パティパダー巻頭法話

No.100(2003年6月)

一言で知る仏教の全て②

平等主義とは忍耐のことです Tolerance is the master of good.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「釈迦は何をおっしゃっているのか。言っていることがさっぱりわかりません」というのが、ほとんどの人々の感想です。

その気持ちはわからないでもないのですが、たいへん高度な文明を築き、めまぐるしい科学発展を経て、たいへん複雑で高度な世界を作り出した人間は、昔の人が言ったことくらいは単純に理解できるはずなのです。
考えてみれば、昔の人が言うことの何億倍もすぐれたことを、現代人は知っているはずなのです。ですから「我らは最高の知識を持っている」という自信を持ちながら、暇つぶしに昔の人々の言葉を読んでみることでしょう。
それはけっこう面白いものです。変なことを考えていたものだなあと思うと、面白くて笑えるのです。
火山が爆発するとハワイ島の昔の人々は、ペレ神が怒ったのだ、フィリピンの人々ならまた別の神さまが怒ったのだ、人間の行いが悪かったからバチが当たったのだ云々と言って、神さまに祈りをかけて、火山の爆発がおさまるように願うのです。ときによっては溶岩に花や水を投げつけて、溶岩がしずまることを願ったのです。地球のプレートの運動について知っている現代人には、暇つぶしになる面白い話です。
また、現地の人々といっしょに昔の祭をやってみるのも楽しいことです。地球が丸いとも知らなかった昔の人々の話は現代の人に理解できないと言うなら、それは失礼な話だと思います。

釈尊の説かれたことも、今の人々には朝飯前に理解できるというならば、それは当たり前の話ではないでしょうか。
簡単に理解するだけではなく、現代の科学知識に照らして、茶化してみることもできるはずです。

仏陀の話を理解できないと言う人々は、現代人の能力を甘く見ているのだと私は思います。
「どうせ仏陀はくだらないことを言っているのだろう」という気持ちで言っているというならば、この訴えは取り下げます。「もしかすると、何かそれなりに賢いことを言っているのだ」と思っていらっしゃるならば、それを理解できないと言う人は、自分を含めて現代人の知識を侮辱しているのです。ですから、理解できるようにチャレンジした方がよいと思います。

それでも何年もかけて、分厚い本なんかを読む暇はないし、真剣に真面目に書かれたマンガ本もないので、仏陀の教えを理解できる唯一の手段もなくなっているのです。
そういうわけで、この問題を何とか解決しようと、4月号で「一言で知る仏教の全て」というタイトルで、短い言葉を紹介いたしました。今月もその続きを書きたいと思います。といっても「一言」にはならないこともわかっていますが、4月の話を理解できなかった方々に、別の一言をご紹介いたします。しかし、「一言でわかる」という本を(内容は何でもいいのですが)手に取ったら、それを読み終えるために何日もかかってしまうということも常識です。覚悟が必要ですよ。

「最高の修行というのは忍耐です」。
ここでの一言は『忍耐』です。
なぜ忍耐を修行というのでしょうか。それは、昔も今も、まともで立派な人間になるためには、何かしらの宗教を信仰して、真面目に実践しなくてはいけないと思っているからです。「宗教なんか何も信じません」と、もし子供が言ったなら、我々真面目な大人はその子の将来を本気で心配するのです。だからといって大人が何かを本気で信仰しているわけではないかもしれません。

「宗教を信じている人は道徳的で信頼できるいい人だ」というのは、昔からの固定概念です。
実際の生き方がその教えとかけ離れていても、それは気にしないのです。それにしても、ブッダはといえば、何かを妄信することにはケチをつけているので、上の固定概念は正しいと頑なに信じている私たちには仏教が解らなくなるのです。
しかし、人を愛するが故に大量殺人を犯す、戦争を起こす、人の生きる自由を奪う、自分こそ正しいという傲慢な態度で他人を平等に見ない……これら『敬虔な信仰者たち』の生き方のほうこそ、釈尊には理解しがたいのです。
何らかの宗教を信仰して修行している人が、信頼できる道徳的な素晴らしい人間だとすれば、それはそれでありがたいことです。人類にはそのような人がたくさん必要です。否、すべての人々が、そうなって欲しいのです。であるならば、何か得体の知れないものを信じることより、『忍耐』こそが宗教の修行にもなるのです。

非難されても、侮辱されても、相手を攻撃せず忍耐する。相手に対して、優しい心を持つ。
肌の色、話す言語、生まれた環境などによって、人は様々です。話す言語は多数です。だから、仲良くしようとしても、ぶつかるところ、かみ合わないところが、ありすぎです。
そこで、自分の主義を相手に強引に押しつけるのではなく、皆の権利を認めるのです。
これは相当な忍耐です。
忍耐ある人は、「○○人だから」と言って人を差別するどころか、「毒を持っているから」と言って蛇を殺すことすらしないのです。
一切の生命に対して、また環境に対して、優しい人間になるのです。従って、『忍耐』より勝れた生き方、修行方法があるとするならば、こちらも教えてもらいたいところです。「最高の修行というのは忍耐です」。これは一言で言えるブッダの教えなのです。

「目指すべき最高の目的は涅槃である」。
これも一言で言えるブッダの教えです。
涅槃と聞けば、理解しようとする前に尻込みするのが普通です。明るい人生に冷や水をかけるなよ、という気持ちになる。しかし心配は無用です。ブッダは「苦しみを消せ」と言っているだけです。また、嫉妬、怒り、憎しみ、強欲をなくせと言っているのです。
何故かというと、それらの原因のせいで、私たちは皆、計り知れない苦しみを味わっているからです。自分だけ苦しむのはご勝手でご自由ですが、苦しみ悩み果てている人々は、それを他人のせいにします。他人に攻撃をしかけて、他人に多大な苦しみを与えます。他人を道連れにするからこそ、人の苦しみを放っては置けないのです。
ですから、自分の苦しみをなくすこと(涅槃)を、生命の唯一の生きる目的として目指すべきなのです。それも一言で言えるブッダの教えです。

今回のポイント

  • 論理を駆使すれば仏教こそが解りやすいのです。
  • 仏教は美辞麗句ではなく人の役に立つ教えです。
  • 仏教は彷徨える生命に生きる目的を示すのです。

経典の言葉

  • Khantī paramaṃ tapo titikkhā
    Nibbānaṃ paramaṃ vadanti buddhā;
    Na hi pabbajito parūpaghāti,
    Samano hoti paraṃ vihethayanto.
  • 忍耐・堪忍は最高の修行である。
    涅槃は最高のものであると、諸々の仏陀は説きたもう。
    他人を害する人は出家者ではない。
    他人を悩ます人は「道の人」ではない。
  • (Dhammapada 184)