パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.141 (2006年11月)
善人はつらいよ

 〜一攫千金の道は危険〜
 Secular wealth destroys your spiritual nobility
A・スマナサーラ長老

 恥じらいの気持ちを持たず、何でもやれる人なら、高収入を得て生活することは難しくありません。短時間で汗を流さず大金を獲得する近道というならば、詐欺、人だまし、違法な風俗産業、恐喝、暴力、脅しなどです。しかし、人間としてのプライドを保ち、適切な努力で、合法的な仕事では、簡単に金持ちにはなれません。その人が道徳を重んじる正直な人であれば、高い利益を得ることはなおさら難しいのです。

 「正直で真剣に仕事をする人なら成功する」というと、「それはそうでしょう」と誰でも頷けるでしょう。しかし、社会の実態は違いますね。振り込み詐欺事件などで、一年足らずで億単位で収入を得た話はよくニュースで流れます。たとえ法律で裁かれても、元々詐欺師だから得た収入を没収されないように色々安全対策もしておくことでしょう。非道徳的な、違法な行為で短時間で高収入を得るかもしれませんが、短時間で全てなくなり、不幸のどん底に陥ることは、その道の終着点です。それでは終わらないのです。死後も不幸な生まれ変わりになるのです。道徳的な道は、一見、ほとんど利益のない苦しい道のように感じるかもしれませんが、決して不幸へ進む道ではありません。徐々に確実に幸福へ進むのです。

 悪いことをして生活してはならないと、ほとんどの人々が思っていることは確かです。しかし、「金持ちになりたい、大金を手に入れたい、家族に贅沢をさせてあげたい」という気持ちも同時にあるのです。この二つの正反対の気持ちが絡み合って、我々は生きているのです。ですから、何の悪いことも犯さないで、正直にまじめに働いて、仏陀が説かれた真理に反しないように生きているのだと、自信を持って言い難いのです。仕事で問題を起こしたり、辛くなったり、ストレスが溜まったりする。そうなると、さらに生きる道は苦しくなるのです。

 仏陀の教えでは、高収入の保証があっても罪を犯してはならない。瞬間的に感じる喜びがあっても、長い間輪廻が不幸の続きになる。収入が低くても、仕事が辛くても、道徳的な生き方を選ぶことです。辛い仕事でも楽しくこなすためには、頭の中にある矛盾をなくせばいいのです。その矛盾とは、違法的な行為で収入を得るのはいけないということと、大金を手に入れたいという気持ちです。贅沢をしたい、金持ちになりたいという欲望を戒めれば、楽しく仕事をして安定した収入を得ることはできるのです。贅沢してはいけない、金持ちになってはいけないという非論理的なことを言っているのではありません。非現実的な欲望は自己破壊になるということを理解していただきたいのです。正しく言えば、仕事に適した収入・収入に適した仕事ということになるのです。たいした仕事もしていないのに高い収入を希望することも、高い収入を得ているにもかかわらずそれに適した仕事をしないことも良くないのです。一番目の人は、欲望の妄想でだめになる。二番目の人は、与えていないものを得るという間違いを犯しているのです。俗的な言葉で言えば、儲けるのは良いがボロ儲けは良くない、ということになります。高収入を必要とする人なら、資格や能力を向上するか、また智慧を働かせて商売をすることになります。いくら現実的にものごとを考えている人であっても、千万億万単位で財産のことを考えては良くないと思います。代わりに、人に役に立つ仕事をすることを重視した方が安全なのです。

 出家した比丘であろうとも、解脱をめざして戒律を重んじて生活するならば、日常生活に必要なものをいただくのは大変なのです。解脱を目指す比丘は、暑さ寒さ、蚊や虫に刺されること、寝るところがないこと、口に合う食べ物がないこと、身体に合う衣がないこと、病気になっても適切な薬が手に入らないことなどに不平不満を持ってはならない。修行できるから、何とか生きていれば十分だと満足しなくてはならないのです。

 それでも、出家してから修行よりも自分の身体のことを心配する人々が現れたりするのです。そのような人々は、住む場所や食事、衣などの必需品を安定して得ることに気が引かれるのです。戒律を犯したりしないが、偉大なる聖者である釈迦牟尼如来の弟子としての品格を貶める行為をするのです。たとえば、いただいた食事を余計に褒める。「これはとてもおいしいです。私の好物です。料理が上手ですね。この間はごちそうさまでした。」などとお布施した人に言うのです。良い気分になった信徒は、続けて同じ比丘に布施をすることにするのです。俗世間では常識的な礼儀かもしれませんが、出家がそれを行うと汚れた方法で得た食べ物を摂取することになるのです。親の前で子供をあやす、顔いっぱい笑って大きな声で俗世間の挨拶を先にする、指圧をしたり治療したりする、同僚の修行者たちの欠点を言いふらして自分がしっかり修行しているのだと間接的に思わせる、頼みもしていないのに自分で進んで在家に祝福する、自分自身の修行の進み具合を在家に語る、などの行為は「それほど悪いことではないでしょう」と思えるかもしれませんが、出家はやってはならないのです。なぜならば、そのような行為で自分の身体に必要な、上等な衣食住薬を安定して得ることができるのです。これは品格を貶める行為です。

 また他の出家より自分が厳密に修行しているのだと、間接的に思わせる。たとえば、あえてボロボロになった衣を着る。村に入ったら下を向いたままで決して顔を上げないことにする。冥想もしないのに森の中で小屋を建てて住む。食べ物の好みは修行の一部としてごまかす。たとえば、私は肉なら食べません、菜食主義です、朝ご飯を摂らないことにしているなどと在家に語る。このような行為をして在家を感動させて、安定した食事を得ようとするのです。このように生きるならば、汚れた生活をしていることになるのです。もともと心は汚れているから行為も汚れるのです。清らかな心で在家が作った手の込んだ食事の施しであっても、食べるものは汚れているのです。それで結局は肉体まで汚れたものになるのです。在家からさまざまなお布施をもらうこと、尊敬されること、大事にされることを期待する修行は、釈尊は卑しい生き方として否定しているのです。

 しかし、出家した人にとっては少々のからくりでかなり楽に贅沢に生きることはできるのです。煩悩をなくす、解脱を得る目的の人なら、この上のない恥ずかしい行為なのです。本物の修行者は、お布施を得られずに空腹であっても食べ物の為に品格を貶める行為はしないのです。

 エピソードがあります。ある日お釈迦さまが、初めてある村を訪ねました。村人たちは仏陀のことを全く知りませんでした。そこでマーラが村人の心を操って、托鉢に出た釈尊と比丘たちにお布施をする気持ちにならないようにしたのです。釈尊は鉢を洗ったまま何もいただかないで戻ったのです。時間はまだ午前中でした。マーラは村を出る釈尊に会ってこのように告げたのです。「尊師、托鉢に出たときは村人は食事の準備をしていなかったのです。今、各家で料理ができあがっているのです。また村に入って下さい。今日の食事を必ずいただけるでしょう。」釈尊はこのように答える。「たとえ断食になっても、如来は一日に一回以上托鉢に出ません。」食事を作るまで待つことさえも出家にとって恥じるべき行為なのです。しかし、信徒がお布施をしたいので、食事の用意ができるまで憐れみを以て少々待って下さいとお願いしたならば、待ってあげることは構わないのです。それは、信徒に対する慈しみの行為なのです。

 もう一つエピソードがあります。チューラサーリー(Cûla Sârî)という名の比丘がいました。彼は在家では医者でした。出家しても彼は医業を続けたのです。彼の立場から見ると、病人を治すことなのでさすがに善行為をしていると思ったでしょう。信者さんの立場から見ても、大変助かったと思います。金品を受け取れないので、治療してもらっても治療費はただでした。一見悪い行為とは全く見えません。しかし、助けてもらうと自分も何かをしてあげるのは、人間の普通の気持ちです。チューラサーリー比丘は托鉢で困ったことはなかったのです。いつでも、簡単に上等な食事をいただいたのです。彼は、信徒が自分の自由な気持ちで施すものですので正法に則った食べ物だと思っていたのです。ある日、その比丘が住んでいる町に大弟子サーリプッタ尊者が訪れたのです。托鉢には出たのですが、質素なものしかいただけなかったのです。チューラサーリー比丘は尊者が苦労しているのを見て、早足で追っていったのです。村を出たところで「尊師、私は沢山ごちそうをいただいたので、受け取って下さい」とお願いしました。これは出家比丘たちの行儀で、一人の比丘が食事をいただいたら、それを十分もらわなかった比丘たちと分けて召し上がるのです。分けてくれたらそれを受け取ることも行儀なのです。しかし、サーリプッタ尊者はチューラサーリー比丘の施しを受けることをせずに黙って行ったのです。チューラサーリー比丘は嫌な気分になったでしょう。釈尊の次に尊い方だから、見栄を張っているのではないかと思ったでしょう。

 しかし、サーリプッタ尊者は偉大なる聖者です。微妙な行為であっても間違いは犯しません。尊者はこのように考えたのです。「この比丘は医業をやっている。これは在家の職業です。比丘は職業をしてはならない。職業による収入で生活してはならない。戒律違反です。この比丘が気づいていないが、在家が治療代の代わりとしてお布施しているのです。比丘がお布施としていただいたものが残っているならば、自分がそれを頼んでもらって食べても正法ですが、この食べ物ははじめからも汚れている。比丘が食べてはならないものです。」しかし、この考えをその比丘に言わなかったのです。言ったならば侮辱されたと思われるでしょうから。

 何とかして智慧の第一人者であるサーリプッタ尊者の欠点を見いだしたがる人々もいたのです。この出来事はお釈迦さまの耳に入るようになりました。お釈迦さまはサーリプッタ尊者が完全無欠だと知っているのです。ですから、チューラサーリー比丘の生き方を戒めて、比丘が医療行為をすることを禁止したのです。しかし、比丘が病気になったら、比丘同士で治療しても構いません。また、三宝に帰依して仏教を理解している敬虔な仏教徒が、大変困ることになって助けて下さいと頼んだら、間接的に治療方法を教えても構わないのです。この場合は、助けてくれたことの代わりとしてお布施することは戒律違反だと、在家信徒が知っているのです。在家は普段通りにお布施するが、治療代の代わりにはいたしません。

 説法するのは出家の仕事ですが、たとえ説法しても、その代わりにお布施をもらうことは戒律違反です。釈尊がある日朝早く、カシー・バーラドヴァージャというバラモンの田んぼのところに托鉢に出ました。バラモンは「私は田んぼを耕して食べている。あなたも何か仕事をして食べたらいかがでしょうか」と言ったのです。釈尊は「私も田んぼを耕して食べているのだよ」と答えたのです。これはおかしい答えだから、バラモンは詳しい説明を頼みました。釈尊は、田んぼを耕すとき必要な道具にたとえて真理を語ったのです。バラモンは驚きました。「あなたは確かに優れた職業で聖なる果報を刈り取っているのです。どうか、このお布施を受け取って下さい」と頼みましたが、釈尊は「如来は説法をしてその代わりに食べるものはいただかない」と答えたのです。「では、この食事をどういたしましょうか?」釈尊が答える。「これは如来の説法の報酬なので、食べられる人は存在しません。魚さえもいない水に捨てなさい。」説法は相手に対する憐れみを抱いてするものです。報酬を受け取ってはならないのです。しかし、この世であの世で幸福に生きることを期待するならば、必ず在家の方々はお布施しなくてはならないのです。三宝にお布施をすると、この上のない徳が得られます。説法に報酬を払うことはできません。説法によって人は輪廻を脱出して涅槃に達するのです。無死なる境地に達するのです。全ての価値を超えているものを与えているのです。一食分をあげることで、建物を一つ寄付することで、説法の報酬にはなりません。報酬だと思うことさえも、三宝に対する冒涜になってしまうのです。信徒は最高の徳を積んで、この世でもあの世でも幸福になるためにお布施するのです。また仏法僧が栄えることで無数の人々が真理を知って苦しみから脱出するので、一切の生命に対する慈しみの行為として心を込めてお布施するのです。決して布施は法の報酬にしてはならないのです。

 とはいっても、出家在家にかかわらず、道徳を重んじて正直にまじめに働いている人にとって、生活はそれほど楽ではありません。人の弱みを握り、売春麻薬などの商売で簡単に金持ちになる悪知恵を仏教用語で「カラスの巧み(kâka sûra)」というのです。カラスはゴミ箱をあさって腐った肉だけを探すものです。人間はカラスの巧みで生活してはならないのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada (Chapter XVIII MALA VAGGA  第18章 垢の章)
 
Sujîvam ahirikena,
Kâkasûrena dhamsinâ;
Pakkhandinâ pagabbhena,
Samkilitthena jîvitam.  (Dhammapada 244)


Hirîmatâ ca dujjîvam,
Niccam suci gavesinâ;
Alinen' appagabbheba,
Suddhâjîvena passatâ.  (Dhammapada 245)
 
(からす)威張りに 高ぶりて
厚釜しくも 恥しらず
粗暴の人の すごす世は
けがれしままに 容易(やす)からん
   (ダンマパダ244)
 
 
(はじ)を知り 清らをもとめ
(じゃく)を去り 常へりくだる
賢人(かしこびと) 清きくらしの
(かた)きかな げにもこの世は
   (ダンマパダ245)   (江原通子 訳)
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