パティパダー巻頭法話

No.14(1996年4月)

すべてを勝ち抜くためには

自分の存在証明を得る方法 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月は「すべてに勝つ」というテーマです。
すべてに勝つということを、世界征服という意味に捉らえても構いません。マンガなどでは世界征服の野望を持った主人公を揶揄的に描いたりしてバカにしますが、宗教の世界では自分が唯一選ばれたものであると信じて、それを得意気に吹聴する教祖も多く見られます。これなどは決して健康的な発想とは言えませんし、そもそも自分が他人より秀れていると思うこと自体、危険な考え方と言えるでしょう。

ところで、仏教にはそれと似たような話が伝わってきているようです。
日く、釈迦牟尼仏陀がこの世に生まれてすぐ七歩あるいて、「唯我独尊(われ一人、世に尊い) =Aggo’ haṃ asmi lokassa…」と告げたという話です。敬虔な仏教徒ならいざ知らず、生まれたばかりに赤ん坊が歩くことも喋ることもできるわけもなく、一般的にこの話は信じがたいものと思われています。果して、この話は本当であろうかというのが今月のテーマでもありますが、仏陀の教えを勉強する人は、自我の概念を徹底的に否定する仏教の教主についてなぜこのようなストーリーが生まれたか、釈迦牟尼仏陀の悟りを開き涅槃に入るまでに教えられた法を理解することによって、この話の真意が掴めるようになるのです。

まず理解してほしいのは、仏教実践の道はすべてを勝ち取ること、すべてを乗り越えることにあるということです。
実践を完成した人は一切の勝利者であり、生きとし生けるものの中で最も優れたものとなります。彼にはもう頼るものとて何もありません。何ものにも束縛されない究極的な自由を楽しみます。
一切を勝ち取るとは二種類の見解があります。一つは一般的な意味で、もう一つは仏教で考えられる聖者の考え方です。
一般的な常識では、人間が努力をして何かを勝ち取ることは美徳とされています。人間として生まれてきたにも係わらず何もできない、得るものが何もないと言うのは悲惨であり、不幸である。逆に得たものがあればそれは幸福なことであり、人間は生まれてから死ぬまで何かを得よう、そのために努力しようという仕組みに作られているようです。

知識、財産、名誉、権力、能力、人間関係、人気、友情、愛情……。そういうものを得たときの喜びは大きいものであり、生きていることの意義もまたこのようなものを得ることによって実感となります。得るものがない、得たものから喜びを感じないという人生は空しいと言えるでしょう。

何かを得て、それによって喜び、生きる意味、充実感、幸福感を実感する場合、得るものが多ければそれだけ喜びも多いという当たり前の法則があります。その理屈を突き詰めれば、最高の幸福とは世界を自分の思いのまま支配し、我が物とすると言うことになるでしょう。
一般的にはそこまでいかなくても出来るだけのものを手に入れようと努力する。人間が生きていくためのかぎりのない戦いというのはまさにこのような現象を言うのでしょう。
世間一般では知識、財産、名誉、権力などはいくらあってもいいではないかと考えます。しかし無制限にそれらを手に人れることは不可能です。不可能であるのに心のなかでは、「もっと欲しい」と欲望が起こり、その心に悩まされはじめます。欲望は人間の夢であり妄想概念だと言えるでしょう。夢は夢で終わればいいのですが、たまに妄想概念に取りつかれて実現不可能な夢を実現させようとする人間が現れます。
無制限に夢を実現させようとするのは危険極まりないことです。そのような人は精神が異常であって、「私は選ばれた人間だ」「私こそ神である」「私は○○の生まれ変わりだ」と主張する人は要注意です。

仏教の聖者の見解での「一切を勝ち取る」とはどういうことしょうか。
世間で「何かを得た」その得たものは、しかしまた必ず消えていくものです。知識、財産、権力などを得れば得るほどそれは楽しみが増えるのではなく、余計な苦しみがつきまとうものです。沢山の友人を持っていればつき合いは多くなり、義理や雑事に忙殺されるでしょう。多くの財産を持っていればその管理だけで毎日神経をすり減らし、国家的な権力を握れば、国のさまざまな問題もまた背負い込むことになります。世界征服した人は次の世界征服を企む人によって追われる運命にあります。人々はそういう道理は知っているのですが、「得ること」の楽しみだけに心がいって、欲望だけに支配されます。

得ることによって喜びを感じる心は、そもそも弱い心なのです。何か頼るものがないと、喜びを感じることが出来ない貧しい心なのです。一切を得ようと欲する人の心は最低に弱く、究極的な精神異常であることは明白です。俗世間的な「得ること」の論理で生きると、欲望を抱いたその対象物の奴隷になってしまい、勝利者どころか逆の敗北者となってしまいます。「得るもの」はすべて消えるものです。死ぬときはすべて(知識さえも!)を置いて逝きます。「得ること」の論理で生きようとする人は、生きている間中、最後には捨ててしまうゴミを集めているようなものです。

ものに左右されない心こそが素晴らしいのです。
何ものにも依存することなく、心を自由にすることです。この世のものにも、あの世のものにも一切捉われることなく、すべてを乗り越えることです。解脱を体験した人は、存在の何ものにも左右されない、一切を勝ち取った完全なる勝利者となります。「私が存在する」という自我意識的な妄想概念のない、その人こそ文字通り、「われ一人、世に尊い」と言えるのです。

今回のポイント

  • ものを得ることによって喜びを感じるということは世間論です。
  • 得るものはきりがないので、充実感、満足感の実現は不可能です。
  • 得たものは、それが増えれば増えるほど、苦しみも増えていきます。
  • 限りのない欲望は精神的に異常です。
  • ものを得る道は、結局は敗北者への道です。
  • 得るのではなく、捨てられることが勝利者への道です。

経典の言葉

  • Ko imaṃ pathvim vijessati yamalokañca imaṃ sadevakaṃ
    Ko dhammapadaṃ sudesitaṃ kusalo pupphaṃ iva pacessati
  • だれがこの大地を、死後の世界を、人間と神々の世界を征服するのであろうか?
    巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理の言葉を摘み集めるのはだれでしょうか?
  • Sekho pathavim vijessati yamalokañca imaṃ sadevakaṃ
    Sekho dhammapadaṃ sudesitaṃ kusalo pupphaṃ iva pacessati
  • (仏道を)実践する人こそ、この大地を、死後の世界を、人間と神々の世界を征服し、
    巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理の言葉を摘み集める。
  • (Dhammapada 44,45)