パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→好きを追って、不幸にたどり着く
No.120 (2005年 2月)
好きを追って、不幸にたどり着く
〜実用主義者は好き嫌いに悩まない〜
 Suffering is the goal of attachment
A・スマナサーラ長老

「好き」なことだけをやって生きていられるならば、それは最高に幸せだ、恵まれていることだ、と一般的に誰もが考えるのです。好きではないことをやらなくてはならないときは、苦しみと不幸を感じる。たとえば、自分の仕事があまり好きではないとする。そうなると、仕事をするのは苦しいのです。自分にはツキがないと思ってしまいます。ストレスが溜まって仕事の能率も下がるだけではなく、ついには健康まで損なうことになる。もっと自分の能力、才能を活かせる仕事に就けたらありがたいのにと、妄想したり悩んだりもする。

 人間関係の場合も同じで、好きな人々とだけ付き合っていられればどれほど楽かと思ったりするのです。しかし現実は、人間関係で起こる様々なトラブルが絶えないのです。スムーズな人間関係を築くために、人々はいろいろ勉強したり、研究したり、相談をしたりして、大変苦労しています。この問題の原因は、簡単なものです。自分が、周囲の人間のことを好きではないからです。自分と関わりのある人々が、皆好きな人ばかりなら、楽しくてたまらないと思います。そのような理想的な関係があれば、何の問題も起こらないだろうと想像してしまうのです。

 しかし、人が好きなことだけをして、好きな人とだけ付き合って生活できる状況は、夢のまた夢の話です。もしも好きなものに囲まれて生きられたとしても、今度は自分がそれらに依存してしまって離れられなくなる。よって、自分の自由が失われてしまう。自分が支配者の態度をとって、好きなものを管理しようとすると、好きなものから嫌われる。裏切られる。好きなものがスキをみて逃げ去ってしまう。では支配者の立場をとらないならうまくいくかというと、そうでもありません。好きなもののご機嫌を取って、様子をチェックしながら生きていかなくてはならないのです。どんな頼みもきいてあげなくてはならなくなる。それでは自分が奴隷そのものになってしまう。好きでないことを行うことも苦しいし、好きなことを行って生きていることも、悩み、苦しみ、不安を引き起こす、不幸な事態になります。それは、諸刃の剣なのです。

 この問題を仏教はどのように解決するのでしょうか。そもそも、「好き」「嫌い」と感じるところに問題があります。人はあるものが好きで、あるものが嫌い。これがなぜなのかは誰にもわからないのです。だからどうしようもないと思っているのです。好き嫌いは、生まれる以前からも刷り込まれているのではないかと思っている。そのように言われてしまうと、もうお手上げ状態です。

 好きでないことをして生きることは、明らかに不幸で苦しいのです。好きなことだけをして生きられるとしても、最初は楽しみがあってもついには依存症になります。自由が失われます。好きなことを守る苦しみと、逃げられたらどうしようという不安の苦しみがついてきます。理由無き恐怖感で悩まされることもあります。要するに、嫌なことをして生きていても、好きなことをできたとしても、到着するところは「苦」なのです。

 人生そのものはジレンマだらけです。人生に関わるどんな問題でも解決した途端に、別な問題が顔を出します。あちらを立てればこちらが立たず「板ばさみ」ということです。仏教はこのジレンマを解くのは得意なのです。ジレンマ的な問題をたくさん物語にして解いてみせる、長編のジャータカ物語があります。その中から短いエピソードを一つ紹介しましょう。

 ある老いたバラモン人が若いお嫁さんをもらいました。しかし妻は老人から離れて遊びたいと考えて、夫に仕事に出ることを勧めるのです。ある日、弁当代わりにお菓子を入れた袋を持たせて、夫をやっと送り出すことができました。この男は、昼にお菓子の一部を食べて、そのまま昼寝をしました。起きてから、袋の紐を閉じてまた歩き出しました。ある樹木に宿っていた神霊が、菩薩の(仏教の)智慧をみなに知らしめようと思って、木から顔を出してバラモンに声をかけました。「バラモンよ、汝は家に帰ると妻が死ぬ。途中で休むと汝が死ぬ」そう言って姿を消したのです。そのとき菩薩は幼い子で、沢山の友達と一緒に遊んでいたのです。家にも帰ることも、途中で休むこともできないバラモンは、一生歩かなくてはいけないのかと脅えていました。その理由をバラモンから聞いた菩薩は、すぐ解答を見出したのです。問題は妻にもこの人にもあるのではない。恐らくこの背負っている袋ではないかと思いました。「袋を降ろして紐を解き、長い棒で叩いてみなさい」と言ったのです。そうしたところ、なんと袋から猛毒のコブラが逃げていったのです。幼い菩薩は言いました。「お爺さんが昼寝したとき、この蛇が袋に入った。そのまま家に帰ったら奥さんは金を持ってきたかと訊いて袋に手を入れるから、噛まれて死ぬ。途中で休んだら、お爺さんはお菓子を食べようとするから、蛇に噛まれて死ぬ。」神霊が言った言葉の意味は、これだったのです。(帰ることも休むこともできないバラモンのジレンマを、菩薩は智慧で解決してみせたのです。)

 好きなことをして生きるべきか、嫌いなことをして生きるべきかは、人生のジレンマです。どちらを選んでも苦難に陥ります。好きなことも嫌なことも入り交じった人生だったら、どちらからも苦が生じるので、結果的には苦難に満たされます。「好き」も良くないし、「嫌い」も良くない。半々合わせても、良くないもの同士の合体だから、それも良くない。では、問題はどこにあるのか。「好き」と「嫌い」というところにあるのです。人は、自分は何が好きで何が嫌いかをそれなりに知ってはいるが、その理由まではわからない。刷り込みだからしょうがないと思っている。であるならば、人生は「苦」の結果になることも絶対的で避けられない。好きというのは、理性的なものではなく、感情的なものです。「好き」という感情がある人に、必ず「嫌い」という感情もあります。理性のない感情に、燃料を供給すればするほど燃え続けて、苦しみが増える。

 人に定まった好き嫌いがあるというより、生きているものは皆、それぞれ自分特有の性格を持っていると思えば良いのです。まったく性格が同じ人は二人といません。皆それぞれに違います。ということは、完璧に好きになれる人は、一人もいないということです。ものの場合も、自分がやりたいことの場合も同じです。完璧に好きということはないのです。「これさえあれば、これさえできれば何も要りません」とまともには言えないのです。ですから、「好き」を追うことも「嫌い」を避けることも、なんの意味ももたないのです。また人の好き嫌いや性格は、一定して不変のものではない。日々変わっていくものです。そうなると、追うものも避けるものも、日々変わってしまうのです。一生、不満と不安を経験しながら、追われるような生き方をすることになるのです。

 人は好き嫌いを判断基準にしないで、幸福に生きるために必要か、そうでないかを基準にしたほうが良い。これがこのジレンマの答えなのです。実用主義(プラグマティズム)的に生きるべきなのです。好きか嫌いかは関係ないのです。たとえば、自分の子供が突然病気になる。徹夜するのは嫌だからといって、寝てしまうわけにはいきません。看病することが必要なのです。人が雪山で遭難したとする。救助隊員は、寒いとか山登りは苦しいとか疲れるとか言っている場合ではありません。これは好き嫌いの問題ではないのです。救助隊員の仕事は必要なのです。生きている上では、苦しいことも楽しいこともやらなくてはならない。要は苦か楽かではなく、必要があるかないかです。必要なことなら、人は真剣になるのです。手抜きはしないのです。投げやりにならないのです。ストレスも溜まらないのです。仕事が終わったら、表現できないほどの幸福感、充実感、生きがいを感じるのです。

 人間関係の場合は、実用主義的なアプローチも少々違います。親しくつきあう人を選ぶときは、互いの性格がマッチするかしないかが大事なポイントです。強引に相手を自分の性格に合わせると、摩擦が生じて人間関係が崩れます。一般的な人間関係の場合は、必要があるかないかだけの基準で充分です。必要でもないのに気に入らない人とつきあうのは、良くないのです。人間関係は「必要」という範囲で切れば、互いの自由を保てます。苦は生じません。人は実用主義を判断基準にして生きるならば、日々充実感を感じるのです。それが幸福ということです。その人は苦には脅えないし、楽には溺れないのです。

 実用主義をとるならなら、人は無駄なことはしない。環境破壊もなくなる。精神的な悩みも少なくなる。見栄を張って生きようとして人生を失敗することもなくなる。好き嫌いに足を引っ張られてはならない。これが、仏教の立場です。

 好き嫌いを基準にして人が生きているから、苦難も失敗も絶えません。人は損ばかりをしている。努力しても努力しても幸福にはなれない。
「好き」という感情に対するブッダの教えを、人は理解しようとしないのです。
欲に溺れて苦難に満ちた、困難な生き方をしているのです。「好きなものがあって、好きなことをして何が悪い」と反論するのです。
 ブッダは好きなものを止めなさいとも、嫌なことをやりなさいとも言わないのです。その反対も、言わないのです。
好きなものも嫌なものも、追求すると結局は同じ結果・苦難になると、事実を語るのです。
好き嫌いに惹かれることで、人の精神が病むことになるのです。人格の向上は全くありえないのです。精神的進歩も人格の向上もなく、解脱もできなくなるのです。
心が全く成長しないような生き方を、選んではいけないのです。ただ生きていれば良い、というわけではないのです。日々成長する生き方を、好き嫌いに関係なく選ばなくてはならないのです。それは、実用主義、効率主義とも言える生き方でしょう。
好き嫌いに足を引っ張られることを、仏教用語では「束縛(煩悩)」と称するのです。
好きなものがある、好きな人がいると思っている間は、また、嫌いなものがある、嫌いな人がいると思っている間は、人の心は煩悩に汚れているのです。心が束縛されているのです。好き嫌いを乗り越えたところで初めて、煩悩から心が解放されるのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
 Tasmâ piyam na kayirâtha,
 Piyâpâyo hi pâpako;
 Ganthâ tesam na vijjanti,
 Yesam natthi piyâppiyam. (Dhammapada 211)
 別離は辛きものなれば
 愛するものを持つなかれ
 愛も不愛もなき時は
 まといまつわる繋縛なし (ダンマパダ 211) (江原通子 訳)
次の法話へ→
HOMEパティパダー巻頭法話→好きを追って、不幸にたどり着く
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.