パティパダー巻頭法話
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No.115 (2004年9月)
忙し自慢で苦を覆う
〜幸福に生きるための査定プログラム〜
 Right decision leads one to perfect happiness.
A・スマナサーラ長老

人には楽しく生きる暇は、全くありません。というよりは、自分の人生をできるだけ複雑にして、必要である用事も必要でない用事も、その上自分に関係ないことも背負って、忙しく生きているのです。忙しさを自慢しながら、「生きることは大変だ」と、あちらにもこちらにも文句を言っているのです。人はただ単に忙しいのですが、自分が日々やっている行為は必要か否か、役に立つか立たないかは判断しない。社会に言われるから、決まりだから、流行っているからなど何かの言い訳をつけて、忙しく生きているのです。忙しいということは、精神的な負担になるのです。しかし自分の仕事(行為)が、有効的で必要な大事なものであれば、忙しさは大変な楽しみに変わるのです。義理・義務感で追われて、皆やっているからという無知的な言い訳で忙しくなっても、精神的な負担になるだけです。

 そのような生き方になれば、人間関係でトラブルを起こすことも、失敗ばかりすることも、生きがいがなくなることも、当然な結果になります。行き詰ったときは他人のアドバイスを受けようとする。アドバイザーは目の前のトラブルを避ける方法を教えてあげる。相手がそれに飛び上がって喜ぶが、次の日は別のトラブルを作るのです。人生を根本的に改革して一生幸福に生きられる方法でも教えてあげたら、そんなアドバイザーの顔なんか二度と見ないぞと背を向けると思います。人は一時しのぎの対症療法しか求めていないのです。俗人の話なら何でも聞く人間が、賢者の言葉に耳を傾けないのはこういうわけです。悩み苦しみに溢れている生命を破壊に導く、俗世間の生き方を応援する助言は、賢者は言わないのです。人が聞きたがるのは、悩み苦しみに陥っている生き方を応援する、励ます、賛成する言葉なのです。

 ただ忙しいだけでは、実りある人生だとは言えない。皆の言葉をよく聞いて、良い子で、良い社会人で生きているといっても、素晴らしい人生とは言えない。流行の先端を走ろうと必死になって生きていても、結局は皆やっていることを自分もやっているだけなのです。頭に火が点いたような感じの忙しさで、人は生まれて、老いて、死ぬのです。死ぬまでは、勉強をしたり仕事をしたり家族を養ったりするが、人類に自慢できるほどの業績は上げられません。亡くなった人のことを、僅かな時間で世界はきれいに忘れるのです。他人のことを覚えておくほど、人に暇がないのです。頭に火が点いたような感じで忙しいですが、結局、人はそんなに大事なことをやって生きているのでしょうか。

 賢者(釈尊)は、闇雲に生きる前に、生きることとは何なのかと、客観的に観察して査定したほうが良いと説くのです。何かをする前に、その行為は自分のためになるか、他人のためになるか、自分と他人という両方のためになるものかと、観察してから行うように勧めるのです。しかし人間の判断はそれほど当てにならないので、その行為を行っているあいだにも査定プログラムを起動するようにと説くのです。一旦行為を終わったら、本当に自分と他人の役に立ったかないかがわかるのです。ですから、行為が終わってからもう一回査定プログラムを起動して、更なる行為を行うときはより正しい判断ができるようにと、知恵を磨くのです。

 親に、先生に、先輩に言われるからといって、何かをする必要はありません。社会から言われるからといっても、何かをする必要はありません。伝統だ、文化だ、決まりだ、習慣だ、楽しいのだという理由も、何かをするための判断基準にはなりません。このような束縛に縛られず、自由に生きられるならば幸いです。しかし、右も左もわからない人間には、その自由は自己破壊の引き金になるのです。ですから、賢者の査定プログラムを起動して生きていると、自由に、安全に、幸福に、充実感に溢れて、人生をまっとうすることができるのです。

 大事なエピソードがあります。釈尊が八十歳になられて涅槃に入る時期を迎えられたのです。釈尊はご自分の人生を終了する日にちを、半年前に予言なされたのです。世界の常識は嘆き悲しむことでした。また、「どうか長生きしてください」と無理なお願いをして、病弱でお疲れになっている釈尊に迷惑をかけることでした。また、最期だから別れの礼をしなくてはと思って、お釈迦さまが横たわっているところに群がることでした。比丘たちも王家の人々も一般信者さんたちもひと時も離れず、倒れていらっしゃるお釈迦さまに何の暇も与えず傍にいました。皆まじめに世間の常識・習慣を守っていたのです。病弱なお釈迦さまにとって、大変な迷惑でしたでしょう。しかし、最期の瞬間なので何もおっしゃらなかったのです。

 ティッサという名のひとりの比丘がいて、釈尊の挨拶に伺いませんでした。大変苦労して説法なさったお釈迦さまに対する最大の礼として、自分が釈尊が涅槃に入られる前に最終解脱を経験するのだと祈願して、一人静かに修行に励んでいたのです。ティッサ比丘が仏陀に礼をするためにも出てこないのは、大変失礼な態度ではないかと、皆非難の声を上げました。釈尊はティッサを呼ばれて、事情を聞きました。釈尊は、世間の無意味な常識に振り回されることなく最高な幸福である解脱を得ようと精進するティッサを、歓声を上げて褒められました。「私を尊敬する者は、このティッサのような態度を取って修行に励むのだ」と、説かれたのです。ティッサ比丘が釈尊の査定プログラムを起動しておいたのです。一人でも悟ることは、伝道に並ならぬ苦労をなさったお釈迦さまの努力を実らせることです。このエピソードは、世間はなんと言おうとも、自分のため他人のために、役に立つことのみをするべきだと教えてくれるのです。

 一体、幸福な生き方とは何でしょうか。それは、忙しく生きることではありません。大財産を儲けて、全て残して死ぬことでもありません。権力者になって皆に迷惑をかけながら生きることでもありません。人の人気者になろうと、犬猫のように大衆が喜ぶことばかりして生きることでもありません。博学者になって、最期に全部忘れて死ぬことでもありません。前述のように、世間に財産に名誉に依存することは、弱い不自由な人間の生き方です。この依存症から心を治して、穏やかな、安穏な心で生きていられるならば、それこそ幸福な生き方です。

 この目的には、精神的に弱い人は達することができません。困ったことに、人間はみな依存症で、心が弱いのです。だからこそ、人間が行うべき唯一大事なことは、己の心を向上させることです。心の汚れを落として、清らかにすることです。何ものにも依存しない、完全な自由な心を身につけることです。

 それには、聖なる八正道という、完全無欠な方法があります。八正道を歩む人は、必ず完全たる自由を得るのです。世界の川の水は海を目指して流れるように、八正道を実践する人は、完全たる自由を目指して進むのだと、釈尊が説かれたのです。

 正見・正思惟・正語・正業・正命(正しい仕事)・正精進・正念・正定という八つの道は、全ての悪を無くす唯一の方法です。一切の善を成す唯一の方法です。完全たる自由(解脱)を体験できる、唯一の方法です。人間で生まれたならば、誰でも実践するべき唯一の道なのです。それ以外に、人の心から悪・罪を除く方法はありません。

今回のポイント

◎経典の言葉
Paviveka rasam. pîtvâ - rasam upasamassa ca,
Niddaro hoti nippâpo - dhammapî rasam pibam.
(Dhammapada 205)
依存離るる 味わいと
寂止の味を 飲み乾して
こころ無苦悩 無罪なれ
真理悦ぶ 味を飲みつつ (ダンマパダ 205) (江原通子 訳)
この偈の意義: 物に依存するという欲から離れるという喜びを味わう。それを味わった人に、心の安らぎという喜びを味わえるのです。それを味わった人の心は、恐怖感と罪から離れるのです。罪から離れた心は、真理の喜びを味わうのです。
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