パティパダー巻頭法話
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No.149 (2007年 7月)
思考さえも自由にならない

 〜人間皆バイアスを持っている〜
 Are we, at least, free to think?
A・スマナサーラ長老

 マスコミのワイドショーなどは、この世で起こる色々な出来事の真相究明に必死です。犯罪容疑で人が逮捕されると、その人が何をやったかと、きめ細かく報道しますが、実際は拘置所で容疑者が何を喋っているか、検察側がどんな情報を調べているかは、外の世界には知られないはずです。何でもかんでも発表すると、正しく捜査することができなくなる。なのに、マスコミでは容疑者の態度や気持ちまで、報道するのです。どこから得た情報で、このように真相究明しているのかと、よく解らないのです。裁判で判決を出すためには何年もかかるが、マスコミは次の事件が起きた時点で、前の事件の判決まで出して終わるのです。犯罪だけではなく様々な問題について、マスコミの倫理にしたがって、ありのままの事実をそのまま発表するという名目で報道されるのです。

 たとえば報道については、自由と責任、正確と公正、独立と寛容、人権の尊重、品格と節度を守るという約束事があります。実際、倫理綱領が守られているのでしょうか?
 マスコミは決して倫理綱領を意図的に破ろうとはしません。むしろ、ついうっかりして破ってしまうケースの方が多いのです。現代マスコミの気になるところは、倫理綱領ではなく、何かをしてスクープを探し出して一般社会にアピールすることです。皆に見て欲しい、皆に読んで欲しい、という気持ちが強すぎて、情報は単なる娯楽番組に変身するのです。ジャーナリストは実際何が起きたか、ではなくて、自分の手に入ったわずかなデータに基づいて、いかに感動的な作品を作るのかということに、必死なのです。というわけで、公正も正確さも、独立も寛容も希薄になってしまうのです。たとえば日本で流れる北朝鮮の情報は、まったくワンパターンです。良いことは微塵も報じないのです。北朝鮮で流す日本に関わる情報も、恐らく似ているでしょう。オリンピック試合などはそのまま生放送する約束ですが、実際、番組を観ると、放送してくれるのは自国の選手たちが参加するところだけです。それはアメリカにしても同じ方針です。各国の日常の生き方、文化などを放送するときも、基本的なパターンがあるのです。ヨーロッパの日常習慣とアジア・アフリカの日常習慣が、同じ基準で放送されることはないのです。一般大衆が突然、韓国のドラマなどに釘付けになると、マスコミも韓国のものなら何でもすごいというアプローチで、様々な情報を放送することになるのです。

 ここまで書いたのは、マスコミを批判するためではありません。「事実を語る」場合、起こる問題を明確にするためです。人は事実を語ろうとしても、結局はバイアスが入るのです。色眼鏡で見たものは、正しく見えたとは言えないのです。バイアスもいろいろです。政治的なところで言うと、アメリカや西洋の政治に対して限りなく持ち上げたくなるバイアス、中国やロシア・北朝鮮について批判的なバイアス、アフリカなどの国々について無関心なバイアスなどが必ず入ります。事実はどうであろうとも、大衆の意見に合わせることもバイアスです。よく売れるように、視聴率を上げるように、放送するときは、金を儲ける目的というバイアスが入っているのです。自分が好きな有名人を褒め称える、好きではない有名人のいけないところだけ流す、などのバイアスもあるのです。権力者におびえて、また権力者の機嫌を取るために、情報を変えるというバイアスもあるのです。それは「恐怖」のバイアスです。問題は、人間にこころをバイアスから開放して事実を伝えることが可能なのか、ということです。ほとんど不可能だと思います。しかし、政党機関紙のように様々な組織が発表する新聞雑誌などのバイアスは、はっきりしていますから、問題にはなりません。問題は、バイアスはもってのほかだと言いつつ、情報を流す世界のことです。

 研究世界においても、バイアスが派手に機能するのです。相手より先に発表したい、先に特許をとりたい、儲かりたい、などの気持ちが入ると、研究の客観性が弱くなるのです。データのごまかしも起こるのです。歴史、考古学の分野でも、「好み」というバイアスが入るので、たいへん困るのです。好みによって、データの解説が変わるのです。中国の子供たちが学ぶ日本の歴史と、日本の子供が学ぶ日本の歴史は、派手に違うものです。考古学の場合は、何かを発見したら「一般人を感動させる」というバイアスが入るので、ひとかけらの破片を見て、当時の状況をビデオで観ていたような感じで発表するのです。

 哲学や宗教の研究の場合は、決まってバイアスなのです。研究者には、自分が好きな哲学思考があるので、その方向に傾けて哲学研究をする。宗教の場合は、自分の信仰があるので、研究成果はそのバイアスで塗り固める。聖書の言葉の解説にしても、説明はそれぞれの宗派によって変わるのです。これは仏教の研究についても同じことです。同じブッダの言葉であっても、解説は宗派によって変わる。宗教・哲学を解説する人々は、自分たちがバイアスでやっていると絶対言わないのです。そのように思ってもいないのです。自分こそが本当の意義を理解しているとまじめに思っているのです。そこで何が起こるのでしょうか?

 自分の宗派で新たに語っているアイデアがあります。それは元のブッダの教えに合うかもしれません。合わないかもしれません。合うか合わないか、どうでもいいのです。自分の宗派の論点が正しいと立証したいのです。そのためにブッダの言葉を引用するのです。ですから、解説は、自論を立証できるように偏向してしまう。このようなことは皆、悪気があって人を騙す目的でやっていると、決して言えないのです。誰でも正直なつもりです。誰でも、客観的に事実を調べているつもりです。誰でも学術的に研究しているつもりです。自分の力いっぱい、努力しているのです。しかし誰にも解説がバイアスによって偏向することを変えられないのです。

 人間の意見、というものは、結局はそれぞれの人の主観に過ぎない、というのが、ブッダの立場なのです。主観はすべて間違い、という意味ではありません。例えばある人が「生命は死後、生まれ変わるのだ」と言う。またある人が「生命は死後、生まれ変わらない」と言う。この二つの意見とも主観です。もし実際に生命が死後生まれ変わることが事実であるならば、前者の主観がウソにならないのです。後者の意見はウソになるのです。もし生命が死後生まれ変わらないことが事実であるならば、前者の意見がウソで、後者の意見は真理になるのです。仏教は世の中の様々な意見について、誰が正か、誰が邪か、ともう一つの偏見で二分化しないのです。人の意見は、事実に、真理に合っているか合っていないのか、また、どの程度で合っているのか、というところを気にするのです。事実に合っていても、主観は主観です。

 真理を発見するためには、人の話に乗るのではなく、自分で経験しなくてはいけないのです。それでも、その実験する方法を人から学ばなくてはならないのです。人の話は主観でしょうし、それを聞く自分が、また自分の主観を作るでしょう。これが問題になります。また我々は、日常生活をする上では様々な他人の意見を聞き入れなければならないのです。その場合は、単純に鵜呑みにする、自分の好みで一人の意見を取り入れてもう一人の意見を却下する、言っている相手の迫力に抑えられて信じる、皆の意見に合わせる、などのバイアスが入ります。しかし人は、事実・真理を知るべきです。正しい行動、正しい生き方をするべきです。でもここまでバイアスに攻撃されたなら、事実を知ることはできそうもないのです。

 お釈迦さまが悟りをひらいて間もないうちに、この大きな問題が気がかりになったのです。悟りそのものが言葉に、概念に、イメージにならない、すべてを乗り越えた境地なのです。真理そのものにしても、いまだかつて誰も発見しなかったものなので、俗世間の思考パターンでは理解できないものです。語っても相手には理解しにくいものになるのです。自分が解っていることを相手にしゃべると、使う言語によって充分表現できない可能性があります。それから、聞く人は自分の能力で理解するので、言われたことをそのまま理解しない可能性もあります。それによって事実はけっこう偏向してしまうのです。お釈迦さまが説法するときは、この問題を解決して語られたので、「法についてよく語られている。正しく語られている」という形容詞を使うのです。法は相手に充分理解できなくても、誤解することは不可能です。

 しかし、ブッダの聖なる教えは、よく変わったものです。聖なる優れた教えは、俗的一般論にまで、時代によって変わってしまったのです。それは釈尊が厳密に注意したところを無視されたことの結果ではないかと思います。いわゆるバイアスの問題なのです。我々一般人は、バイアスの塊なのです。客観的である、科学的である、実証されている云々の理由が、無意識的にバイアスなのです。興味あるものしか調べないのは、我々の生き様です。ブッダの言葉を自分で理解するとき、また、他人に教えるとき、自分の主観で解説する。自分で理解できる範囲だけが正しいと思ったりもする。また、自分の主義に合わせて解説する。論理学者は論理の立場で、哲学者は哲学の立場で、科学者は科学の見解で、神秘家は神秘主義の立場で、宗教家がそれぞれの宗教の立場で解説するのです。それで、お釈迦さまが伝えたかったことと、解説は変わってしまうのです。ですから仏教では、解説の仕方(解説学)まで教えなくてはならなくなっているのです。

 仏教は他宗教と違って、完全オープンな教えなのです。誰が学んでもよいのです。批判することも、挑戦することも、比較することも、できるのです。恨み憎しみをもって、根拠のない言葉で仏法を侮辱することは、悪いに決まっている。それは悪業です。それ以外の批判は、悪業になりません。しかし「仏教は自由な教えだ。オープンな教えだ。批判することも自分なりに解説して理解することも自由だ」と思って仏教を解説しても、たいへんな問題が起きます。彼らが真理を自分の主観で偏向させてしまうのです。なぜならば、物事を理解する自分の立場(自分のバイアス)に基づいて理解するからです。本当のところ、オープン(vivato)の意味は、バイアスで解説することではなく、客観的に理解することなのです。自分の好きなように科学実験したからと言って、科学の真理は発見できないのです。注射するべき薬を、自分は注射がいやだからといって、身体に塗ったり、飲んでみたりしてもダメなのです。そこで、自分のバイアスは通らないのです。

 真理はこのようなものです。注射薬は、ある病気に特効薬であるならば、その病気にかかっている誰が試してみても、一向に構わないのです。しかし、塗ったり飲んだりしてはいけません。ブッダの教えも、誰が試しても真理であることは発見できます。幸福になることが確実です。しかし、自分のバイアスでやってみても、同じ結果は出ない可能性があるのです。我々は思考の自由、事実を知る権利を大事にするならば、やるべきことは心からバイアスの基準を捨てることです。自分でバイアスを捨ててしまって、心を自由にすると、マスコミ・インターネットなどで限りなく流れる如何なるデータであっても、どこまで事実かと発見することができるのです。情報によって操られることがなくなるのです。マインドコントロールが解除されるのです。バイアスを無くしてはじめて、「理性」のある人間になるのです。お釈迦さまが理性のある人、知識人、というのは、バイアスの膜が薄い人のことです。

 いくら学者であっても、北伝南伝の経典通であっても、世界的に認められる知識人であっても、「我は知っている」というバイアスで、乱暴に、いい加減にブッダの言葉を解説しても、ブッダの教えを知る人にならないのです。人は有名であればあるほど、世界はその人の言葉を信じるのです。これもバイアスですが、仕方がありません。社会のリーダーシップを取っている知識人・思想家たちは、とても気楽にものごとを解説したり自分の意見を述べたりする。ブッダの教えについても、とても気楽に解説したり知る。この知識人の方々は、「私は知識人である。物事をよく学んでいる。ですから、私の意見に間違いあるはずがありません」という立場なので、結局はバイアスなのです。バイアスがないオープンな心で、ブッダの教えを解説することは、たいへんなことなのです。

 科学の理想的な立場は、主観はいけない、ということです。データのみを客観的に調べることです。自分の意見は、決して科学の見解にはなりません、データによって、自然に導かれる結論が、科学の見解です。ブッダの教えを解説して、他人にも理解してもらいたいと思う人々は、必ずこの科学の立場をとらなくてはならないのです。その人が、真理に依って立つ者と言われるのです。解りやすくいえば、正真正銘の科学者、ということです。

 ここで科学の例を出して説明しましたが、昔の世界では、科学なんかはなかったのです。昔の人々は、より解りやすい例で、バイアスの無い状態を理解したのです。それは裁判の例なのです。裁判の場合は、裁判官がいる。原告側がいる。被告側がいる。原告側に自分が言うことを立証するために、証拠・証人などがいる。被告側にも自分の無罪を立証するために、証拠・証人がいる。判決は裁判官が出すのです。正しい裁判官なら、自分の気持ち、自分の好みなどを微塵も使用しない。原告側もまた被告側の社会的立場、権力なども気にしない。誰の肩も持たない。立証されたら有罪。立証できなかったら無罪。裁判官の理想的な心構えを、バイアスのない心構えとして昔は理解したのです。ですから、仏教では、裁判に対しても、「法に依って立つ」という単語を使うのです。

 もし裁判官が、袖の下で賄賂を取っているならば、どうなることでしょうか。わいろの額が原告側の方が多ければ有罪で、被告側の方が多ければ無罪になるでしょう。また、真剣に証人のはなしを聞く必要もないでしょう。封筒の中に入っている枚数だけ数えれば、判決は下せるのです。もしそうなったら、この世で法律なんかは成り立たなくなるのです。この世で、政治家の、権力者の、好みに合わせて判決をしてしまう裁判もいないとはいえないでしょう。しかし、裁判官には、バイアスは猛毒です。

 我々人間は、物事を理解する上で、他人に情報を伝える上で、賄賂を取る裁判官のような生き方をしているのです。それでは話にならないのです。我々の生き方は、「自分の理解」に基づいたものでしょう。だから、それで正しく生きていると、胸を張って言えるのでしょうか。もしブッダの教えを理解するならば、こころをバイアスから解放して、理想的な裁判官のように、正しく物事を理解して、正しく生きていって、真の幸福に達することができるでしょう。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XIX DHAMMATTHA VAGGA 第19章  法に依って立つ章
 
Na tena hoti dhammattho,
Yen' attham sahasâ naye;
Yo ca attham anatthañ ca,
Ubho niccheyya pandito.
     (Dhammapada 256) 

Asâhasena dhammena,
Samena nayatî pare;
Dhammassa gutto medhâvî,
Dhammatto' ti pavuccati.
     (Dhammapada 257) 

無理矢理道理をあてはむは
法に住する人ならず
道と非道の両つをば
見究めてこそ賢人(パンディタ)ぞ
     (ダンマパダ256)

無理強(むりじ)いでなく法により
穏和に人を導けば
法を守りて賢明な
法に住する人と呼ばるる
     (ダンマパダ257)   (訳:江原通子)
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