パティパダー巻頭法話
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No.118 (2004年12月)
好きな生き方は悪魔のご褒美
〜好き嫌いに操られない人は幸福です〜
 Predilection is a death trap
A・スマナサーラ長老

「好き」という言葉があります。誰でも「好き」という言葉は好きですが、油断のならない厄介な曲者です。好きなことをしたい、好きなものを勉強したい、好きな食べ物を食べたい、好きなところに住みたい、好きな仕事をしたい、好きなことをして生きていられれば「これこそ幸せだ」と皆思っているのです。好きなことをできる人はこの世では稀ですが、その期待感は人間なら誰にでもある。

 いったい「好き」というのは、どういう意味でしょうか。私が好きなものは誰もが皆好きという訳ではないのです。私が好きなのに他の人はそれを大嫌いという場合も多々あります。そういう時は人間同士で衝突が起きますね。また、同じものが好きな者同士なら仲良くしたり、グループを作ったりします。ライバルになって闘ったりもします。そういうことで、世の中に平和なグループも存在するし、とても危険なテログループのようなものもあります。ですから、共通な「好き」を持つ者同士で仲良くするのが良いことだとは、一概には言えないのです。

 荒唐無稽で実際には根拠がない「好き」について、釈尊が説かれる真理を理解した方が人生に役立つと思います。好きということの意味は、人が楽しみ・幸福を感じるものごとや、行為なのです。それは、他人に何と言われようとも止めたくはないものです。しかし、「好き=善い」ということにはならないと、明確に理解したほうが良いのです。好きというのは、ただ単に何かに病みつきになることです。強いて言えば精神的な病気の一種かも知れません。それでも人は、「好き」ということで幸福を感じるのです。

 「好き」には、客観性も理性もありません。「あなたはなぜソバが大好きですか」と聞かれても、論理を通した納得のいく答えがないのです。「嫌い」という場合も、同じです。(しかし、嫌いというときは怒りが絡んでいるので、人はあれこれと言い訳を羅列する癖があります。)体質、習慣、教育、環境の影響、暗示、マインドコントロール、教育、知識などの影響で好き嫌いが成り立つときがあります。生まれつき付随してくる好き嫌いもあります。しかし原因はどうであろうとも、好きと嫌いは論理的な結果ではありません。

 たとえばワカメが嫌いな人がいたとしましょう。その人はいろいろ勉強や研究をした結果、ワカメは健康に大変良いものだと理解する。特に自分の身体には必ず必要なものだとも理解する。だからといって嫌いだったワカメが好きになるわけじゃないんです。そしてその人は好き嫌いにこだわらずワカメを食べ始めたとします。やがてそれが習慣にもなる。その結果、最初は嫌いだったワカメが今好物になっているかもしれません。それでも、なぜ好きになったか?という問いには、論理的な答えなどないのです。「身体に良いから好きですよ」という返事は、事実ではありません。嘘です。

 身体のことを考えると、面白い事実が見つかります。人が好物だと思っている食べ物が、ほとんどの場合その人の身体や健康に悪いものです。身体に良いものだったら、食べたくない不味いものになってしまうのです。この経験は誰にでもあると思います。この事実を当たり前のことだと思って、聞き流してはならないのです。なぜかというと、人生に対する真理もこの事実から見出すことができるのです。

 人は何かをよく分かった上で、理解した上で、研究して調べた結果として好きになっているわけではないのです。最初からも好きなものは好きなのです。本能みたいなものです。止められないのです。世界は人の好みに対してあまりとやかく言わないのです。放っておくのです。一見、寛容的で調和的な態度として見えますが、ブッダは違う立場を取るのです。本能的な好き嫌いには、極端なくらい注意をした方が良いという立場なのです。個人が好きな食べ物は、その人の身体にはほとんどの場合悪いということは事実です。それが他の好きなものについても同じように言えるのです。人が酒は好き。麻薬も好き。勉強したり、苦労して働いたりするよりは、遊ぶのが好き。大事な、有意義な話をするより、無駄話や噂話が好き。他人にも気を配って生きるよりは、我がまま奔放で生きるのが好き。

 怠けるのも好き。朝寝坊も好き。遊びなら徹夜するのも好き。欲・怒りなどの感情を制御するよりは、感情にのめり込んで行動するのが好き。教科書やテキストよりは、マンガ本を読むのが好き。敵や嫌な人を許すのではなく、倒すのが好き。おしゃれが好き。おしゃれなら、借金してでも欲しいものを買う。美しく見えるなら、危険を顧みず整形でもする。痩せると書いておけば、毒であっても買って飲む。

 好きなことをするために、親にも逆らう。先生にも反発する。友人を裏切る。犯罪も犯す。戦争までする。人が好きなもの、好きなことを追求する行為はこのようなものです。これを、自由にやらせても良いとは思いませんよね。

 バランスを保って適量を知ってやるならば悪くないと、反論されるかも知れません。ところが残念なことに、非論理的な好き嫌いにはバランスも量も存在しない。美しくなりたい人に、どこまで美しくなれば良いかと聞きましょう。金が欲しい人に、どこまで儲ければ満足かと聞いてみましょう。権力が欲しい人に、どこまで権力を握れば満足かと聞いてみたらどうでしょう。

 もう一つ反論があります。人は悪いことばかり好きになるとは言えない。善いことを好きな人もいる。神を畏れて神を愛して生活したい。清らかな心でいたい。人を助けるのが好き。修行が好き。ボランティアが好き。このようなことを言う人もいます。しかし、そのような人々は少数派の中でも少数派でしょう。もし理由もなくそんなのを好きになっているとしたら、それまた深く考える余地があるのです。「私は真の神を信じている」と思って、優越感を感じる。それから、「他の人々は別なものを信じている。また神を否定している」と思う。これが危険な差別意識なのです。このような考え方に惑わされて、今も世の中で人が殺されている。戦争も、テロ行為も起きています。修行が好き、道徳が好きということについても、問題は同じです。「他の人は修行しない。道徳を嫌がっている」と思い、優越感を感じてしまうのです。たとえ道徳的な生き方をしているからといって、「他人より自分が優れている」という考えを持ってしまえば、その人は精神的に劣っていると中部経典にも記されているのです。修行や道徳を好む人は、もし差別意識を抱いたとしても、犯罪行為にまで走ることはないはずです。しかし現代社会では、修行中毒者たちが人を殺したりしたケースが、マスコミを通して耳に入って来るのです。

 結論は簡単です。好きなものというのは、危険なものです。好きなことをして生きられることは幸せだと勘違いするのではなく、好きなものについて客観的に論理的に考え直した方が良いと思います。好きなことをして生きることも、嫌なものを壊すことも、あるいは敢えて嫌なことを選んで修行まがいのことをするのも、人の道ではありません。好きか嫌いかはさておいて、人格を向上させるもの、心を清らかにするものを選ぶべきなのです。贅沢をして生きる人も、苦行を好む人も同じ穴のムジナです。この悪循環から脱出しなくてはならないのです。ブッダが説くこの脱出の道を「中道」と名づけたのは、真理の道は普通の人が歩んでいる好き嫌いの道とは違うものであると示すためです。

 人は「好き」「嫌い」という本能的な感情を客観的に理解して、正しい道を選ぶ努力をしなくてはならないのです。智慧を活かして探さない限りは、正道には出会わないのです。「人は本来悟っている」「皆菩薩だ」などと、のんきなことを言ってはいられないのです。このように言われると、楽しい気分にはなると思います。「あなたは偉い」と賞賛されることは、人が喜ぶことのランキングでは、やっぱり第一位でしょうから。このような言葉に安心すれば、「精進など不必要だ」「修行などしなくても良い」という気分になります。だから、この言葉さえも危険なのです。好きなことをして生きていられることは、決して幸福ではありません。人格が堕落する、不幸に陥る道なのです。

 ブッダはこのように語ります。人は、やってはいけないこと、励んではいけないこと、頑張ってはいけないことには労力を惜しまず、必死で努力する。自分にとって有意義なもの、役に立つもの、人格を向上させるものを避けて、「好き」なものを選ぶのです。(「好き」な道を選んで生活すると、人生は堕落して不幸に陥るということは火を見るより明らかです。)そのような人は、いったん自分の人生を失敗したところで、正道を選んで歩む人々のことを羨むはめになるのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
 Ayoge yunjam attânam,
 Yogasmin ca ayojayam;
 Attham hitvâ piyaggâhî,
 Pihet' attânuyoginam. (Dhammapada 209)
 心散らして努力せず
 冥想修行に不適応
 義を捨て快楽にふけるもの
 やがて正勤の人を羨む(ダンマパダ 209) (江原通子 訳)
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