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HOMEパーリ仏典を読む→沙門果経(14--16) 第三章 仏陀の話 第二の沙門の果報
沙門果経(14--16)
第三章 仏陀の話
 第二の沙門の果報 
A・スマナサーラ長老

〔前号までの話〕  お釈迦さまは出家者のご利益を尋ねるアジャータサットゥ王に、奴隷が出家する喩えを出して、軽々と出家のご利益を示してみせます。宗教を守るのは王様(治世者)の仕事でしたから、王様の所有物だった奴隷も、出家した途端に王様が彼を立って出迎え、彼を全面的に守ることになるのです。世俗の世界では絶対あり得ないことが、宗教の世界ですぐ成り立ったのです。これは明らかに、出家の目に見える果報です。

俗世間から出家した者が尊敬を受ける

 王様は奴隷の譬えだけで満足しません。ただ単に王に拝んでもらって、守ってもらうことだけが出家のご利益ではつまらない。もっとないのですかと尋ねるのです。

 お釈迦さまは次に、インドにたくさんいる農奴の譬えを出します。インドは大きい国だから、先祖の代から何百年もそこに住んで、同じ田畑を耕している人たちが大勢いたのです。でも土地は農民のものではありません。彼らがいくら田畑で働いても、できたものは土地を所有している地主に全部差し出さなくてはいけない。自分がそこで労働することで生計をたてているのです。そういうシステムは今もあるようですが。

 このような農民には逃げるところはないのです。彼がこんな生活が嫌になって逃げ出しても、何も持っていないのだから乞食になるしか方法はない。この土地を売って、それを元手に商売をしたいと思ってもインドでは不可能です。だから農奴の子供は、大きくなってもその土地を耕して生活するしかないのです。

 王様は大地主ですから、そのような人々がたくさんいたのです。代々王様の田畑を耕して生活し、奴隷とほとんど同じなのです。この例は王様にはわかりやすいのですが、我々にとっては奴隷の例とダブっているような感じがします。

 このポイントは、出家しただけで世俗の普通の人々よりは彼が尊敬される立場にいってしまったということです。でも、気をつけて欲しいことは、出家というのは、単なる形ではないのです。ただ頭を剃っただけで尊敬されるなど、そんな甘い話ではありません。お釈迦さまはそのところを気をつけています。

 僧衣を着たら尊敬されるでしょうと思っている人々もいるのです。お釈迦さまが言う出家は、事があると服を変えて尊敬してもらい、終わると洋服に戻って普通の仕事をする人々ではありません。はっきりと言っているのは、出家した彼が体の行為をちゃんとコントロールして、言葉をちゃんとコントロールして、考え方までコントロールして、悪いことも考えない。それから、体を守るために最低最小限必要なもので生活して、欲世間から本当に心は離れているということ。現代に見られるような、法事の時だけ法衣を着て、それが終わったら洋服という世界ではないのです。その場合はやっぱり俗世間から離れていない。俗世間に対して未練というか、溺れているぐらいの状態だから、それはお釈迦さまの考える出家ではないのです。出家というのは本当に俗世間から離れて全く未練もなし。離れたことを楽しむのです。ポイントはそこなのです。そういうふうな人なら、社会からすぐ尊敬されてしまいます。

 これは日本でもヨーロッパでも同じです。ある人が本当に俗世間から離れ、欲から離れて、キリスト教世界のmonk(清貧・貞潔・従順を誓った修道士)という状態になって質素に生活すると、みんな尊敬するのです。日本にしても同じことです。欲もなく、世間に何の興味もなく、修行三昧の質素な生活をしていると、素晴らしい人だと思うでしょう。そういう考え方は一般的です。でも裏で何か悪いことをやってしまうと、すぐ尊敬はなくなってしまいます。「あの人はインチキですよ。行をやるのは建前で、それで金を儲けてるんだ」とたちまち批判されて、すぐ尊敬もなくなるのですね。

 だから出家して尊敬を受けるということは、本物の出家でないといけない。そのポイントは三回ぐらい続けて繰り返しています。

さらにすぐれた沙門の果報

「智慧の世界」は曖昧ではありません

 「尊師よ、これらの目に見える沙門の果報よりも、さらに優れ、さらに勝った、現世において目に見える沙門の果報を、他にもまた、示すことができましょうか」

「できます、大王よ。それでは大王よ、聞いて、よくお考え下さい。お話しいたしましょう」。

 これからお釈迦さまは純粋に仏教を語っていきます。六人の先生たちと同じく、徹底的に教えの基本のことを話していくのです。ですから私たちが仏教の基本的な思想は何でしょうか、と理解するためにも大変役に立つのです。

 ここからは、王様に質問したり、「あなたは答えてください」ということもありません。「私は話します。あなたは聴きなさい、理解しなさい」と、お釈迦さまは一方的に仏教の世界を話していきます。しかしポイントは外しません。ちゃんとこういう果報もあります、こういう果報もありますと押えていきます。

「わかりました、尊師よ」。

「大王よ、この世に如来が現れております。それは、阿羅漢であり、正自覚者であり、明行足であり、善逝であり、世間解であり、無上士であり、調御丈夫であり、天人師であり、仏である世尊です。かれは、この神々をふくむ、魔をふくむ、梵天をふくむ世界を、沙門、バラモンをふくむ、天、人をふくむ衆を、自らよく知り、目のあたり見て、説きます。かれは、初めもよく、中間もよく、終りもよい、内容もよく、形式もよい法を示し、完全無欠で清浄な梵行を明らかにします」。

 これだけでも説明すると膨大な時間がかかるのです。第一章で、お釈迦さまがブッダになったということはどういうことか、ほんのちょっと触れました。これらの言葉は、お釈迦さまの智慧の世界を表現した言葉です。

 仏教でいう智慧の世界は、大ざっぱで曖昧いい加減ということではなく明確です。この、曖昧でないということは、初期仏教では大きなポイントなのです。宗教の世界というと、昔から今に至るまで、特定な宗教に限らずとにかく曖昧なのですが、初期仏教ではブッダが「悟りました」と言ったら、その「悟った」ということはどういうことか、何を知っているのかと明確に語ります。「正自覚者である」、いわゆる「完璧に悟りました」、「完璧に智慧を開発しました」というのはどういうことかと、ものすごい説明があります。それを言っている段落です。

人生の目的は人格完成で終了する

 「阿羅漢である」。Arahantというのは、人間として人格を完成しました、ということなのです。我々は生命としてみんな不完全でしょう。ですから仏教でいう宗教の目的は、不完全な人格を完成することなのです。ごはんを食べるために生まれてきたわけではない。会社で仕事をするために生まれてきたわけでもない。ほとんどの人がそう思っているようですが、それは勘違いなのです。子供を育てるために生まれたわけでもないのです。それはそれなりに手抜きしてでもやりますが、本当に「何のために生まれてきたか」というと、やっぱり自分の未完成な、未熟な人格を完成するためなんですね。それが生きることの目的なのです。

 「なぜ生きているか」と訊くと、二百年、三百年も続く古い家に生まれたら、家を守るためだと平気で言ったりするでしょう。「私はこの家で生まれたから、家と家のしきたりをちゃんと守って、子供に伝えます」と。そんなことはとんでもない話です。そこに生まれた人にとってはいい迷惑です。誰も家を守るために、子供を育てるために生まれてきたわけでもない。生まれたのだから、それぞれなりに、やらなくてはいけないことはやっているだけのこと。

 基本的にある仕事は、自分の人格を完成することなのです。それには自分の心を見続けながら、いけないところを見て見て、それをひとつひとつ直していかなくてはいけないのです。怒りっぽいなら、怒らないようにいろいろ工夫する。欲張りだったら、欲をなくすようにといろいろ工夫する。嫉妬深いなら、嫉妬をなくすようにと工夫する。そうやって毎日仕事があるのです。死ぬ瞬間まで仕事はあります。それを終わるのは人格を完成したときなのです。「もう終わった、完成しました。直すところはありません」というところまで頑張らなくてはいけない。

 ですから仏教から見れば、宗教の目的ははっきりしているのです。天国に生まれ変わるためでも、成仏するためでも、極楽道に行くためでもないのです。そんな話は聞こえがいいだけの、デタラメで何の根拠もない話です。

本業は自分のこころを見て磨く

 人ははっきり自分の心を自分で知っているのです。自分の心を見たら、どんな人間でも偽善ばっかりで、どうしようもない人間だとわかっている。建前と本音とが随分違います。それもなかなかつながらない。そういうことは誰でもわかっている具体的な事実でしょう。

 例えばある人にすごくニコニコと丁寧に挨拶しても、心の中で早く消えてほしいという気持ちもあるでしょう。自分は、その人の性格を受け入れられないぐらい弱みを持っている。我々の心はガタガタなのです。自分が嫉妬深いか、怒りっぽいか、欲深いか、怠けか、それは具体的にわかるのです。そこを一日ではできませんから、(一日で直してやろうというのはものすごい巨大な欲ですから、)じわじわとしっかり磨いて磨いて、直して直して完成していくのです。

 このように仏教から見れば「何のために生きていますか」、という問いにはっきりと答えがあるのです。しかし現代の、初期仏教以外の人々にはないのです。

 お釈迦さまの教えを聴いて育った人々はあまりそんな質問はしません。畑の仕事でも会社の仕事でも、そんなものは一時的な仕事という感じでやっているからストレスもたまらない。課長に怒られても、「まあこれは会社にいるときだけだから大したことはない」という感じで堂々としているのです。家族をつくること、仕事をすること、それらはすべて副業で本業ではないことを知っているのです。ですから何のために生きているのか、という疑問さえ出てこないのですね。みな大体しっかりしているというか、いろんなことにびくともしないというか。皆が皆という訳ではないですが、いくらか理解している人々は滅多なことではめげないのです。不幸に遭おうが、幸福になろうが、そんなものは副業であって、本業ではありませんと、すごくクールに生きているのです。だから本業は、自分の心を見て磨く。阿羅漢というのは、本業を完成しましたという言葉です。  (次号に続く) 


■さらにすぐれた沙門の果報 沙門果経(15)

〔前号までの話〕 奴隷の喩え、農奴の喩えに満足せず更に出家のご利益を尋ねる王様に、お釈迦さまは純粋な仏教の世界を話していきます。

「大王よ、この世に如来が現れております。それは、阿羅漢であり、正自覚者であり、明行足であり、善逝であり、世間解であり、無上士であり、調御丈夫であり、天人師であり、仏である世尊です。・・・」

 仏教は、「人は何のために生きていますか」という問いにはっきりと答えがあるのです。人の本業は、自分の心を見て磨くことです。自分の心を見たら、どんな人間でも偽善だらけで、どうしようもない人間だとわかる。そこをじわじわとしっかり磨いて直して人格を完成していくのです。
 前回説明した「阿羅漢」という言葉は、本業を完成したという意味の言葉です。

仏陀はなぜ神々の先生ですか

 いろいろあるお釈迦さまを表す言葉のひとつに、『天人師』という言葉があります。わざわざ人間と神々の先生ですよと言うのです。それを聞いて、「本当に神々はいるのですか」と困る人がいるかもしれません。いないなら入れる必要はないのですが、「やっぱり神々はいるんだ、では拝みましょう」と考えると変な方向に行ってしまう。そこはすごく気をつけたほうがいいのです。

 仏教では、生命はすべて平等という立場で考えています。神がいるかいないかではなく、我々が見ているのは神様であろうが、偉いとは思っていないのです。奴隷の例えで王様に言った「あなたも人間です。私も人間です」という言葉と同じです。神々に対しても「あなたがたも生命です。私も生命です。あなたは徳を積んで神になった。では私も徳を積んだらどうですか。神になるでしょう」という立場なのですね。

 生命にとって本業は人格を完成することです。神になってもまだ人格は完成していないでしょう。ですから神になろうとも梵天になろうとも悪魔になろうとも、人格が完成してない限り、我々と同じように仕事があるのです。そこで人格を完成した仏陀が、神々に指導する。そういう論理によって、平気で「神々、梵天、すべての人々の先生です」と言うのです。

全知宣言は仏陀の誇大宣伝ではありません

「かれは、この神々をふくむ、魔をふくむ、梵天をふくむ世界を、沙門、バラモンをふくむ、天、人をふくむ衆を、自らよく知り、目のあたり見て、説きます」。

 神々、梵天、悪魔を含んだ世界のすべてを知り尽くしている、とはどういうことでしょう。

 ほとんどの人々は副業だけで人生を終え、本業のことを考えもしないのです。天に生まれても同じことで、人格を完成しようとは思いも寄らないのです。だから仏教では、悟った人から見れば全部知っているのだと、何の遠慮もなしに言う。それは暴言ではないのです。宗教でよく使う、聞こえのいい宣伝文句でもありません。

 例えばこんなことを言うと、ものすごく失礼に感じる宗教的立場の方々もいるかもしれませんが、キリスト教で「処女マリア様が懐胎して生まれたイエス様は神の子ですよ」というのは宣伝文句なのです。論理的にみれば、神の子だったらわざわざ人間のおなかから生まれる必要はないでしょう。「神の子」は不倫の結果、未婚の女性からイエス様が生まれたという事実を隠すための宣伝文句だと言えるのですね。一方、「仏陀は人間と神々の先生です」というのは宣伝文句というより、そこに仏教の基本的な考え方があるのです。それは生きる目的についての、仏教という宗教の哲学なのです。それを人が認めるかないかは別な話です。

「人格完成」は仏教哲学の基本です

 仏教という哲学から見れば、生命の生きる目的は人格を完成すること、ありったけの煩悩をなくすことです。煩悩は、人格の欠点をつくりだす原因ですから、それを全部取り除きましょうという視点で、一切の生命を平等に見る。神々でも誰でも、見ればみんな副業だけやっていて、それで精一杯なのです。だから世の中にはたとえ神であろうとも、人格完成者がいないことは分かり切っているのです。例えば「glory of God」という言葉があります。これを見ただけで、何のために神が人間を作ったかというと、自分をほめたたえるためだ、と分かるでしょう。神もほめられると機嫌がいいし、ほめてくれなければ腹が立って、人を地獄に落としてしまう。これでは人格は完成してないということははっきりしています。聖書が厳密に記録しているものだと主張するなら、それ自体で神様が人格完成者であることを否定するのです。証拠を出して、イエスの生まれ変わりも百人以上承認したし、厳密に記録しているから間違いはないと主張を受けて、仏教もそれが事実だと仮に認めましょう。しかし、誰ひとりも人格は完成していない、完成しようともしないということも、明確にわかるのです。

 仏教では人格を完成することは道であって、それをやりなさいと言っている。自分の怒りを棚に上げて、天にまします神様をほめたたえる人々よりは、微かな怒りでもなくそうと努力している人は偉いのです。奥さんと毎日ケンカする人が、どうすればこのケンカをしないようにできるかと、努力することは立派なのです。それは仏教の立場です。

 そういうポイントは仏教の経典ではどこにでも書いているのです。「たとえ指を鳴らす瞬間だけでも慈しみは育てなさい。慈しみを育てた人は神よりも偉いのだ」、と色々な経典でそれぐらいほめているのだから、仏教ではいかに人格完成を高く評価しているのかということなのです。

理解によって確立した信仰に疑いはない

 だから仏教では、たまたま仏教の家で生まれたから仏教徒だとは認めません。仏教の信仰を確立するということは、お釈迦さまの言葉を聴いてしっかりと理解して明確にわかることです。それだったら悩むこともないし、疑もないのです。誰かが超能力を見せるとか、ハンドパワーを入れた水を飲んでたちまち病気が治ったとか言うと、みんないろいろ驚くでしょう。そんな話をいくら聞いても仏教を明確に理解している人は、ああそう、という感じで終わってしまう。

 キリスト教の人々が聖書を信仰しているように 仏教徒はお釈迦さまの言葉を、それこそ絶対的だと信仰しているのです。信仰している形は似ているけれど、我々のやり方は「お釈迦さまの言葉だけは触るな」と。いわゆる、自分の解釈をしないでそのままを理解しましょう、というふうに考えるのです。それは神の言葉だからではなくて、お釈迦さまは真理を自分で発見して語っている、それも正しく語っているのだという確信からきているのです。お釈迦さまは「こんなふうにはほかの人にはしゃべれません。完全に説法している」とご自分で自慢するのですね。

「かれは、初めもよく、中間もよく、終りもよい、内容もよく、形式もよい法を示し、完全無欠で清浄な梵行を明らかにします」

という言葉があります。完全無欠というのは人格を完成するということで、すべての欠点はない梵行(実践方法)を教えているのだと仰るのです。

仏教の出家は《逃げ》ではなく人生の追求です

「その法を、家長や家長の息子、あるいは他のいずれかのカーストに生まれたものが聞くのです。かれはその法を聞いて、如来に対する信仰を得ます。その信仰を得たかれは、このように省察します。『家庭生活は煩わしく、塵垢の道である。出家生活は露地のようなものだ。』」

 ここで書いているのは、人がなぜ出家するかというポイントです。

 皆さまがたも本心では、こんな楽しい人生なのに、なぜ出家するのかと思っているでしょう。人生に失敗した人々が、「いいえ、人生は楽しくはない」と言ってみても、それでは答えにならないのです。

 ある人々は、会社でリストラになって、山に篭って修行したりするのですが、それは出家とは言えません。そのような現象は、もし彼らが会社でリストラにならなかったら絶対ないでしょう。つまり彼らが人生に負けて逃げているのです。出家ではなく《逃げ》なのです。昔、あるタレントさんが、子供のことで大学に賄賂を払ったことが露見して、テレビ番組から降ろされてなかなか現れなかったのです。半年間くらいどこかのお寺で修行して、罪滅ぼししたことにして、また仕事に復帰したのですが、そういうのは出家ではないのですね。名誉がなくなったところで世間から逃げ出して、風向きがよくなればまた何とかして元に戻ると。これは子供が外に行って遊ぶことと同じなのです。子供がいくら外で夢中になって遊び呆けていても、ちょっと怖いなと感じたら、「おかあちゃーん」と言いながらまたすぐ戻ってくるでしょう。本当の出家とは、そういう現象とは違うのです。

 お釈迦さまがここで言っているのはそういう世逃げではないのです。まず、お釈迦さまが言われた真理を聞いてそれを理解して、納得する。この真理を理解して納得することを仏教で信仰(確信)というのです。証拠があるかないかは関係なく鵜呑みにすることを信仰という場合もありますが、仏教は理不尽な、証拠のないことは言いません。人間には理性がありますから言われたことを聞いてわかるぐらいはできるでしょう。

出家は本業完成の第一歩

 そこで確信を得た人が、人格を完成しようではないかと思ったところで、副業で忙しくて暇がないのですね。ただそれだけのことなのです。朝起きたら「あれやらなくちゃ、これやらなくちゃ」と、次から次と寝るときまで一瞬も暇がない。ゆっくり寝ることもできない。また早く起きなくてはいけないのです。起きてすぐまたエンジンをスタートして、歯を磨くわ、服を着るわ、料理を作るわ、また仕事に出ていくわ。大変でしょう。それは死ぬまで終わらないのです。 

 時々若い奥さんたちが計算するでしょう。あと8年経てば子供が16歳だから手を抜けると。そんなことはないのです。16歳になったら、それなりのトラブル、問題が出てきて一日も暇がない。やっと子供が社会人になって家族をつくった頃には、自分たちがおじいちゃん、おばあちゃんになっている。もう老齢ですから身体が自由に動かない。いろんなところが故障しているのですね。そこで故障している部分を治しに行くでしょう。いくら治しても治しきれない。これで死ぬまで副業で毎日忙しい。本業には暇がないのです。

 結局人々はものすごく忙しいのです。副業がいっぱいあって、一生では足らないのですね。そういうわけで出家しなくてはいけないのです。そこはすごく合理的に言っているのです。

 例えば、怒りと欲は欠点でしょう。それを家族と居ながら直そうと思ったらできますか。子供に怒らなければどうなるのですか。欲がなくて商売できますか。自分がいろいろ品物を作って売ろうとする。そこにお金のない人が来ても、ただであげるわけに行かないでしょう。相手が本当にお金がなくて困っていて、かわいそうだと分かっても、商売だったら追い返さなければならないのですね。

 だから「本当に心を清らかにしましょう、本業に励みましょう」と思ったら当然な答えとして、出家というものが出てくる。世間で言っている出家と、仏教の出家の立場はその点では違うのです。仏教で昔、出家した人々はすごい哲学者たちで、真剣な人々なのです。今はちょっとしたお祭りになっていますが、昔はすごく真剣に「こんなことをやっている暇はないのだ。俗世でいても汚れが増えるだけで消えません、限がないから出家しましょう」ということで出家する。

 このポイントではその仏教的な出家のことを語っているのです。奴隷と農奴の例えは仏教的な出家ではなくて、一般的な出家の話です。仏教で出家した人々は、パーティモッカという戒律で自分を守ることになります。 (次号に続く)


■さらにすぐれた沙門の果報 沙門果経(16)

〔前号までの話〕 「その法を、家長や家長の息子、あるいは他のいずれかのカーストに生まれたものが聞くのです。かれはその法を聞いて、如来に対する信仰を得ます。その信仰を得たかれは、このように省察します。『家庭生活は煩わしく、塵垢の道である。出家生活は露地のようなものだ。』」
如来の法を聞いて信仰(確信)を得た人は俗世の生活の煩いを捨てて出家することにします。在家でいてもこころの汚れは増えるだけで消えません。本当に心を清らかにしようと思うなら、当然な答えとして、出家というものが出てくるのです。仏教の出家者はパーティモッカという戒律で自分を守ることになります。

戒律は出家者を守る

「このようにして出家となり、かれは、パーティモッカの防護によって守られ正しい行いと托鉢場所をそなえて住みます。ほんのわずかな罪にも恐れを見、もろもろの戒律条項を正しく受持し、学びます。善き身の行為・口の行為をそなえ、清らかな生活をし、戒をそなえ、もろもろの感覚器官の門を守り、正念と正知をそなえ、満足しているのです」

 「パーティモッカの防護」というのは人格を完成するためにある戒律のことです。「pâtimokkha」とは「解脱を目的とした自分を守るための生き方」という意味を持つ戒律なのですが、このパーティモッカの訳ができなくて、漢訳仏典では波羅提木叉と音写しています。学者たちがなぜ意訳をできなかったのかというと、「prâtimoksa」(サンスクリット語)の「プラーティ」というのは「対立して、反対」という言葉で、「モクシャ」は「解脱」です。だから「解脱に逆らう生き方」というふうに考えてしまったのです。漢訳するのに困った昔の人々は、そのまま波羅提木叉という漢字を当てたのですね。「プラーティ」というのは、「正しく守る」ということ。well guard、ガードがかたいことです。ガードして真ん中にある解脱を守る、という意味でプラーティモクシャと言うのです。

 考えればわかることですが、「出家」するのは煩悩だらけの俗人です。いくら出家して解脱を目指していても、俗人と同じことをしていればズルズルと煩悩に引かれてしまうのです。絶対悟れなくなってしまう。それなら、俗世間の人々がやっていることを出家はやってはならないと、俗世間から出家をガードする。それが戒律です。

 俗世間でやることにべつに罪があるわけではないのです。例えば、ちゃんと仕事をして子供や奥さんを養うのは当たり前のことで、悪いことではないでしょう。家族を守ることも会社に行くことも、商売することも、商売して儲かることも、在家の人々の普通の生き方だから何のこともないのです。でも出家はやってはいけません。これは「家族があることは罪ですか」という意味ではないのです。出家者が在家の生き方をやってしまうと、心は汚れたままになるのです。もし出家して商売を始めたら、欲はなくなりますか。普通の商売人と同じように経済第一にものごとを考えて、会計士を雇って、あれこれカラクリまでやらなくちゃいけないでしょう。そんなことを続けていて解脱できるでしょうか。

 ですから仏教の戒律には誰も口を出してほしくないのです。よくテレビの宗教番組で「南アジアの仏教国では、大の男が出家すると経済活動は何もしない、だから国が豊かにならないし発展もしないのだ」などと文句を言うのです。仏教を知らないからわからないのは当たり前ですが、戒律を知らない人に勝手なことを言って欲しくないのです。出家者は経済活動はしません。

 また結婚もしません。経済活動と同様に、結婚することが罪という訳ではないのです。結婚は相手のことを好きでなければできないでしょう。好きということは欲でしょう。欲は心の汚れです。人格を完成しようと出家したのだったら、それはやめるしか方法はないのです。

 そういう論理で仏教の戒律はきれいに成り立っている。それをまとめてパーティモッカ、完璧に包囲して解脱を守っているとお釈迦さまは言うのです。対立するものから解脱を守る。例えば軍隊だったらいつでも、誰が敵か、誰が味方か見分けなくてはいけない。守るために、自国と同盟国の人々は味方で、それ以外の人々は敵だと決めるでしょう。それが軍隊の守る基準です。プラーティモクシャという場合も、その論理で反対または対立という言葉を入れているのです。解脱は味方で、解脱に関係ないものは全部敵ということで戒律が成り立ち、解脱を守っているのです。

 出家者は、そのプラーティモクシャという戒律に守られて、行儀良く振舞い生活する。わずかな間違いでも犯さないようにと戒律の項目を守る。食べる為に、生きる為に悪いことはしない。生活は清らかである。眼耳鼻舌身意をちゃんとコントロールするのです。

 それだけでは足りません。お釈迦さまは、もうちょっと他宗教に対して仏教はどれぐらい違うかと説明したがるのです。多くの宗教がある中で、「なぜ仏教か」「やはり仏教だ」という答えを仏教側が言わなくてはいけません。宗教はインドで64もありましたから、他宗教には見られない仏教の優れた特色を言うのです。

 (次号に続く)

(スマナサーラ長老の講義より 編集 杜多千秋)

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