パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.110 (2004年4月)
「苦は幸福の(つら)(かぶ)る」
〜欲と怒りは幸福を燃やし尽くす〜
 Calmness is the utmost happiness
A・スマナサーラ長老

 人間には楽しいことはいくらでもあります。美味しいものを食べることは、人は誰でも第一に楽しむことです。より美味しく食べるために、人間はあらゆる工夫をします。その結果として、フランス・中国・日本などの食文化というものも発展しているのです。食べる楽しみは絶つことは決して出来ないものです。しかし、気楽に簡単に、食べる楽しみを享受することは、たやすいことではありません。食べる楽しみよりは、おまけに付いてくる、食べ物を手に入れる苦しみは、遥かに多いのです。豊かな時代だ、飽食の時代だと自慢だけはするものの、そう簡単には美味しいものは手に入らないということには気づかないのです。今、ほとんど養殖したものばかりを食べているのですが、フグに細菌が入らないように、海にフォルマリンをかけているというニュースも聞こえます。牛はBSEに罹ります。ニワトリはインフルエンザに罹ります。野菜も完全に安全というわけではありません。食品加工をするときでも、密かに認められていない科学物質を入れるのです。食べる楽しみがある限り、これらの問題は消えません。心配は絶えません。しかし、損なんかは無かったことにしてしまうのです。

 食べ物でつられていることも忘れている。生まれてきた子供は、母親からもらう食べ物に依存しているのです。料亭でご馳走させて、商談をまとめる。違法行為もしてもらう。違法行為がばれたところで、受ける損害は、ご馳走を食べたときの楽しみよりは遥かに多いのに、それは何とも思わないのです。

 他の楽しみもあります。家族がいること、気に入っている住まいがあること、ブランドの服や装飾品があること、音楽や芸術を楽しめること、旅行できること、友人たちがいることなどです。人は楽しみを区別して理解しないで、全てまとめてお金があることを最高の楽しみだと思っている。お金さえあれば、どんな楽しみも手に入ると思っているのです。しかしそれも事実ではありません。お金があっても、手に入らない楽しみも、いっぱいあるのです。これらの楽しみについても、損に目をそらしているのです。楽しみは一つも簡単には手に入りません。楽しみを手に入れるためには、割に合わないほどの苦しみを味わわなくてはいけないのです。得た楽しみもちょっとしたことで逃げてしまうので、われわれは今の幸福を維持するためにも苦労しているのです。幸福を維持するためにも、大胆に損をしなくてはいけないのです。

 さまざまな楽しみの中で、性欲は際立って危険なものです。性欲のせいで殺される人々も、あらゆる危害を受ける人々も、決して少なくはありません。子供まで虐待されて、殺されることになるのです。性欲が満たされないことで精神的にいかれてしまって、人生そのものを破壊する人々もいるのです。好きな人と一緒になるためにいかなる苦労も惜しまない人々が、ほとんどなのです。

 一体楽しみというのは、何なのでしょうか。それは、生命にかけている罠なのです。ロバの前にぶら下がっているニンジンなのです。人はどこまででも楽しみを追うのです。しかし満足するということは、一度も無いのです。いくらかの楽しみが手に入っても、すぐ飽きちゃうのです。もっと良い楽しみがほしくなるのです。苦しんでいる人は、楽しみたいと悩んでいる。楽しんでいる人は、もっと良い楽しみがほしいと悩んでいる。お釈迦さまは欲の楽しみは、火に喩えているのです。火にいくら燃料を与えても、満足して消えることはないのです。燃えれば燃えるほど、危険性も増すばかりです。火に対しては、燃料をあげないことが答えなのです。欲に対しても、燃料をあげないことにするならば、満足というものを味わえるはずなのです。この真理は一般人には、なかなか理解しがたいのです。

 欲だけでも、燃える炎のごとく人間の生き方を苦しみ一色にしているのに、人間はそれにもめげずさらに苦しみを捜し求めるのです。それが怒りの問題です。四六時中、人が怒っているのです。怒りは気持ち悪いし、楽しみを台無しにするし、努力は絶望で終わりにさせるのです。良い結果は、怒りではひとつも得られないのです。それでも人は怒るのです。自分に能力が無いことに気づかず、それは他人のせいにして怒るのです。他人がライバルだと思って、怒りに燃えて競争するのです。個人の能力を世間の能力に比較するという、極端に愚かなことをするのです。世間の能力と比べると、一人個人の能力なんかはまったくも対照になるものではありません。個人というものは、生きていても死んでいても、世界には何の影響もありません。なのに、我々個人は、世界を敵にまわして、ライバルに仕立てて、戦うのです。競争するのです。個人の負けは決まっている。しかしそれは認めません。怒りは完敗の道です。損の道です。負ければ負けるほど、損すればするほど、怒るのです。他人に怒る。世間が悪いと訴える。自分に対しても怒る。怒りに気が狂った人が、何をするかはその本人にも自覚さえないのです。しかし、人は怒る。

 怒ることは非道極まりない、愚かな行為なのに、怒りを正当化するまで愚かさを極めるのです。怒ることを生きがいにする。元気に生きるための衝動にする。競争するためのエネルギー資源にする。正義の味方になる。悪、不正、テロなどを根絶するという善人を演じる。ライバルがいるのだから戦えるのだ、がんばれるのだと言って、物事をよく分かっているような顔をして、他人を騙して怒りを正当化するのです。青酸カリはそのまま飲んでも、豪華な料理に混ぜて食べても、猛毒なのです。怒りも、どのように正当化しても、他人を破壊する、また自分自身を破壊する道なのです。単純に怒って損する人の場合は、やがて怒りが悪いと気づくこともできますが、美辞麗句で怒りを正当化する人の場合は、それさえもできないのです。お釈迦さまは、怒りほどの損は無いと、説かれたのです。

 しかし一般人には、これが理解できないのです。怒らない人はバカだと、間抜けだと、臆病者だと、腰抜けだと思っているのです。怒りで、負けず嫌いで攻撃に挑む人は英雄なのです。人は怒ることしか知らないのです。怒ることで損しか得られないのにもかかわらずです。それで自己破壊・他破壊の道を選んで、避けようとした損を確実に獲得するのです。生涯怒りを崇拝する生き方をして、人生を失望一色にしてしまって、死ぬときは、惨めに死ぬのです。

 楽しむことが生きている証だと思っている間は、欲に燃料を与えて、どこまででも燃え続けるのです。怒りが元気に生きるための衝動だと思っている間は、人生は損ばかりで大失敗で終わるのです。欲に燃料を与えないことには、大変なエネルギーが必要なのです。怒らないために、必要なエネルギーも並大抵のものではありません。

 怒りと欲から離れた人ほど、エネルギーにあふれている人はいません。また、欲、怒りから離れて得られる平安は、永続するので維持の問題もありません。

今回のポイント

◎経典の言葉
Natthia râga samo aggi - natthi dosa samo kali,
Nathii khandha samâ dukkhâ - natthi santi param sukham (Dhammapada 202)
欲に等しき炎無く 怒りと同じ負けもなし
(五)蘊に等しき苦は在らず 平安こそは無二の幸  (Dh.202)  (江原通子 訳)
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