パティパダー巻頭法話

No.142(2006年12月)

守りにくいから、戒という

人格者への道はまず道徳から Morality challenges your personal weakness.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

在家信徒が五人いました。この五人は戒律を守り修行をすることに励んでいました。戒律といえば、沢山あります。一人に全部守ることは難しいのです。この五人は、自分好みで一項目ずつ戒律を選んで守ることにしました。一人は、生命を殺さないという(pānātipātā veramanī)不殺生戒にしました。もう一人は、与えられていないものを盗らないという(adhinnādānā veramanī)不偸盗戒にしました。三番目の人は、不倫を戒める(kāmesu micchācārā veramanī)不邪淫戒に決めました。次の人は、嘘を言って人をだまさないという (musāvādā veramanī)不妄語戒を守ることにしました。五番目の人は、智慧の開発に妨げになる酒・麻薬などを摂らないという(surāmerayā majjapamādatthānā veramanī)不飲酒戒を守ることにしました。自分で決めた戒を皆真剣に守っていたのです。

ある日、祇園精舎でこの五人が集まりました。修行について話が盛り上がりました。一人一人にとってはたった一個の戒を守ることも大変なことであったようです。とても守りにくい戒をつい選んでしまったという感想でした。友達のことを考えると「この人が選んだ戒なら、完全に守りやすいでしょう」という気持ちになる。この気持ちなら当然、友人同士で対立が現れるのです。

「私の戒はとても守りがたい。しかし、私は戒が破れないように精進しています。あなたがたは簡単な戒を選んでいるから、苦労しなくても済みます。ですから私の修行は一ランク上だと思いますけど」と、一人が言うと、もう一人も同じことを言う。結局は、五人も苦労していたようです。「五戒の中でどんな戒が守り難く、ランクが上なのか」つい知りたくなったのです。でも、この五人の中では、結論はできそうもない。自分の方が上だと言わんばかりですから。お釈迦さまに聞くことになったのです。

釈尊の答えは、五戒の中で上も下もないということでした。どんな戒律もいったん守ろうとすると、難しく感じるものだと説かれました。要は、完全に汚点が入らないように戒を守るために精進することだと諭されました。

今月はこのポイントについて考えてみましょう。

【第一】もし我々に戒の一つを自由に選んで守るようにと言われたら、どういたしましょうか? 答えは明白です。一番守りやすい、破りそうもない戒を選ぶでしょう。たとえば、ご老人の方なら「では私は不邪淫戒にします」ということになります。東京の高層マンションに住んでいる人なら、「私は不殺生戒にします」となるでしょう。下戸の人なら、不飲酒戒にするとかですね。確かに破れないと思います。ではそれで戒を守ったことになるのでしょうかと、疑問です。

普段は犯せない悪・犯すことは不可能な悪などを戒めますと決めても、その戒めを守るために何の精進もいらなくなるのです。自分の心の汚れと戦わずに済むのです。ですから修行にならないと思うのです。牛さんが「私は菜食主義になります」と決めたことと同じです。そう決めた牛さんが、何の精進もすることなく餌を探して食いまくっちゃえばよろしいのです。

【第二】人格を少々向上しようではないかと、いくらか守りにくい戒を選んだりする場合もあります。このように決めた我々は、どのようにその戒を守るのでしょうか。普段は守ろうとする。しかし、誘惑されると「今回だけだよ」と思って破ってしまうのです。たとえば、普段不倫をしないまじめな人でも、美しい方に出会いその方の強引な攻めに負けて「一回だけの浮気」をするでしょう。殺生に反対の平和主義者であっても、自分の国が侵略されると軍に入隊するでしょう。

このような状況をどう説明すれば良いのでしょうか。「状況が戒律を守っていられる場合ではなかった」という答えになると思います。条件がよければ戒を守ります、というのは護戒(ごかい)になりません。罪を犯す条件がない場合は、人は誰でも罪を犯しません。ライオンも虎もお腹がすいてないときは獲物を捕りません。戒を守れない人はいろいろと言い訳をするのです。今の時代では守れません。誘惑が多い環境にいるから守れません。仲間がやっていることをやらなくては一人前の社会人になれません。巧みに嘘をついたり酒を飲んだりすると、仕事がうまくはかどって生活が楽になる。戒律を守ると、この社会では成功することができず負け犬になる。現代的でなく、時代遅れの生き方です。などの言い訳が聞こえてきます。

このような言い訳の基礎構造は、こうなります。社会ではこれが正しいのです。賢者に説かれる生き方ではなく、社会に定められている生き方に自分を調整するべきです。賢者に非難されても社会に認められれば結構です。という思考なのです。

しかし考えてみてください。社会は個人のことを心配しない。社会は残酷です。問題を起こさず生きている間は、個人を無視する。その個人が何か問題を起こしたら極端に非難する。その個人の親族にさえ、平和で生きていられない状況を作る。また社会は賢者に導かれているわけではないのです。無知な多数派に気に入られることは、社会の常識になる。ですから、タレントさんや若者が社会の常識を変えていくのです。結局は社会常識に合わせると言うことは、自分の人生を愚者に任せるということになるのです。社会常識・価値観は常に変わるものです。それは、道徳に基づいて起こる変化ではありません。かつて悪いと思っていたものは、時間が経つと決して悪くない、当たり前の常識になるのです。どちらかというと、社会が道徳倫理を壊す方向へ進んでいるのです。

世界の原理主義者たちの生き方を見るとよくわかります。原理主義者たちは、自分たちの信仰が汚れているので元の教えに戻らなくてはいけないと思っている。しかし、彼らが道徳を破る人々に攻撃することは道徳的だと思って、差別・いじめ・排他思考・テロ行為などをするのです。それも結局は、道徳を破ることです。ですから、社会が道徳を破る方向へ進んでいるという感想は、完全間違いではないのです。そのように次から次へと変わる社会常識に自分を調整することは、道徳的生き方から後進することになるのです。

自分が誘惑に弱い。自信がない。精神的に弱い。ですから戒は守れない。という、言い訳もあります。この場合は、社会のせいにしているのではなく、自分の人格を言い訳にしているのです。この言い訳の基礎構造は、人格向上するつもりがないということです。自分が弱いままで良いということです。

それで何がわかるのでしょうか。戒は大胆な挑戦なのです。愚者に支配されている社会に振り回されないという挑戦です。自分の弱々しい人格に対する挑戦です。気が弱い人には戒を守れないが、気が弱い人こそ戒を守るために挑戦しなくてはいけないのです。精神的に優れた人格者として、その人が発展するのです。「戒を守るのは難しい」とは、仏陀の立場から見ると何の言い訳にもなりません。

数は少ないが、この世でまじめに戒を守りたいと思っている人々もいます。この方々は、自分で何か生き方を決めて素直にそれに沿って生活するのです。それで仏教の目から見てどのように評価するべきでしょうか。特別な宗教の影響がなく、自分で戒を決める人々の対象は、社会なのです。社会で見られる、自分が認めない行為を止めることを戒にするのです。「菜食主義」は人気ランクのトップになります。自給自足・森に住むこと・テレビ、ラジオを視聴しないこと・毎年の巡礼・滝行などもあります。断食もよく知られているのです。

社会から見れば、「大変なことをやっているのだ、我々と違う立派な生き方をしているのだ」と褒められる行為なのです。この戒を観察すると、それは戒というよりは行と言ったほうが良いのではないかと思えるのです。かたち・行いは重視しているのです。かたちを維持すれば、心も成長するという論理に基づいている行為なのです。しかし、何かの行・かたちを護ったからと言って、かならずも心が清らかになる、成長する保証はないのです。成功する可能性も成功しない可能性もあるのです。たとえば、厳密な菜食主義者の心が必ず慈しみに溢れるということはありません。食べたい放題肉魚を食べている人に対して、怒りが現れる可能性があります。彼らを軽視する差別する可能性もあります。そうなると、人格は向上していないのです。時々断食行をする方々は、食べ物に対する執着が必ず減るとは限りません。逆に、食欲が増す可能性もあるのです。ですから、詳細に分析してケースバイケースで調べない限り、世間一般で戒として守る行の評価は出来ません。

では釈尊によって説かれた戒は、どのようなものでしょうか。釈尊が戒を教える場合は、社会は基準にしていないのです。心を基準にしているのです。その上、社会の普遍的な道徳も基準にするのです。釈尊の説かれる戒によって社会に対して対立なく平和で生きていられるし、心も汚れが落ちて向上するのです。

在家社会に説かれている戒は、たくさんありません。たった五つです。しかし、守るのはたやすいものではありません。守る人は、人格的に向上すること、幸福になることが確かなのです。五分五分の結果ではありません。仏陀の完全たる智慧で定めた戒律ではあるが、同時に社会の普遍的な常識でもあるのです。自分自身に挑戦しない限り、守れないのです。

不殺生戒‥いかなる生命も殺さないという意味です。人は自分の怒り憎しみによって、他の生命に害を与えたくなる感情に陥る。また、食べるためといって、我が身に対する執着で他の生命に害を与えたくなる感情に陥る。殺生戒を守る人は、己の心の中にある怒り憎しみ愛着などの感情に打ち勝たなくてはならないのです。戒に例外をつけておくと、人格は向上しない。何か言い訳をして、自分の感情に負けることになるのです。たとえば、食べるためなら魚を捕っても良いのではないか。良くありません。魚の生きる権利がある。私はおなかがすいたから、私においしいんだから、魚たちは死ぬべきという理由は成り立ちません。成り立つならば、ライオンに虎に人間を狩る権利もあります。それは嫌でしょう。ですから、戒には例外はつけないのです。いかなる生命でも殺さないという戒を守ることは難しいに決まっています。それは、自分の心の汚れに対する挑戦なのです。ですから、守ろうと精進する人の心は、確実に清らかになるのです。

また、殺生しない人は社会に対して迷惑でしょうか。危険視するべき存在でしょうか。その人から身を守るべきでしょうか。どちらでもないでしょう。信頼するならば、その人に限るでしょう。ですから、たった一個の戒を守るだけでも自分にも社会にも幸福なのです。

不偸盗戒:与えられていないものを盗らない。単純に盗むなかれという意味でもありません。自分の身を守るために外からいろいろなものを取り入れなくてはならないのです。自分にも生きる権利があるのです。自分も死を避けたいのです。生きるために外からいろいろなものを取り入れる権利もそれで成り立つのです。しかし、それが与えられたものでなければならないのです。与えられたということは、それなりの貢献をして、いただくということです。仕事をさぼっているのに給料だけはガッポリいただくと、偸盗です。労働法によって他の社員と同じ給料をいただく権利があると言っても、真理の世界では通じません。それから人間は、先が不安なので余分にいただきたい、他の人より先にとって保管しておきたいという気持ちがある。また財産ならいくらあっても良いという気持ちもある。その感情は全て自分に対する執着なのです。盗む場合は、相手の幸福に対する怒り憎しみ嫉妬が絡んでいるのです。

ですから、不偸盗戒を守る人は、自分の心の汚れと戦わなくてはならないのです。欲と怒りを制御しなくてはいけない。小欲知足を実行しなくてはならない。大変です。守りづらいのです。しかし、確実に心が清らかになる。人格は向上する。智慧が現れる。では、不偸盗戒を守る人のことは社会が危険視するべきでしょうか。違いますね。信頼できる人といえば、その人のことでしょう。ですから、この戒によって自分も他人も幸福になるに決まっているのです。

他の戒律も説明するべきですが、省略させていただきます。上の説明では戒律に上下はないことを理解出来ると思います。たった一個を守ることにしても、心清らかにする、人格を向上する、涅槃に導かれるという目的に達するのです。それは、釈尊の教えが完全だからです。

従って、戒は自分の不完全な知識で選ぶものではありません。完全たる知者である仏陀に定められた戒のいくつかを決めて、守れば良いのです。仏陀に定められた戒であるならば、どちらでも同格なのです。だからといって、守りやすい戒には飛びかからないことです。

今回のポイント

  • 戒を守ることは、たやすいものではありません。
  • 戒は、自分も社会も決めるものではありません。
  • 戒には上下がないのです。
  • 戒は、無知な社会と自分に対する挑戦です。
  • 人格向上しない行は、戒になりません。
  • 戒は、人を涅槃に導く。

経典の言葉

Dhammapada Chapter XVIII MALA VAGGA
第18章 垢の章

  • Yo pānaṃ atipāteti, Musāvādañ ca bhāsati;
    Loke adinnaṃ ādiyati, Paradārañ ca gacchati.
    (Dh.246)

    Surāmeraya pānañ ca, Yo naro anuyuñjati;
    Idh’ evaṃ eso lokasmim, Mūlaṃ khanati attano.
    (Dh.247)

    Evaṃ bho purisa jānāhi, Pāpa dhammā asaññatā;
    Mā taṃ lobho adhammo ca, Ciraṃ dukkhāya randhayum.
    (Dh.248)

  • この世にて 生き物殺し嘘をつき
    与えられざるものをとり 他人の妻に通うもの
    はたまたスラー酒メーラヤ酒などに溺れて耽けるもの
    この世に於て自からの墓穴をば掘るものと知れかし

    君よ人よ知り給え 慎しみないのはよろしくない
    貪と非法に君長く 苦しむことのないように

  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 246-248)