パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→死後は天界を目指す
No.130 (2005年12月)
死後は天界を目指す
〜常識的な人間が天国に赴く〜
Commonsense is the short cut to heaven
A・スマナサーラ長老

 死後だれが天界に生まれるのでしょうか? ほとんど興味が湧かない質問でしょう。皆死後成仏するでしょうと日本文化では包括的に思われているようです。そうすると、死後のことなんかは考えたり、悩んだり、心配したりする必要がなくなります。人間には日常考えたり、悩んだり、心配したりすることが余るほどありますから、死後のことなど考える余裕はありません。ですから、「死後皆成仏」思考は宗教に対して別に興味があってもなくても一般的に通じているのです。人を区別し、差別し、又審判までして、あの人なら天国、この人なら地獄というような厳しい考えではありません。優しい思考です。この一般思考の根底にある優しさは大事にするべきだと思います。

 気楽に「皆死後成仏」だと信じていると起こる問題もあります。今我々はどのように生きていれば良いのかと分からなくなります。なにをしても良いということにもなる。何もやらなくても良いということにもなる。生きる勇気が無く困っている人を励ますことも出来なくなる。社会に迷惑をかけて生きている人々も自分の罪を改める気にならなくなる。やはり、優しいだけでは何かが欠けているのです。従って、死後がどうなるのかと考えるときは「今この世での生き方が大きな原因になるのだ」と思わなくてはならないのです。「結果は行為に()ります」という仏陀のお考えは優しいだけではなく真理なのです。サンユッタ・ニカーヤ II.227に、「蒔いた種に応じて果実を収穫する。善い行いをした人は、善い報いを得、悪い行いをした人は悪い報いを得る。」と説かれています。ですから、人は死後のことよりも、今自分が行っている行為がどのようなものかと心配した方が正しい仏教的な生き方になるのです。

 では、話を元に戻します。死後だれが天界に生まれるのでしょうか? 無論答えはこの世での生き方によって決められることになりますが、どのような生き方が天国行きになるのかと具体的に説明したほうが良いと思います。実は神通力第一のMoggallâna(モッガラーナ)(目蓮)尊者が天界に行って調べたことがあります(仏教徒は何でも調査するみたい)。神々のアンケートから、天界に生まれ変わる三つの善行為を見出されたのです。その三つの条件は信じがたいほど簡単なものでしたので、尊者が釈尊に訊かれたところで、釈尊はその調査結果はその通りで正しいとお答えになったのです。

死後天界に生まれ変わる条件その一

 saccam bhane(サッチャン バネー)

 真実を語ることです。わかりやすく言えば嘘をつかないことです。世界中どなたでも認める道徳ですが、だれでも真剣に守ろうとはしない行為でもあります。自分の利益のために人を騙して、嘘を付いて生きることはそれほど賞賛出来る生き方ではありません。実行しようと決めるならばそれほど難しいことではないとすぐ分かります。正直に生きることは一番楽な生き方です。秘密がばれて不幸になる、倒産するなどの恐れもありません。一日の仕事が終わったら穏やかな気分で、充実感を感じながら安眠出来ます。

 死後のことを置いておいても、この世の中のことを考えると嘘が全ての不幸の原因になっていることは明白です。経済的、政治的な不安は皆互いに嘘を付いて騙し合っているから起こるのではないでしょうか。
「嘘をつくというたった一つの罪を犯す人に犯せない罪はありません」と仏陀が語られます。(ダンマパダ 一七六)と言うことは「嘘をつかない」と決めた人は一つの道徳を守ることで全ての道徳をまもることになるのです。理由はどうであろうとも、他人に事実を隠して嘘を付いて騙すということはその人を侮辱することなのです。相手にしていないことです。人間として平等に観てないことです。人権侵害です。「嘘は方便」ですか。嘘は決して方便にはなりません。方便というのは理解能力がある人が相手に簡単に難しいことを理解してもらうために使用する方法なのです。漫才、マンガ、音楽、踊り、ゲームなどを使用して様々なことを教える場合は方便です。方便は相手に理解してもらうためのmethodology、方法学なのです。嘘は方便ですというのは、嘘をつきたい人々の我が儘な言い訳です。自分が無知であると認めていることなのです。無知な人、能力のない人、インスピレーションに欠けている人なら嘘は方便だと思って人を騙すでしょう。嘘は猛毒のように見て、避ける方がよいことなのです。自分だけではなく他人も幸福になります。嘘を避けることは利他行なのです。

 嘘について難しいことを書いてしまいましたが、あまり重く感じる必要はありません。人はだいたい、嘘は嫌いなのです。普段は嘘などつかないのです。嘘をつくことになったならば、人生において重大な問題を起こしている可能性があります。そのような人は少ないのです。多数の人々は日常の生活を平和に営んでいるものです。従って、嘘をつかなくても良い環境でいきているのです。死後天界に生まれ変われる条件の一つは揃っていると思います。

死後天界に生まれ変わる条件その二

na kujjheyya(ナ クッジェッヤ)

 怒らないことです。怒りっぱなしで、不機嫌で生きていることは全く面白くないと思います。何があっても、笑顔で明るく生活しなくてはならないのです。難しそうですね。理解しておけば、簡単に実行出来ます。この世でも楽しく生きていて、死後天界に生まれ変ることも出来ます。

 怒りは色々です。単純な定義は「気に入らない出来事」です。「気に入らない」は怒りだというのです。悲観的な、暗い妄想をしている場合も「怒り」です。妄想をしている人は悲観的な妄想をするのに、面白いことに自分自身の妄想が好きではないのです。ただ仕方がなく、妄想し続けて精神的な問題を作るだけです。

 気に入らない出来事が溜まると気分が悪くなって、精神的に暗いモードに入るのです。次に悪い、怒りの言葉を発したりする。それでも気が済まない場合は身体で行動するのです。喧嘩をしたり、ものを投げたり、人を殴ったりなどです。殺したりもします。悪口でも言って、ものを投げたりすると怒りが消える、怒りの発散が出来ると思っているようですが事実は違います。怒りの妄想をすればするほど怒りは増えるのです。管理出来ないところまで怒りが成長するのです。喧嘩をしても更に怒りが増すばかりです。慈しみの思考でしか怒りはなくなりません。怒りの解毒剤は優しい思考、慈しみの思考です。

 怒りが全く現れないように気をつけるのはとても難しいことです。人は「好き・嫌い」という二つの衝動で生きています。怒りは悟りの智慧でのみ完全に無くなるのです。今月は天界に生まれ変わる為の条件なので、怒りの根絶について語られているのではありません。大切なのは、日常生活の中で怒らないでいることです。怒りはむき出しにしないようにと気をつけることです。怒りの感情が湧いてしまう出来事が起きたとき、自己管理してみるのです。結構楽しくなると思います。嫌な出来事に遭遇したのに怒らないようにと気をつけると頭がよく働き出すのです。冷静にものごとを考えることが出来るようになるのです。その問題を自分の理性で解決出来るのです。
怒りの感情で行動すると人生は負けることになるのです。だれでも負けたくはないと思います。勝利の秘訣は怒らないことです。我々は競争社会の中で生きている。自分一人で平和でいたいと思っても社会との関わりを絶つことは出来ません。競争の渦に巻き込まれることは避けられません。競争に遭遇するとき、人はつい怒ってしまうのです。それでは競争にも負けるし、能力も衰退する。
ですから、怒らないでいることがとても大事なのです。相手は敵ではありません。この社会では、だれもが競争しなくては生活出来ないようになっているから、皆自分の命を守るために、仕事をするために競争しているのです。残酷な犯罪を犯している訳ではないのです。

このように慈しみに基づいて相手のことを観察すれば怒りが湧いてこないのです。慈しみの念を抱く人には、自分を守るために、人生に負けないためにどうすれば宜しいかという智慧が自然に現れます(善行為に善果が必ず現れます)。また、我々は子供に対して、伴侶に対して、友人たちに対してついカッとなる癖があるのでそれも徹底的に気をつけた方がよいのです。

このように自己を戒めることはそれほど難しくないと思いますが、いかがでしょうか? 日常生活の中で発作的に起こる怒りを制御することで死後天界に生まれ変わるための第二の条件を満たしたことになるのです。

死後天界に生まれ変わる条件その三

 dajjâ appasmim pi yâcito(ダッジャー アッパスミン ピ ヤーチトー)

 必要とする人に僅かなものでも与えましょう。私たちにはいろいろなものは必要なのです。必要な物がない場合は生きることはとても苦しいのです。たとえ幸福な人であっても自分に必要な物全てを自分のみの力で揃えることは出来ません。他人のお世話にならなくてはならない物事は山ほどあるのです。と言うことは、「与える、寄付する、奉仕する、協力する、施す」などは社会人として、人間として必ず行わなくてはならない行為なのです。他人が必要としているのに自分が何の協力もしないというならば、明らかに人間失格です。他人のお陰で生きているのに、その恩を返すことをしない人間ということです。それは仏陀の言葉から言えば「悪人」なのです。

 ただ、与えるだけでも意味はありません。
相手に対して迷惑な行為になる可能性もあります。自分に要らなくなったものがあって、執着があるから捨てることも出来なくて、それを他人に与えるということも見られますが、よく考えるとそれは結局は「処分する」行為になってしまうのではないかと思われます。与える行為の基準は相手が必要とするか否かです。処分したいものでも必要とする人がいる場合はその人に与えることは立派な寄付行為です。施しが成立するために、他人を助けたいと言う気持ち(与えたいという意志)、与える品物と必要とする人という三条件が揃う必要はあります。地震、ハリケーンなどの大型の災害の場合は自然に与える気持ちは生まれます。寄付をそれだけに限ると日々与える行為は出来なくなります。

 私たちが生きている環境をよく観察してみて下さい。いつでも、誰かが何かを必要としてることを発見出来ると思います。その必要とするものを自分が持っている場合もたびたびあります。ないのは「与えたいという意志」だけです。「与える意志」さえあれば日々この善行為を行うことが出来るのです(与えるのは品物だけではありません。人に道を教えて上げることも与える行為です)。必要とする人に僅かなものでも与えることは、死後天界に生まれ変わる三番目の条件です。要するに人間らしく生活する人は皆、死後天界に生まれ変われるのです。

今回のポイント

◎経典の言葉
 Saccam bhane na kujjheyya,
 Dajjâ ppasmim pi yâcito;
 Etehi tîhi thânehi,
 Gacche devâna santike. (Dhammapada 224)
 実話せよ な怒りそ
 乞われなば (おの)がもの
 いささかなりと与うべし
 この三事にて 次の世は
 神々近く 至り得ん
             (ダンマパダ 224)   (江原通子 訳)
次の法話へ→
HOMEパティパダー巻頭法話→死後は天界を目指す
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.