ」と、この道徳論を批判したくらいです。やり過ぎて、かえって非論理的なのです。

 例えばジャイナ教では徹底して殺生はしません。うかつに呼吸して空気中の微生物が死んでしまったら、それは殺生になるのです。そのためにジャイナ教の人々は、口と鼻をちょっとした布で被って、息をするときに生命が体に入らないよう護るのです。またジャイナ教の出家者は水を飲みません。なぜなら、水には生命がいて、飲んでしまったら殺生することになるのです。また座るときには人のものには座らない。クジャクの長い羽根の束を持っていて、自分が持ち運ぶ板をそれで拭いて座ります。板と埃についた生命を殺さないようにするのです。ジャイナ教の出家者は歯を磨くと思いますか? 殺生になりますから歯を磨きません。顔も洗いません。体も洗いません。これらはずいぶん極端ではないですか。お釈迦さまがやり過ぎだと批判したのはこのポイントです。

出家者と在家の役割

 やり過ぎると修行するにも支障をきたします。そこでナータプッタ師は、いろいろシステムを決めたのです。厳密に修行して今世で悟りたいと思っている出家の人々と、ほどほどに修行して後で悟るという在家の信者さんとを分けているのです。在家の人には一部は殺生を認める。いわゆる水を飲んだり沸かしたりするのはいい。農業してもいい。ごはんをつくってもいい。わざわざ生きものを殺してはだめですが、それくらいは認めます。 

 出家したら水を飲んでもごはんをつくってもいけない。それでは死んでしまいますから、信者さんがお湯を沸かしたものを手で受けて飲む。出家者の手は信者さんが拭いて、食べものを受けたらそのまま食べる。手で受けるのは6回とか7回とか修行者が自分で決める。手に受けたご飯が決めた回数になったら止めてそれ以上は食べません。だから体に必要な栄養が充分入ることもないので結構厳しいのです。

 なぜヒンドゥー教で今、肉、魚を食べない宗派が出てきたかというと、殺生を禁じた仏教とジャイナ教の影響なのです。肉、魚を食べないヒンドゥー教徒は現在でも大勢います。

魂の汚れは苦行で落とす

 ジャイナ教は徹底した不殺生のほかに、苦行を勧めました。我々がこのような体を持って生まれたのは過去世で悪いことをしたからだとナータプッタ師は言います。「魂は永遠であって全知全能だ。過去で悪いことをしてきた我々の魂の中に汚れがいっぱい入っている。だからいま苦行をしてそれを除かなくてはいけない」と説くのです。ジャイナ教では、汚れは物質なのです。その物質をカルマと言うのです。

 分かりやすく言うと、我々の魂というものを、ひとつの水晶のような無色で透明なものに譬える。透明なら上も下も夜も昼も全部映るはずなのです。でも魂には汚れが外にも中にもいっぱい溜まっているので、何も映りません。カルマに覆われて魂が全知全能でない。その汚れ、つまりカルマは苦行して無くさなくてはいけない、ということなのです。

 このように彼が苦行の勧めを説いたのです。純粋に苦行を推薦したのはジャイナ教だけでしたし、人間は洋の東西を問わず苦行は好きでしょう。ジャイナ教はそれで生き続けたのです。

 またジャイナ教の出家者はそれなりに苦労して修行しているから欲はない。インチキはない。この宗教で贅沢しようとは全く考えない。ですからやることはバカバカしいけれど、気持ちは正直でした。お釈迦さまがナータプッタ師と、彼の教えをいろいろ批判した箇所があります。その場合もすべてを否定したのではなく、一部のポイントを取って非難したのです。

 ある熱心なジャイナ教の信者さんがお釈迦さまの話を聴いて仏教徒になったのです。その人は「こんなに素晴らしい教えがあるのにナータプッタが私をだましていた。彼から『お釈迦さまに顔を合わせるな。あいつは呪い師だ、顔を見たらあなたはとんでもない魔法にかかる』と言われていたのです」と、お釈迦さまに言いつけたのですね。すると、お釈迦さまは「でも、あなたは有名な人でこれまでナータプッタさんをずうっと支えてきたのです。だから仏教徒になったから、もう出ていけということではなくて、その人々をこれからも面倒みてあげてください」と、ナータプッタたちをかばうのです。お釈迦さまにそこまで言われるならと、彼はジャイナ教の人々にお布施することはやめなかったけれど、でも厳密に仏教徒になりました。お釈迦さまは彼らがバカがつくほど正直なグループだからすごく心配していたのですね。

 ナータプッタ師が王様に説いた説を日本語訳で見てみましょう。
「大王よ、この世において、ニガンタは、四種の部分からなる防護によって守られている。大王よ、ニガンタはどのように四種の部分からなる防護によって守られているのか。大王よ、この世において、ニガンタは、あらゆる水を防いでいる。また、あらゆる水によって結ばれている。また、あらゆる水によって除いている。また、あらゆる水によって触れている。…(略)…このように四種の部分からなる防護によって守られているから、大王よ、このニガンタは、自己の完成者、自己の制御者、自己の確立者と称される」

 こちらにあるのはどのように苦行すればいいかという、四種類のやり方が載っているのです。
 一応苦行の方法をちょっとだけ説明します。ひとつの苦行は、ある行為は全くしないでやめる。例えば断食です。食べるということは物質を受け入れること、カルマをいただくことなのです。ですから断食のように全くやめる。殺生を全くやめる。嘘を絶対言わないとか、苦行になるまでやる。次の苦行は、一日に一回しか食事を摂らないとか、財産も服も持たないで裸で行をやるとか、生き方と一緒に実践する修行方法。自分で受けて一生守っていくものだから結構厳しいのです。次の苦行は徹底的にやる。例えば自分の座っている前後左右に大きな四つの火を焚いて、真夏とか炎天下に、真ん中で瞑想する。寝るときはクギをいっぱい打ってある板の上に寝る。そうやって体をとことん痛めるまで徹底的にやる。そういう苦行の成果としてジャイナ教で説く悟りを体験するのだというのです。
(次号に続く) 


〔前号までの話〕  マガダ国のアジャータサットゥ王はパクダ・カッチャーヤナ師を訪れて、「出家をすることでどんな意味があるのか」と、沙門の果報を尋ねました。カッチャーヤナ師は、唯物論の立場で存在の絶対的実体論を語ります。納得のいかない王様は次の宗教家Nigantha Nâta puttaを訪ねます。ジャイナ教の開祖であるナータプッタ師は徹底した道徳論者で不殺生と苦行を薦めるのです。
  ジャイナ教の苦行は、パーリ語で
 (1) sabba - vâri - vârita、 (2) sabba - vâri - yutta、
 (3) sabba - vâri - dhuta、 (4) sabba - vâri - phuttha
と四種類あります。
 苦行の方法は前回簡単にふれましたが、ジャイナ教の基本を知らないと、何のことかおわかりにならないだろうと思います。

人の体はカルマが付いて出来あがる

 ジャイナ教では、基本的にすべての生命に全知全能の魂があると考えています。でも魂には四種類の煩悩が付いていて汚れているのです。煩悩は糊か癌みたいなもので四つあります。それに、仏教でも使っている「束縛」(サンヨージャナ)という言葉を使っています。仏教とジャイナ教の専門用語は概ね似ています。

 魂のおもてにネバネバ状態の煩悩四つが付いていますから、そこにカルマ(日本語の業というよりは、サンスクリット語のカルマという言葉で理解したほうがいい)が付くのだと言う。そこで、いろんなジャイナ経典でいうカルマはどういうものかというと、ある特定の物質のようなものなのです。すごく物理的に考えている全知全能の魂があって、魂には形がない。でも魂にはこのネバネバ状態の煩悩が付いていて、そこに外から特定の物質であるカルマが全部つくのです。そうすると魂は硬くなってしまう。形をとったりする。

 我々に見える人の体というのは、このカルマの体なのです。ですからどんな生命も本来は全知全能の能力を持っているのですが、カルマの体があるからうまくいかない。つまり、体のせいで無制限に力を持っている魂が、何もできない状態にとらわれて、責められて絞られているのだという。そこで人間がいて、動物がいる。それはそれぞれの形の魂であって、なぜその形になったかというと、カルマのせいなのです。

 ですからジャイナ教のカルマ論は物質論です。どういう物質かというと、インドで物質論というのは基本的に地水火風ですから、それなりの地水火風かもしれません。私の説明は皆さんにちょっと分かりやすくしたのです。だから厳密にお読みになりたければ、ジャイナ教の経典はあります。専門外の私がジャイナ経典から取って説明すると大変失礼なことになりますので、そこは一般的なところだけ説明します。

 ジャイナ教では、例えば象がいるとすると、その魂の大きさは象ぐらいあるのです。何故そんな大きい形を取ったかというと、それにふさわしいカルマがついたから。蚊の魂も象の魂も同じなのですが、蚊はすごく小さい。それで蚊のカルマがほんのちょっとしかついていないから、そのカルマに合うように魂もすごく小さくならなくてはいけないのです。そうやって魂というものはカルマによって絞られて、攻められて、形をとるのだと言う。

 でも、「知る」ことは魂が知っているのです。だから、象も我々も、見ているし聞いている。でも、象の耳の能力と我々の耳の能力は違う。我々の目の能力と象の目の能力は違いますから、知る世界の差が生まれてくる。考えることも同じです。象も大きな脳細胞を持っているけれど、でも何を考えているか分かりませんね。

 私たち人間は、自分が持っている能力で考えたり知ったりしなくてはいけない。全知全能ではないのです。では、なぜ人間が全知全能でないかというと、それはカルマのせいなのです。

 ここですごく気をつけなくてはいけないことは、「カルマ」は日本語の「業」ではなくて、ジャイナ教で言っている物質論なのです。インドでは、業は一般的に認めるといっても、その各宗教の哲学的な解釈は結構違う。同じではないのです。どんな宗教のテキストを開けても、カルマという言葉が出てくる。でもそれぞれの宗派で、またそれぞれの宗教でカルマの定義、カルマの理解は違うのです。気をつけないと、言葉は同じだから日本で混乱したり誤解したりしてしまうのですね。

 昔、ある学者が書いたジャイナ教の論文を読んだことがあります。ジャイナ教の専門家であるその学者はジャイナ教はとても科学的で明確で分かりやすいというのです。彼がジャイナ教は科学的な教えだ、論理的な教えだ、と言うためにとことん使っていた証拠はこのカルマ論なのです。

 例えば、ある人間の体が弱いとする。体が弱くなったら、それはカルマが弱いということ。自分についている物質が弱いということだから、それなりの苦楽を感じなくてはいけないのです。ある人は色が良くつやつやしている、輝くような体を持っている。ある人は何色か分からないほど良くないということだったら、やっぱり幸福も苦しみも、苦楽はそのことによって左右されてしまう。何か障害を持って生まれてきたら、その人生はいろいろ苦労しなくてはいけないことになってしまう。最終的にはカルマで、人間の苦楽論、なぜある人は苦しみが多くて楽しみが少なくて、ある人は楽しみが多くて苦しみが少ないかという苦楽論を語る。

 それで何となくどの宗教のカルマ論も似ているように感じてしまうのですね。その点では似ていますが、実際、カルマ論というものは各宗教で違うのです。ジャイナ教でカルマは簡単に、これは体のことだと言う。基本的にはみな同じ魂を持っている。でも同じ魂を持っている象もミミズと比べたら、ものすごく違う。ミミズで生まれたらそのとおりの生活をしなくてはいけないし、象になったらそのとおりの生活をしなくてはいけない。その不公平はカルマのせいだと言うわけです。ミミズは象に踏まれて潰されてしまう。その象はすごく大きな体を持っていて、王様のように生活をしているけれど、いとも簡単に人間に捕まえられてしまう。捕まえられて人間にいろいろ調教されて苦労させられてしまうのです。象はそういう運命になっている。それはカルマのせい(=体のせい)だと。何となく分かりやすいような気もしないわけではないのです。だからといって、分かりやすいから正しいということでもないのです。

 仏教においてカルマ論というのは、もっともっと、ものすごく複雑なのです。それほど簡単ではない。

仏教のカルマは
物質ではなく《意志》です

 ジャイナ教ではカルマは物質だと言いますが、お釈迦さまはそれに対立して、「カルマは物質ではなくて意志だ」と言うのです。なぜなら、人は意志で行為をしている。行為によって苦楽を味わっている。悪い行為をすると、悪い結果になる。良いことをすると、良い結果になる。当たり前のことなのです。

 例えば、よく真面目に頑張ると、それなりにそこそこ良い結果にはなります。怠けてふざけていれば、それは悪い行為だから、それなりに不幸になってしまう、そんなことは誰でもわかっているのですね。でも怠けるか、頑張るかというのはその個人の意志なのです。人を殴るか、人をほめてあげるかというのは個人の意志です。ですから「意志はカルマです」と、仏教のカルマ論は特別に教えているのです。人の意志自体がすべてを変化させてしまいます。だから幸福になりたければ、そのとおりの意志を持たなくてはいけない。

 ここで考えてみましょう。それなら私たちはみんな、「じゃあ幸福になりましょう」といっぺんに思えればみんな幸福でしょうねえ(笑)。宗教なんか語る必要は何もないし、修行とか冥想とか、ああだこうだと七面倒くさいことも要りません。でもそううまくいかないことが問題なのです。

自由にならない自分の意志

 心理的に指導する世界でも「明るくなりましょう、ポジティブになりましょう、自信を持ちましょう」と言うでしょう。あれは間違っていないのです。明るくポジティブ的な思考を持って、自信を持って行動すると、万事なんでもうまくいくのです。ほとんど失敗しないし希望どおりに物事はうまくいきます。それだったら簡単単純でしょう。自信を持てばよろしいし、ポジティブになってしまえばそれだけのことです。本当はそうなのですが、問題はいくら言っても暗い人はズルズルと暗い方向に陥ってしまうのですね。いくら「自信を持って頑張りなさいよ、何もこわいものはないよ」と言っても、「といっても、やっぱり・・・」と言って何か言い訳をしてまた元に戻ってしまう。

 幸福になりたければいとも簡単なのに、自信さえつければいいのに、意志さえあればいいのに、なぜうまくいかないのですか。不幸な人はいくら言っても不幸ばかりで、どうしようもない状態に何故なるのですか、という問題があるのだから、仏教においてカルマ論は心理学的な心の過程、心の機能、そういうシステム抜きに語れないのです。だから仏教においては複雑になってしまうのです。

 皆さまにも経験があると思いますが、「私は自信があります」と言っただけで自信はつかないでしょう。強い意志で頑張るぞと言っても、そうはならない。だから、意志さえもいろんな原因、結果によって成り立ってしまうのです。意志も自由ではないのです。自由だったら、「よし、わかった、もう強い意志を持ちます」と言っただけで、もうなります。自分の思い通りにならない不自由な意志というのも、考えてみると不思議でしょう。

正しい意志は正しい判断から

 西洋では「意志」は、自由という言葉に使っているのです。
例えば、西洋の宗教は一神教ですから、すべては神様ですと言うと、みんな責任放棄すればいいことになってしまう。すべて神様によって成り立っているのだから、神様にお願いすればいいと。そこで聖書にはないのですが、西洋宗教学では「神は人間を創って全てを支配しているけれど、人間に自由意志も与えている。だからどうするべきかは人間が判断するべきですよ」という。神様と人間の意志は関係ないという話をするのですね。そういう話で、人が人を殺したら、人間が自分に与えられた自由な意志を悪い方向へ使ったのだから神様が罰を与える、という理屈にはなるのです。でも論理は成り立たないと私は思っています。なぜならば、偉大なる無限な力を持っている神様が、ほんのわずかな力しか持たない人間に自由意志を与えたところで、そこは間違って使うということは当たり前でわかっているのです。小さな人間でしょうし、神の意志がわかるわけでもない。身のまわりの事しか見えませんし、明日のことはわからないし。だから人間に与えられている自由な意志でも、どう使えばいいか人間は分からないはずなのです。それだったら神が罰を与えるというのはとんでもない話なのですね。不公平なのです。それでも西洋宗教学では自由意志というのがあるということはものすごく言っていますが。

 仏教では人間は自由だとも言わないし、自由でないとも言わないのです。すごく複雑です。意志と言ったとたん、自分が自由なような感じがするのですが、なぜそんな意志が生まれたかということを見ると、そこに条件が出てきてしまう。ですから意志自体も自由でもない。まったく不自由でもないのですが。

 だから仏教では判断能力、それを大事にしている。正しく判断することができれば、正しい意志が出来上がるというのです。

大きすぎる夢は意志を抑える

 それから、心に夢、希望、欲望がたくさん入り込んだらトラブルを起こしてしまいます。
例えば、「じゃあ今日から幸福になるぞ」というのは夢や希望かもしれません。夢がなければ、希望がなければ強い意志はつくれないのではないかと私たちは一般的に思っています。でも問題は、夢、希望というものはあくまでも非現実なのですね。私たちの夢、私たちの希望は、今はないものです。今、頭で作っている妄想であって現実ではない。だから頭だけで描く観念的な思考だから、論理性がなくなってしまう。いくらでも増殖する恐れがあるのです。いくらでも膨張できる。希望というのはいくらでもつくれます。

 そうすると自分の意志というのは汚れてしまって、うまく機能しなくなってしまうのです。だから夢が大きければ大きいほど、心が抑えられてしまう。心の自由がなくなってしまう。そういうことはものすごく心理学的だから、ほんのちょっと皆さんはご自分で考えていただきたいのです。今はテーマが違いますから、あまり明確に説得できるように教える紙面はないのですが、夢が増えれば増えるほど、心は抑えられるという働きがあることは覚えておいて下さい。

 ちょっとした例を出しましょう。子供には明日試験があるとします。それがあると子供は自由ではないでしょう。そこで心が抑えられてしまうのですね。誰かが遊びに行こうと言っても、試験があるから勉強しなくちゃ、ということになってしまう。だから自由に考えること自体できなくなる。そこでも意志が変化して思い通りに機能しなくなってしまうのです。

 意志自体はカルマですから、それだったら善いカルマをいっぱいつくれば幸福なはずですが、ものすごくいろんなことで左右されてしまう。だから自由にすることはほとんど無理です。そういうことでカルマの機能というのは仏教においてはかなり心理学的で複雑なのです。

 ジャイナ教祖はそんなに複雑にはおっしゃっていないのです。 (次号に続く) 


〔前号までの話〕   マガダ国のアジャータサットゥ王は宗教家Nigantha Nâta puttaを訪ねます。ジャイナ教の開祖であるナータプッタ師が徹底した苦行を薦める背景には物質的なカルマ論の考え方があるのです。カルマという言葉は同じですが、その考え方は宗教や宗派によってみな違います。

ニガンタ・ナータプッタの教え
ジャイナ教祖は解脱を求めて
苦行を推薦する

 ジャイナ教祖が語るカルマ論は、仏教のように心理的に微妙で複雑ではありません。ネバネバ状態の煩悩で汚れている全知全能の魂があって、そこに物質(カルマ)がついて身体を構成するのだと言います。生命体が死ぬと魂は自由になるはずなのに、このネバネバ状態があるので魂にまた物質がついてしまい、自由にならない。だから我々は生まれた瞬間からいろんな物質(カルマ)をどんどん入れて身体を大きくしていき、それによって、苦楽を変えたりするのだ、と説明しているのですね。

 そこで彼は、魂を自由にするために一旦カルマを取り除いたらどうかという、いわゆる外科的な治療を提唱したのです。彼のカルマ論は物理的だから、修行方法も外科的な方法になって、「たくさん付いたカルマを全部燃やしてしまいましょう、新しいカルマを作らないようにしましょう」と言うのです。ですから新しい行為を何ひとつもしません。その代わりに、自分の持っている身体をとことん苦しめてみる、という苦行を語ったのです。

 一旦苦行すると決めたら、無理にしなければなりません。生命は苦行はしたくないのです。嫌がる気持ちがなぜ生まれるかというと、魂のネバネバ状態のせいです。カルマがやりたがらないのですが、覚悟を決めて苦行します。断食するとか、寝ないでいるとか、普通の人間がやりたがることの全く反対のことを何でもやってみます。ありとあらゆる工夫をして、カルマをなくしてしまおうと修行すると、このネバネバ状態がなくなるはずなのです。彼らが計算するのは、だいたい十二年間続けて苦行すると、必ず魂が完全に解脱すると言うのです。でも苦行のリストを見ると、残念ながらそんなに長く身体が持ちません。二、三週間で死ぬかもしれません。例えば断食しようとしても、十二年間も断食できないでしょう。水を飲まないと決めたとしても、脱水状態でせいぜい四日で死んでしまうのですね。なかなか十二年間も苦行はできないのです。そういうわけで、ジャイナ教で悟ったぞーと思っている人はひとりしかいません。それはニガンタ・ナータプッタなのです。

 ですからお釈迦さまは彼をよくからかうのです。ときどきナータプッタ師がお釈迦さまに攻撃する場合もあります。「あなたは偉そうなことを言うけれど、贅沢ばかりしていて苦行もしない。誰か悟った人がいるのですか」。するとお釈迦さまは「見なさいよ。十人、二十人どころか何千人でもいますよ」と、堂々と平気で言うのです。お釈迦さまの教えはものすごくインテリ的で科学的でしたから、仏教において悟った人々はたくさんいたのです。でもジャイナの教えで悟った人は出てこなかったのですね。だから残ったのは、彼らが真面目に修行しているというぐらいのことでした。

 それでわかるのは、結果を出すということは、宗教ではあまり重きをおかないということですね。例えばキリスト教では、洗礼を受けて懴悔をして、それなりに頑張ればいいのです。その約束はあるかというと、一応聖書に約束はあるけれど、必ずしも本当に天国に行けるという保証はないのです。天国に行くか行かないかが分かるのは死んだ時でなく、人類滅亡のハルマゲドンの時です。イスラム教にしても同様です。ほかの神々をみな否定して、アラーの神だけを信仰して、一日五回お祈りしていれば、もう天国は確実だと言っても、やはり人類の最終の日を迎えない限りは分からないのです。それがいつなのかも、日にちをはっきり言ってくれないのです。だから一般的に、宗教でいう結果は随分将来にしています。

 お釈迦さまはそこがすごくいやでした。お釈迦さまの教えが他の宗教と違うところは、すぐ結果が出なくては、今わからないと、というところなのです。仏教と言えば山ほどありますが、みな同じということではないのです。お釈迦さまの教えだけが、すぐ結果が出なくてはおかしいのだ、という立場を取ったのです。

 話はずいぶん脱線しましたが、ジャイナ教祖は本当に立派で真面目な宗教家でしたが、考え方はそれほど論理的に厳密ではなかったのですね。ただ人間というのは苦行が好きなのです。私たちの東洋の教えを見ても、どこでも苦行を推薦する。西洋はどうですかと言えば、欲をひたすら追求する西洋なのに、宗教の世界に入ってみたら、かなり苦行を推薦するのです。

 人間が聖と俗を分ける場合は、《俗》は快楽の世界で《聖》は快楽を否定する世界、という二元論だと思います。聖と俗の言葉はおわかりですね。私たちが一般的に俗世間にいると言うのは、普通に楽しく生きているということなのです。快楽を認める、快楽を求める世界が《俗》であるならば、快楽を否定する、拒否する世界は《聖》だという。これは白くなければ黒いというような二元論なのです。白くないということは黒いという意味ではないのですが、人はそういう二元論で考えてしまうのです。

苦行のキーワードvâriの意味

 ナータプッタ師は
 (1) sabba - vâri - vârita、 (2) sabba - vâri - yutta、
 (3) sabba - vâri - dhuta、 (4) sabba - vâri - phuttha
と四種類の苦行を説いたのですが、四つ全部にsabba-vâriという言葉が入るのです。Sabba-vâriというのは、「止まる、やめる」という意味です。この経典に出てくる日本語になると、どういう訳になりますか。

「あらゆる水を防いでいる。また、あらゆる水によって結ばれている。また、あらゆる水によって除いている。また、あらゆる水によって触れている」。

 これではまったく意味が通じません。日本語にもなっていません。Vâriは水ではないと注釈書にも入っていますから、こういう訳はよくないのです。確かにvâriには「水」という意味があります。でも、ここでvâriの意味はストップすることです。「reject、やめる、制御する」という意味で、水ではないのです。日本訳では、ただ単語を訳しているにすぎません。

 この経典に入っている教えだけを見て、これがジャイナ教だと言うのは失礼なのです。ナータプッタ師は、確かにvâriという言葉を使っていて、それで仏教経典にも入っている。でも仏教はジャイナ教に対してはちょっと批判的で、この言葉を正しく説明していない。他宗教で正しく仏教の説明をしてくれないように、仏教の経典でジャイナ教のことを親切に説明しないのは当たり前なのです。それにあまりにも厳密な専門用語で、日本語で正確に訳すのは難しい。パーリ語の注釈書でもわかっていないのです。

 そこで私が説明いたします。vâriは「制御する、やめる、戒める」等の意味があるのですが、そのほかに「やめるべきもの、やってはならないこと、ストップするべきもの」というニュアンスの意味もあるのです。仏教用語で使っている「行」という言葉がありますが、それに似ていると言えるかもしれません。でも厳密に言うと、私は「行」という漢字の意味を学術的に研究してありませんので、ちょっと言いにくい。

 キリスト教の学問から見れば、ぴったり合う言葉があります。《Sin》という言葉です。英語の辞書をひいたら単なる「罪」ですが、キリスト教学ではsinは単なる罪ではありません。我々の生まれつき編み込まれている本能といえるものなのです。いわゆる、「人間であること」そのものなのです。

 我々が知っている普通の罪のように人を殴ったとか、人のものを盗んだとか、邪まな行為をした、嘘をついたとか、そういう「罪」もキリスト教にあります。でもそれは十戒の中に入っている、人間はどのように生きるべきかというモラルの話なのです。

 この《sin》という罪の場合はそうではない。それは「あなたは人間であります」という意味なのです。キリスト教では平気で、人間はみんな罪人だと言う。

人間であること自体が罪である。彼らはそれを一般の人にも分かりやすく、「アダムとイヴが罪を犯したから、人類はみんな罪人ですよ」というのです。なぜなら人類はアダムとイヴの子供だから。私たちの常識で言うならば、アダムとイブがやったことで人類が苦しまなければならないのは、おかしな話です。仏教の立場から言うと、人間の苦しみ=人間は苦しみのなかに生まれて苦しみのなかに死んでしまう、人は不満だらけで生きていなくてはいけないということになります。しかし、キリスト教ではそんなに明確に哲学的に、人の苦、生命の苦を説明してありません。聖書の中身は、ほとんど感情に訴えているのです。人の知識に、理性に語りかけていないのです。

 確かにキリスト教で、「人は死ぬ。死ぬことは罪の結果だ」と言う。「では死ななかったら幸福ですか」と聞きたくもなります。言い方はまずいのですが、結局キリスト教で罪というのは、我々の細胞一個一個の中に編み込まれている法則なのです。細胞の構成を見ると必ず死ぬようになっている。そこに《罪》という言葉を使っているのです。

 ですからvâriに、キリスト教で使っている《sin》という言葉を当てはめることができます。しかし、キリスト教においても sin の定義ははっきりしないのです。キリスト教のテキストに、私の説明は出てこないのです。でも、彼らが言いたがっていたのは、私が説明した「罪」なのです。私の解釈によるならば、キリスト教の sin(罪)の概念をべつに否定する必要もない。細胞を持って生まれたのだから、年をとったり、病気になったり、死んだりするのはどうしようもない。だから死ぬ運命で生まれてしまう。

 ジャイナ教では身体を持って生まれてきたら、カルマもあるのです。カルマは邪魔物で、魂の永遠不滅の状態と全知全能の状態を妨げる。だから我々には全知全能の能力がない。過去、現在、未来がわからない。不死なる境地には至らない。死んでしまったり、苦しんだりしなくてはいけない。この全知全能の魂を邪魔している、絞っている、抑えているものはやめるべきなのです。ですから魂についているカルマ、身体を捨てるべきなのです。コントロールするべきなのです。このようにジャイナ教のすべての哲学を、仏教の経典でvâriというひと言葉でまとめているのだから、本当にややこしいのです。

四種類の苦行

 そこで、「制御する、戒める」方法は四つあります。
 ひとつめの苦行は、sabba-vâri-vârita。
vâritaというのは簡単にいうとカルマをつける行為を「やめる」。いわゆる戒律の世界です。例えばジャイナ教では断食する、服を着ない、体を洗わないといういろいろな行があったのです。食べることは物質を受け入れる(カルマをつける)ことですから可能な限り断食してやめる。嘘を言ってはいけない、盗んではいけないという一般的なものもあります。盗んでまでして、この魂にまた新しい物質を入れるのかということで、これらは完全にやめるべきもの。また、殺生を全くやめる、嘘を言うことを全くやめるというふうに苦行になるまでやるのです。

 次のsabba-vâri-yuttaというのは、生命と仲良くしなくてはいけないもの、生きながら「実践していくもの」です。例えば、ジャイナ教では食事を自制しなさいと言います。たとえ在家の方々であろうとも、三食食べてはいけないのです。おなかが空くたびに食べるというのはだめです。出家したらもっと厳しい。必ず一日一回しか食べてはいけないのです。一日一回だから、鼻のところにくるまで食べてもいいかというと、これはだめです。或いは自分で、「私は一日おきに食べます」と決めて、おなかにほんのちょっと入れるだけなのです。かなりきつい。その行をしながらずうっと生活しなくてはいけないのです。

 また真実を語るということがある。真実を語るということは大変な不便なのです。この世の中で本当のことばかりしゃべってしまうと、なかなかうまく生きていられないのです。かなり苦労しなくてはいけない。損害を受けなくてはいけないのですね。でも、ジャイナ教では嘘を言わないというのは一番目。真実を語るということは二番目。それを受けたら、自分の生き方としてずうっと一生、それを守らなくてはいけない。

 そのように一生、生き方と一緒に実践する修行方法はたくさんあります。それは「結び付いている」という意味のyutta。ヨーガという言葉も同じ意味から出ている言葉です。

 またsabba-vâri-dhutaという、「行」があります。
修行の行で、わざと特別にやらなくてはいけないことです。ジャイナ教のお坊さんたちがそれぞれ自分で決めて、いろんな行をやるのです。

 どういうものかと言うと、ある修行者は、自分の草履にいっぱいクギを打ちつけて履いて歩く。歩くたびにかなりきつい。一生続けることはできませんから、それを決まっている時間、何年間か修行する。寝る時にクギをいっぱい打ち付けた板の上で寝るというのもあります。シーツではないのだから寝返りするのも大変です。あるいは、自分の回りにキャンプファイアのような大きな四つの火を焚いて、日中真ん中に座って瞑想する。そうやって体をとことん痛めて苦しめるのです。

 これをジャイナ教の出家者が皆やっているかというと、皆やっているわけではないのです。自分だけの何か特別の行を決めてやるのが、dhutaです。

 Sabba-vâri-phutthaというのは、「経験する」ことです。そのように行をして最終的には何か経験しなくてはいけないのです。生命であること自体罪で苦しみですから、行を続けてsabba-vâriのすべてがなくなったことを経験する。難しいかもしれませんが、そうやってすべての生命であることをやめたことがphutthaなのです。やめたことを経験するということは、ジャイナ教でいっている解脱を経験することです。

 だからこの四つで、本当に不思議なことにジャイナ教の教えを全部まとめているのです。しかし経典でも、翻訳する方々も、研究する方々も、誰も真剣まじめに考えていませんから、何のことかわかりません。皆さまもご自分で研究なさってもこの説明には出会わないと思って、余計に脱線しながら説明しました。これを理解したければ、本物のジャイナ経典がいくらでもありますから読んでみてください。

  ◆◆◆

 ナータプッタ師は、アジャータサットゥ王様が「修行したら、出家者には何か御利益でもありますか」と訊いても、必死になって自分の教えを語るだけで、王様の問いには答えなかったのです。王様は政治家だから、「そんな話は聴き飽きている。私は違うことを訊いているのに散々説法されるだけで面白くない」、と帰ってしまいました。

(次号に続く) 

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

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