パティパダー巻頭法話
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No.15 (1996年5月)
「身体と幻」
〜執着から離れ平安な心を得る〜
A・スマナサーラ長老

 我々の身体は、とても大事なものです。よほど非常識な人間でない限り、「そんな事はない」などとは言わないでしょう。生まれた時から、この大事な身体を育て守るために、我々は努力しています。動植物は自分の身体を守るためにいくらかの工夫はしますが、ほとんど自然法則で守られています。爬虫類は自分の身体を保護色でカモフラージュして、天敵の目を欺きます。私たちは毒蛇を恐れますが、蛇はその毒で自分を守っているのです。敵の多いウサギは、かすかな音でも聞き分ける長い耳を持っています。

 一方、我々人間は「自然界」にそれほど好かれていないのか、そのような能力には恵まれていません。でも大丈夫です、そのかわりに人間には知識という武器があります。それを上手に使って地上の支配者になりました。

 人間が、その知識を使って作りだしたすべてのもの、科学、文化、社会制度、政治形態、経済構造、等は深く考えなくても、「身体」を守るための努力の結果であることを理解出来るでしょう。
そのおかげで我々現代人は大変楽に暮らしていけるのです。人間の身体は大変弱いという事実だけは昔も今も変わりませんから、身体を守る戦いは未来まで延々とつづくことでしょう。そのために人間には、やらなくてはならない事が日々数限りなくあります。どうすれば、ほっと一息ついて安らぐことが出来るのか分からないほど忙しく暮らさなければならない羽目になっています。この精神的な苦しみは、忙しく働くことを美徳として賞賛することで、紛らわしているのです。

 この人間社会で、人がどれほど大事な仕事をしていても、どんな社会的地位を得ていても、結局それは自己の身体を守る為にやっているということに変わりはありません。もし人間にも動物と同じように、身体を守る生まれつきの構造が身についていたならば我々は一体どのような社会を作ったでしょう? 色々な科学的な発明や、大都会のシステム、巨大な企業制度、等を作る必要があったでしょうか? もしかしたら歌や踊り等の娯楽文化は作るかもしれませんが、今存在するそれ以外のもののほとんどは出現しなかったであろうと、私は勝手に想像します。

 「身体」を守ろうとする本能によって、やむを得ず作り出された社会システムが裏目に出て、生きて行けないほどの精神的な苦しみを生み出す結果になりました。今日はこの「身体」という概念について考察してみたいと思います。

 我々の身体というのはもろく弱いものです。ふつう、我々はそういうことを認めたくはないのですが、無意識の知識、あるいは本能としてよく知っていることです。生まれたときから死ぬまで人間は一体何をしているのでしょうか。考察してみると、ただ一生この身体を守ることのために必死で努力していることになるのではないでしょうか。

 我々が子供の頃から勉強したり、運動したり、仕事をしたり、結婚をしたり等、社会生活を色々に営んできたことはすべて、身体を守るためなのです。結局身体を守る以外のことは我々はできないのです。政治も経済も娯楽もそうです。身体を守る以外のことをする余分な時間はないのです。

 たまに人間が心の部分のことを考えることもありますね。その時には精神や道徳や心の健康等といった概念を使っていますが、それも実は社会的に失敗したときや、社会生活にうまく適応しきれなかったときに初めて考えようとしている問題なのではないでしょうか。結局はすぺて身体をうまく守っていくことが出来なくなったときに出てくる問題なのです。

 いずれにせよ、身体というものは年をとって、病気になって、徐々におとろえていくものなのです。わかっていながら、われわれが身体を守る努力をしつづけるということは何とむなしいことでしょう。必ず負けてしまう「生きる戦い」をつづけなければならないことは苦しいことです。生きていることで幸福感を味わうことより、失望感を味わうことやトラブルの起こることの方が多いのです。心の落ちつきが消え、精神的に悩むことが多くあるし、また逆にそのような精神的なトラブルのせいで、新たな失敗や悩みが生まれるのです。悪循環が起こるのです。

 この悪循環を破って平安な心を作ることは、生きている人間にとって求めるべき正しい道ではないかと思います。しかしそれは、高次元的な神のような存在にすがったりお願いしたりすることで解決する問題ではありません。答えは事実をありのまま認めることです。身体を守る戦いは必ず負ける戦いなのです。老いること、病気、死、それらを乗り越えた人は一人もないのです。それをよく理解した上で生きていると、ストレスが溜まることも悩みが生まれることもなくなるのです。

 自分が生きているという概念、身体を守らなくてはならないという概念、自分が死なないという概念、死にたくないと言う概念、そのような本能の根本を変えてしまわなければならないのです。
難しいことかもしれませんが、もしそのように考えられるようになれば、心は自由になり、何ものにも捕らわれない衰弱しない力を持つようになります。

 お釈迦さまは、身体は泡のようなものである、観察しなさいとおっしゃってます。身体は瞬間瞬間、泡がはじけるような感じで変化していきます。実体として考えて、身体を守ろうと考えるが、身体は常に変化し泡のように消えていくものであってつかめるものではないのです。陽炎(かげろう)のようであると認識するべきです。人は「私の」という言葉をよく使いますが、それは概念でしかない、ただの現象なのです。常に自分に気づくヴィパッサナー実践によって、私、私のもの、という概念がただの幻覚であることを体験できると思います。その人には死に追いつめられた苦しみの生き方を乗り越えることが出来ます。

今回のポイント

◎経典の言葉
Phenûpamam kâyamimam viditvâ − marîcidhammam abhisambudhâo
Chetvâna mârassa papupphakâni − adassanam maccurâjassa gacche.
この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると悟ったならば、悪魔の花の矢(欲の世界に対するとらわれ)を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう(解脱をするでしょう)。(Dhammapada−46)
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