パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→幸福と祝福
No.131 (2006年 1月)
幸福と祝福
〜苦は楽だと勘違いしないための仏陀の智慧〜
Some points for discovering proper happiness
A・スマナサーラ長老

 新年を迎えることになりました。皆様方に三宝のご加護がありますようにと、また真理の力により幸福に満たされますようにと祝福いたします。

 人は誰でも「おめでとう」と互いに祝福を交わす時期なので、祝福と幸福について仏陀の智慧に基づいて一考、考察してみましょう。人はなぜ失敗、不幸、悲しみ、などに陥ることになるのでしょうか。それは心が汚れているからです。汚れた心でものごとを考えて行動すると、現実に合わないことになる。自分の観念、妄想を実現しようとする。しかし、これは無理なことです。結果として、失敗する。悲しみに陥る。落ち込む。普段も苦しい人生は、耐え難い苦しみに増幅するのです。

 仏教では、仏法僧の聖なる力を念じて人々に祝福するのは、日常的な習慣です。仏陀に対して、その教えに対して、尊敬の念を持つ人々は、祝福されるとたちまち幸福になるのです。これは事実です。しかし、三宝に魔力、神秘力などがあると思ってしまうと困るのです。仏法僧の祝福は、因果法則と業の教えに基づいた、理性的な具体的なものです。

 心ほど影響を受けやすいものは、他ないのです。住んでいる環境が微妙に変わっただけでも、隣の家にどなたが新しく引っ越ししてきただけでも、自分の心は変わってしまうのです。毎日会っている人であっても、顔の表情が微妙に変わっただけで見る人の心も変わってしまうのです。心ほどの巨大なエネルギーはないが、心ほど影響をうけやすいものもありません。というわけで、我々は環境に振り回されて生きているのです。自分の期待・希望通りに決してものごとは上手くいかないのです。これは幸福を期待する人間にとっては、最悪の条件です。祝福というのは、心に清らかな影響を与えて、失敗、不幸、苦悩を司る心の汚れを一時的にでも沈ませてもらうことです。今自分が生かされている心の側面は清らかなものになると、幸福に生きられるということは、ごく当たり前のことです。これが心の法則なのです。

 したがって仏教を学ぶこと自体が、自分自身に対して最強な祝福にもなるのです。仏陀の教えを学ぶと、妄想的観念は消えて、人は具体的に客観的に考えられるようになる。心の汚れについて学ぶと、一時的にでも心の汚れが沈むのです。また思考は整理整頓されるので、この清らかな状態が長持ちするのです。思考が変わると同時に、人格改良も起こります。ということは、臨終まで幸福でいられる。幸福な心で臨終を迎える人は、来世も幸福になる。ということで仏教の祝福は、お守り札などを身につけて気分的に明るくなるような程度などではないと理解できるでしょう。人に確実に幸福を与える道なのです。

 仏陀の教えを実践することは、最高級レベルの幸福に至る道なのです。実践により心が徐々に汚れを落とすのです。二度と環境に振り回されて汚れることがなくなるのです。心が自由を勝ち取るのです。その中でも、誰にでもできる簡単な実践法は慈しみの実践なのです。一人の人が慈悲の実践をすると、まずその人の心の汚れが沈んで、清らかな慈しみの念で心が満たされるのです。その人に最大最強の幸福を味わうことができるようになります。実践する人の心の影響は、次から次へと他の生命にも与えていくのです。それによって、周りの人々も幸福を味わうことができるのです。人を確実に幸福になるようにと祝福できる能力は、仏法僧に限ったものではないのです。慈悲の実践する人にもその力が備わってくるのです。慈しみの念を抱いて人を祝福する、祝う場合は、確実に効き目があるのです。ただの社会的な儀礼で終わらないのです。皆様も、他人にも幸福を与える能力のある人間になるようにと自分を育ててみれば、大変有り難いことです。

 いったい幸福って何でしょうか? 俗世間では明確な定義はありません。病気の人は病気が治ること、勉強する人は試験に合格すること、商売に挑む人は商売繁盛、母親は子供の成長、政治家は選挙に勝つことなどを期待する。上手くいけば、幸福だと言うのです。願望が叶うことは、幸福として見なしているようです。具体的にまとめてみると、病に悩むことなく健康でいること、長生き出来ること、充分財産があること、家族は楽しく過ごすこと、気に入った仲間がいること、社会に認められることと好かれること、趣味や娯楽に余裕があることです。これ以外のものは殆どないと思います。

 願望が叶うことを幸福だと見なしているから、先輩が親切に願望、期待、夢などをしっかり立てなさいと、後輩を躾るのです。気持ちはありがたいが、とても無責任な、非合理的な躾なのです。希望願望が現れる原因は何でしょうか? 今、不幸で不安で不満でいるからなのです。今、苦しみがあるからです。願望の多い人は普通の人より何倍も、生きる苦しみを経験しているのです。先輩の躾を真面目に実行するためには、極端な悲観主義者になった方が楽でしょう。ネガティヴ思考でいた方が願望が湧いてくる。願望にしがみついて生きることは、面白くない人生を送ることになるのです。

 願望、希望はいくらでも立てられます。また数にも限りがないのです。無数に無制限に願望することができるのです。そうなると、叶える願望は一兆分の一にもならないのです。結果は「人生は極端に不幸」ということになるのです。世間の躾は、幸福をもたらすものではなく、人を不幸にストレスの海に溺れさせる行為なのです。願望、希望などは具体性、理性というハサミで徹底的に剪定しなくてはならないのです。

 仏教は俗世間と大胆に違う次元に達して、幸福について考えるのです。例えば、人は富を期待するとしましょう。しかし金は空から降ってきません。寝る時間も惜しんで努力しなくてはならないのです。それでも、期待通りに成功するともわからない。また、儲かる一心で法律や道徳を無視することもある。法律を犯すと裁かれるし、罪を犯すと悪人になる。では、富を得たとしましょう。自然災害、強盗などに遭遇して消える可能性もある。騙されて他人に持って行かれることもある。財産を守ることにも苦労しなくてはならない。不安感、恐怖感を感じ、悩まされる。自分の身体のこと、家族のことを心配する時間がなかったので、病弱にもなる。家族に無視されることになる。または反発される。この過程で経験した苦労と楽しみを引き算すると、苦労の方が割に合わないほど大きいのです。皆そうなるわけではありません。成功に達する人々も結構いるのです。しかし、一切は無常だから愛する者から、苦労して獲得したものから、自分に幸福・楽しみを与えたものから離れて、死ななくてはならないのです。結局は何一つも自分のものにはならないのです。言い換えれば、幸福を目指して努力をしました。幸福になったような気もありました。しかし、最後に自分が全てを捨てて去ってしまうことになりました。ということになるのです。

 健康、長寿、学業成就、家庭円満、商売繁盛などの無数の幸福の項目はすべて、仏教から見ると上に説明した通りのものになるのです。何一つも自分のものにならないのです。全ては無常で離れることになっているのです。ものに執着する人間にとっては、愛しいものから離れることは苦悩なのです。宗教の世界では、徳を積んで天国に生まれ変わることを言う場合もあります。徳の話を置いておいて、絶対的な神を信仰することで、天国で永遠に楽しめるという宗教もあります。念仏・題目などを唱えれば、人は誰でもいとも簡単に成仏できるという考え方もあります。仏陀の立場からは、このような諸々の思考は、良いとも悪いとも、正しいとも間違っているとも言えない状況です。何を説いてもこのような方法では、真の幸福・完全な幸福に至れないということになるのです。

 心の汚れを落とすことが、幸福に至る道です。汚れが少ないほど幸福の方が大きいのです。完全に汚れが消えたところで、完全に幸福なのです。俗世間的な幸福であろうと、出世間的な超越した幸福であろうか、それを得る道は一つです。心の汚れを制御すること、落とすことです。心の汚れが完全に落ちた状態は、「無執着の境地」なのです。無執着の人は、世間の変動に動揺しないのです。

「得・損、名誉・不名誉、賞賛・非難、楽・苦、という八は、世間の変動です。それに遭遇して心が動揺しないならば、それこそ吉祥です。」(Suttanipâta 268)

 完全たる悟りをひらいた(阿羅漢)Upacâlâ (ウパチャーラー)という比丘尼がいました。この比丘尼は、サーリプッタ尊者の妹でした。ある日午後、たった一人で森の中の木の下で禅定に入っていたのです。そのとき、阿羅漢尼に嫌がらせをする目的でマーラ(悪魔)が来たのです。「比丘尼よ、あなたはどこへ生まれ変わって快楽を楽しもうとしているのか?」阿羅漢尼は答える。「友よ、私はどこの快楽でも期待していないのだ。」マーラはこのように語る。(意訳)「天界はいろいろあるのではないでしょうか。三十三天、耶摩天、兜率天、化楽天、他化自在天という天界がある。そちらに(生まれ変わる)希望を抱いて励みなさい。(快楽)幸福を楽しみなさい。」

 ウパチャーラー阿羅漢尼が答える。「三十三天、耶摩天、兜率天、化楽天、他化自在天という天界がある。五欲に執着している者は、それらを目指す。(そちらに生まれ変わることを期待する)彼らが再び悪魔の支配下になる。(輪廻転生することになる。天の寿命が終わったら、地獄にも餓鬼道にも畜生にも落ちるという意味です)」

 「一切の世界は燃えている。一切の世界は煙を出している。一切の世界は熾燃している。一切の世界は震えている。震えない、動じない、普通の人に経験し難い、マーラの管轄を超えている境地(状態)がある。私の心はそちらに傾いている。」(Samyuttanikâya I-133)

 まずマーラの話を理解しておきましょう。言い換えると、このようになります。「せっかく出家して修行しているから、この娑婆世界で味わえないほど優れている快楽を天界で喜べばいかがでしょうか。俗世間の人々は大富・健康・成就などを期待している。また家族・子孫を持つことを期待して、その幸福のために努力している。それを捨てたならば、天界の次元の快楽幸福を目指さないと損ではないか。」

 次、ウパチャーラー阿羅漢尼の話を理解しておきましょう。言い換えると、このようになります。「人間界であろうか天界であろうか、燃えている。欲、怒り、嫉妬、憎しみなどの灼熱の煙を囂々と出している。苦労した結果、快楽を味わっても、現象は無常なので、満足もしないうちに惜しくも消える。悔しくなる。財産、名誉、子孫などの好ましいものは、人に多大な悩み苦しみを作り出す。人間は挙げ句の果て、この世で満足した生き方を出来なくても、天界で永遠に楽しもうではないかと思い、あらゆる儀式儀礼・行・信仰などにしがみつく。「悔しい」という気持ちの表現に過ぎないのです。天界も無常なのです。存在なら無常です。天界でも貪瞋痴の炎が燃え上がっているのです。そちらにも真の幸福はありません。瞬間瞬間変化するこの世界に、この命に執着して、欲に溺れている生き方は、家が燃えているにもかかわらず、中でパーティーをやっているようなものです。無常ということで、一切の世界は大地震の真っ最中という意味です。

 本当の幸福は、心に微妙にでも無常たるものに対して執着がないことです。欲、怒り、憎しみ、嫉妬、落ち込みなどの汚れが心にないことです。限りなく「欲しい欲しい」と思う渇愛がないことです。ウパチャーラー阿羅漢尼は、その境地に達しているのです。この経典は、俗世間が考える幸福と、仏教が語る幸福を対照して、真の幸福の道を教えてくれるのです。

 では、祝福祈願の本当の意味は何でしょうか? 商売繁盛、長寿、健康、家庭円満など成就するようにと祝ってもらって、その目的に達したとしましょう。その人の人生には、幸福とともに新たな苦しみが生まれるだけです。希望願望が叶って天下を取っても、その結果亡命しなくてはいけないはめにもなるのです。逮捕されたり、極刑になったりもするのです。身体の弱い人に長生きさせてあげても、長い間苦しんで生きることになるのです。俗世間の幸福はペットとして虎を飼うようなものです。楽しみはあるが危険度の方が高すぎなのです。しかし、この俗世間の一時的な幸福も、本当の幸福も得られる方法は、徐々に心を清らかにすることで、心から執着をなくすことです。

今回のポイント

◎経典の言葉
 Sabbo âdipito loko sabbo loko padhûpito;
 sabbo pajjalito loko sabbo oko pakampito.
 Akampitam acalitam aputthujjanasevitam;
 agati yattha Mârassa tattha me nirato mano (Samyuttanikâya T-133)
 生命(いのち) (三毒に)燃え  世は(妄想の)(けぶり)擧ぐ
 世は悉く炎吐き  世は悉く震動す
 震わざる動ぜざる  凡常の到り得ぬ
 マーラの掌握及ばざる  (涅槃に)向かう我が心 
          (サンユッタニカーヤ I-133)  (江原通子 訳)
次の法話へ→
HOMEパティパダー巻頭法話→幸福と祝福
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.