パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→手に届かぬ自由
No.106 (2003年12月)
手に届かぬ自由

〜学ぶなら、完全な人から学ぶ〜
 Virtuous dependence
A・スマナサーラ長老

「私たちは自由な人間だ。もっと自由になりたいのだ」と思っているでしょう?
 しかし、本当はそうではありませんね。本当は自由でもないし、自由になることもできません。我々は言われたままに生きているだけです。自分の意見、意志などがあると思っていますが、本当は違います。何の話だかわからないでしょうから、少々説明いたします。

 この世に生まれてから、自分ひとりでできたことといえば、母親のおっぱいを吸うことくらいでしょう。その能力さえも、遺伝子に書き込まれているものですから、自分ひとりでやったと自慢できるほどのものではありません。今まで私たちがやってきたことはすべて、他人に教わったことです。お箸を持ってご飯を食べることから、鑿(ノミ)を手にして大作品を彫刻するところまで、他人に教わったものです。しゃべる言葉も、しきたり、習慣、技術、芸術ほか、思いつくもの何であろうとも、他人に教わったものなのです。「でも考えることくらいは、自分の自由でやっているのでは?」。違います。考え方も教えてもらっているのです。今の自分の考え方は別なものを勉強して知識を得ると、簡単に変わってしまうのではないでしょうか。我々の考えも、日々変わっているのですが、それは外の世界から受ける影響の結果です。

 おっぱいを吸う程度の能力を持って生まれた人間が、世界を支配できるところまで成長したとしても、他人を自由自在に動かしたとしても、自分の能力のすべては他人に教わったものだと理解しなくてはいけないのです。ですから、言われたままに生きているだけであって、自由に生きているわけではないのです。自分の意志でものごとの判断をしていますが、その中にも他人の影響は厳密に反映されています。昼飯はご飯ではなくラーメンにするぞと思うとき、自分の好みで判断したかのように見えますが、ラーメンに決めるために、頭の中で巡らせた情報すべては、他人にインプットされたものです。

 私たちの人生は完全に他人に教わったものである、自分の意志で行う判断さえも他人の影響によるものであると仮定すれば、「私は完全に、他人を反映している生き物に過ぎない」ことになります。これは、いけない、やめなくてはと思っても、どうにもならない事実だと思います。私たちにできる唯一のことは、善い影響のみを受けて、悪い影響を完全に遮断することです。そうすると、簡単に善い人間になるのです。結果として、自分も社会も幸福になるのです。社会は、悩み苦しみにあふれて、互いに戦うことで明け暮れているのです。このような社会になっているのは、我々にものごとを教えてくれた人々が何も大したことを知らなかったからです。今の社会がロクな社会でないのは、先輩にロクな人がいなかったからではないでしょうか。

 親も他の大人も、子供を悪人に育て上げる気持ちは毛頭ありません。子供を立派な社会人に育て上げるために、努力をしない親も大人も存在しないのです。では社会は、善人であふれていますか?否、安心してひとりで道さえ歩けない世界に生きているのです。立派な大人に育てたいという気持ちはありがたいのですが、教える内容次第で、後輩の人生は形成されるのです。後輩に教える私たちも、何でも知っているとは思ってはいません。自分自身も間違いだらけの生き方をしているのだと、嫌になるほど理解しています。正しい判断は何なのかと常に悩んでいるのです。このように精神不安定な私に育てられた後輩が立派な人間になることを期待するのは、トンビがタカを生むのを望むようなものです。私がロクな人間になっていないのも、私の先輩も同じ問題を抱えていたからです。この調子でいけばこの世界は悪くなる一方で、明るい見込みはなくなるのです。この悪循環を断つ方法はないのでしょうか。

 あります。まともな人に教えてもらえばよいのです。では、そのまともな人とは誰でしょうか。その人は世界を知り尽くしていなければいけません。感情に振り回されることを完全に断って、智恵に基づいて判断し、行動する人でなければなりません。私たちのように、何か利益を期待して他人の面倒を見る人ではだめです。他人に何か利益を期待すると、その人の機嫌を取ることになるのです。しつけしなくてはいけない場面があっても、見て見ぬふりをする可能性もあるのです。ですから、完全に献身的で、相手から何の利益も期待しない人でなければなりません。権力にも財力にも無関係で、そのような脅しに絶対めげない人でなければなりません。善と悪を完全に知り尽くした人でなければなりません。幸福への道を知るだけではなく、自分自身で実現している人でなければなりません。絶対信頼できる人でなければなりません。

 そんな人はいるわけがないと思われるでしょう。
実はいるのです。人類の中で、このような人がたったひとり現れたのです。その人はこの世で誰にも否定することができない完全たる真理を語って、後の世代のために残されたのです。言うまでもなく、これはお釈迦さまのことです。

 お釈迦さまを信頼すれば、その人の生き方は確実によくなります。お釈迦さまをモデルにし、尊敬して、自分の人生を築いていけば、失敗することは絶対あり得ないのです。幸福になりたいと思うならば、完全な幸福を得たお釈迦さまを尊敬して、お釈迦さまから学ぶことです。悪を断って善を行い、善い人間になりたいと思うならば、善も悪も乗り越えているお釈迦さまから学ぶしかないのです。仏陀の道を歩んで間違いを犯した人は、今までひとりもいません。と言うと、仏教徒も悪いことをしているではないかと、首を傾げるかもしれません。そういう人も確かにいますが、彼らは仏陀の言葉ではなく、ときどき、ロクでもない人間に教わったことを実行しようとするのです。それは間違いです。優柔不断に、あの人の話もこの人の話も聞き入れるようになると、たとえお釈迦さまでも守ってあげることはできないのです。仏陀に帰依する人は安全なのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
Pujarahe pujayato - buddhe yadi va savake,
Papanca samatikkante - tinna soka pariddave;
 
Te tadise pujayato - nibbuto akutobhaye,
Na sakka punnam sankhatum - imettham'iti kena ci. (Dh. 195-6)
妄想を断って、悩み苦しみを乗り越えている、尊敬に値する仏陀また、その弟子を尊敬する。
平安を得て、恐怖を乗り越えている彼らを尊敬することで得られる徳は、はかりしれない。(Dh. 195-6)
次の法話へ→
HOMEパティパダー巻頭法話→手に届かぬ自由
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.