パティパダー巻頭法話
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No.127 (2005年 9月)
怒りは心の自動発火装置
〜怒りは簡単に消えないもの〜
Anger, an innate distructive force
A・スマナサーラ長老

 今月から、怒りについて考えてみたいと思います。怒りは良くないという話は、嫌になるほど聞いておられると思います。「その話は聞き飽きた」と思われるでしょう。実は、その感想も怒りなのです。怒りは良くないと聞いて怒ってしまったということです。それでも、怒りは良くないのです。

 怒りは二種類に分けて考えることが出来ます。(1)内面に向かった怒り (2)外に向かった怒りです。
内面に向かった怒りとは何でしょうか。それは、自分自身のことで不平不満を感じたり、失敗や物事が上手くいかないことに落ち込んだり、悩んだりすることです。自己嫌悪と卑下も、内面に向かった怒りです。
外面に向かう怒りとは何でしょうか。他人に対して、様々な出来事に対して怒ること、嫌な気持ちになることです。自分が怒った原因、嫌な気持ちになった原因、落ち込んだ原因は、外にあると思うことです。外に対して攻撃的な体勢を取ることです。

 私の主観ですが、内面に向かって怒る人よりは、外面に向かって怒る人の数は遙かに多いのです。
ほとんどの人々は、「あの人が悪い、この人が悪い」と怒っている。条件が悪い、嫌なことに出会ったなどと思って怒る。例えば、人が弁当を買いにコンビニに行ったとしましょう。ところが弁当は売り切れでした。「私の場合はいつもそうだ。ついてないのだ。不幸だ」と思う人は、内面的怒りです。「何で品物が揃っていないのか。だってコンビニでしょう。24時間営業をするところでしょう」と嫌な気分になる人は、外面的怒りです。それで世の中の人々の多数は、正義の味方です。自分の希望通りに世界を直してやろうと思っているのです。学校が悪い、会社が悪い、官僚が悪い、政府が悪い、世界がおかしい、環境が破壊されている…云々言う人は、外に向かって怒っているのです。その人々が多数派ではないでしょうか。

 外に向かって怒る人には、自覚しないで感じている恐ろしいことがあります。
それは、「私のせいではない、私は正しい」という気持ちなのです。「私は正しい」と思う人は、自分を向上させようと、能力開発しようと、より良い人間になろうと努力しないのです。表向きには自己開発に踏んばっているんだと言いふらしているかもしれませんが、潜在意識は頑固なのです。この人にもう一つ問題があります。いつも他人を批判したり、他人の欠点ばかり見ているので、人間関係が決して楽しいものではありません。独りでいても環境に文句を言うので、精神的に苦しむのです。人間として何の成長もなく、普通より何十倍も悩み苦しみに陥って、生きることになるのです。

 少数派の内面に向かって怒る人の場合は、自己破壊力が急速です。何でもかんでも自分が悪いと思うから、とても暗いのです。行動力はありません。挑戦しようとする姿勢もない。既に身についている能力さえも、減っていくのです。生命力は自分に向かって攻撃的に働くので、生きることはとても苦しいのです。その苦しみが忍耐の限度を超えると、暴力的になって他人を破壊するか、自殺を図るのです。どちらにしても、結果は自己破壊です。

 このように怒りは二種類ですが、悪いと分かっても怒らずにいられないのです。すっかり癖になっています。怒ることは自然で、怒らずにいることは不自然に感じる。怒りはわき水のように勝手に湧いてくるのです。管理しようと思っても、決して簡単ではありません。コントロールは失敗に終わります。なぜ怒りが好き勝手に湧いてくるのでしょうか? 嫌な気分でいたくない、楽しく生活したいと思っても、なぜ怒りに負けてしまうのか。

 心の中に一つの原因があります。
仏教用語で「慢(mâna)」といいます。慢とは、自分を評価することです。計ることです。誰にでも「自分」という自覚があります。何も悪くない、自然な意識である自覚は、自我意識に化けるのです。人は、無知のせいで一切は瞬間瞬間変化してゆく一時的な現象であると理解できません。自分という自覚は絶えず起こるので、変わらない自分がいると錯覚を引き起こします。それから自分(自我)を評価する、計る。これが慢なのです。自分が正しいと評価することは、「高慢(ati mâna)」です。自分がダメだと思うことは、「卑下慢(hîna mânaî)です。「慢病」で悩んでいる限りは、怒りは絶えません。
「良いことを発見しました。自分が他人より偉いとも、卑しいとも思わなければいいのだ」とひらめくでしょう。残念なことに、それは違います。自分も他人も同じだ、平等だ、と思ってもダメです。それも自我意識でしょう。仏教では「同等慢(sadisa mâna)」といいます。しかし同等慢の人は、滅多には怒りません。肺炎に比べれば、風邪は軽症かもしれません。しかし風邪を引いて良いわけでも、面白いわけでもありません。風邪をこじらせたら肺炎にもなります。同等慢の人も、他人の差別的な生き方を見て、とくに自分をあまりにも軽視されると怒ってしまうのです。ということは、慢(自我意識)がある限り、怒りは付いて回るのです。

 怒りを完全に退治するためには、慢をなくさなくてはなりません。それに智慧を開発する必要があります。「変わらない自分がいるというのは錯覚だ、全て瞬間瞬間生滅変化しているので、自分という意識も瞬間瞬間変わっていくものだ、実体・我・霊魂・魂と世間で言っている永遠不滅のものはない」と悟らなくてはならないのです。慢をなくすためには、この方法しかないのです。

 皆、怒りを軽く見ているのです。
怒りをなくす方法を教えて下さいと、軽々しく頼むのです。そう頼む人に限って、自我の評価は高過ぎです。手に負えないほど高慢です。とは言っても、怒りは猛毒であると理解することは大変重要です。怒りは人の喜びも幸福も破壊するものです。健康を壊し、短命にするのです。体力も才能も知識もその他の能力も、減らして破壊します。怒りには一欠片も良い結果はないのです。断じて怒ってはならない。それには何の例外もないし、言い訳も通じません。

 智慧が現われない限り、怒りが無くならないのならば、誰もが怒りの悪果を避けられないのでは…と思うのも無理はありません。以下のポイントを考えて欲しいのです。ウィルスに感染しても、必ず発病するとは限りません。怒りはHIVと同じだと思ってください。感染しても発病しない人もいるのです。その人々はキャリアといいます。発病しなかったら幸いです。何かのきっかけでウィルスが繁殖し活動を始めると、命は終わる。悟りをひらかない限り、皆怒りという猛毒に感染しているのです。怒りが爆発して発病しないように、あれこれと工夫して注意して生きていなくてはならないのです。

 怒りは人の幸福を瞬時に破壊する恐ろしいものですが、人の幸福をなくし、苦しみを生み出す原因は他にもあるので、ついでに理解しておきましょう。仏教は一貫して、一切の苦しみを乗り越えることを教えているので、怒りだけ何とかすれば幸福になるとは教えません。怒らない人も、様々なトラブルを引き起こすのです。同等慢で全然怒らない人も、会社で家庭で問題を引き起こす。子供をしかることは出来なくなるし、後輩を育てることもできなくなる場合もあるのです。それは、怒らないが、どうすればものごとが上手くいくのかと分からないからです。

 完全なる幸福を目指す人は、次の問題に挑戦するのです。
その問題は、仏教用語で「執着(saññojana)」と言います。枷(かせ)という意味です。結・結縛という訳語もあります。有身見・疑・戒禁取・欲・怒り・色貪・無色貪・慢・悼挙・無明という十種類の枷があります。そのリストの中で、五番目が怒りです。悟りの第一ステージ、預流果で最初の三つの枷が消え、第二のステージ一来果で四と五の枷が弱くなる。第三のステージ不還果で四と五が消える。第四のステージ阿羅漢果で残り五つは消える。悟りの第三ステージに達しない限り、怒りと欲はつきまとうのです。誤解してはいけないことがあります。預流果に悟った人も、聖者の一員です。しかし一般人と同じく欲と怒りに溺れて、罪を犯しながらだらしない生き方をするわけではありません。怒りと欲が智慧の攻撃を受けているので、息も絶え絶えの状態です。決して発病はしません。

 専門的な話を置いておいて、一般的な話に戻りましょう。人は十種類の枷で束縛されて生きているのです。一般的に気付くのは、金が欲しい、家族を愛している、仕事が楽しい、ご馳走を食べたい、健康でいたい、病気になりたくない、死にたくないなどの感情です。これらは枷なのです。この目的に達しない時、物事が上手くいかない時、落ち込んだり悩んだりするのです。そこそこ上手くいっているとき、欲に目が眩んで高慢になるのです。一見何も悪く思えない、以上の感情は、人を苦しみに束縛するのです。幸福を目指す人は、あらゆる枷を破るようにと挑戦しなくてはいけないのです。

 仕事があるから子供の授業参観日へいけない。子供が突然病気になったから仕事に行けない。子育てと家事で忙しい主婦はどんどん世間知らずになってしまう。突然奥さんが離婚して出て行ったので今まで慣れてきた安定した生き方が壊れてしまう。コマーシャルに引かれて不必要な高額な品物を買ってしまう。病気になったから仕事を解雇されて経済的に苦しい。このようなことは人間にとっては枷なのです。自分の意志で自由に、何の行動もできないのです。それはそれで良しとしても、真理を知る、自己観察をする余裕は全くないことが大変不幸なのです。無知で感情の奴隷になって生きていて、無知のままで悔しい気持ちを残して死ぬことになるのです。必死で頑張って生きていたが、得たものは皆無という状態なのです。俗世間で生きている上でいろいろ束縛があるかもしれませんが、それに完全に囚われないようにして、真理の発見、自己の発見をしなくてはいけません。

 完全に悟りをひらいた聖者は、十種類の枷を破っています。完全に自由なのです。この上のない安らぎを実感しているのです。その状況を別な言葉で表現してみましょう。「覚者はnâmaとrûpaに引っ掛かることはありません。nâmaとは、心のことです。感情、妄想、思考、概念などです。覚者は、自分の感情、妄想、概念などは持たないのです。全て捨てているのです。世間の思考、感情などにも振り回されないのです。rûpaとは、物質のことです。自分の肉体も物質で、外の全てのものも物質なのです。物質は瞬間瞬間変化する、無常なるもので、執着に値しないのです。心にも物にも一切執着しないということは、何にも囚われない完全なる智恵を獲得したということです。苦しみを完全に乗り越えるためには、無常なる存在の全てに対して(nâmaとrûpa)執着を捨てなくてはならないのです。

 「執着を捨てる」。この言葉を聞くと、一般人は嫌な気持ちになるようです。
仏教って暗い教えだなあと思うのです。大事なもの、楽しいものを取り上げられるような気分になるのです。真理を発見していないから、無知があるからそのように感じてしまうが、事実は違います。これを説明するためにお釈迦さまが説かれた喩え話があります。生まれつき目が見えない人がいる。その人のところに詐欺師が近寄る。見る限り気持ち悪い、使えそうもない汚れたボロ服一着を持っている。世界一の高価な美しい服だと相手を騙して、高額で売る。それを買った目が見えない人は、自慢げにその服を着る。その服に執着する。人の話は聞かない。その惨めな姿を見た優秀な目の医者は、彼に治療を施して見えるようにする。見えた瞬間で、自分は今まで騙されていたこと、強情で高慢で親切な人の話に耳を傾けなかったことに気付く。忽ち服に対する執着を捨てる。この喩えで、執着を捨てることが有益だと理解しましょう。

今回のポイント

◎経典の言葉
 Kodham jahe vippajaheyya mânam,
 Saññojanam sabbam atikkameyya;
 Tam nâma rûpasmim asajjamânam,
 Akiñcanam nânupatanti dukkhâ. (Dhammapada 221)
 (じん)を捨て慢を()
 すべての(きずな) 超えよかし
 (ナーマ)(ルーパ)に無執着
 無一物者を苦は追わず
             (ダンマパダ 221)   (江原通子 訳)
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