パティパダー巻頭法話
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No.125 (2005年 7月)
解脱は理解できない
〜仏教徒は、仏陀の道を歩んでいるのか?〜
 Conflict of objectives
A・スマナサーラ長老

 涅槃は仏教が語る最終的な境地です。その境地を目指して仏教徒は修行してきたのです。しかし現代においては、仏教徒が皆その涅槃を目指して励んでいるのかは、疑問です。個人的に聞いてみると、皆それぞれ、目的や訳があって仏教を学んだり、実践したりしているのではないかと思われます。明確に言えば、釈尊が推薦している目的と、現代の仏教に興味を抱く方々の目的には隔たりがあります。

 それには二つの理由が考えられます。一つ目の理由は、生きる目的は何なのかということを、自分自身で決めていることです。二つ目の理由は、涅槃とは何なのかと、全く理解できていないことです。

 まず、一つ目の理由である「生きる目的」について考えてみましょう。

 社会は、仏陀の時代と全く変わっています。科学という学問がありまして、自然の働きを探究しているのです。そして、いろいろなものを開発、発明していきます。それによって、生きることは大変楽になったと思っているのです。経済、政治状況も、複雑になってきました。この環境に適合するために、現代人は必死で、あらゆることを学ばなくてはなりません。また、激しく他人と競争しなくてはいけないのです。現代文明は、競争文明です。誰かと競争しないと、何も成り立たないのです。科学者も、他人と競争して、日夜研究に励みます。開発者も、他の開発者と競争しているのです。これは、「早い者が勝ち」という生き方です。遅れた者は大損するのです。生きていられなくなるのです。教育でも、仕事でも、競争です。挙げ句の果て、日常の生き方さえも、他人との競争なのです。生まれて、ものの理解を始めたときから死ぬまで、絶えず競争しなくてはいけないのです。競争概念が入っていないものは、この世には何一つありません。家族の中でさえも、様々な競争があるのです。

 競争という戦場に生きている現代人は、激しい戦いに挑まなくてはならないのです。負ける人には、生き甲斐どころか、生きる権利さえもなくなるのです。人の頭は、ライバルに勝つための策略をこねることで一杯です。高度な次元でものごとを考える余裕などありません。このような世界なので、各個人は自分の競争範囲を決めるのです。何に挑戦するか、何を目的として生きるのかと、自分で決めます。すべての思考も、努力も、その目的のために費やすのです。このような環境で、たまたま仏陀の教えに出会っても、興味があるのは仏陀が何を語っているのかではなく、自分の競争や策略に、何か役に立つ、効果的なアドバイスがあるかないかです。面白いことに、冥想実践している方々も、互いに激しく競争しているのです。

 解脱とは何なのかということに、興味はありません。仏教を学んだら、商売繁盛できるか、人間関係が良くなるのか、仕事は上手く捗るのか、子供はおとなしく勉強してくれるのか、試験に合格できるのか、健康でいられるのか、長生きできるのか、痩せてスマートになれるのか、皆に好かれるのか、人生で成功できるのかなどは、大いに興味があるのです。このような競争目的を達せられると約束してくれるならば、気持ちよく仏教にしがみついてくるのです。しかし、釈尊は、そのような目的のために悟りをひらいて説法なさったのでしょうか?

 仏教も、人々が関心を持つ生きる目的を、独断的に否定することはしないので、誤解や問題が生じるのかもしれません。一言で言えば、仏陀の教えは「因縁論」なのです。この世で、何が起きても、それはそれなりの原因の結果であるという話になります。そうなると、試験に合格したいと思うならば、それなりの原因を揃えなくてはならないのです。心の中の雑念が減り、集中力が増すならば、ものごとを理解できます。また繰り返すことで、明確に覚えられます。それなら、合格は当然の結果になるのです。その他の問題についても、仏教には答えがあります。家庭円満を期待するならば、互いのことを心配する、思いやりの心をもつ、怠けないこと、我が儘にならないことで充分だと思います。皆に好かれたいと思う人は、嫉妬と怒りを抑えて謙虚な心で、他人に対して慈しみの気持ちでいれば、成功します。

 このように、各個人が期待する目的に、仏教は答えを出すのです。神秘・儀式・行事・迷信などに足を引っ張られることなく、人々が自分の目的に達することができるように、具体的な答えを出す仏陀の教えは、間違いなく役に立ちます。従って、現代人が自分の個人的な目的を果たすために仏教に興味を抱くことも、避けられない現状です。しかし、それは仏陀自身が語りたかった目的とは違うのです。

 では、問題を作っているのは仏教ではないでしょうか? だってそうでしょう。答えなかったら、質問を断ったら、良かったのに…。なのに、なぜ人の世俗的な問題に仏教は淡々と答えるのでしょうか。それは、仏教が「因果論」だからです。また、仏陀自身が智慧の完成者だからです。智慧の完成者に答えることができない問題は何一つも存在しないのです。人の質問に答えるのは、断ることが智慧の完成者として相応しくないからです。いかなる問題にも、ズバリと答えます。だからといって、それこそ人生の最終目的だと、仏陀自身は説かれません。勘違いするのは、一般人なのです。仏道は幸福を目指す完全なる道なのです。わざわざ小さな目的を立てなくても、涅槃という最終目的を目指して仏道を歩むならば、損をすることは全くありません。俗世間的な目的などは、いとも簡単に達成しながら、さらに上の幸福へと進んでいくのです。ところが、涅槃のみを目指しても充分なのに、競争の渦巻きに巻き込まれている現代人の思考は、自分個人の問題・目的だけに限っているので、涅槃という仏陀が説く目的に興味を抱く余裕がないのです。

 次に、二つ目の理由について考えてみましょう。

「涅槃とは何なのか、全く分からない」ということです。人間は競争の渦巻きに巻き込まれているので、ただでさえ苦しい生き方を何十倍、何百倍にも増幅して苦しんでいることに気付きません。とにかく競争に勝ちたいという、それだけに必死なのです。仏教は、競争主義の生き方に賛成しません。共存主義を語るのです。しかし、現代人には「共存主義」は理解できません。相手のことを気にすると、心配すると、自分が負けてしまうのではないかと思うのです。弱者の、負け組の、泣き声など聞いていられないと思うのです。すべて競争原理で成り立っているこの世界で、共存論が理解されないのは、当然のことです。

 競争主義的な生き方では、必ず負け組と勝ち組が生じる。負け組は、当然不幸になる。勝ち組になっても、一生攻撃を受けなくてはならない。競争自体も、苦しい生き方です。勝って幸せを感じても、それは相手の不幸の上に成り立っているものです。みな幸福になることは、決してあり得ない生き方なのです。欲、怒り、憎しみなどは、あったほうが競争しやすいのです。しかし、この感情は、勝利より敗北の原因にもなるものです。競争主義では、決して心はきれいになりません。物質的な富を得ても、心の安らぎはないのです。本当の幸福は、心の安らぎなのです。競争主義者は、幸福を売って、富、名誉、権力などの世俗的なゴミをコレクションします。ですから、この理屈を理解するのは、現代人にはなかなか難しいのです。冥想するときでさえも、競争する気持ちが割り込むので、話になりません。仏教で説く競争は、たった一つです。「自分の心の汚れと闘いなさい。その勝利は、この世にあるいかなる勝利よりも優れている。」

 共存論さえも、人間の理解できる範囲を超えているようです。しかし、それは客観的に考えるならば理解できる話です。ところが、最終目的である涅槃がどういうものであるかは、頭で理解することはできないのです。涅槃の状況を語る言葉さえ見つかりません。涅槃という語さえも「なにもない」というような意味なのです。炎が消えた状態、煩悩が亡くなった状態と言う定義です。とにかく、否定形の単語ばかり使っているのです。というわけで、涅槃の状況は理解できないのです。

 それでは、一般の人々は困るので、「最高な幸福、最高な安らぎ、不死なる境地、一切の苦しみの終焉」などの言葉も使っています。それでも、理解できるとは思えないのです。涅槃とは、一切の次元を超越した状態です。ある、存在する、という理解できる範囲を超越しています。それ以上、目指すべきところはありません。

 我々は、有の世界にいるのです。有・有るということは、因縁によって現れた、変化生滅していく、一時的な現象の世界です。神の次元も、梵天の次元も、有の世界です。有は、無常なのです。有に対立して、人間は「無」の状態も想像しますが、実感があるとは思えません。どちらかというと、虚無主義に陥りやすい概念なのです。仏教の世界でも、「無」「空」という概念は人気があります。それは、虚無主義ではなく、我々が経験している現象の世界は、実は実体のないものです、という意味です。この存在は、「空」というのです。しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないのです。そうなると、輪廻も涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、努力しなくても良いことになるのです。釈尊は、涅槃を anakkhâta (ineffable)表現不可能だと説かれているので、涅槃を「空」とは言わないのです。しかし、「有」でもないのです。その境地は観念的なものではなく、経験できるものです。

 涅槃は最終的な目的だと理解するために、消去法を使用するのです。たとえば、いかなる存在でも無常で、一時的なものであると、たとえ、天界、梵天などの幸福な境地に生まれても、そちらには寿命があるので、最終的な境地ではないと理解することです。それを乗り越えた境地は、涅槃だと理解する。

 「執着」という語からも、消去法を使用できます。人は、執着という機能をよく知っている。あらゆるものに執着して、それらを得るときに競争することが、生きることなのです。欲しいものは得たとき楽しいが、得たものは無常なので消えます。得たものを守るために、無くなったらまた得るために、絶えず苦労しなくてはいけない。変わらない自分がいるならば、それでも構わないと思われるかもしれません。しかし、自分に対する執着は、何よりも強いのです。自分に対する執着があるからこそ、他のものにも執着するのです。自分も無常で、やがて老いて死にます。結局は、競争して生きてきた苦労は全て無駄になるのです。空しくなるのです。そして死で全て終わるわけでもない。生命は転生する。また苦しい循環が続く。さらに執着は束縛になる。執着するものから離れられなくなる。人の思考、努力の全て、執着するものの範囲を超えられなくなる。それでは成長も、智慧の開発も、自由もあり得ないのです。

 そこで、仏陀は無執着ということを説かれます。無執着になると、心は自由なのです。一切の現象、無常なるもの、有に対する執着から離れることが、涅槃という境地なのです。我々の概念、言葉、全て有の世界と執着に関わるものなので、無執着状態である涅槃はどういうものかと、その境地は経験しない限り理解などできません。言葉も存在しないのです。執着する癖は、輪廻転生する生命の根本的な問題です。瞬時に全てに対する執着を捨てることは、簡単ではないのです。順番でまず、変わらない自我があるという、自分に対する執着を捨てる。次に、どうせ無常であるものごとにきつく囚われる必要はないと理解して、欲と怒りを控えられる境地になる。次に、五欲に完全に執着しない状態を得る。最後に、如何なる存在にも執着しない境地に達する。固定した自我がないと発見するだけで、解脱の世界に入るので、遅くても七回転生する間に、完全に悟るのです。欲を捨てて三番目の段階に達する覚者は、死後梵天に生まれそこで涅槃に入るのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
 Chandajâto anakkhâte,
 Manasâ ca phuto siyâ;
 Kâmesu ca appatibaddha citto,
 Uddhamsoto'ti vuccati. (Dhammapada 218)
 言詮の及ばぬ境地志し
 心にそれを体得し
 五欲に著することなくば
 世は呼んで言うその卿を
 「流れをのぼる方(不還果)」とこそ (ダンマパダ 218) (江原通子 訳)
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