パティパダー巻頭法話
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No.139 (2006年 9月)
錆びるときは、人生も錆びる

 〜こころの汚れは、人生の錆です〜
 The life rusts when the mind rusts.
A・スマナサーラ長老

 こころの汚れ(錆び)について続けて考えてみましょう。「生きている」ということの意味はこころが働いていることです。肉体はただの物体なのです。しかし、この肉体の中で「生きる」という働きがあります。それは仏教で「こころ」と言うのです。食べる、歩く、笑う、怒る、話す、寝るなどの働きは生きるという機能です。肉体は維持する、成長する、衰えるなどの機能も生きることです。要するに細胞が一個、一個生きているのです。生きていることが「こころ」というならば、こころは全ての細胞の中で機能しているのです。「こころ」は機能・働き・functionなので、ものではありません。一定するものでも個体としてあるものでも止まるものでもありません。物質を維持管理、成長などをするからこの機能は物質より大事なのです。仏教はその「こころ」と言う機能を学ぶ世界です。ですから、科学よりとても、役に立つ、又、大切な教えなのです。人は生きているから、何でもやっているのです。何でもできるのです。生きていない、死体になったらただの物体になるのです。物体には、科学発展の意味も知識も文化も関係ないのです。

 人はものによって、喜び・幸福を感じるわけではありません。例えば、ある人は一万円を貰う。喜びを感じる。しかし、人間皆、一万円を貰うと同じ喜びを感じるのではありません。喜びの量は人それぞれです。一万円を貰って喜ぶかわりに怒ってしまう人もいるでしょう。一週間も仕事をしたのに、渡された報酬は一万円なら怒ると思います。しかし、南アジアに住んでいる人に一週間の報酬として一万円渡したら「大金」だと喜ぶでしょう。同じ環境で生きている時もこの状況は同じです。同じもので、同じ量の喜びは生まれません。悲しむ時も、悩むときも又、法則は同じです。あるできごとで、酷く悲しんで落ち込む人もいるし、それぐらいのことで、殆ど悲しまない人もいる。失恋で人生まで台無しにする人がいるし、なんのこともなく、別な恋人を捜す人もいる。それで、私が言いたいのは「人はものによって喜び、悲しみを感じるのではなく、喜び、悲しみなどはこころの状況だ」ということです。もので人が幸福になるならば、人間を幸福にしてあげることは簡単なのです。欲しがるものを何でも与えることで、子供が見事に成長するということはありません。欲しがるものを与えない主義で子育てしても子供は善い人間に成長するのでもありません。ですから、何か生きることに役に立つこと、決して無駄にならないことを学びたいと思うなら、こころについて学ぶことです。こころについて学ぶことは人間にとって不可欠なものだと思うのです。こころについて完全に語り尽くしたのはお釈迦さまだけなのです。だから、我々は仏教を学ぶのです。

 今月はこころの錆びについての話なので、先ず、知識の錆びについて考えましょう。生きる上で、人間にとって、知識は必要なのです。人を堕落させる悪い知識もあるし、幸福にしてくれる良い知識もあるのです。科学、技術など良い知識だと言うのは一般常識ですが、汚れたこころで学ぶと自分だけではなく、他人まで不幸になってしまうのです。ですから、知識、技術、芸術などの善し悪しは、そのものにあるのではなく、それを学ぶ人間のこころの状況によるのです。人間のこころは元々貪瞋痴で汚れているので、知識は常に白と黒という二つの顔をもっているのです。知識によってこころが汚れないように、又、汚れたこころで知識を吸収しないように気をつけなくてはならないのです。善い人間でも汚れた知識を得ると悪人になるのです。欲、怒り、憎しみなどの感情で善い知識を得ても、それを悪い目的で使用するのです。ですから、「知識ならなんでも良い」ではありません。

 知識に対する大きな問題があります。どこまでも知識を追求する人々、知識を得ることにしか興味がない人がいますね。その人々はあまり俗的なものに関心はありません。金を儲けることや、遊ぶこと、贅沢することに興味はありません。それでは欲がない人と言えるでしょうね。しかし、そうではありません。自分が得た知識に強烈な愛着、欲があるのです。普通誰でも知識に強い愛着を持っているのです。自分の知識、また、考え方に反対されると、批判されると自分が侮辱されたような気分になるのです。この世にある様々な主義はなぜ危険なのでしょうか? 主義は主義で終わらないからです。主義と自分・自我は一体になっているのです。主義を守るために殺人までする。自分を犠牲にすることもする。根拠のない信仰も妄信する人々は知識だと勘違いする。それで、人類に対して危険な存在になってしまうのです。知識に対する愛着、知識と(自分)自我とを同一化することは、知識をめぐる最大の問題です。理性のある仏教徒は世界の知識を追求しても、「その知識は私です」と同一化するのは極力避けるべきです。知識は客観的で常に変わるもので、又、他人は必ずも自分と同じ知識でいるのではなく、違う意見を持つのは普通だと、知識は「自分」ではなくもう一つの便利な道具だと、理解しなくてはならないのです。知識と自分が一体になってしまうこと、同一化してしまうことは知識の錆びです。
 仏陀の教えから推測すると知識と道徳は一緒でなければいけません。知識よりも道徳の方が優先なのです。なぜならば、知識がなくても生きていられるからです。道徳がなくなると、たとえ知識人であろうとも犯罪をする。悪事をする。皆に迷惑をかける。自己破壊になる。死後不幸になるのです。善悪の区別をしない知識人は仏教から見ると無知なのです。

 それから、知識の良い側面を考えましょう。善悪の判断できるようになる。正しく収入を得て生活できるようになる。自分も周りも幸福にしてあげることが出来る。さらに、知識を得ると「生きるとは何なのか、どのように生きれば良いのか」なども知られるようになる。こころの働きを習うとこころを清らかにすることも、成長させることも出来る。知識を乗り越えて解脱を体験することも出来る。ですから、お釈迦さまは正しい知識を得ることを推薦しているのです。知識の中でも仏陀の教えを学ぶと善い人間になること、人格が向上することは確かなのです。

 人は、良い知識を追求しなくてはなりません。どうすればよく勉強できるようになるのでしょうか。昔の学問方法に基づいて、釈尊がこの問題について語った経典があります。昔は何でも本に記録して残す文化ではなかったのです。本に書かれた知識は、自分自身の知識として評価されなかったのです。無知な人にも本ぐらいなら読み上げることができるだろうと思っていたようです。ですから、学ぶものは全て暗記しておかなくてはいけないのです。師匠は、大量の知識、技術を自分の身体で持っているのです。弟子は、その知識、技術を自分の身体に受け入れなくてはならない。というわけで、よく聞くことが先ず必要です。師匠の声に耳を傾けて、集中して聞く。それから、自分でもその言葉を繰り返して、正しく聞き入れたかどうかを確かめる。それを暗記してからその言葉の意味、解釈などを聞く。それも覚えておく。ということは、学ぶために師弟関係は重大です。師匠に気に入られなかったら、元も子もありません。師匠を尊敬する、面倒を見てあげる、師匠に愛されるように行動する、なども学問に欠かせないことになるのです。現代の学問の仕方は昔と違うのです。現代は本に記録する文字の文化なので、自分ひとりで本を読んで学ぶことはできます。しかし、自分ひとりで本とインターネットの情報だけで学ぶとしても、曖昧さのない、実りのある知識を得られるとは思えないのです。人から先生から学ぶのは、楽で早いのです。間違いがあったら正してくれるし、自分の成長ぶりを試験などで試されるし、どこまで学んでいるのか、さらにどれぐらいまであるのかとも知ることはできる。医学・工学などは、本だけで学べるものではありません。ですから、現代も師弟関係は大事だと思います。また、集中して学ぶことも、学んだものをよく理解することも、昔も現代も同じです。

 知識というのは面白いことに、形はないが「もの」のような存在です。私たちはいろんなものを集めるでしょう。その集めたものを守っておかないと盗まれる。ものによって正しく手入れをしないと、壊れてしまう。知識も同じです。学んだだけで頭の中で止まってくれないのです。徐々に消えていくのです。得た知識は復習したり、新しい知識で常に磨いておいたりしないと消えてしまうのです。人の話、また本などは、聞いただけで、読んだだけでわかったような気がします。しかしそれでは学んだことにはなりません。次の日忘れているのです。ですから、学んだものは復習したり使用したりしなくてはならないのです。釈尊は復習しないことを、学問の錆だと説かれているのです。当時で、学者といえばバラモン人でした。バラモン人は宗教家でしたので、ヴェーダ聖典の学習を優先していました。ヴェーダ聖典は神の言葉だと信じられていました。四つのヴェーダとそれらの注釈を合わせてみると膨大な量なのです。また脈絡のないバラバラの話で、ほとんど詩で編纂されている。覚えても、つい忘れてしまうものでした。ですから、昔のバラモンたちは朝から晩まで学んだ教えを怠けることなく復習していました。ヴェーダ聖典の言葉は普通、マントラというのです。この現象を見て、釈尊は「復習しないことがマントラの錆である」と説いたのです。釈尊が言いたかったのは、学問には復習することが必要だということです。

 話を変えましょう。妻帯をして、俗世間で在家として生活している我々の錆はなんでしょうか。在家生活にも錆が生えると、壊れてしまうのです。役に立たない、失敗した人生になるのです。在家生活も錆びないように、ピカピカと磨いておかなくてはならないのです。「精進しないこと、努力しないこと」は、在家生活に対する錆なのです。在家生活というのは、毎日の努力によって成り立つものです。怠けて朝寝坊しては、幸福にはなれないのです。仕事も子育ても家事も、毎日やるものです。在家生活には「休む」ということはない。暇があってどこかへ遊びに行っても、本当は休めないのです。それを知っている人々は、しっかり努力して幸福な在家生活を築くのです。ですから、「精進しないことは在家の錆」です。在家生活の中で最も重要なことは、収入です。家族は食べるものがなくては死ぬのです。服も家も教育もその他の贅沢も、後の話です。収入さえあれば、そういうものは手に入るのです。充分な収入を確保するためには、毎日の精進は欠かせないのです。毎日努力して、錆びない在家生活を送らなければならないのです。

 誰でも気にする話題に話を変えます。それは、スマートで美しい身体を持つことです。美容に対する興味になると、男女平等です。健康食品、ダイエット、運動、スポーツなどで皆体形を維持するために結構苦労しています。その結果、ほとんどの人々は美しい体格を持っているのです。それも、人間の楽しみの一つなのです。体重が増えた不健康な身体になると、生きる自信まで衰えていくのです。健康な体形を維持することは必要です。では、健康で美しい体形を保っていることに邪魔をする錆は何でしょうか。すでにお分かりでしょう。「怠けること」です。腹いっぱい食べて、運動もしないで、楽なソファに座ってテレビを見る人生なら、スマートな体格にはなれる筈もないのです。健康でいられるわけでもないのです。人は美味しいものを食べたりするのは構いません。お腹が空いているのに無理にダイエットすると、身体も壊れるし、精神的にストレスも溜まる。美味しいものを食べた分、怠けず体力を使うことです。これが仏陀の言葉になるのです。

 最後に、仏道を歩む人々にとって、無知を破り智慧を開発することにとって、錆は何でしょうかと説明します。こころは煩悩で汚れます。煩悩というのは、易しい言葉で言えば、感情です。感情が働くと理性を失うのです。欲、嫉妬、怒りなどの感情の衝動で人々がやっていることは、決して合理的な行為ではありません。無茶苦茶な行為です。常識も犯すのです。法律も道徳も破るのです。大失敗するのです。感情が入ると、人は無知です。感情に支配されるということは、無知に栄養を与えることです。欲、怒り、嫉妬、落ち込み、後悔、高慢などの感情は、いろいろなものを見たり聞いたり味わったり触れたり、また考えたりするとき、こころに入り込むものです。人間は目耳鼻舌身意を持ってるので、見えるもの聞こえるものなどが身体に触れて、意識になることは避けられません。仏弟子はものを知る、認識する。しかし、そのデータによって感情が起こらないようにと、こころを守るのです。仏道を歩む人にとって、こころを守ることは当たり前の修行です。データが入る瞬間に、それに気付くこと(サティ)が必要です。「サティがないことは、怠ること」は、こころを守る人の錆なのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada (Chapter XVIII MALA VAGGA  第18章 垢の章)
 
Asajjhâya malâ mantâ,
Anutthâna malâ gharâ;
Malam vannassa kosajjam,
Pamâdo rakkhato malam.(Dhammapada 241)
(じゅ)せざるは聖典の垢
手をかけざるは家屋(いえ)の垢
なおざりは容色の垢
修行の垢は放逸なり
 (ダンマパダ241)   (江原通子 訳)
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