パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.11 (1996年1月)
「いまの瞬間の生き方を実現する方法」
〜確実な解脱への道〜
A・スマナサーラ長老

 先月号でお話した“いま、ここ”に生きるという概念について、今月号ではもう少し掘り下げて具体的にそれを考えてみたいと思います。“いま、ここ”を実感するための実践方法はVipassanâ(ヴィパッサナー)冥想しかないということを先月号でお話したわけですが、実際にVipassanâ 冥想法を実践した人たちでなければこの概念を実感として捉えることは難しいと思います。実践の方法には「からだ」に気づく方法と「こころ」に気づく方法の二種類があります。からだで気づくときは「言葉」によってからだのあらゆる動きを確認します(ラベリング=Labeling)。

 例えば歩くときでも、「歩きます、左足上げます、運びます、下ろします」「右足上げます、運びます、下ろします」というように、一つ一つの動きを丁寧に、確実に感じとりながら歩いていくのです。それは自分のあらゆる動き、立ち上がるとき、座るとき、前を見るとき、後ろを振りかえるときからはじまって、お風呂に入るときでも、服を脱ぐとき、からだを洗うときには洗う動作の一つ一つを、さらにお風呂から上がってからだを拭くとき、服を着るときも当然一つ一つ確認することです。奥さんであれば料理をするときも、お皿を洗うときも、掃除、洗濯のときなどに、ご主人であれば朝夕の通勤のさなか、会社での仕事の途中で、夜家に帰ってからの行動の逐一の確認が “いま、ここ”にいる自分の気づきの実践材料になります。さらに、目から入る現象については、「見ています、見えています」耳から入る情報に対しては、「音、音、聞いています」などと、また舌で「味わっています」鼻で香りを「嗅いでいます」「触れています」「寒い」「涼しい」「暖かい」「暑い」などすべてで「からだ」の“いま、ここ”を認識することが必要です。

 一方「こころ」の気づきでは、「悲しい」「寂しい」「悔しい」「怒っています」「欲張っています」「嫉妬しています」「考えている」「妄想している」「悩んでいる」などを確認していきます。(この時点で分からない方には個人指導で説明しますのでここではこのまま進めます)

 以上のような説明をするとたいていの人はびっくりします。ある人はそんなことが出来るわけはないと言い、ある人はそんなことをやって何になるのかと(いぶかし)がり、またありかたい説法や霊験を宗教に求めている人々にはあまりにも現実的な俗事に期待外れの声を発します。また、実際に実践しはじめた人もたいていは、「面白くない、くたびれる、行動しにくくなる、飽きる」と言いますが、中でも、「仕事中に“気づき”が出来るわけがない、確認しながら人と会話など出来ない」こういう不満や疑問を持つ人が多いようです。この点は日常生活のなかでいきなり Sati を生かす方法(いまの瞬間に気づくこと)をするその前に、冥想に集中できる特別な時間を割いて真剣に実践しなければ分からない問題です。 Sati(サティー)の意味と効果をいくらか理解できた人であれば、Sati が日常生活のなかでどんなに有効な方法であるかは分かるようになってきます。

 では私たちはなぜ Sati をいいことだと人に勧めるのでしょうか? ふだん我々は“いまの瞬間”に徹底的に集中はしていません。人と話しているときでも、一つの仕事をしているときでも、からだやこころは他のことを併せて動かし、考えています。例えば、一時間本を読んでいるとしましょう。 60分完全に本に集中できるわけはありませんね。集中できてもせめて5分程でしょう。本を読みながら人はいろいろなことを考え、さまざまなことを思い出しているのです。でも人は、「私は一時間本を読んでいました」と言いますが、本から離れていた大部分の時間、心がどの状態にあったのかをまったく認識していません。これを「こころの隙間」とでも言っておきましょうか。

 実は悩み、苦しみ、ストレス等はこの「こころの隙間」に生まれるのです。

 日常、実際に必要とする行動に使う時間はほんの僅かです。他はすべて自分が管理できない「こころの隙間」です。自分のこころがどんな状態にあったのかも分からぬのに、その自覚なき間にストレスや苦しみ、悩みの萌芽(ほうが)があるのです。ですから日常の Sati さえあれば、人間には精神的な苦しみも悩みもなくなってしまうのです。我々の生の大部分を費やしているであろうこの膨大な「こころの隙間」という時間のたとえ一部でも Sati の実践に充てるべきなのです。 Sati をしながら仕事や人と会話することが出来ないという人はまだ Sati そのもののに慣れていないのです。この実践方法を上手にできるようになると仕事にしろ何にしろ、以前の自分に比べはるかに効率よく、失敗も少なく行動できるはずです。しかも膨大な時間の無駄が徐々になくなっていくことによって時間の余裕ができ生きることにも充足感が生まれてきます。自分のこころを常に見ていますから、自己という存在がよく分かり、自分が分かるということは他人からも理解されるということですから、人間関係の葛藤や、愛着心、憎しみ、恨み、嫉妬の構造などはっきり見えてくるのです。

 さらに自分の未熟だった性格が直るばかりでなく、性格自体が向上していきます。日々の高いレベルの幸福感というものを感じることが出来るようになってきます。何よりも、“いま、ここしか実存しないという真理について実感することができます。諸々(もろもろ)の現象は瞬間、瞬間に生じて滅する事実がよく分かってくるので、そうなると確実に、着々と世俗的な人間の認識次元というものを超えていくのです。ここまでくると「出世間(Loukuttara)的な智慧」と釈迦尊が教えられた解脱の境地へと進むことが出来ます。 Sati の実践によって知識を超えた智慧がついてきますので、世間をいままでと違った客観的な次元から見ることが出来、また世間の俗事や束縛に捉われることもないのです。それはちょうど高楼(こうろう)に登って外の人々を見ていることと同じだと例えられています。

今回のポイント

◎経典の言葉
Pamâdam appamâdena yadânudati pandito
Pañña pâsadamaruyha âsoko sokinim pajam
Pabbatattho va bhumatthe dhîro bâle avekkhati
賢者は不放逸(appamâda;satiの実践)によって放逸を乗り越えたとき、
智慧の高楼に登り憂いに沈んだ人々を憂いなく見下ろす。
山頂に立った人が地上にいる人々を見るように賢者は愚かな人(sati の実践を出来ぬ人)を観察する。
(Dhaoapada-28)
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