パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.112 (2004年6月)
「苦行と修行は違うもの
〜悟るためには身体の安定も必要です〜
 Balanced body and balanced mind .
A・スマナサーラ長老

お釈迦さまの在世当時、アーラヴィ地方にある貧しい村人がいました。世俗的な財産にそれほど恵まれてなかった割に、性格も頭も良い人でした。舎衛城に住んでおられたお釈迦さまの心に、この人のことが映りました。「この人なら仏教を理解し、悟りをひらく能力がある。真理を教えてあげなくてはいけない」と思われて、五百人ほどの比丘たちを連れて、長旅にお出かけになりました。

 アーラヴィ区を訪れたお釈迦さまは、アーラヴィ区の人々に大歓迎され、迎え入れられました。人々は釈尊と比丘たちに、翌日食事の御布施を用意しました。この貧しい村人も、尊師が訪れたことを聞き、御布施に参加出来る能力はないが、説法を聞くことに決めました。残念なことに、その日の朝、彼の牛が一頭、森へ逃げてしまったのです。早く捕獲しないと、生活が成り立たなくなります。しかし、お釈迦さまの話も聞きたい。よくよく彼は悩みました。破産するか、説法を聞くかと。午前中に牛の捕獲ができれば、説法に間に合うのではないかと思って、その村人は逃げた牛を探して森に入りました。

 アーラヴィの人々は、揃って食事を用意して、お釈迦さまと比丘たちに御布施をいたしました。お釈迦さまとサンガが食事を終えられました。それから説法を聞く時間です。説法をする方の鉢を預かるという、習わしがあります。信徒は自分が説法を聞きたい比丘の鉢を預かるのです。他の比丘たちは戻られても、残っていても良いのです。鉢を預けられた比丘が、信徒に御布施の功徳などを含む説法をするのです。アーラヴィの人々は、法王釈尊から真理を聞きたくて釈尊の御鉢を預かりました。しかし釈尊は説法をなさいません。沈黙を保ち、お座りになったまま待っておられるのです。「私が数ヶ月の長旅を経てここまで来たのは、悟る可能性があるあの貧しい村人を慈しんだためです。彼が顔を出すまで、待つしかない」と思われたのです。釈尊は、心を込めて供養をしたアーラヴィ区の人々も一緒に、何の躊躇もなく待たせたのです。

 朝食も取らず、朝早く森に入った村人は、やっと牛を見つけ家に戻しました。しかし昼も過ぎて、遅くなっていたのです。お釈迦さまは、まだ説法なさっているのではないかと思い、そのまま慌てて比丘サンガと村人たちが集まる説法場に行きました。そのとき、お釈迦さまは御眼を開かれ、人々に尋ねたのです。「村人よ、如来とサンガに供養したお食事の残りはありますか? それがあるならば、この人に食事をさせなさい。」仏陀の御言葉を聞いた人々は、あの貧しい村人に御馳走を与えました。お腹が空いていて、その上大変疲れていたその人が、ご飯を食べて疲れを癒し、皆の後ろに座りました。それで、やっとお釈迦さまが説法を始められたのです。彼が真剣に集中して説法を聞いて、その場で預流果の悟りに達したのです。

 アーラヴィ区の豊かな人々が長い時間何のお断りもなく待たされたことといい、仏陀に供養した食事をとても貧しい一人の村人に食べさせてから説法をなさったことといい、釈尊のこの行為は、比丘たちにも理解出来なかったのです。サンガに御布施したものを、在家の人にあげてはならないということも、仏教の決まりなのです。そのことを尋ねられた釈尊は、その意味を説明しました。「私が月日をかけて長い旅をしたのは、アーラヴィ区の豊かな信徒たちに喜びを与えるためではない。あの村人一人のためです。彼は理解能力ある、優れた人なのです。しかし、一日中食事も取らず森の中で牛を追って、疲れ果てて現れたのです。人間にとって、空腹感というのは、如何なる病よりも最大の病なのです。肉体が疲れて、心が乱れている状態では、説法も理解出来ません。ですから説法より先に、彼の身体のことを心配したのです。一人の人間でも悟りをひらくならば、そのために他の人々は何時間待たされても構わない。待たされた人々も、俗世間の豊かさより、悟りをひらくことがいかに大事かと理解するでしょう。なぜならば、人間が考える日常的な苦しみよりは、究極的な苦があります。人が日々の問題などは、何とかなればそれで幸せだと納得するのです。仕事を見つけた、結婚相手に巡り会った、腕の良い医者に出会った、子供が生まれたなどのことで、「生きるということは、何て素晴らしいことでしょうか」と感激します。しかし、それだけのことで完全に生きる苦しみを乗り越えたわけではありません。一時的に起きた問題が、別の問題に替わっただけです。たとえば子供がいないことを問題にして悩む人には、子供が産まれることが幸せに感じるが、それから子育てという、もっときつい苦の世界に突入するのです。俗的には何に成功しても、それからより長い苦界に入らなくてはならないのです。具体的に言えば、子供を欲しがる人にとっては、子供がないことも苦であり、生まれてきてからも苦なのです。他のものを欲する者にも、問題は同じです。生きるという苦をもっと厳密に考察する必要があるのです。そうすると、達する結論は、一切の現象は移り変わる一時的なもので、空しいものだという究極の苦なのです。それを知る人が、涅槃こそが終極の安穏であると、理解できるのです。

 「貧しい人一人に、残りご飯をあげた」ということは、騒ぐほどの出来事ではないと思われるでしょう。比丘たちは托鉢して頂くご飯の残りは、大抵乞食に与えたのです。たとえ貧乏であろうとも、自活する人にはあげないのです。自分自身の力で人が生活するべきという考え方が、この習慣の背景にあります。他人に寄生して生きる現代のモラトリアム的な生き方は、仏教的に見ると間違っているのです。布施も慈悲も人を助けることも徹底的に推薦する仏教は、タダで食べて生きることは批判するのです。出家した比丘たちも、托鉢しなくてはいけない。いただいた御布施のかわりに心を清らかにすることに必死で励まなくてはいけないのです。また、社会に善悪を諭してあげて、正しい道に導かなくてはいけないのです。このエピソードに現れた貧しい村人は乞食ではなかったので、話題になったのです。サンガが受けた御布施を在家にあげることも禁止しているのです。悟りをひらくことが、生きているものにとっては終極の目的なのです。社会的な決まりに縛られて悟りをひらけないならば、それこそ大変な間違いです。お釈迦さまは悟ることの大事さを皆に示されたのです。このエピソードを引用して、修行よりも健康な身体が先だと論じ、より健康的な食べ物を選ぶことだけに一生を費やす必要は無いと思います。釈尊が飢えは最大の病であると強調するのは、他の病と違ってこれだけは治らないからです。病があっても、人は必ず死ぬということはないが、飢えという病の場合は、治療しないと必ず死ぬのです。食事というのは、仏教では死なない程度で満足するべきものです。

今回のポイント

◎経典の言葉
Jigajjhâ paramâ rogâ,
Samkhârâ paramâ dukhâ;
Etam ñatvâ yathâ bhûtam,
Nibbânam paramam sukham.
(Dhammapada 203)
飢えは究極の病
諸々の現象は究極の苦
この真理をありのままに観る人は、涅槃は終極の安穏と知る。
(ダンマパダ 203) (江原通子 訳)
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