パティパダー巻頭法話
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No.104 (2003年10月)
自由という幻覚

〜人生の行方は外からの影響で決められる〜
 Nobody is born free.
A・スマナサーラ長老

 人間という生きものは、何一つ、自分ひとりの力だけですることはできません。たったひとりの努力だけで何かをやり遂げようではないかと、余計な見栄を張って踏んばらなくてもよいのです。何か一つをやり遂げるという稀少なケースもあるかもしれませんが、何をするにしても他人の協力が必要だという事実を素直に認めるべきなのです。

 それを認めると、良いことが2つあります。自分ひとりで踏んばって何かしようとして、心身ともに壊れてしまって不幸に陥ることはなくなります。もう一つは、他人が協力を求めたり頼ったりするときにうんざりすることがなくなります。助けてもらって生きているのです。それだけではことは済みません。自分も他を、必要に応じて助けてあげなくてはいけないのです。それを理解しておくと、他人が自分に頼ったり協力を求めたりしても、うんざりしたりさぼったりする気持ちは消え失せるのです。

 自分ひとりでは何一つ成り立たないことを理解する人は、強情で高慢な態度にはなりません。他人をけなしたり侮辱したり非難したりはしないのです。好き勝手に感情をむき出しにもしないのです。常に、協力してもらえるような体制でいます。謙虚で素直に生きていようとします。強いていえば、大変格の高い人間になります。

 「いや、人間は他に完全に依存しているわけではない」「他人にまったく関係なく、ひとりだけでやることもいっぱいある」という反論が成り立つと思います。しかしよく考えてみると、事実は違うのだとわかるのです。たとえば「考えることは自由だ」といううたい文句があります。しかし聞きます。本当に我々は自由に考えているのですか? 考えるために、あらゆる情報に依存しているのではないでしょうか。考えることだけではなくて「考え方」という思考パターンさえも、まわりから刷り込まれたものです。情報、価値観などは、脳に刷り込まれています。それぞれの人がそのパターンに沿って、考えているのです。「自由な思考」とは、ただの自慢に過ぎないのです。

 アメリカ人には、自分たちの思考パターンがあって、アルカイダの人々には自分たちの思考パターンがあるのです。アメリカ人に、ビンラディンのファンになれと言っても無理でしょうし、アルカイダの人々に、アメリカを応援しなさいと言っても成り立つ話ではありません。

 どうすることもできない状態で勝手に暴走するのは、思考ではなく妄想なのです。絶えず勝手に回転する妄想は、自由でしょうか。そうではありません。妄想を観察してみると、いつもいつもワンパターンで、ほとんど同じことを繰り返して思考が回転していることを発見します。人には自由というものはないと、いさぎよく認めたほうが楽ですよ。

 たった一つの瞬間だけ、人が完全たる自由を経験するときがあります。それは、ヴィパッサナー実践が見事に進んで、こころが解脱を体験する瞬間です。それ以外に、自由を求めるのはやめましょう。

 生命は自由でないという立場から、また新たな問題が生まれます。外からの影響はどのように受ければよいのかということです。影響を受けざるをえない環境の中に完全に閉じ込められて生きているからといって、影響は何でもいいということではありません。受ける影響によって自分の人生が左右されますので、この上ないほど、影響に対して慎重にならなくてはならないのです。

 誰でもいいからとやたらに友達を作ったり、何でもいいからと無批判に読書をしたり勉強をしたりするのはよくないのです。やたらにコンピューターゲームにのめり込むことも、インターネットに依存することも危険な行為です。それは、おいしいからといって何を食べてもいいということにならないのと同じです。自分の人生を幸福にしてくれる影響を素直に受け入れて、不幸におとしいれる悪い影響を退ける能力を身につけることは不可欠なのです。子供を育てる親の一番大事な役目は、ご飯を食べさせてやることではありません。子供がその能力を身につけるように導くことです。これをしない親は、子育てを見事に失敗します。親たちはそれなりに頑張っていますから、この世はなんとかそれなりにうまくいっているのです。もし、この「それなりに」という言葉を、「しっかり」という言葉に入れ替えることができるならば、世界の人類は間違いなく、幸福で満たされるのです。

 いくら親だといっても、普通の人間ですから、しょっちゅう間違ってしまうのも当たり前のことです。だから、親だけにすべての責任を覆い被せてはいけません。個人個人にも、善は何なのか、悪は何なのかと、自分で調べて理解する義務があります。良い人を仲間にしたり、正しいことを勉強したりして、自分を磨かなくてはならないのです。無批判に面白いと思われるものに飛び込んではなりません。私は開祖さまだ、超能力者だ、神様だと、他人に言われても、鵜呑みにして信じるのではなく、調べてみるのです。

 信頼できる、模範になる、どなたかがいるならば、人にとってはそれこそが、幸福になるための道なのです。成功するための道なのです。ですから、指導してくれる、教えてくれる、善人がいるかいないかを、観察の網を張り巡らせて観ておかなくてはならないのです。

 仏教の実践は集団でやるものではなく、自分ひとりでやるものだとよく言われているでしょう。確かに、ヴィパッサナー実践は二人でやれるものではありません。しかし、まったくひとりで道を発見して悟りを開いたのは、お釈迦さまひとりだけです。弟子たちは、仏陀という偉大なる指導者の影響を受けて悟りを開いたのです。「善友に出会えば、仏道は完成するものだ」というのは、お釈迦さまの有名な言葉です。絶対的に信頼できる、頼るべき人は、稀に現れる。それは正覚者であるお釈迦さまです。

今回のポイント

◎経典の言葉
Dullabho purisâ jañño - na so sabbattha jâyatî
Yattha so jâyatî dhîro - tam kulam sukha medhati. (Dh. 193)
最高に優れている人は希有なのです。何処にでも生まれてくるわけではありません。
もしそのような智慧の完成者が生まれたならば、その家は幸福に栄えます。(Dh. 193)
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