パティパダー巻頭法話
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No.128 (2005年10月)
人生のプロドライバーになる
〜怒る人は多重に損をする〜
Anger assures your downfall
A・スマナサーラ長老

 自動発火する怒りは、人の道徳も幸福も生きる楽しみも、燃やしてしまうのです。怒りの種火が起きたら、急速に怒りの炎が燃え上がるのです。怒りは火に喩えられていますが、この喩えを文学的な表現として軽く見ないで、真剣に考えた方が良いのです。怒りは、自分の服に実際に火がついたような気持ちで、理解したほうが良いのです。着ている服に火がついたのを、放っておいたらどうなるかは、よくわかるでしょう。怒りは放っておくとそれよりもっと危険なのです。身体に火がついたら、死んでしまうか死ぬほどの苦しみを受けるかです。怒りの場合は、自分が不幸になるだけではありません。怒りが爆発すると、周りにも多大な迷惑をかけます。人を罵ったり、喧嘩したり、ケガさせたり、殺したりするのです。今世間で起きている戦争も、テロ行為も、怒りの結果です。怒りによって人は何の躊躇もなく犯罪を犯す。怒り自体が悪行為なのに、怒りに引かれて行う行為もまた悪なのです。怒りに負ける人は、この世だけではなくあの世でも不幸になるのです。ですから、怒りは身体に火がついたよりも危険な感情なのです。

 怒りの種火が現れたら、瞬時に消してしまうべきですが、人はなかなか怒りを消すことはしません。それには理由があります。怒りが現れた瞬間に理性がなくなります。物事が見えなくなります。怒りの感情が人を抑圧します。そこから主導権を握るのは利口な人間ではなく、怒りなのです。怒りに仰圧されて、思うことも発する言葉も行う行為も全て、他人も、自分も破壊します。自己管理できない人間は、怒りの種火に油を注ぐことしか知らないのです。怒りの火に油を注ぐ方法を学ぶ必要はありません。人には生まれつきその能力が備わっているからです。現れた怒りを自分と他人を破壊するまで拡大することは、人間の本能です。しかし、世の中の全ての人間が、殺し合いをやっているわけでもありません。それなりに平和で生きている人々が多いのです。では、その人々は怒りの制御方法を知っているのかというと、そうではありません。ただ恐いだけです。怒鳴りたいが、怒鳴り返されるのは恐い。殴りたいが、殴り返しは恐い。殺したいが、殺されるのは恐い。自分が不幸になるのが恐い。この自己愛のお陰で、怒りは管理不可能な状態になる以前に弱くなるのです。怒っているが、怒りを顕わにしない人々もいるのです。一見おとなしく見えますが、内面的に怒りの種火が燃え続けているのです。時間が経つと、人生が失敗したことに、不幸になっていることに自分で気付くのです。しかし、それは長い間燃え続けた怒りの結果だと気付きません。「自分だけ良ければ」という気持ちにならない限り、自己愛は必ずしも悪いものではありません。それによって自分が守られます。理性のある人なら自己愛を自覚して、怒りだけではなく、不幸をもたらす一切の感情を制御するのです。

 9月号でも書いたように、悟りをひらかない限り怒りは完全に消えないものです。悟りをひらいていない人々に無知があります。無知は理性と反対の感情なのです。怒りの種火が現れたということは、無知が表に出て行動を開始したことなのです。それから、当然ながら怒りに油を注ぎます。まず怒って正しい、当たり前だと思う。それから、次から次へと相手の欠点、間違いばかりを探して妄想する。その妄想が怒りに注ぐ油なのです。それは、外向きの怒りの場合です。内向きの怒りの場合は、自分自身の弱点・欠点ばかりを思い浮かべて妄想します。内容は何であろうとも、妄想は無知の証です。妄想の結果である欲よりも、怒りは強烈な破壊力を持っている。しかし、怒りは本能として自動的に現れるものです。また管理しにくいです。怒りという代物を背負って生きるしかない人間の人生は、惨めなものです。ですから、怒りが現れた瞬間に、忽ち消した方が良いのです。決して、「怒って当然だ」と思ってはなりません。怒りそのものが極悪だと思った方が消しやすいのです。

 物語があります。お釈迦さまの時代の話です。アーラーヴィという村に、一人の比丘が住んでいました。彼は自分の修行に励むために小さな庵を造りたかったのです。斧を持って森に入って、一つの木を切ることにしました。その木には神霊が宿っていました。樹神が自分の住処を壊さないようにと頼みましたが、比丘は一旦切り始めたので、止める気はなかったのです。そこで樹神が自分の息子を比丘の前に置きました。ちょうどその瞬間、比丘は斧を振り降ろすところでした。そして樹神の息子の手が、切断されてしまいました。樹神が激しく怒り、比丘をその場で殺そうと手を上げたのですが、その瞬間でまた考えたのです。「私はこの人を殺しても、結局は戒律を守り修行に励む出家を殺したことになります。罪は重大になります。私に習って他の人々も、何かあったら比丘達を殺す可能性もあります。この比丘に指導者がいます。指導者に訴えれば良い。」彼女は、お釈迦さまの前で泣き崩れながら、この出来事を伝えたのです。お釈迦さまが、このように語りました。「君は瞬間に起きた激しい怒りを見事に管理しました。それは、そう簡単にできるものではない。君の感情の管理は、並大抵のものではありません。」自分の素晴らしさを釈尊に讃えられたので、彼女が落ち着きました。説法を聞いて、樹神は預流果に悟りました。釈尊が彼女に、祇園精舎の一つの木を住処として与えてあげたのです。それから釈尊が比丘達に、生きている植物を切ってはならないという戒律を定めたのです。

 怒りの感情を抑えるために役に立つ物語だと思います。樹神という言葉を忘れて、ある母親の子供の手が誰かに切断されたと思ってください。たとえ樹神であっても、子供に対する母の感情は変わりありません。このような極端なケースの場合でも、仏教は怒り憎しみ怨みは良くないとする。この場合は、怒るのも殺意を抱くのも、一般的に考えれば当たり前のことでしょう。仕返しをしたくなるでしょう。しかし、それさえも、怒りを正当化することです。怒って当たり前だと思うことです。その樹神も「目には目」という屁理屈で比丘を殺したならば、普通の殺人罪よりも重い罪を犯すことになったのです。樹神が受ける損は、最大になるのです。まず愛息子(まなむすこ)の手がなくなった苦しみ。それから、罪を犯して地獄に落ちる苦しみ。

 我々もこの世で生きている限りは、どのような不幸な出来事に遭遇するかわからない。理不尽なことが、世の中にはいっぱいです。怒ったことで世の中が良くなるものであるならば、もう既に我々は完全な世界に生きていることでしょう。昔も世界は不公平で、苦しみに溢れていたのです。今も世界は不公平な出来事で溢れています。昔も今もこれからも、人は簡単に嫌な出来事に対して激怒するのです。怒りに狂うのです。仕返しするのです。仕返しできない場合は、一生相手を怨んで自分が不幸になるのです。怒りによって自分の不幸、苦しみは倍増するのであって、何の解決もありません。怒りを見事に管理したあの樹神は、真理を理解しました。悟りをひらける徳を瞬時に積みました。その上、大阿羅漢達とお釈迦さまが住んでいる、偉大なる神々が訪れる所に、住む権利も得たのです。彼女は計り知れない徳を得たのです。我々も日々起こる怒りを、その場でその場で消してゆけば、偉大なる徳を積む人間になれます。それこそが幸福の道ではないでしょうか。結局は、簡単に怒ってしまうという本能は、理性さえあれば究極的な幸福に変わるのです。

 怒った自分は、狂人だと思ってください。何一つも理解できない人間になってしまったと思ってください。恐ろしい幻覚に陥ったと思ってください。殺戮者になりえる凶暴な人間になったと思ってください。本気で思うなら、怒りは消えますよ。怒りを消すことが大功徳を積むことですよ。少々の不幸は、最大の幸福に成り代わる人生になりますよ。

 怒りが入った心を、お釈迦さまは暴走する車に喩えたのです。昔の車は、馬が引いていました。暴走する馬が、自分が車を引いていることを忘れるのです。車に乗っている人々の命は危なくなります。仏陀の喩えを現代的に言い換えると、走っている車のブレーキとギアが突然効かなくなったことになるでしょう。運転手は、その時こそ脅えたり感情的になったり困ったりしてはいけないのです。その時こそ、理性と落ち着きを保たなくてはいけません。ギアもブレーキも効かないで暴走している車を、上手に止める事が出来れば、素晴らしい、讃えるべき運転手でしょう。

 高速道路で80キロで走っているとき、このようなことに遭遇したことをイメージしてみてください。その時、あなたは自分の命も守り、周りのドライバーたちを危険な目に遭わせないようにするために、どうすれば良いのでしょうか。やっぱりその場で判断しなくてはいけないのです。中央分離帯に丁寧に付けてみるか、高い山のようなものがあればそちらに車を回すか、それをする間クラクションを鳴らし、パッシングしたりして、周りに注意を促すなど、いろいろです。なぜイメージしてもらったかというと、皆軽々しく、「怒ったらどうすれば良いのでしょうか」「怒りを収めるコツがあるのでしょうか」と、よく訊くのです。コツがあって教えてあげたならば、その方法だけ「神の言葉の如く」守ろうとするでしょう。しかし、人はどんなとき、どんな条件の中で怒るのか、わかったものではないでしょう。ですから、簡単便利なコツなどないと思った方が正しいのではないでしょうか。ただ言えるのは、瞬時に怒りを消しなさい、ということだけです。具体的に怒った出来事を教えてもらうならば、その怒りを瞬時に消すコツを教えられます。しかし、それはもう過去の出来事でしょうし、二度と同じ出来事は起こらないでしょう。コツを教えてもらっても、役に立たない可能性は大いにあります。

 一般論で言えば、怒りを消す方法も二種類です。相手の怒りを消すことと、自分の怒りを消すことです。相手の怒りを消すことは、とてもドラマチックで面白いのです。たとえば上司が怒って自分を怒鳴っている。その時突然上司に向かって「上司の怒っている顔はかっこいいんだ、男前だ」と言ってしまう。上司は何が何だか分からなくなって、怒鳴っていた理由も忘れてしまうのです。上司は女性なら、「超可愛い」とでも言えば良いでしょう。とにかく間違わないように。子供が怒ったら、「嫌だ、かっこわるい」か、「全然可愛くなくなった」とかです。これは、このままでは使えない手段だと思います。相手に対して何を言えば良いのかと、その場その人に合わせて判断しなくてはいけないのです。難しくはありません。自分が常に明るく、ニコニコ気分でいれば智慧なんかはいくらでも湧いてきます。難しいのは、自分自身の怒りを収めることのほうです。「これでは負けてしまう、失敗する、自分がバカになる、失敗したのは相手なのになぜ私が怒って苦しむのか」などと思考を切り替えることです。簡単なのは、「怒りは猛毒だ、極悪だ、自己破壊だ」と思うことです

 運転免許を持っている人々は多くいます。しかし、彼らを「運転手」だと呼べるのでしょうか? 故障する恐れはほとんどない新車に乗って、交通ルールを正しく守って運転されている車の間で、安全運転なんかは簡単なものです。しかし予測できない何かが起きたら、途方に暮れるし、事故を起こしてしまう。誰もルールを守らないで身勝手に運転している道路でさえも、無事運転できればこそ、腕の良い運転手といえるのです。そうではない他の人々のことは、ただ車を何とか操縦しているとしか言えないのです。人生は、交通ルールをほとんど守らない人々で溢れている高速道路だと思ってください。あなたの義務は、その道路で無事故・無違反で運転することです。それこそ、讃えるべき人生なのです。相手が悪いから怒ってしまったのだというのは、言い訳にならないのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
 Yo ve uppatitam kodham,
 Ratham bhantam'va dhâraye;
 Tam aham sârathim brûmi,
 Rasmiggâho itaro jano. (Dhammapada 222)
 沸き起る
 怒りを制し暴走の
 馬車をとどむる如くなら
 「まことの御者(ぎょしゃ)」と我れ呼ばん
 世は「手綱(たずな)持つだけ」の人多し
             (ダンマパダ 222)   (江原通子 訳)
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