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HOMEパーリ仏典を読む→沙門果経(10-11) 第二章 六師外道 (六)サンジャヤ・ベーラッティプッタの教え
沙門果経(10-11)
第二章 六師外道の話
  (六)サンジャヤ・ベーラッティプッタの教え
A・スマナサーラ長老

〔前号までの話〕  マガダ国のアジャータサットゥ王は苦行を説くだけのナータプッタ師の教えに満足できず、次の宗教家を訪ねて沙門の果報を問うのです。

サンジャヤ・ベーラッティプッタの教え

サンジャヤ師は詭弁哲学者

 六番目の先生は、Sañjaya Belatthi-puttaという名前で知られています。ファミリーネームは難しいですが、ファーストネームは日本語でも発音しやすいサンジャヤです。
 サンジャヤ師に会って王様は次のような趣旨の質問をします。「私たちは稲でもカボチャの種でも植えて、それを収穫して食べて楽に生活しています。仕事には結果があり、御利益があります。あなたがた宗教家の生き方にも、これが御利益だといえる証拠はありますか」。サンジャヤ師は次のように答えるのです。

 「もしあなたが私に『他の世界は存在するか』とたずねたとき、もし私が他の世界は存在すると思うなら、他の世界は存在するとあなたに答えるであろう。しかし、こうであるとも私は思わないし、そうであるとも私は思わないし、別であるとも私は思わないし、そうではないとも私は思わないし、そうではないのではないとも私は思わない。もしあなたが私に『他の世界は存在しないか』とたずねたとき、もし私が他の世界は存在しないと思うなら、他の世界は存在しないとあなたに答えるであろう。しかし、こうであるとも私は思わないし、そうであるとも私は思わないし、別であるとも私は思わないし、そうではないとも私は思わないし、そうではないのではないとも私は思わない。もしあなたが・・・」。また、同じように言ってしまう。実に分かりにくいのですが、そこで明確なのはサンジャヤ師の哲学思想なのです。

 仏典(初期パーリ経典以外の、原文で書かれている古い仏教注釈書、論文などのテキスト類)で、サンジャヤ先生は一番頭の悪い人だと考えているのです。でも問題はその頭の悪さです。彼が生まれつきのアホでトンチンカンということではありません。この人は高名な大哲学者で大勢の弟子たちがいましたから、決して知的障害者ではないのです。この人の教えを説明するのは一番時間がかかるのです。この教えも、インドのどの文献にも説明していないのです。でも、存在していたことは確かです。

 ヨーロッパのギリシャで、agnosticism(不可知論)という哲学思想がありました。もうちょっと時代が下ってくると、skepticismという哲学思想がドイツで出てきます。skeptic は日本では一般的に、「詭弁」という言葉で知られています。一応サンジャヤ先生の教えは歴史上一番古いagnosticism なのです。インドでそういう思想があって、彼が有名だったのです。

ものを知ることは人間に可能ですか

 彼が、《ものを知ることは人間に可能ですか》、という問題を問うのです。わかりやすく言えば、我々に見ることは可能ですか、聞くことは可能ですか。人間にはものを知り得ることができるのでしょうか。——何かバカバカしく聞こえるかもしれません。ここで考えてみましょう。

 我々が聞いているもの、見ているものは本当にそのとおりですか。例えば、壁は遠くから見ると結構きれいに見えるでしょう。でも近づくと、汚れがいっぱい見えてきます。虫メガネや顕微鏡で倍率を高くしていくと、まったく違う世界が見えてくる。その中でどのビジョンが正しいのですか。

 壁一つでも、普遍的な結論を出すために、遠くから見たほうが正しいとか、近いところから見たほうが正しいとか、そんなことは言えますか。正しく見るためにどうやって距離を決めるのですか。

 アメリカの話で、ものすごく広い麦畑で、コンバインで麦を刈り取って、超特大の文字を書くのです。でも、地面から見たら、刈り取られた跡があるだけです。ずっと行ってみても、ちょっと曲がってほかの方向に空き地が広がっているのが見えるだけ。そこでセスナ機に好きな女の人を乗せて、上空に連れていきます。下の畑を見下ろすと自分の名前と、結婚しましょうとか書いてあるのがわかる。それは本人も文字を書くという意味でやっていますが、でも文字になるのは空から見たときなのです。そばで見たら全然わかりません。

 このように《見る》という機能についても、どこに距離を決めるのですか。この場合は、空から見ると決めてあるでしょう。それは最初から文字だと決めつけているからなのです。最初に「Will you marry me?」と刈り取ったのだから、とっくに先入観で知識がある。あとは単に先入観を固めてもらうだけ。もし、何の先入観もない人をそこに連れていくと、麦を刈り取った跡が見えるだけで、文字なんかはないと言われるかも知れません。

 我々の目で見る世界にしてもこのように、何も断定して言えません。顕微鏡で見れば、よく見えると言っても、その世界は正しいですか。いつでも普通の目で見ているのに、顕微鏡で見る世界が正しいなら、顕微鏡を持って何でもそれで見なくてはいけない。あるいは三百〜四百倍ぐらい大きくしてくれる特別なメガネでもつけて、それで見て生活すればよろしい。

 耳で聞くということも同じでしょう。距離によって、いろんな方法で変わってしまう。ちょっと耳に手を当ててみてください。聞こえている音が変わります。もっと耳が大きい動物はまた違う音を聞いているでしょう。場合によって音がちがうのは困ったものではないですか。

サンジャヤ師の認識論

 人間の知識とは何ですか。これは、認識論の問題なのです。人に認識を得ることは可能か不可能か。ですから一番簡単な認識方法は当てにしないこと。

 例えば[お饅頭はおいしいお菓子ですよ]というのはひとつの認識の表現です。これは人間のインテリジェンスを表現する言葉なのです。我々の言語はすべて認識の表現だと言えるのです。「この服はきれいです」、「この服はあなたにちょっと似合わない」。それも自分の認識の表現でしょう。それを当てにできますか。今までの説明から考えてみると、「この服はあなたに似合います」とか、「似合わない」とは言えないはずなのです。というか、言えるかということを私は訊きたいのです。

 ですから、サンジャヤさんが一切の認識、インテリジェンスを表現する言葉は肯定も否定もしない。否定することさえも認識だから。だからこのようなややこしい言葉になっているのです。例えば、「私は人間の一切の知識を否定します」と言ったら、それはもうひとつの知識なのです。だから否定しますとも言えないのです。

 また、この音はきれいかきれいでないか、あるいはこの部屋は静かかそうでないか、外はうるさいかうるさくないか、そういう全部をまとめて何ひとつも言えませんという場合は、さまざまな認識をまとめて何ひとつも言えないという結論を出しているのです。それも否定する。だからサンジャヤ先生はすごく厳密なのです。

 そこで彼は宗教家ですから、散々人に、「この世がありますか、あの世がありますか。業がありますか、ありませんか。人が死んだら生まれ変わりますか、生まれ変わりませんか」などの質問をされていたのです。これらは知識の表現なのです。そこで彼がこう言うのです。

 「この世があると思うならば、私はそう答えるでしょう。私は、あなたが言うとおりにあると思っていないし、違う方法であるとも思っていないし、全く別なものだとも思っていないし、 ないとも思っていないし、どっちでもないとも思っていないのだ。それから、思ってないとも思っていないのだ」と。日本語ではムチャクチャに見えますが、原文を見ると厳密に単語で思考を並べています。こういういろんな表現で、彼は人の頭をわざと混乱させるのです。それは彼のねらい。

 この世が、あの世がありますかという問題はちょっと我々にとっては難しいから、簡単にわかりやすい例に私は置き換えます。「ここに黒板がありますか」、という質問にします。そこで黒板があるなら、「はい、そうです。ありますよ」と簡単に答えればいいと思うでしょう。でもここで考えて欲しいのは、「はい、ここに黒板があります」、と言えるかという問題です。

 人間にとって、黒板は目で見ますね。そこで「あります」と言う場合、その人は間違いを犯しているのです。いわゆる、目で見えるものはあるというのは間違いなのです。先ほども述べたように、目で見えるのですか? どのように見ればいいのですか? 顕微鏡で見て、虫メガネで見て、あるいは望遠鏡で見て、あるいはそばに来てみて、あるいはかなり遠くに行って見る? 一体どのように見ればいいのですか。見るたびに見方が変わってしまうでしょう。そのようなものに、「ここに黒板があります」、ということを言ってしまうと、目で見るものは《実在する》ことになる。「目で見られるものはそのとおりにある」と言ったことになってしまうのです。

 サンジャヤ師なら、ここに黒板がありますかと訊かれても、「あると思うなら、あると言ってもいいけれど、べつに、あなたが言うとおりにあると思っていないし、違う方法であるとも思っていないし、全く別なものだとも思っていないし、ないとも思っていないし、どっちでもないとも思っていないのだ。それから、思っていないとも思っていないのだ」といろんな表現をするのです。

 そういうことで、彼は自分の agnosticism という詭弁論を語っているのであって、わざわざ人をバカにして、詭弁的にしゃべっているわけではないのです。

仏教の認識論

 この人の話は微かでもご理解できれば有り難いのですが。仏教で一番頭が悪いと悪口を言っていますが、この説が一番理解に苦しむのです。なぜ私はそういうところまでうるさく言いますかというと、仏教哲学ではそういうさまざまな知識の世界について随分明確に答えを出しているのです。

 仏教にしても、判断はあてにならないということは言っています。判断は主観であって、あてにならない。だからといって、サンジャヤ先生のように詭弁論もまた語りません。お釈迦さまはすべての宗教哲学に答えを出しているのだから、周りをうろうろする人々の思考もいくらか勉強するのは悪くはないのです。

 認識世界に対しては、イエスとかノーとか断定するのは、仏教的に見ても至難の業です。しかし道徳の場合は、条件が違います。道徳といえば、人はどのように生きるべきかという具体的な話なのです。分かれ道で目的地に達するためには、左か右かどちらか一つが正しいのです。

 したがって道徳を語るときは、断定した方が良いのです。「嘘を言ってもいいですか——いいえ、だめです」。「人を殺してもいいですか——とんでもない、やめなさい」とは言えます。でも道徳以外はどんな質問にもはっきりと、イエス、ノーというふうには答えていないはずなのです。かなり状況を説明して説明して、正しい答えに導こう、中道の答えに導こうとはするのです。しかし、人を中道に導くことは、言うほどそう簡単ではありません。

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〔ここまでの話〕  マガダ国のアジャータサットゥ王はSañjaya Belatthi-putta を訪れて沙門の果報を尋ねます。仏教ではサンジャヤ師のことを頭が悪い人だと悪口を言っていますが、この先生が説くのは人間の認識についての厳密な哲学思想です。この教えは歴史上一番古いagnosticism(不可知論) なのです。

厳密な認識論は詭弁に至る

 サンジャヤ師は一切の認識、インテリジェンスを表現する言葉は肯定も否定もしないのです。この経典のパーリ語の文言からサンジャヤ師が語る認識論を見てみましょう。

[一]こうであるとも私は思わないし、
   Evam pi me no.
[二]そうであるとも私は思わないし、
   Tathâ ti pi me no.
[三]別であるとも私は思わないし、
   Aññathâ ti pi me no.
[四]そうではないとも私は思わないし、
   No ti pi me no.
[五]そうではないのではないとも私は思わない。
   No no ti pi me no.

 ここで「私は思わない(me no)」という否定形が付く肯定(イエス)はいろいろあります。イエスも単純な肯定ばかりではありません。微妙に意味が異なるイエスがあるのです。 

 「今日、昼ごはん食べましたか?」。「イエス」。これはそんな簡単なイエスでないはずです。なぜならば、私は何を昼ごはんと言ったのですか。もし私が考える昼ごはんがサンドイッチだったら、皆さまのイエスは合っていますか。皆さまがたはラーメンを召し上がったなら、合っているとは言えませんね。だからといって「ノー」ではないのです。ラーメンを食べているのに、ノーと言ったら嘘になります。このようにイエスも単純ではありません。インドの思想哲学というのはややこしいのです。インド大好きという人々はたまにいますが、インドの複雑さを知っているなら、もう逃げ出したくなるのです。

 例えば、あの世はありますかという答えをおいといて。ここに黒板がありますかという問いがあるとします。この場合にevamと答えるのは、質問した人が定義しているとおりにイエスと言うことなのです。日本では黒板と言っても緑色もあるし、黒い色もあるし、白い色もあります。おおざっぱに黒板と言うと、evamの例にはならないのですね。

 きょうは5日だとします。「きょうは5日ですか」、と訊かれたら答えは? イエスでしょう。その場合は私が思っている5日と、皆さまが思っている5日は何のことなく同じなのです。だからアポイントが成り立ちます。もし私の5日が二日先だったら、皆さまとは会いません。この場合のevamは、「あなたが言うとおり(evam)にある」というイエスの一番目です。このイエスも、「思ってない(me no)」と、彼が否定するのです。

 二番目は、「そうであるとも私は思わない」Tathâ ti pi me no. 「違う方法であるとも思っていない」。Tathâというのはイエスの第二なのですが、そこにちょっと説明します。

 きょうは月曜日とします。今日が月曜日かと思い浮かばなかった場合はどうしますか。そのときは、「きのう私は部屋の掃除をして昼寝もしたからあれは日曜か。そうすると、きょうは月曜日です」、と記憶を辿って答えます。その考え方はイエスの第二番目なのです。いわゆる、ほんのちょっとそのイエスにくるために、「ああなって、こうやって、こうなると…そのとおりだ」と。例えば、「23+42=65ですね」と言ったら、途端に「イエス」と言わないで、「ああ、イエス」と考えてから言うでしょう。二番目はそのようなイエスです。彼はその第二のイエスも否定します。

 次に、「全く別なものだとも思ってない」Aññathâ ti pi me no. これは、イエスの第三と言えるのですが、ノーとも言えるのです。Aññathâというのは、ほんのちょっと違いますよということなのです。相手が間違っているということでなくて、ちょっと違いますと。

 例えば、バラの花を英語で何と言いますか。普通皆さまは「ローズ」と言うかもしれませんが、ちょっと違います。*「ロゥズ」なのです。だから間違っているのでなくて、ちょっと違う。また、良いということを英語で何と言いますか。普通は「グッド」と言いますが、英語の発音では、*「グゥッ」。「グッド」と言ってもべつに間違っているとは言えないが、でもちょっとイエスは言いにくいのですね。このようにイエスでもない、ノーとも言えるし、イエスとも言える状態は、aññathâという表現なのです。彼がそれも否定する。そうも思っていないと。

 いままでイエスの三種類を説明しました。まだインドの論理学講義は続きます。これから、ノーの世界に入ります。四番目はノーの第一です。   *(nativeの発音)

「そうではないとも私は思わない」No ti pi me no. パーリ語と英語のノーは同じだから、これはちょっと混乱するかもしれません。Noというのは、ないという否定です。

 例えば、月曜日に「きょうは木曜日ですか」と訊かれたら、はっきり「いいえ」と言えるんですね。自分の母親に、「あなたは男性ですか」と訊けば、「いえ、違います」と、はっきりノーと答えます。そのように、例えばバラの花一本見せて、「これは蛇ですか」と我々に聞いたら、我々は即、「ノー」と言うのです。これが noの第一です。

 そこでサンジャヤ師にバラの花を見せて、これは蛇ですかと聞いたら先生はどう答えると思いますか。我々はいとも簡単に、ノーと言いますが、彼は、「べつに、まあ蛇だと思うなら蛇だと言うんだけど、蛇じゃないと思うのだったら蛇じゃないというんだけど…」、とそれで終わってしまうのです。イエスとも言わないだけでなく、ノーとも言わない。それは、サンジャヤの不可知の世界ですね。

 次に、「そうではないのではないとも私は思わない」No no ti pi me no. ノーが二つあったら、普通だったらあるということでしょう。例えば、私は背が高くないわけではありませんと否定形が二つ入ったら、私は背が高いという意味になります。私はごはんを食べなかったんじゃないと言ったら、ごはんを食べたという意味になります。同じ様にここで、否定形が二つ入っているからイエスかと思ったら、それは違うのです。No noというのは三番目のイエスと同じような、「いえ、あなたが言っているとおりじゃなくて、こういうことでノーです」という意味なのです。

例えば「おはようございます」を英語で「グッド モーニング」と言ったら、「違います、『グゥッモーニン』だったら正しいというふうな否定形なんですね。ですからノーなのですが、はっきり断定するノーではなくて、理由があってノーですよというノーなのです。ノーを二つつなげたらイエスになりますが、この論理学ではそれを使ってるわけではないのです。

 このようにインド人の世界はそう単純ではないのです。そこらへんも仏教学、インド哲学の世界でまだ発見してないひとつのポイントなのです。ですから、できれば覚えておいてください。

 イエスが三つありますから、本当ならノーも三つあるはずなのですが、ノーの世界だからすごく例を出して考えるのは難しいのです。

 私が今まで説明したのはサンジャヤさんの教えと全く正反対の知識の世界です。ものごとを理解するためにはこのような知識を得られないと、違うとも言えないし、そうでしょうとも言えないのです。

 この人はとにかく、質問したらその人がまずいことをしちゃったと、何もわからなくなって、頭が混乱して終わってしまうのです。だから、「サンジャヤさんはごはんが好きですか、あるいはうどんが好きですか」と尋ねても、「まあごはんを好きだと思っているならごはんを好きだと言えるのですが、嫌いだったらはっきりと嫌いだと言えますけど。まあ嫌い、あるいはたまたま好きだったら、たまたま好きだとも言えますけど、べつにそうだとも思っていないし、また違うとも思ってもいないし、また別な方法で何か言えるともそうでないも思ってもいないし、何か言えるかといってもそうも思ってないのですよ」と、ずうっと答えていくのです。だから質問した人は、二度とごめんということになってしまうのです。

 そうやって、ずうっとありったけの認識手段を否定して否定して否定していって、最終的に否定したことも否定するのです。だから純粋な agnosticismなのです。詭弁と言えば、何かいい加減なことを言って人をバカにするという意味もありますが、その意味でなく本当に真剣なのです。

詭弁は役に立たない

 では、なぜ仏教でその人のことを否定しているかというと、結局そんなことで一体全体どうなるんですか。言っていることにはそれなりに理由があるのです。この壁はきれいですかと訊いても、そんなものは答えられません、結論できませんと。そんな調子で世の中のことについて全部否定したら、人間には何にもないでしょうに。

 例えばちっちゃな子供がいて、「おかあちゃん、遊びに行ってもいいですか」と訊いても、「まあ、行ってもいいけど、行かなくてもいいし、部屋にいてもべつに…」と母親にいろんなことを言われるだけなら、結局どうすればいいのですか。

 だから最終的には、人の頭が悪くなるだけで終わってしまう。仏教が否定するのはそういう点です。いくら高度な哲学でも何の役にも立たないのです。偉い大哲学者のサンジャヤ先生は「あなたは人間ですか」と聞いても答えません。人間だと思っているなら人間だと答えられますが、あなたが言うとおりに人間だと思っていないし、違うとも思ってもいないし…、そうやってずうっと五つの方向で話していく。あなたは人間ですかと聞いたら、答えることは簡単なことでしょう。でも答えません。

一切の苦しみはすべて知識から生じる

 そこまで厳密に追求して、最後になぜ知識を否定しますか。そこはポイントなのです。人間の苦しみの問題は知識が作るでしょう。「私はバラモンカーストで神様の子供だ。あなたはシュードラカーストで奴隷だ」などと、同じ人間を差別する。お互いにケンカするし、いじめをやったりする。高慢になって他人をけなして論争するし、はては戦争まで限がない。我々のすべてのややこしい苦しい世界の問題はすべて知識から生じているのです。

 ごはんはおいしい、パンはおいしくないという好みも知識です。鶏は食べますが、気持ち悪いからトカゲは食べません。トカゲを食べる人を下品だと言って鶏を食べる人がバカにするでしょう。ソーセージは食べるのに、青大将はぶつ切りにして、燻製にして食べませんね。あれは、ソーセージがおいしいという知識があるからなのです。我々が喜んで食べるサラミやらソーセージにしても犬の糞にそっくりではありませんか。見る限りは気持ち悪いのです。

 人間というのは、そんなふうに知識を認めているのだからバカバカしいのです。形が悪いものは我々日本人は食べませんと言うけれど、見たら逃げたくなるほどグロテスクな魚、アンコウは日本人にはすごいごちそうです。

 肉でいえば、日本人は羊の肉は嫌いでしょうしヤギの肉は食べないでしょう。それから鹿の肉も食べないでしょう。この三つの動物の肉は他の国々では平気で食べています。イスラムの国々だったら、ヤギと羊は毎日のように食べている。でも日本では、肉は豚と牛と鶏というふうに決まっている。汚い不浄な豚の肉を食べながら、ものすごく格好いい、きれいな生活をしている鹿の肉は食べません。「とんでもない、気持ち悪い」と思ってしまうのですね。

 本当はそう思うこと自体、根拠もないし、何の意味もない。でも、なぜそう思ってしまいますかというと、自分の知識は正しいと思っているからなのです。

 世の中で白人はエラいんだ、黒人はよくないんだとか、そういう簡単な例で考えてもいいのです。昔のヒットラーのように、「ドイツ人だけがすごく頭が良くて選ばれた人たちだ。ユダヤ人はとんでもない、ネズミたちだ」と思ってしまうと、結果としてどうなったのですか。世界中が残酷な状態になったでしょう。

 厳密に見ると、人間の苦しみはそうやって、自分の持つ知識や判断から生まれてくるのです。その点では仏教で言っていることと同じです。だからといって、この人の言っていることは役に立たない。この人は簡単な方法で、ムチャクチャ知識を否定してしまう。

 結局、王様はこんな話を聞きに来たのでなく、修行したら何か報酬でもありますかと、という単純な質問の答えを聞きたかったのです。サンジャヤ先生がいっこうに答えようとしないのだから、王様は諦めて帰ってしまいました。

 次からお釈迦さまの答えに入ります。

(次号に続く) 

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

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