パティパダー巻頭法話
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No.119 (2005年 1月)
好きな生き方が招く危機
〜好みに執着すると、精神病になる〜
 Attachment attacks your mental health
A・スマナサーラ長老

「好き」という問題の、もう一つの側面を考えてみましょう。好きなものがあれば幸福を感じる。好きなことをして生きることができれば、恵まれていると思う。好きなものを期待する。好きなものを切望する。好きなもののために努力をする。好きなもののためなら労苦も決して惜しまない。好きなことができる、好きなものがある、好きなように生きていられるということは、我々が考える幸福な生き方です。恵まれている生き方です。神に愛されている、守られている生き方です。よく覚えておきましょう、これが「好き」ということの意味です。生きるということは「好き」を目指すことです。

 ところが、皆さん良くご存知の通り仏陀は違ったことを教えているのです。生きるということは無常で、苦で、(むな)しい(意味を持たない)ものです。生きていればいるほど、空しさに、苦に(さいな)まれます。「好き」なことを目指すという生き方には、「渇愛」(tanhâ)が原因しています。真の幸福はこの苦しみの循環から脱出すること(nibbâna)です。

 世間が考える幸福と仏陀が教える幸福は、明らかに正反対なのです。人間にとっては、「好き」を目指して生きること、それを実現できることが幸福です。仏教では「好き」は苦の原因で、生きることは苦の維持なので、「好き」から完全に自由になること、(いと)い離れることが幸福だとします。解かりやすく言えば、人間は、というものは甘露であるという。仏陀は、は猛毒だという。

 ロック音楽が好きな人はそれを聴いて、クラシック好きな人はその音楽を聴く。肉が好きな人はステーキを食べ、お洒落が好きな人はお化粧したり着飾ったりする。「それのどこが悪いのですか?」と反問したくなるだろうと思います。その答えは、「別に何も悪くないです」となります。「好きなことをやっていいのですか?」には、「はい、結構です」。そこで次に訊くのは、「好きなことばかりをやっていても構わないのですか?」。この問いには、だれでも否と言うと思います。そこに問題が潜んでいます。好きなことができるなら、それが「幸福」だと人は考えます。それならば、もし好きなことだけして生活することができるなら、人生は「幸福のみ」ということになるはずです。しかし、それは成り立たないでしょう。「好きなことなら何でもする。嫌なことなら何であろうともしない」という生き方ができれば、理想的な人生だというべきところですが、実際はそのようにはならないことは皆知っているのです。「幸福」どころか、かえってそれは人生の失敗でしょう。

 好きなことだけをして生きる人生には何か問題があると、常識人なら誰でも感づいているのです。しかし、この「問題」とは一体何でしょうか?  これは一般社会では未だ発見されていないような気がします。「何か問題がある。しかし、その問題はわからない」という状態なのです。質問を単刀直入に出せば、「好きなことをやって、何が悪い?」ということになります。この問いには、普遍的な答えは出せないだろうと思います。もし具体的に訊くならば、人は何かの答えを考え出すことは可能です。例えば、「私は麻薬が好き。使用すると、快楽と幸福感を感じる。使用しないとき、たまらない苦痛で自殺したくなる。ですから、私は麻薬を使用して何が悪いのですか?」このような問いには、あれこれと、麻薬を使用してはいけない理由を言えるでしょう。しかし、「好きなことをして何が悪いの?」という、普遍的な質問には答えがありません。

 仏教は、「好き」という問題を徹底分析して解決方法まで教えているのです。では、答えは何でしょうか? 
先月号で、(1) 「好き」なことは不幸を招く悪いことになっている。(人は自分にとって悪いことばかり好きになる) (2) 「好き」ということは、感情的な、また本能的なもので、何の理性もない。ですから、ほどほどに楽しむということは、成り立たない。…という、二つの点を説明しました。今月は、(3) 病みつきになる。…というポイントを説明したいのです。

 人はそれぞれ色んなことを好きになる。皆同じことを好きになるということは、決してありえない。自然や動物と触れ合うことが好きな人がいて、暴力や戦争などを好む人もいる。自分が好きなことをやっていると、確かに楽しいのです。苦などは感じないのです。ですから、好きなことには強烈に執着するのです。好きなことをその人から取り上げると、半狂乱になるのです。怒りが湧いてくるのです。生きることは苦しくなって、嫌になるのです。ということは、人は好きなことから離れられないのです。言うまでもなく、この状態は「依存症」なのです。

 「依存症」というのは、人を成長させるものではありません。人の能力、理性などを破壊し、人格の向上を阻害するものです。依存症(好きなことをやること)は、人の本来の幸福を蝕むのです。一時しのぎの快楽に目が眩んで、延々と続く不幸の砂漠に陥るのです。「好きなもの」には、二つの効果があります。一つは、瞬時に快楽を引き起こす。もう一つは、人の能力・幸福を蝕む。人は「好きなもの」の表側だけを見ているのです。「蝕む」という裏面が隠れていることを、知った方が良いと思います。「好きなもの」は無数にありますから、何でも一概に悪いとは言えないと思います。麻薬・暴力・性的偏執などは完全に悪いが、音楽・旅行・絵画・社会活動などが好きな場合は、結果論から見れば悪いとばかりは言えないものです。しかし、それならやっても全く問題ないとも言い切れないのです。執着すると、結局は依存症になる。周りが見えなくなる。自分のことも見えなくなる。ほどほどにやっているうちは何の問題もないが、少々やりすぎると不幸がやってくるのです。悪くない「好きなもの」についても、「ほどほど」は大事なポイントですが、それの限度がわからないのです。「好き」とは、感情的で本能的なものです。理性により至った結論ではありません。ですから、安全ポイント(限界点)は存在しないのです。

 質問:好きなことをやって、何が悪い?

 答え:好きなものは、二面性を持っている。表面は快楽を与える。裏面は人格を蝕む。好きなことが何であろうとも、病みつきになってやってしまうと、延々と続く不幸に襲われるのです。

 人間関係の場合も、同じことが言えます。人間関係が生じることは悪くないのです。良いことです。しかし、人なら誰とでも無防備に付き合うことは問題です。幅広い人間関係を持つことはまた良いことですが、多ければ多いほど良いというわけではありません。一歩間違えば、限りない不幸に陥ります。家族ならべったり仲良くできるほうがありがたいなあと思われるでしょう? それも勘違いです。親子関係でも互いに執着して仲良くすると、必ずや両方が不幸になるのです。親が好きでたまらない人は、親に依存する。大人になっても親離れができなくなる。結局は大人になれない。それは、精神病の一つです。時々あまりにも親に依存して、それを維持するためにあらゆる妄想をして、わざと精神病になるのです。執着症に悩んでいる母たちも、我が子のことなら何でも知っているという態度をとって、子供の「良き理解者」になると勘違いするのです。それで、延々と母も子も互いに依存する。両者とも不幸になる。子離れできない親が子供を病気にさせる場合も、親から離れたくない子が自分で病気になる場合もあります。面白いことに、身体に障害を持って生まれた子供の場合はこの異常現象はそれほど起きません。障害を持って生まれても、親も子もどこまで自立できるのかと考えているからです。

 ですから、「家族仲良く」というのも、一概に良いと言えるものではありません。互いに執着すると、精神的に病気になってしまうのです。親の仕事は子に執着することではありません。執着すると、両者とも人生に失敗して不幸になる。親の仕事は、子を自立させることです。一人前に育ててあげて、社会に帰すことです。夫婦の場合は、執着することになると、別れてしまう結果になるのです。夫婦関係がこじれた場合は精神的な病気を引き起こすケースも少なくありません。たとえ夫婦であろうとも、互いに依存してはならないのです。異常に執着してはならないのです。家族関係の場合は、正しい答えは慈しみに基づいて互いに協力しあって、皆それぞれ幸福になることです。子供は独立する。夫婦は末永く仲良くする。

 協力し合うということは、重要なポイントです。人間には、他人の協力なしに生きていられない。他人に協力してあげないと、協力してもらえない。この協力関係がうまくいくと、楽に、楽しく生きていられる。「協力する」ということは、「好き」とも「嫌い」とも関係ないものです。ただ、正しい生き方なのです。

 好きな人と一緒にいられることは幸福だと普通に思う。人間同士が仲良くすること、互いに協力して生きることは良いことですが、この「好き」が問題を引き起こす。人を好きになることは、猫を好きになることとは訳が違います。必ず執着が生まれる。互いに離れられなくなる。自分の幸福が相手に握られて、管理されているようなハメになる。自分が相手の奴隷、相手が自分の奴隷という、束縛関係が現れる。好きな人が離れていくことは我慢できない苦悩になる。逆に、嫌な人と一緒にいることも同じです。嫌な人と一緒になる必要はないが、好きな人に執着することも危険です。

今回のポイント

◎経典の言葉
 Mâ piyehi samâgñchi,
 Appiyehi kudâcanam;
 Piyânam adassanam dukkham,
 Appiyânañ ca dassanam. (Dhammapada 210)
 いかなる時も愛しきと
 はた疎ましきに 逢うなかれ
 愛しきものを 見ぬは苦ぞ
 疎ましきをば 見るも苦ぞ (ダンマパダ 210) (江原通子 訳)
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