パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.109 (2004年3月)
「敗退に気づかない勝利者
〜幸福を逃がす、競争の原理〜
 Victory and defeat, motive of failures
A・スマナサーラ長老

 競争の原理は世界の原動力 です。
競争を地軸にして、我々は生きています。競争しない生き方なんか、そうそうはできない。幼稚園に行く前 にも、子供は「勝った、負 けた、嬉しい、悔しい」とい うことを経験しているのです。幼稚園から死の床まで、勝ったか負けたかという二つの判断基準で生きているのです。勝ったら楽しい。負けたら悔しい。人生に成功するといえば、競争に勝つという意味です。不幸な人生といえば、競争で負けるという意味になる。ですから知っておくべきなのは、競争で勝つ方法のみです。学校で勉強しても、知識を得ることは目的ではありません。塾で英会話を習っても、外国語に堪能になることは目的ではありません。競争で勝つ技を身に付けようとしているだけです。中年になって社交ダンスクラブに入っても、単純に楽 しむという目的は毛頭無い。やはり、上手になって勝ちたいのです。勝つことこそが、人生の成功なのです。

 では、仏教に興味を抱く方々はいかがでしょうか。 勝つことを諦めて、涅槃にでも入ろうとしているのでしょうか。よく訊かれる質問があります。「社会とトラブルを起こさず、上手に付き合える方法はあるのでしょうか?」とても平和的な質問のように見えますが、本当に訊いているのは、競争に勝つ方法なのです。社会での競争に負けたくないのは明白です。仏教を勉強しても、修行しても、結局は勝つための必殺技を探しているのです。

 「では、負ければいいのか」 と、口答えしたいでしょう。確かに、負けていいわけでもないのです。問題は、我々には勝つか負けるかという二次元でしか、 理解する能力がないことなのです。社会はこの二次元論で成り立っているのです。 いつも勝ち組・負け組の二つです。中間はないのです。勝ち負けをやめて、中間的に生きようとしても、激しく非難されます。曖昧、中途半端、いい加減な奴、腰抜け、臆病者、優柔不断、引きこもりなどの言葉は、中間を選ぶ人に対する称号になるのです。

 中間なんかは、ありえない。中間の人は「不戦敗」を選んだだけなのです。人間が知っている生き方は、競争の原理で成り立っています。競争をしたくないと思う人も、別な生き方を知っているはずはない。 ただ競争に脅えて、引っ込むだけ。最初から敗者なのです。誰一人も負けたくはない。負けることは、人生の失敗を意味します。ですから臆病者も、優柔不断者も、引きこもる人も、楽しくはない。悔しいのです。悔しさの限度を超えれば、人生は自殺で終わるのです。生きる上では「勝つしかない」というのが、鉄則なのです。 実際に生きることは競争ですが、それもまた楽しくないのです。競争すること自体は、苦しい作業です。神経質になったり、異常に緊張したり、不安になったり、自信を失ったりするものです。安心感は全く感じられない生き方です。勝った瞬間、感激して幸せだと歓声を上げますが、それも束の間です。 また次の競争が待っているのです。

 競争だけの人生は、緊張一本の人生です。不安一色の生き方です。幸せを感じない生き方なのです。 瞬間瞬間勝ったとしても、一生不安で生きるから、人生は幸福だと言えないのです。成功を収めて幸福に生きるといっても、その人生も結局は負けなのです。俗世間では、勝ち組・負け組、あるいは成功者・失敗者があると思っているが、仏教から見ると、皆負け組なのです。皆失敗者なのです。

 この世で大成功を収めたと言える人にも、人生は 幸福一色ではないのです。寝る暇も、家族と楽しく過ごす時間も惜しんで戦った結果として、大成功を収めているのですから。僅かな時間でも落ち着いてはいられないのです。しかし成功者は、何一つ文句を言いません。彼らは競争する時の刺激に酔っているのです。酔いを醒まさないために、一生競争する。 世間は、そういう人を成功者と讃えます。成功者のサクセスストーリーを聞いて、そこそこ頑張る一般人は羨ましがるのです。

 競争、戦いは、幸福三昧の生き方ではありません。 イラクの砂漠で、他人の土地を占領して戦っている アメリカの若者たちは、幸福を感じているわけではありません。早く義務を終わらせて帰国したいと思っているのです。もし戦うことは大変楽しい、安穏なことならば、誰も平和という言葉は口にしないでしょう。競争の場合も同じです。競争自体は楽しくないのです。 早く終わらせたい、早く結果を出したいと思ってい るのです。大成功を収める人も、一生緊張感で、不安感で過ごすのです。競争の刺激に酔っているから、 文句は言わない。競争の他には、生き方が見つからない。だから、競争しないでいることは全くできない。 競争が無くなると、とても恐く感じる。負けてしま うと思う。だから死ぬまで絶えず競争するのです。平安を感じない、安らぎを味わえない、生きることを楽しめない人生は不幸なのです。不幸な人生は「負け」なのです。

 たとえ一時的に競争で勝って勝利を得ても、その勝利は長持ちしない。負け組は、仕返しを狙っています。勝利を得ても、戦い・競争は続くのです。イ ラク戦争でアメリカが勝利宣言しても、戦いは続いているのです。戦いをやめたければ、イラク国民を皆殺しするか、またはアメリカ軍隊が完全に引き揚げることになる。ですから、勝利というのは単に敵 を増やすことです。社会での競争も似たようなものです。競争に勝てば勝つほど、ライバルが増える。 いつか、仕返しされるのです。

 かといって負けていいわけでもない。負けた人は損をします。自分の目的に達せられず、悔しさに嘆き悲しむのです。

 釈尊が教えたのは、勝ち負けに関係ない生き方です。強いて言えば、勝利のみを得る道を教えたのです。仏教では、仕事を競争目的ではなく、「社会に 貢献する行為」にします。他国と争うのではなく、「どうすれば協力したことになるか」と考えるのです。人々の役に立つように仕事をすれば、その仕事で助 けられた側は、感謝とともに報償を与えます。競争の世界のように敵をつくることなく、誰にも怨まれずに利益・給料を得るのです。仏教が説く勝利は、敗退の相対ではありません。釈尊の道を実践すれば、人は一人残らず勝ち組になるのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
Jayam veram pasavati - dukkham seti prâjito,
Upasanto sukham seti - hitvâ jaya prâjayam.  (Dh. 201)
勝てば敗者に怨まるる 負くれば諸苦にひしがるる
安穏の人勝ち負けを 超え幸福に安住す。(Dh. 201) (江原通子 訳)
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