パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.111 (2004年5月)
完全智者の現れに因んで

〜悟った人には何の疑も存在しない〜
 The Buddha bestows perfect wisdom
A・スマナサーラ長老

 2004年5月5日は、仏暦2548年の元旦です。
釈迦牟尼仏陀の降誕・成道・涅槃という、最聖なる出来事をお祝いする、仏教徒においてはこの上のない吉日です。国際的にウェーサーカ祭と認知されています。人類にとって、完全たる平安と心の安穏をもたらした、この上ない聖なる日です。365日の中で、人類がふるってお祝いして喜ぶべき祭日なのです。

皆さま方にウェーサーカ祭日を記念して、限りない幸福と安穏が訪れますようにと、心よりお祝い申し上げます。
無量の慈悲と無限の智慧に満たされた、釈迦牟仏陀のご加護がありますように。

 お釈迦さまは、生きる苦しみを完全に滅する方法を指導なさいました。
人々に道徳と生き方を教える宗教と哲学は、世の中にいくらでもあります。しかし誰一人、「存在とは何か」と知り尽くしていないのです。あらゆる推測、論理、信仰などに基づいて、自分自身の思考を定義しているだけです。いかなる教えでも、理性に基づいて少々観察すると、いろいろと矛盾が見えてくるのです。それは、その教えが不完全だからです。様々な宗教哲学について言えるのは、「それほど悪くはない」というぐらいの感想です。反対にお釈迦さまは、自分の教えが完全に語られていることを強調なさいます。矛盾が成り立たないこと、実践すれば期待通りに解脱が得られることを宣言なさるのです。過去・現在・未来の人類に向かって、それほど大胆に語るということは、人間にできることではありません。お釈迦さまは、できることなら自分の教えが違うと、事実に基づいて反論しても良いと、我々に批判する自由まで与えられているのです。「汝、私の言葉を信じなさい」というような口調と正反対なのです。

 釈尊はきわだって自画自賛しているわけではありません。ただ、この真理を理解して体験するのは難しいと思われる方にも、仏陀にチャレンジするほどの勇気のない方にも、この教えは事実であると推測ぐらいできるようにというご配慮から、大胆に宣言なさっているのです。仏教に対してチャレンジした人々は沢山いました。しかし、未だかつて仏陀の教えは正しくないと断言することは、誰にもできなかったのです。その批判の内容を調べても、理解していないか、固定概念に足を引っ張られているか、自分にはできそうもないという弱みしか見えないのです。「私にできないから皆にもできない」という理屈も、「私にできないから正しくない」という理屈も成り立たないのです。

 お釈迦さまのこの強さは、どこから来るものでしょうか?
 それは、お釈迦さまの悟りの智慧なのです。理屈を並べ立てて話しているわけではありません。他の人々の教えを研究して、その要所を自分の思考の如くアレンジして、話しているわけでもありません。自分自身で、真理とは何かと発見なさったのです。それは未だかつて、誰にもできなかったことです。仏陀以前の修行者も真理を探検していたが、彼らは、自分たちの先人の教えと方法を受け継いで精進していたのです。先人たちは成功しなかったけれど私もやってみよう、というような気持ちで努力したのです。実験が失敗したならば、その論理とその方法には、何か問題がある筈です。勇気をもって、先人方の理論と実践方法は正しいか否かと調べることはしなかったのです。先入観で足を引っ張られたので、仏陀以前の行者たちに真理の発見はできませんでした。お釈迦さまも六年間、先人たちの方法を試してみたのです。それも、誰にも何の文句も言えないほど、完璧に実践してみたのです。しかし結果は出ませんでした。「苦しみの完全たる超越」を経験することはできなかったのです。

 生きるとは何なのか、なぜ人は苦しむのか、苦しみから脱出できるのか、そのために何か方法があるのかという疑問・疑いが、心から離れなかったのです。誰よりも優れた超越した能力を得ていたから、それを皆に示して優れた師になることはいつでもできた筈です。しかし、厳密に正直な釈尊は、一時的で中途半端な喜悦感を他人に教えることは断ったのです。釈尊はアーラーラ・カーマプッタ、ウッダカ・ラーマプッタという二人の優れた仙人の所で修行なさって、最高なレベルの禅定経験を体験していました。その二人の仙人は、師になって他人を導くことを懇願したのに、釈尊は断ったのです。これが最高たる幸福か、という疑問を抱きながら人に教えるものではないと、お釈迦さまは思ったのです。

 誰一人も未だかつて試したことがなかった、事実をありのままに観察する方法を試し始めたのです。何にも偏ることをしないで、完全に、客観的に物事を観察していったのです。それは後に「中道」と名づけた、超越道なのです。微妙にでも固定概念に偏らない。推測で決して判断しない。完全に理解したことのみ認める。それも、まず自分に対して正しいか、次に他人に対して正しいか、それから一般論として普遍的な真理として成り立つのかという、三つの立場で修行を続けたのです。

 超人的な集中力と観察能力を駆使して、自己観察をなさった。あらゆる現象を観察し続けた。すると、じわじわと真理が現れてきたのです。現れてくる真理が、自分に対しては事実であると発見したならば、他人に対しても同じなのかと観察する。それから普遍的にもそれが真理かと観察する。次に、なぜあらゆる現象が生まれてくるのかと、その原因を観察する。それから、なぜ生命は苦を嫌悪するのに、苦が続くのかと調べたのです。そこで、心に定着している無明と渇愛という、煩悩を発見する。では、心からこの無明と渇愛を完全に取り除けば、苦の続きがなくなるのではないかと思い、それに励んでみたのです。一切は変化生滅し続ける現象なので、何にも執着するには値しないと発見すると同時に、心から完全に無明と渇愛が消えてしまったのです。

 お釈迦さまの心から、完全に苦が消えました。
新たに苦を作る原因も消えたので、それからも苦が決して現れないと確信したのです。今まで心にあった、一切の疑が消えてしまった。これが、お釈迦さまの成道なのです。苦、煩悩が、再び現れないように消えたという意味で、究極な幸福の境地を涅槃(nibbâna)と名づけました。悟りをひらいてからシッダッタ菩薩は、ブッダ(悟った人)と言うようになったのです。釈尊自身が自分のことを如来(tathâgata)と仰っています。それは、真理に達した人という意味です。自分が説くものは全くその通りになるという意味でも、tathâgataだと説かれたこともあります。この言葉には、言う通りにやってみた、やって、経験した通りに語るという意味も入っています。要するに、如来とは「真理の人」という意味です。

 涅槃は、一切の概念、言語的な表現、人間の経験を超えているので、他人に語れるものではありません。
他人に語るまいとお決めになったが、梵天の勧請により苦しんでいる生命に対して憐れみを抱き、伝道することを決めた。それから四五年間、一日も休むことなく、幸福になる道を語り続けられたのです。八十歳になって、マッラ族のウパワッタナというサーラ樹園で、サーラ樹の下で涅槃に入られました。以下の偈は、釈尊が悟りをひらいてすぐ、その喜びを表されたものです。

●巻頭法話 偈文
Yadâ have pâtubhavanti dhammâ
Âtâpino jhâyato brâhmanassa
Atha'ssa kankha vapayanti sabbâ
Yato pajânâti sahetu dhammam. (Udâna 1)
深き修禅の聖者(バラモン)
現象(あら)わになれる時
その生因を知る故に
一切の()は消え失せる (ウダーナ 1)  (訳・江原通子)
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