パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→表は「好きと愛」、裏は「悩みと恐怖」
No.121 (2005年 3月)
表は「好きと愛」、裏は「悩みと恐怖」
〜世界が変わっても苦しみは消えない〜
 Affection, worry and fear; the trinity of life
A・スマナサーラ長老

「好き」と言っても、意味はいろいろです。「好き」と言うときは、人の気持ちを表しています。
普通、人は誰かを好きになります。また、何か物を好きになります。さらに、他人の思考、考え方も好きになります。自分の思考、妄想、観念などは、断然好きなのです。
 それで、好きになる対象が三つになるのです。
  (1) 人や生き物
  (2) 物
  (3) 思考 です。
「好き」という感情は、人の自由を束縛する、苦しみを生むものであると、説明してきました(一月、二月号)。「好き」が問題であることに気付いているのは、仏教だけではありません。他の宗教・哲学でも、「好き」の危険性に触れています。一般常識でも周知の事実です。

 しかし、世間の見方と仏陀の見方では、大きな違いがあります。
世間では、人が「好き」になる対象の方を問題にしているのです。たとえば、イスラム教では、男をみだりに誘惑するという理由で、女性は夫以外の男性に手首と目元以外見せてはいけないことになっているのです。結果として、女性は身体を完全に隠して生活しなければならないが、女性の手足顔、髪の毛などを見ただけで性欲をむき出しにする男性の方は自由なのです。
 タバコを吸いすぎて病気になったら、タバコ会社を訴えるのです。例えばアメリカのフロリダ州のGrady Carterさんが、Brown & Williamsonタバコ会社を訴え、$750,000の損害賠償に勝訴しました(CNN June 29, 2001)。
 麻薬の密輸入、売買、所持などを取り締まって、人々が麻薬に依存することを止めようとする。このように、人が好きになる「対象」を目の仇にするのが、世間のやり方です。

 仏陀のアプローチは違います。
何かを好きになるということは、その人の心の問題です。その人個人の主観的な感情の問題です。
もし対象が原因だとするならば、すべての生命の心に、同じ結果が現れる筈です。タバコを見たら誰でも吸いたくなるわけではありません。麻薬を見ただけで人は誰でも服用しようとはしません。ある人が美人だからといって、すべての男たちが欲望を抱く訳ではありません。「好き」は明らかに主観的な問題です。直すべきなのは、個人の心であって世界ではありません。

 仏教は一貫して心を向上させること、清らかにすることを勧めています。
何かを「好き」になるということは、その何かに依存することなのです。それが心が弱い、汚れているという証拠なのです。
ですから、仏陀は二段階に分けて解決方法を説きます。
 まず好きになる対象から身を引く。次に、依存しなくても幸福でいられるように心を育てる。法律で悪いものを禁止しても、人は直りません。身を引くことにもなりません。ですから、自分で「好き」になる対象から身を引くのです。表面的には世間のやり方と似ているようですが、実際は違います。

 「好き」は主観的な感情です。
好きになる人、また物によって、「好き」という感情も変わります。
人がこのように言うとしましょう。「私は母親が大好き」「私の伴侶が大好き」「私の子供が大好き」「私は飼っているワンちゃんが大好き」「私は愛車が大好き」。この場合は、「好き」という感情は決して同一物ではありません。ある側面から見ると似ている。ある側面から見ると似ていない。冒頭で「好き」にもいろいろあると申しました。その「好き」も、いろいろな対象を観察することで理解できるのです。しかし、何かを好きになって、人が不幸に陥っても、それは決してその対象のせいではありません。

 キリスト教では「愛」という一言葉で、夫婦間の感情、家族に対する感情、隣人に対する感情、神に対する畏敬の念などのすべてを説明しようとする。そうなると、「愛」はわからなくなります。
 仏教は言語が許す限り、感情毎に違う単語を使うのです。
例えば、不幸を招く愛欲(râga)という感情があって、慈しみ(mettâ)という幸福をもたらす感情があります。「好き」の場合も、幾つかの単語に分けて仏陀が説明するのです。

 「好き」はパーリ語で、piya です。「勉強が好き、蕎麦が好き、お金が好き」というように、気に入っている何にでも piya と言う言葉が使われます。しかし好きになる対象によって、「好き」という感情も変わるのです。
仏陀の在世時代、舎衛城に一人の男性がいました。その人に愛らしい息子がいました。その息子が、突然亡くなりました。その人にとって、この別れの悲しみは耐え難いものでした。毎日息子の火葬場に行って、泣き崩れました。それがこの人の日課になってしまいました。毎日火葬場に行って、大好きだった我が子のことを思い出すから、彼の悲しみは増える一方で、減ることはなかったのです。
 この苦しみが耐え難いところまで進むのを見計らって、釈尊が彼の家を訪ねられました。仏陀が、「あなたは精神的にも肉体的にも苦しんでいる。その理由は何ですか」と訊きました。彼が亡くなった息子がいかに好きだったかと、仏陀に説明しました。仏陀が「生まれたものは、誰でも死ぬでしょう。それぐらいのことをあなたは知っている。我が子だけは死ぬ筈はないと思っている訳でもありません。この世で無数の子供たちが死んでゆく。しかし、あなたはちっとも悲しくはない。
 しかし今は一人の子供が亡くなったことで、あなたは精神的にも肉体的にもダメージを受けている。その理由をわかりますか?
 あなたの心に「好き」という感情がある。その感情があなたを蝕んでいる。苦しみに陥れている。その子は自分の運命によってこの世を去っただけです。しかし、あなたの心にある「好き」という感情が、あなたを際限なく悩ませているのです。その感情をなくしたほうが、あなたは再び心の安らぎを感じられるのです」と説き、真理を語られました。彼が「好き(piya)」という感情を断って、預流果の悟りを得たのです。

 また、舎衛城にいた仏陀の在家女性信者の第一とされる、Visâkhâ 婦人の Sudattâ という孫が、突然亡くなりました。息子の娘でしたが、あまりにも可愛くて孫から離れがたく、自分が育てていたのです。この死別の悲しみは、仏教を理解していたにもかかわらず耐え難いものでした。
 釈尊は、孫がどれほど可愛かったかと訊きました。彼女が必死になって、可愛らしさを説明しました。
「そんなに可愛い子なのだから、もし二人いたらもっと楽しいでしょう」と、釈尊に訊かれると、その通りだと返事しました。
釈尊は、人数を三人四人の順に増やし、彼女に尋ねる。彼女の喜びも同時に増えていく。最後にこの町の人口ぐらい孫がいたら、あなたはどれほど喜ぶのかと訊かれたとき、無量に楽しいでしょうと彼女が返事をする。
 それで釈尊は、この町で毎日人が死んでいる。一人、二人ではなく、時々二十人、三十人も死ぬ。百人も死ぬときだってある。亡くなった一人の孫に対する愛情で苦しむあなたは、そうなると無量に楽しい訳ではなく、無量に苦しむはめになるのではないかと訊かれたとき、彼女はハッと気付きました。自分の悩み苦しみの原因は、孫に対する愛着でありましたと。愛着は、人の心の平安を蝕むのだと。

 「お婆さんが孫のことを大好き。」「父親が息子を好き。」この二つの「好き」は、微妙に違います。エピソードでは、お婆さんと孫の愛情として書いてあるが、彼女が我が子のように孫を愛していたと説明があります。
ですから、母と子の間の愛情で見たほうが良いと思います。子を愛する気持ちは、父と母の間では同一にはなりません。それは、母の愛と父の愛なのです。仏陀が父の愛に piya(好き)という単語を使っています。子に対する母の愛に、pema(愛)を使っています。心の感情をなくすためにも、二種類の手段を使われたのです。二人の心に理性を蘇らせてあげたが、方法には「男性バージョンと女性バージョン」があったみたいです。

 男性には・・・「生まれたものは誰でも死ぬ。朝、陽が昇る。午後、陽が沈むのような、当たり前の現象です。驚く必要も、悲しくなる必要もない。世の中で、人は生まれる前に子宮の中でも死ぬ。赤ちゃんのときも、子供のときも、青年のときも、大人になったときも、人は死ぬ。中年になって死ぬ人もいるし、何とか死を免れた人は老衰で死ぬのです。
 しかし、我が子という場合は、この当たり前の事実を認めがたくなる。他人が死ぬとき冷静でいられるが、我が子の死の場合は、冷静さがなくなる。その理由は何でしょうか。心にある「好き」という感情です。」

 女性の場合、子に対する愛には粘着質があるのです。孫が二人いればと訊かれたとき、彼女は頭の中で一人の孫から得た喜びを倍にして、イメージを作ったのです。釈尊がさらにこの楽しいイメージを膨らませたのです。彼女は無数の孫が自分を囲んでいることをイメージして、楽しみに溢れたのです。今まであった死別の悲しみを、見事に忘れたのです。その瞬間に、仏陀が「事実をありのままに観るべき」という爆弾を仕掛けて、彼女の感情的な妄想世界を壊したのです。理性を取り戻した彼女が、愛着するものから得る楽しみよりは、受ける悲しみの方が割に合わないほど多いことに気付いたのです。
仏陀が人を慰める方法の女性バージョンは、「情」から始めたのです。男性は理屈ばかりで生きようとするが、情が入ると無知になってしまうのです。女性は情を大事にして楽しく生きようとするが、情から起こる苦しみに耐え切れなくなると、理性に目覚めるのです。情と理屈に絡んでいる、俗世間の生き方は、苦しみしか生み出さない。女性も男性もこのこの俗世間の道から、理性という位置に達しなくてはならないのです。

 「好き」(piya)も、「愛」(pema)も、世間では楽しいことだと思っている。
しかし好きなもの、愛するものが必ず自分から離れていく。それが、得た楽しみと割に合わないほどの悩みを生み出す。好きなものが目の前にあるときのみ楽しいのです。好きなものが無くなったら、心にある「好き」という感情が、際限なく人を苦しめる。好きなものが無くならなくても、無くなる恐れが恐怖感を生み出す。人に好きなもの、愛するものが現れたときから、楽しみと同時に恐怖という感情も作られるのです。母親が子を産んだときから、一生心配することに明け暮れるのです。子が帰宅する時間が30分遅れただけでも、母が心配して脅えるのです。休日は子供を連れて遊園地に遊びに行っても、母の心は心配の火で常に燃えているのです。「危ない、ダメ、気をつけろ」は、母の愛着の喚(なげ)き声なのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
 Piyato jâyatî soko,
 Piyto jâyatî bhayam ;
 Piyto vippamuttassa,
 Natthi soko kuto bhayam. (Dhammapada 212)
 愛より 愁い生じ
 愛より 惧れ生ず
 愛より 解放されし時
 何の愁いぞ 何の惧れぞ (ダンマパダ 212)
 Pemato jâyatî soko,
 Pemato jâyatî bhayam ;
 Pemato vippamuttassa,
 Natthi soko kuto bhayam. (Dhammapada 213)
 親愛より 愁い生じ
 親愛より 惧れ生ず
 親愛より 離れし時
 何の愁いぞ 何の惧れぞ (ダンマパダ 213) (江原通子 訳)
次の法話へ→
HOMEパティパダー巻頭法話→表は「好きと愛」、裏は「悩みと恐怖」
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.