パティパダー巻頭法話
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No.145 (2007年 3月)
ブッダにも躾出来ない人

 〜悟りを妨げるのは人の習性〜
 Your character defines your whole life
A・スマナサーラ長老

 釈尊は一切生命の偉大なる師です。神々も梵天も教えを請う「天人師(satthâ devamanussânam)」です。ただの師ではありません。人々を涅槃へと、幸福へと導く、この上ない能力を持つ「無上調御丈夫(anuttaro purisadamma sârathî)」なのです。釈尊の尊さは、いまも我々がその教えを学ぶことで理解できます。

 俗世間では、幻象を事実として認めています。一切は無常なのに、我々は、「ものごとが有る」という立場で考えるのです。生きることは苦なのに、「生きることは本来楽だ」という立場にしがみつき、生きる苦しみを楽に変えようと努力します。生きることが確実に苦だとしたら悲観論になりそうですが、仏教は悲観論とは違います。仏教のものの見方はいつでも具体的、客観的なのです。しかしどうも、一般社会はそう思ってないようです。

 例えば、釈尊が「病は苦である」と説かれることに、誰も反対ではありません。しかし釈尊が続けて「病を完全に乗り越えた状態と、そこに達する方法がある」と教える時、「社会の願望」と「ブッダの教え」との間には、大きな差異・隔たりが生れてしまうのです。一般社会に生きる人々は「病を完全に乗り越えた状態」と聞くと、「病にならない完全なる健康な肉体」をイメージします。ブッダは「肉体は壊れるものだから、肉体がある限り無病はありえない」と説かれるのです。仏教の立場からは、腹が空くことも、喉が渇くことも病です。しかし、一般社会ではそれをとても自然でありがたいことにしている(美味しく飲み食いできますから)。釈尊の説く無病の境地とは、「肉体から離れること、肉体に執着しないこと、『生まれ』そのものを乗り越えること」です。身体が壊れるものだとすれば、これは、具体的・論理的な答えなのです。しかし一般社会は身体に執着しているので、「身体がなければ何の意味もない。ブッダは幸福ではなく苦を推薦しているのではないか」と思ってしまうのです。

 一般社会では、妄想、観念、希望、神話、信仰、好み、文化、習慣などの感情で自分の思考が管理されていることに一向に気づきません。仏教があえて、事実を悲観的にねじまげて語っていると勘違いするのです。だから一般の社会では客観的でない主観的な思考を「客観的だ」と信じたり、客観的な思考を「無責任な考えだ」と思ったりもする。釈尊はそういう一般の社会にある思考を逆さま(顛倒)だとして、saññâ vipallâsa(概念が逆さま)、ditthi vipallâsa(見解・意見が逆さま)、citta vipallâsa(こころの働き・認識が逆さま)と明確に区別して説明されています。とにかく、「一般社会の思考」と「ブッダの思考」は上手くマッチしないのです。

 しかし、釈尊の教え方が素晴らしいのです。聴く相手は、何の抵抗もなく、素直に理解して納得する。自分の誤った概念・思考に気づき、その場で訂正する。ブッダは誰の敵でもなく「一切生命の味方」であること、その教えは理性に叶っているということを皆が認めるのです。釈尊はこの現象を面白い例えで説明されています。

 生まれつき目が見えない人のところに詐欺師がやってきて、酷いボロ服を高い値で売りつけようと企みます。「滅多に手に入るもんじゃない高級で美しい服ですよ。あれ、すごく似合うじゃないですか」詐欺師の巧みなウソに言いくるめられた盲目の人は、酷いボロ服に執着を抱いて手放そうとしません。そこに良い医者が現れて、彼を哀れんで、目の治療を施す。目が治った彼は、色彩に富んだ世界を初めて目にします。それと同時に、ボロ服に対するそれまでの執着は消え失せるのです。彼はもう二度と、詐欺師に騙されないでしょう。

 釈尊は、「ブッダが世間に対して行っている仕事はこの良い医者と似ている」と説かれています。釈尊は我々の無知を破るため、苦しみを幸福だと誤解することを直すため、こころの悩み苦しみをなくす手助けをするため、ずうっとご苦労なされました。釈尊の哀れみ、慈しみには限りがなかったのです。

 苦労が尊いなら、能力のない人だって苦労するでしょう。ではまさか、釈尊に能力がなかったとでも?
とんでもありません。人を教え導くことに関して、一切生命の中でブッダに等しい存在はいないのです。釈尊が苦労なさった原因は、明らかに「生徒たちの能力」の問題だったのです。知識人でなおかつ人格者の人々は、早く解脱に達することができました。知識があっても、性格的に問題ある人々は時間がかかりました。釈尊は、学問と縁のない召使カーストの人々にも説法なさって、悟るようにしたのです。それだけではありません。王様たち、将軍たち、商人たち、農民たち、他宗教の行者たちもブッダの弟子になったのです。それで終わればいいのに、神々や神霊たちも説法を聞き、アドヴァイスを受けました。釈尊は相手を選ばず、だれにでも、その人に理解できるように真理を語られたのです。

 そこで、また不思議なことがあります。ふつう、子供に理解できるように語ると内容は子供向けの範囲で終わります。知識人を相手にするなら同じ内容ではダメで、もっと詳しく語らなくてはならない。しかし、頭が悪い人に語る場合は易しいところ以外語れない。これは俗世間の知識です。ブッダは違います。誰に語る時も真理を完全に、悟りを開いて解脱できるところまで語るのです。「対機説法だからレベルが低い」と思うならば、それは偉大なる聖者、完全知者たるブッダに対する冒涜だと言わざるを得ません。

 一般社会の知識や生き方とほとんどかみ合わないにも関わらず、ブッダは皆に理解できるよう、納得行くよう、幸福への道を語ったのです。超越した真理を、だれでも少々の苦労で理解できるよう明らかにしたのです。この偉大なる師、智慧の完成者、梵天・神々の指導者が、今も皆の傍にいます。「ブッダに直々指導受けることができた昔の人はついていた。私たちは残念ながらついてない」ということはありません。ブッダの説かれた法(ダンマ)が世にある限り、ブッダはいるのです。釈尊が人々を導いた奇跡的な技術は、いまも経典の中で、我々を待っています。仏教を学ぶとブッダに出会える。実践するとブッダの世界の一員になれるのです。がんばってみましょう。

 ある日、釈尊が説法をされました。信者たちは皆、心を込めて集中して、意味を理解しつつ、尊敬の念を抱いて聞いていました。しかしある五人組のグループだけは様子が違いました。ひとりは座ったまま寝ていました。説法の感動はけた外れですから、ブッダの前で居眠りするなんて、あり得ないことなのに。他のひとりは下を見て指で土を掘っていました。ひとりは傍にあった木を揺すっていました。もうひとりはジッと空を見ていました。グループのうち、真剣に説法を聞いていたのは、たったひとり。彼らは性格がてんで一致しないのです。

 このざまを見て、アーナンダ尊者は驚愕しました。釈尊の説法に興味を持てないことなどありえない。この四人はなぜ集中できないのか、と。彼らは決して、ブッダに失礼な態度を取ったわけではありません。仏教徒なので、説法を聞くつもりで来たのでしょう。しかし、こころは閉ざしたままだったのです。アーナンダ尊者にはまるで理解の範囲外でした。

 性格は無始なる過去から築かれたもので、現在の生き方だけでは理解できません。人の性格を見抜くことはとても難しいことですが、人を確実に導くため、その人の性格を理解する必要もあります。釈尊はその「人の性格を読める」能力も世界一(生命一)なのです。

 釈尊はアーナンダ尊者の疑問に答えました。「説法中に寝ていた男は過去五百回も蛇に生まれ変わり、いつも餌をたべて、トグロを巻いて寝るだけでした。彼にはその習性がついていて、今、人間に生まれたが、いくら寝ても足りないのです」と。「世尊よ、それはたまたま五百回ということですか? あるいは、続けて五百回も蛇だったのですか?」答えは後者でした。ある時は人間、ある時は神、またある時は動物、と転生しているなら、過去に限りがないから発見しづらいのです。しかし、この人は続けて五百回も蛇に生れていました。指で土を掘っていた男は、過去五百回もミミズに生れていたので、土に対する愛着が捨てがたかった。木を揺すっていた男は過去五百回も猿に生まれたので、木をみると、もう好きで好きでたまらなくなった。空を見ていた人は過去五百回も星占い師に生まれたので、星を見ると今も興奮してしまった。この四人のこころには、釈尊の説法が入る余地はなかったのです。

 ただひとり、集中して説法を聞いていた人は、ヴェーダ(veda)三聖典を学んで、暗記して読誦していた知識人として過去五百回も生まれた人でした。ヴェーダ聖典のマントラを比較して学んだように、説法も対照しながら聞いて理解したのです。

 それでもアーナンダ尊者は納得できませんでした。過去の習性はどうであっても、釈尊の話を聞いて興味が出ないはずはありません。聞けば理解できるのです。それでもなぜ、聞かなかったのでしょうか? 釈尊はこう答えました。「アーナンダよ、人々は私の話が聞きにくい、理解しにくいと始めから思っています。生命は無始なる過去から無駄話だけを聞いてきました。欲、怒り、無知を増幅する話だけを聞いてきました。不貪、不瞋、不痴の話、因果律の話は聞き慣れていないから難しいと思われるのも無理はありません」と。
結局、ブッダが最高の能力を駆使して教えたとしても、真理の目を開けるか否かは、聞く相手の器の問題なのです。

 このエピソードの良いところは、よほど無知でない限り、認知症でもない限り、仏教は理解できる、実践できるということです。悪いところは、まじめに説法を聞いた人は過去五百回も知識人・宗教家で、精神世界に興味を持っていたということです。それなら私たちはどうなるのかと、無気力に陥りかねません。しかし、人間の社会を見ると極端に知力が欠けた人はまれで、ほとんどの人には善悪の判断能力があります。学問はなくても、頭の良い人は結構います。そういう人は仏教では「知識人」です。だから頭の良さで見ると人類の99.95%ぐらい合格でしょう(数字はいい加減です)。問題は、性格なのです。遊び・金儲け・学問・研究・登山・その他の事ならば、命をかけてでもやりたがりますが、「こころを育てる」ことには尻込みしてしまう。興味を持てない。それは性格、習性、興味の問題です。

 長い間、怒り中心に生きてきた人に、怒りを絶つことは難しいのです。怒りに陥るのは楽だし、刺激的です。嫉妬に慣れた人は、犬猫にも嫉妬します。嫌みを言うことに慣れている人は、ご馳走してあげても嫌みを言います。センスが悪い人が高級ブランドの服を着ても、ダサいのです。家族と仲良くできない人は学校に行っても、大人になって仕事に就いても会社でトラブル続きです。

 私たちにはどうにもならない「性格」という習性があることを覚えておきましょう。良い性格の人もいて、悪い性格の人もいる。悪い性格の人の中にも、「だからどうした?」と開き直って改める気持ちさえない人もいれば、悪い性格を直したいと思っている人もいる。後者は善い考えでしょう。しかし、忍耐強く、めげずに、新しい善い習慣で古い習性を書き換えることになるので、性格を直すのはそう簡単ではありません。それでも明るい人ならば、「簡単ではない」と言われたら、「挑戦する価値がある」と思うものです。

 性格は、理屈、論理、理性、理解の管轄ではありません。何をするにも「理性的でなければ」と言う人でも、当人の性格を司るのは理性ではないのです。もし理性的だというなら、善行為は強引にでもやればいいのに、やる気がでない。でも、「自分のすることが理性的だ」とわかったら、たちまちやる気がでるのです。だから、他人に自分の性格を読まれたら、操られる、コントロールされる恐れもあります。

 仏教は人間性格を基本的な六つに分けています。信仰型、思考型、理性型、欲型、怒り型、無知型です。
これは善い性格と悪い性格という分類ではありません。信仰型の場合、簡単に信じる、深く考えない、あまり他人を疑うことはしない傾向はありますが、それもまた、「何を信じるのか」ということで変わります。お金を信じる人、金がなくても人間関係・人付き合いが大事だと信じる人、芸術、科学、技術を信じる人などがいる。宗教を信じる人もいる。その中でもまた、信仰を理屈で成立させる人、何かに対して攻撃的な態度で信じる人、よくわからないから信じる人がいる。「信仰型」ひとつの中にも思考型、理性型などが現れるのです。いかなる性格タイプであっても、悪のほうへ向かうと悪い性格、善のほうへ向かうと善い性格です。

 性格は理性や論理と関係がないから、感情の管轄になります。悪い感情は煩悩ともいうのです。貪瞋痴という悪の感情で生活することは一般的です。悪感情は我々の心を蝕み、成長を妨げ、柔軟性をなくして硬くするのです。この問題について、釈尊はわかり易く語っています。

 「欲に等しい火はない。」こころに欲が現れたらこころが火傷します。身体も火傷したらもとの美しい姿には戻りません。こころも欲によって火傷して形を変えてしまうのです。これが、性格というものを築くのです。「火傷」は文学的な表現だけではありません。欲に陥ると、人は居ても立ってもいられなくなります。火事なので、何をするかとわからない状態になる。思考が内回りで暴走して、外の情報、アドヴァイスなどは入らなくなります。

 「怒りに等しい捕らわれはない。」欲と違って怒りが入ったら、身動き不能になります。怒った人は「逮捕された状態」なのです。こころは確実に硬くなり、怒りの対象と硬く結ばれて、怒った相手を決して忘れならなくなるのです。相手が嫌いなのに、その嫌な相手が自分の心の中に定住するのです。それで、こころを開けることもできず、他の情報は入らぬまま、何も出来ない。何をやっても失敗してしまう。成長しないこころは能力的に、知的にやつれるのです。

 「痴に等しい網はない。」無知という破れない網にかかったら大変です。どんなにもがいても出られない。怒りよりも、更に動きがなくなるのです。怒った人は相手に対してどのように攻撃すればよいかぐらいは考えます。無知の人には考えることさえもできない。何かの妄想に閉じ込められて、その中で頭を回転させることになるのです。

 この三つは、人の悪い性格を築きます。性格とは、結局はこころの中で行う妄想のことでしょう。外の情報に頼らないために、内回りでこころが暴走している状態だと理解できます。

 最後に、「渇愛に等しい河がない。」これは我々のこころにある、「足らない、満足できない」という気持ちです。欲も怒りも満たすことはできません。どんなに生きても、更に生き続けたい。嫌なものは何であろうと破壊したい。これが、生命の輪廻転生の原因です。悟りを開くまで、生きることに満足できないのです。河のように、止まらない。止めようとしても、また、流れるのです。単純に「生まれ変わりたくない」と思っても、生まれ変わるはずがないと思っても、天国へ行って永遠の幸福を獲得すると思っても、生命は河のように、輪廻転生して流れ続けるのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada(Capter XVIII MALA VAGGA 第18章 垢の章)
 
 Natthi râgasamo aggi,
 Natthi dosasamo gaho;
 Natthi mohasamam jâlam,
 Natthi tanhâsamâ nadî.
    (Dhammapada 251)
 
 貪(とん)に比すべき火はあらず
 瞋(じん)に比すべき禍(わざわい)なく
 痴(おろか)に比する網はなく
 渇愛(タンハー)に比する河流なし
    (ダンマパダ251)   (江原通子 訳)
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