パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.10 (1995年12月)
「いまの瞬間」
〜思い出が心を汚し、空想が心を乱す〜
A・スマナサーラ長老

 今回は仏教のなかでも特に重大な意味を持つといわれている appamâda(アッパマーダ) という言葉について考えてみたいと思います。

この言葉はこれまでいろいろな解釈がなされてきました。怠らないこと、努力すること、励むこと、あるいは不放逸という言葉も仏教では有名です。
釈迦尊の最後の言葉もこの appamâda でしたから、仏陀の教えそのものがこの言葉に凝縮され象徴されているといっても過言ではありません。
言葉の語源の語根√madは、酔う、混乱、狂うといった意味があります。 pamâda は酔う状態、狂った状態に陥っていることを意味し、(否定の意味)+(p)+ pamâda は覚醒とか意識がはっきりしている状態を意味することになります。

 皆さんにぜひ覚えていただきたい大切な言葉にAppamâdo(アッパマードー) amata(アマタ) padam(パダン)というものがありますが Amata ; 不死、永遠、pada;言葉、道、歩を表しますので、Appamâdoは不死、永遠を得る方法といった意味になるでしょう。逆に pamâda は死を意味する言葉ですから、一般的に訳せば「放逸や怠たることは死を意味します」と言うことになるのです。いったいなぜそうなるのでしょうか?

 私たちはいまこの瞬間を生きているという現実を、理屈の上では十分理解しています。
しかしそうした現実のなかで、いまこの瞬間を生きながら、心では過去に起きた出来事や思い出などの想念を膨らませているのです。過去に起きたことに悔やんでみたり、悩んだり、あるいは喜んだりしていますね。その一方で、いまこの瞬間のことを判断し、行動しようともします。どちらのあなたが実在なのですか。心は実在しない架空の過去を彷徨(さまよ)っているのですから、この人はいまこの瞬間を確実に、正しく生きているとは言いかねます。 “いま、ここ” に存在することも、“いま、ここ” に起こる現象もありのままに、正確に理解し、体験することも出来ないという状態にあります。いまこの瞬間に起こっていることを理解できないのは死人と同じではないですか。

 また心は未来へも走りだします。“いま、ここ” に生きているのに、これから先のことについてあれこれと考えたり、想像したり、妄想したり、心配したり、悩んだり、苦しんだりしています。
あるいは未来に勝手な夢想や空想をします。それでは現実のなかで、“いま、ここ” に確実に生きているということが至極曖味になってしまいます。いましなくてはならないことを完全に行うことが不可能になってしまいます。自分にいま起こることを気づかないというのは、これも死んだ人と同じと言われても仕方がありません。

 過去は過ぎ去ってしまったのですから、いまさらどうあがいたところでどうすることもできません。「過去の良いことを思い出すのは楽しいではないか」と反論しても、過去の “いい思い出” に舞い上がって妄想に耽っていると、ますます “いま、ここ” という実存に正しく生きることが出来なくなってしまいます。過去が楽しいということは、現在が不満であるというのと同意語です。

 では未来についてはどうでしょう?
 未来、これはまだ起こっていない現象であり、いくら想像したところでその通りになるとも判りません。未来はそのときの因果関係、状況、条件などによって決められていくものですから、想像するだけ時間の無駄というものです。しかも、想像以外のことが起こったときには、それに立ち向かっていけなくなってしまうではないですか。どんな状況にも立ち向うには常に心は “いま、ここ” にあるべきです。それが appamâda という生き方です。

 “いま” この瞬間にあって常に混乱のない、迷いのない、過去や未来などの妄想に酔いしれず、溺れない状態にあること、聡明でいること、それが appamâda の意味するところです。

 一方で pamâda は、心が過去や未来へ想いのなかにいつも彷徨っていて、妄想に溺れ、心が混乱状態を呈している−「心を開いて怠け心に委ねてしまっているような状態」と言えばいいでしょうか。 pamâda には、怠けることという意味もあるのです。

 “いま” 自分の体に起こること、自分の心に起こることを確実に知って、正しく行動すればいいだけなのです。「いま、この瞬間だけだったら、何とか頑張れる。何とかできる」そうは思いませんか?

 “いま” 自分が、聞く、見る、味わう、嗅ぐ、触る、考える、話す、行動する−要はこれだけのことなのです。そういう人間の “いま、この瞬間” によく気がつく、正しく認識して生きる−悩みや苦しみがなく完全に生きることなのです。そのためのいちばん確実で、いい方法は、もう皆さんお判りですね。これはまさに sati (サティ)の生き方であり、vipassanâ(ヴィパッサナー)の実践方法に基づいた生きるべき道なのです。

 この生き方をすれば徐々に真理の世界が見えてきます。存在の謎が解けてきます。いっさいの疑いや迷いがなくなってきます。心の汚れが清められ、煩悩に支配されていた心は解き放たれ、心を縛っていた悪い束縛からは徐々に開放されていきます。さらに、生死の循環である輪廻からも脱出できるようになってきて、必然的に解脱への道が大きく開かれ、ついには解脱を体験できるようになっていくのです。

 「火は小さくても ものを燃やすように appamâda (不放逸)を好む人は煩悩を滅します」とは仏陀の、言葉です(Dhammapada ― 31)。
それは言うまでもなく sati の実践であり、sati の実践がなければ生命は無限に輪廻を繰り返すその中で悩み苦しみを体験しつづけなければならない、そういう仕組みになっているのです。

 大切なことは仏教でよく使う appamâda を、単に不放逸、怠らないことというこれまでの観念的な解釈ではなく、“いま、ここ” に気づいて生きること。sati の生き方として appamâda を改めて見直し、そういう目でもう一度 Dhammapada の第二章をよくお読みになってみてください。

今回のポイント

◎経典の言葉
Appamâdo amata padam pamâdo maccuno padam,
appamâttâ na mîyanti ye pamattâ yatha matâ.
不放逸は不死の道なり。放逸こそ死の道なり。不放逸の人は死ぬことはない。
放逸の人は死んでいるようなものである。 (Dhammapada-21)
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