パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.148 (2007年 6月)
空に足跡なし

 〜現象に対する無執着は解脱です〜
 The sky bears no traces of tracks
A・スマナサーラ長老

 ブッダの教えに基づくならば、人の疑問に答えるのはそれほど難しいことではありません。疑問に思うもの、自分で解決できないもの、悩んでいるものなどは仏教に尋ねた方がよいのです。正覚者である釈尊の説かれた教えの中に、必ず答えがあります。では、仏教に好きな放題、疑問を投げかければよいのでしょうか? それはたいへん結構なことです。

 しかし、質問にも質があります。ただ子供のように、「あれは何? これは何? 何で? 何で?」と聞いても役に立たないのです。学ぶために聞くべきです。知るために効くべきです。自分が本当に疑問だと思うものを聞くべきです。人格を改良する目的で聞くべきです。自分の知識を知らせるために、相手に勝つために、非難・侮辱するために質問、疑問を投げかけても、どちら側の役にも立ちません。疑問を持っているのに、からかわれるかもしれない、愚問だと思われるかもしれない、迷惑をかけてはいけない、などと妄想を起こして質問しない人もいます。その様な人々には、残念ながら何も学ぶことはできなくなるのです。他人の疑問に出された返事から学ぼうと思っても、自分の疑問とぴったり合う内容にならない可能性もあります。仏教というのは質問を出せば出すほど、人類の役に立つ、宝物になる教えなのです。

 また、問題があります。質問されても、それに対する答えが相手に理解できない場合です。小学一年生から「相対論とは何? 教えて頂戴」と訊かれてどう答えればよいでしょうか? よく聞かれる質問は「涅槃とは何? 解脱とは何? 悟った人はどうなるの? 生まれ変わるの? 地獄はあるの? 天国はあるの?」などです。解脱・涅槃とは、人間、生命が持つ理解能力の範囲を超えているセクションです。一切の概念、言葉が適用できない境地です。それでも説明するならば、結局は涅槃でないものを涅槃のごとく説明したことになるのです。「私は生まれ変わりますか」という質問も簡単に答えられません。「はい」と言っても、「いいえ」と言っても、正しくない。なぜならば、実体として「私」というものは存在しないからです。「私」は錯覚です。幻覚です。しかし、ものごとは因縁により変化していきます。「私」という錯覚を引き起こした現象が、次から次へと新しい現象へ変化していくのです。だから、止まることなく無常の流れはあるが、「私」は生まれ変われません。「私」は今もいないので、「私は生まれ変わりますか」ということは、質問にもならないのです。「私」という主観を無くし、客観的に心という現象の流れ、物質の流れを理解する人が、はじめて輪廻を理解するのです。

 誰であれ、具体的に自分を悩ませている、自分の苦しみを司っていることについて質問するならば、理解できる具体的な答えが返ってきます。しかし、人が「自分の能力の範囲で何でも理解できる」と思っていることには、困ったものです。私たちは、自分の知識に頼っています。理解できないこともあると言われると、良い気分になれないのです。知識を開発しなければいけません。知識を超えて知恵が現れたならば、疑問というものは全て消えてしまいます。というわけで、質問する人は学ぶ覚悟で質問しなくてはいけないのです。

 答えがない質問はあるのでしょうか。あります。「この道はどれぐらい長いですか?」と距離を聞かれたならば、答えがあります。「この道はどれぐらい重いですか?」と聞かれても答えはありません。「この道はどれぐらい重いですか?」という質問も、文法的には正しいのです。質問も思考も、頭の中の概念の並べ替えです。同時に、言葉の並べ替えにもなるのです。概念の並べ替えで、面白い新しい概念、新しい思考が現れたと思いがちですが、必ずしもそうはなりません。実在もしない、理屈にもならない、概念思考などはいくらでも作れます。思考の、妄想の遊びをする人は、やがて自分が考えたことが本当にあると勘違いするのです。永遠の天国、永遠の地獄、永遠の魂、絶対的唯一の神などの概念は、妄想と戯れた結果なのです。このような概念は、道の重さを考えて出した答えのようなものです。答えを出しても、その答えが成り立たないのです。

 インドの宗教家、哲学家たちがおおいに議論した十種類の項目がありました。

  一、魂と身体は別々なものか
  二、魂と身体は同一か
  三、世間は有限か
  四、世間は無限か
  五、世間は永遠か
  六、世間は永遠ではないか
  七、真理に達した人は死後存在するのか
  八、真理に達した人は死後存在しないのか
  九、真理に達した人は存在すると同時に存在しないのか
  十、真理に達した人は存在することも存在しないこともないのか。

 この十問に、お釈迦さまは回答しませんでした。これらは実在しない概念の空回りだからです。ウサギの角について、「長いですか? 短いですか?」とさまざまな議論をするようなものです。
仏教の立場は、長いか短いか答えることではないのです。まず、ウサギの角が実在するかしないのか、質問者の方で立証しなくてはならないのです。魂と身体が同一か異なるかと答える前に、「魂の存在」を立証しなくてはならないのです。人間は幻覚を作って、この幻覚が実在すると勘違いして、それからその幻覚について語ったり、対話したりします。それは時間の無駄。どこにも進まないのです。様々な幻覚を生み出す親玉は、「私がいる」という幻覚です。仏教を実践する人は、まずその幻覚を破り、悟りの第一段階に達するのです。その人には、この世で現れる全ての疑問に回答があります。だから、悟った人に「疑」はないのです。

 立証しながら語ることは、ブッダの説法方法です。これは最も優れている方法に決まってはいるが、ひとつハンディがあるのです。真理は二つに分けられます。ひとつは、我々が知っている、経験している現象の世界に対する真理。もうひとつは、現象の次元を乗り越えた真理です。言葉は人間が、自分が知る世界に、経験する世界に充てるシンボルです。ゆえに、現象の世界の実体・真理は言葉で語れます。
しかし、現象の次元を乗り越えた真理になると、人間が経験したことはないので、単語も概念もない。それは語れないのです。語れない、ということは、知り得ない、という意味ではないのです。仏教を修行する人は、現象の次元を破って真理をありのままに経験します。それが「悟り」という境地です。悟りに達した人は、現象の次元を乗り越えた真理を経験しているが、語れないのです。お釈迦さまは、まだ悟りに達していない弟子たちから修行について質問されると回答します。修行の段階についての質問にも回答します。しかし、「涅槃に達してからどうなるのか」と訊かれたら、「あなたは質問のリミットを超えている。質問はここまでだ。これ以上は語れません」とストップをかける。ストップをかけて、修行者は解脱・涅槃という目的に達するために修行するのだと説くのです。

 解脱に達する方法があります。それが有効な方法だと、まずお釈迦さまが立証なさったのです。それから、出家弟子たちも同じ方法で実践して、解脱に達したのです。だから、方法が有効であることは、釈尊ひとりだけではなく、他の人々も立証しているのです。ある考え方が、ここで成り立ちます。それは、「仏教だけが正しい宗教だとは言えない」ということです。このポイントは、お釈迦さまも認めています。「悟りに達する方法は、誰が実践しても同じ結果になるのだ」と説くのです。仏道は「古い道」だと名付けたこともあります。それは釈尊以前、過去のブッダたちが同じ修行方法で悟りに達したという意味です。ですから、釈尊が説かれているのは過去の覚者たちが歩んだ「古い道」なのです。

 ここで、現代に生きる我々には、「悟りに達することは、仏教以外の人々にもできるのだ」と推測できます。どんな宗教も同じ目的を目指しているのではないかと推測できます。宗教間の争いを止めて、人間は平和に仲良くすべきだと言うためには、よいフレーズかもしれません。しかし、立証していない概念を使っているのです。まず、各宗教の修行方法と目的を、仏教の修行方法と目的とを照らし合わなくてはなりません。それから、実践して、立証しなくてはならないのです。「どんな宗教でも同じではないか」という曖昧な立場でいると、真剣に仏道を実践する気持ちになりにくいのです。面白い方法、やりやすい方法、流行している方法などを探す気になるでしょう。曖昧な気持ちでは、決して幻覚を破ることはできません。

 お釈迦さまは、人間のこの弱みを見抜いていました。最期になったとき、いままでの柔軟性を少々変えて、断言的にこう答えたのです。「空には足跡がない。仏教以外は沙門が存在しない」と。空には足跡がない、道がない、と言っても、鳥たちは確かに空を飛んでいるのです。陸上では、混雑したりぶつかったりしますが、空は広大なので、自由に飛べます。しかし、道筋、轍、踏みならされてできた小道というものは、空には成り立ちません。トラック(track)が現れる原因が、空には何一つもないのです。このたとえで、仏教以外の宗教で沙門がいることはありえない、成り立たない、不可能だ、と説かれているのです。この場合の沙門とは、解脱の道を歩む修行者のこと。修行者は他宗教にもいます。しかし、その修行者たちの実践は、解脱を目指したものではないのです。本人たちは解脱を目指していると思っているかもしれませんが、彼らの実践方法では解脱には到達しません。

 「私の宗教・考えこそが真理だ、他人の宗教・考えが間違っているのだ」というような態度は無知な人がとるものだと、これが宗教の争いの元であると、真理を発見するための障害になると、釈尊は説かれてきたのです。ですから、仏教が唯一正しい宗教だと言えなかったのです。しかし今回は、それをおっしゃっています。しかし、この言葉さえも立証して語っているのです。「空に轍がないように、外(仏教以外)には沙門がいない」と説かれてから次に、その理由を説くのです。生命は概念、観念、妄想などに執着している。現象に執着している(papañcâbhiratâ pajâ)のです。生命は、パパンチャの世界が好きなのです。考えて出す結論も、もう一つの考えです。思考妄想を働かせて人々がイメージする最終目的も、もう一つの妄想概念に過ぎない。妄想、現象の次元を跡形もなく破る世界は、仏教以外、語られていないのです。各宗教の教えを調べたら、いとも簡単に発見できる事実です。どの宗教も解脱ではなく、何かの永遠の境地について語っているのです。その境地といえば、人間がこの世で夢見る快楽の延長線でもあり、理想的な観念なのです。

 ヒンドゥ教の哲学では、我々の現象の世界は幻覚(mâyâ)であると語る場合があります。修行でこの幻覚を破ることを勧めているのです。真理は一つであって、その真理に達すること(梵我一如)を最終目的にしていますが、決して解脱ではないのです。個我が消えて、真我に達することなのです。これも何かの境地に執着することです。解脱にはなりません。大乗仏教で語る「法身」も似かよった考えです。真理という絶対的境地を設定して、そこから現象の世界のありさまを説明する。このような思考には、一つ弱点があります。不二である真理から現象の世界が現れたならば、現象である個が幻覚を破って真理に達しても、その真理は限りなく現象の世界を作り続けているでしょう。ここで、反論する必要さえもないのです。全て、人間の頭の中で考える概念に過ぎません。妄想概念の次元を破る方法を語っているのは、ブッダだけなのです。

  Sankhârâ sassatâ natthi. 現象には常住、永遠、実体、といえるものはありません。一切は因縁により一時的に現れる現象なのです。因縁の働きを発見して、一切の現象に対する執着を捨てることを語っているのは、ブッダだけです。ですから、仏教以外、現状では解脱の道を語る宗教はありません。ヒンドゥ教などで語っている真理の境地は、「現象の世界の裏」なのです。一つである真理の裏と表の考えなのです。仏教の涅槃は、現象の世界の裏ではありません。「無常の裏に、無常でない涅槃がある」と言わないのです。「涅槃の境地」と、「仏教以外、解脱に達する道はない」ということは、我々の理解能力の範囲を超えているのです。ですから、今月の説明はとてもわかりにくいと思います。苦労して理解しようとしても、その理解も知識の一つになるので、現象でありパパンチャなのです。実践して経験する以外、涅槃について語れないのです。大般涅槃経でお釈迦さまがこのように語ります。「涅槃に達するためには、四聖諦を体験しなくてはならない。その四聖諦を語っているのは、仏教だけです。解脱に達するために八正道を実践しなくてはいけない。これも、語っているのは仏教だけです。だから、第一の覚者も、第二の覚者も、第三の覚者も、第四の覚者も、仏教にしか現れないのです」と。

 ものごとをありのままに観察すること(ヴィパッサナー実践)が、悟りに達する方法です。
宗教がなくても、他の宗教を信仰していても、この方法なら実践できるのです。しかし、他人の教えを信じつつ、解脱に達することは成り立ちません。観察によって真理を発見してゆくと、今まで持っていた思考概念などを自ずと捨てるはめになるのです。一切の概念を捨てて、何にもとらわれない、無執着の境地に達したならば、それは解脱です。解脱に近寄っていくと、人びとが世の中で語っていることも、自分が今まで考えていたことも、全て捨てることになる。もし自分が信仰する、重んじる教えがあって、「それだけは捨てないぞ」と思っているならば、観察冥想しても悟りの第一段階にも達しません。仏教を信仰しない人に観察冥想が全く無意味ということではありません。唯一正しい方法なので、観察する人は誰でも幸福な結果には達するのです。しかし、何かに執着しているならば、この世で幸福に達しても、輪廻を脱出することはできないのです。

 では、一切の執着を捨てた人(阿羅漢に達した人)は仏教徒ですか? 答えられません。仏教を信じている仏教徒は、仏教に頼っているのです。ブッダに説かれた道を歩んで解脱に達したいと思っているのです。それで解脱に達したとしましょう。何にも頼る必要はなくなっているのです。ブッダの教えにさえ頼る必要もなく、完全たる自由を得ている人は、仏教徒だと言えないし、異教徒だとも、無神教だとも言えないのです。ブッダの説かれた道を歩んで真理に達したから、ブッダの教えは役に立たないと否定することも断言的に不可能なのです。だから、真理に達した人は仏教を信じているのではありません。ブッダの教えが真理であることを、自分の経験で発見しているのです。真夏の昼、空を見上げて太陽を見て、「この光、この暑さの原因は、太陽であると信じます」と言う必要はありません。それは自分が経験している事実なのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada(Capter XVIII MALA VAGGA 第18章 垢の章)
 
Âkâse padam natthi,
Samano natthi bâhire;
Papañcâbhiratâ pajâ,
Nippapañcâ tathâgatâ.
      (Dhammapada 254) 

Âkâse padam natthi,
Samano natthi bâhire;
Sankhârâ sassatâ natthi,
Natthi buddhânam iñjitam.
      (Dhammapada 255) 
 虚空に足跡あらずして
 外道に出家沙門なし
 人々戯論(けろん)を悦べど
 すべての如来戯論なし
     (ダンマパダ254)
 
 虚空に足跡あらずして
 外道に出家沙門なし
 万象常住あらずして
 諸仏の動揺またあらず
     (ダンマパダ255)     (訳:江原通子)
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