パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→身から出た錆
No.138 (2006年 8月)
身から出た錆

 〜僅かな刺激でこころは汚れる〜
 The mind corrodes itself.
A・スマナサーラ長老

 舎衛城(Sâvatthî)に住んでいたある人が出家してティッサという名前で呼ばれるようになりました。彼は地方に行って雨安居に入りました。三ヶ月の雨安居の終わりに彼が生地一枚を布施として頂きました。 出家は毎年必ず雨安居に入らなくてはならない。三ヶ月間、旅することを止めて一カ所で住むのです。その時間自分の修行に専念するのです。出家者の殆どが雨安居の時期に悟りを開くことに成功するのです。在家の仏教徒たちも毎日出家の説法と指導を受けられるので、雨安居の時期、仏教を実践することに力を入れるのです。

 雨安居の終了後出家は又、旅に出るので、信徒たちは衣を作るために必要な生地を布施するのが習慣になっていました。当時は機械文明ではなかったので、綿から糸を紡ぐこと、糸を生地に織ること、染めることすべて手作りです。時間と労働がかかる作業なので、生地は品質に関係なく、高価なものでした。盗まれることもあったのです。

 ですから、釈尊は出家に、一般人が捨てたぼろ服を縫い合わせて衣を作った方が良いと説かれたのです。(糞掃衣 - pânsukûla cîvaraというのです。)信徒から新しい生地を頂いても、小さく切って縫い合わせて、茶色で染めることによって、その衣の価値をなくしたのです。それで、盗まれる恐れも、身の危険もなくなったのです。

 ティッサ比丘が頂いた生地は太い糸で荒く織った物でした。ティッサ比丘はその生地を姉に預けました。姉は「こんな生地では何の服も作れません」と思って、出家した弟のために、頑張ってみたのです。生地をばらして、糸を解いて、水に浸して、又、臼で突き、綺麗で柔らかい綿に精製したのです。それから、とても細い糸を紡いで、丁寧に柔らかい生地を織ったのです。

 衣を仕立てる準備をしたティッサ比丘は姉を訪ねて、「この間預けた生地を貰いにきました」と言いました。彼女は高級品として生まれ変わった生地をわたしました。かれは、「これは、高価な生地でしょう。私は預けたのは荒く織った生地でした。それを下さい」と断ったが、姉の優しい努力の経緯を聞いたので、高品質に生まれ変わった生地を頂いて、沙弥達と一緒に何日もかけて、衣を作りました。その間、姉が弟比丘の衣仕立てに協力する沙弥達と他の比丘達に食事の布施をしました。やっと、立派な衣一着ができ上がりました。これから着る予定の新しい衣を見たティッサ比丘は、とても嬉しくなりました。こころに執着が現れたのです。「明日からその立派な衣を着る」と決めた彼は、衣を竿にかけて、休みました。

 しかし、残念なことに彼はその夜、亡くなりました。衣を着ることはできませんでした。彼は最後の夜、汚れたこころで過ごす羽目になったのです。こころの中は、「不浄随念でも、無常観でも、気づきでも」なく、新しい衣を着られる喜び(愛着)で一杯でした。亡くなったこの比丘は死後、愛着があった衣の中でシラミとして生まれたのです。比丘達は彼の葬儀を行いました。ティッサ比丘には弟子もお世話する比丘もいませんでした。ですから、葬儀に集った比丘達は、「この衣はサンガのものになりました。ですから、投票を取って比丘のだれかに上げましょう」と決断したのです。

 この波動を受けたシラミは、「この比丘達は私の大事な衣を破壊するのだ」と嘆き、衣の中で暴れたのです。その時、お釈迦さまがこのシラミの悲しい精神状態を感じ取ったのです。「比丘達よ、七日経た後、その衣を誰かの比丘に渡しなさい」と説かれたのです。七日目にそのシラミは亡くなり、修行の徳によって、天界に生まれたのです。お釈迦さまは、一週間のマッタを掛けた理由を後で比丘達に説明したのです。

 衣に執着をして、汚れたこころで亡くなったティッサは自分の衣の中で、シラミとして生まれ変わってしまいました。もし、そのシラミが生きている間、あなた達は衣を他の比丘に上げたならば、そのシラミは激しい悲しみと怒りで亡くなるから、地獄に落ちてしまう可能性があったのです。衣を渡す法要が中止されたことで、彼も落ち着いたのです。出家して、修行した時の気持ちを思い出すことができたのです。お釈迦さまがこころを清らかにしようと精進する人々のことを常に心配(憐れみ)するからこそ、ティッサ比丘も助かったのです。物語を通してこころの複雑な心理を簡単に語ることは仏教はよく使う方便です。では、考察してみましょう。

 ティッサ比丘は不真面目な人ではなかったのです。真剣に修行に挑戦していたのです。夢でも思わなかったほどの品質の良い衣一着を頂いて素直に喜びを感じただけなのです。だれでも、よくやっていることでしょう。俗世間では希望した物が手に入ったのに、「無関心で、不機嫌でいるのはどうかなぁ」と我々は思う。

 しかし、私たちは気にしないことが一つあります。手に入った物に対して執着が生まれることです。愛着が生まれて、その物から離れがたくなるのです。やがてその物に自分が支配されることにもなるのです。現代社会は、「便利だ、楽だ」といってあらゆる道具を作っています。世界は道具に溢れているのです。それで、人生は幸福になったか、楽になったかというと、そうではありません。生きることは更に、複雑になる。更に忙しくなって、暇も余裕もなくなる。それから、道具に合わせて自分自身の人生を、生き方を調整する。道具に合わせた生き方というのは道具に支配された生き方ということです。そのなかでも、人間を奴隷にしている最大の道具は金です。金のためなら何でもするのです。

 「新しい衣をもらった。嬉しい。明日からこれを着る」と思っただけなのにティッサさんがシラミとして生まれ変わったという話は、俗世間の生き方はいかに危険で、不幸になる道かと諭しているのです。世間の生き方は火傷しないように気をつけながら裸足で炭火の上を歩いているようなものです。気をつけても、炭火の上を歩くと火傷するに決まっているのです。仏教はその炭火から降りなさい、離れなさいという教えなのです。炭火とは、ものに、人に、自分自身に執着することです。愛着の感情を持つことです。

 ティッサ比丘のエピソードについて説法なさるお釈迦さまが「鉄の喩え」を使うのです。鉄は錆びる。外の空気と触れると鉄の中から錆が現れる。自分の間のだからと言って錆は鉄に良いことをしません。錆は鉄を蝕むのです。現代なら「ガン細胞」という喩えも良いでしょう。自分の身体の細胞なのに良いことは一つもしません。身体を蝕んで死に至らしめるのです。「私のもの、私のもの」と愛着する全てのものによって我々のこころは蝕まれるのです。しかし、要注意です。家族、家、財産、品物、友人、親戚などが我々のこころを破壊するのではありません。それらに対してこころに現れる、こころの機能の一部である「愛着・執着」がこころのガンなのです。例えば、家族に対して愛着・執着があれば自分も家族も不幸になるが、替わりに慈しみ・心配があれば自分も楽で楽しいし、家族も楽で楽しいのです。束縛のない世界で自由があるのです。

 生命はもともと自由だと感じているのです。しかし、自分の喜びのために、楽に生きるために他の生命に依存したり、頼ったりするのです。そこまでは、どうしようもないが、自分の楽しみ、幸福を確保するために他の生命を自分のものにしたくなるのです。しかし、他の生命は自分のものになりません。自分のものにすることは不可能です。自分の子供でも自分のものにはなりません。そこから、人間関係、他の生命との関係が悪くなってしまうのです。支配しようとすればするほど相手が反撃するのです。逃げよう、離れようとするのです。厳しくいうならば、人間関係、他の生命との関係は、一時的な平和調停している敵同士の関係のようなものです。だから、自分の所有物にしたがる愛着を止めた方が正しいのです。替わりに慈しみに基づいた人間関係・生命との関係を築いた方が幸福になるのです。

 では、物ならば自分の所有物にすることができるでしょうか。物は生きているのではないので好き勝手にできるでしょうか。できません。物も自分のものになりません。自分のものだと思っているだけなのです。物質には物質の法則があって、それによって変わって行くのです。自分のものだ、誰にも渡さないのだと思って生きていても、その物をそのまま置いておいて人は死ぬ。あるいは、その品物が先に壊れてしまう。人にはどうすることもできません。生命に執着すると攻撃を受けますが、物は反撃しません。その変わりに、所有しようとした人がその物の奴隷になるのです。自分の自由が奪われているのです。他人が自分のものになると思うことは妄想です。物が自分のものになると思うことも妄想です。自分に家族がいる、財産があると無知な人は勘違いして悩むのです。自分の肉体も、こころさえも自分のものにはならないのです。「私、私のもの」という概念は幻覚ですが、我々に限りのない、悩み苦しみを作る恐ろしい幻覚なのです。

 ティッサ比丘のエピソードを元にして説法する釈尊は「道を間違う人」は(atidhonacârî ---- やりすぎという意味)自分自身の行為によって地獄に落ちると語られる。「やりすぎ」ということを考察しましょう。一般的にもやりすぎはだめに決まっているでしょうが、どの程度が正しいかと分からないと「やりすぎ」の理解もできなくなるのです。

 お釈迦さまが出家に「やりすぎ」の説明をしたところにその答えがあるのです。出家は衣を着るとき執着して着てはならない。その時、服を着る基本的な、根本的な理由を観察するのです。これは俗世間の考えとは違うのです。寒さ暑さを避けるため、蚊、虫などから身を守るため、風、太陽から身を守るため、恥ずかしい場所を隠すためです。この基本的な目的を自分に言い聞かして衣着る。ものを食べるときも健康になるためではなく、体力を付けるためではなく、美しくなるためではなく、ただ単に身体を維持するため(死を避けるため)です。摂取した栄養を生かして解脱する目的で修行するためです。このように、必要とするものの基本の基本と言うべきメリットを考察して使用するのです。そうなると、「やりすぎ」にもならないし、執着も生まれません。「何と綺麗な衣でしょう」と思えないのです。身を隠すことができれば充分だと思っているからです。ティッサ比丘はたった一回だけ基本を観察することを忘れたのです。「なんと綺麗で高価な衣でしょう」と思ってしまったのです。それで、シラミになって生まれ変わる運命になった。もしも彼がシラミとして寿命を全うする前に、衣が他人の手に入ったなら、その怒りと悩みで地獄にまで落ちる危険性を生み出したのです。

 現代人は贅沢酔いで服やその他の品物の基本的な働きを既に忘れているのです。今、身体を隠すために服を買う人はいません。目的は格好良く見せるためです。流行に乗るためです。ブランド品を身につけて社会的な立場を確立するためです。ですから、すべて「やりすぎ」なのです。お金はいくらあってもたりません。そのために奴隷のように、休む暇もなく働く。一ヶ月間働いて得た収入は一回の買い物で消える。こころは汚れる。自然は破壊する。貧富の差は拡大する。闘う。奪い合う。金や物の奴隷になる。悪いことをしていると全然気付くこともなく悪に染まったこころで生きている。生きている間も苦しいし、死後は更に苦しいことになる。

 ですから、服、食べ物、住むところ、その他の必需品などを感情に溺れて使用することは止めて、一旦停止して、基本的な働きを観察してから使用するならば、こころは汚れません。執着はしません。例えば、このように考えればいかがでしょうか。「披露宴に行くからこの洒落た服を着るが、服というのは身体を隠してくれるだけで充分です。それが根本的な目的なのです。」このように真面目に観察してから服を身に纏う場合は、こころが汚れて罪を犯すことにはなりません。

 こころは僅かなことで汚れてしまうのです。錆のように、ガンのように放っておくと危険なのです。こころの汚れ(煩悩)はこころから現れるものです。外の世界にあるものではないのです。世界は刺激を与えるが、それによってこころを汚すのは自分なのです。「身から出た錆」というのは適切な表現だと思います。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada (Chapter XVIII MALA VAGGA  第18章 垢の章)
 
Ayasâ' va malam samutthitam,
Tadutthâya tam'eva khâdati;
Evam atidhona cârinam,
Saka kammâni nayanti duggatim. (Dhammapada 240)
 
鉄の垢なる鉄さびが
鉄を侵食するごとく
悪業の人わがなせし
(ごう)に悪趣へ(おと)さるる (ダンマパダ240)   (江原通子 訳)
次の法話へ→
HOMEパティパダー巻頭法話→身から出た錆
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.