パティパダー巻頭法話

No.151(2007年9月)

真言の力は比類なし

法を知るとは、知識から体験へ進むこと Experience is the power of conviction.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

まずエピソードからはじまります。お釈迦さまの時代、一人の比丘がいました。彼は仏法をほとんど学んだことはなかったのです。しかし、ひとつの法門だけ聞いて、覚えていました。覚えていただけではなく、その教えの真意を理解していました。理解で終わることだけでもなく、自分の身をもって経験に達していました。わかりやすい話、阿羅漢になっていたのです。この聖者はそれからもたくさん仏教を学ぼうという興味はなかったのです。自分が学んでいる仏教のすべては、最初に聞いた偈ひとつだけでした。その聖者が覚えていた唯一の法門はパーリ聖典の『ウダーナ(自説偈)』というテキストの37の偈です。

Adhicetaso appamajjato, Munino monapathesu sikkhato;
Sokā na bhavanti tādino, Upasantassa sadā satīmato. (Udāna 37)
超越したこころの状態を持ち不放逸である、寂黙の道を歩み黙者(聖者)になっている、平安に達して常に気づき(sati)ある、そのような人に憂いはなし。
(ウダーナ 37)

この四行のなかに、仏道のすべてが凝縮されています。涅槃に達する道と、涅槃の境地が語られているのです。その四行を理解できれば、仏教を理解したことになるのです。

この聖者は、森のなかで一人で生活していました。しかし比丘たちは、満月と新月の日、集まって説法したり、説法を聞いたりするのが習慣です。この聖者も、満月、新月になると、「これから説法の時間です」と告知して、右の四行を唱えます。人間はだれも聞く相手がいませんでしたが、唱え終わると、「サードゥ!」という声が森中に響くのです。(同意する、賛成する、認める、という意味の単語です。仏教徒は説法を聞くとき、その喜びを表すとき、サードゥ! と言うのです。キリスト教などのアーメン! という言葉も似た意味のようです。)サードゥ! と森を響かせたのは、森に住んでいた神々だったのです。

この聖者は、「誰かが説法を聞いているのだ」と思いました。この声は誰の声かと、調べてみる興味はなかったのです。聖者は半月ごとに欠かすことなく正式的に告知して、説法し続けたのです。毎回、サードゥ! という声が森に響いたのです。

この森に、三蔵経に通じた比丘二人が入ったのです。ちょうど説法の日でした。聖者は大いに喜んで、仏教を学び尽くしている方々から今日の説法をいただきたいと、頼みました。学識のある比丘二人は、「しかし聞く人は一人もいないでしょう」と渋りました。聖者は「いいえ、たくさんいるみたいです」と答えた。神々が説法を聞いて、サードゥ!と歓声をあげていることを知った比丘二人は、張り切って、たくさん説法をしました。しかし、まったく反応がなかったのです。「やはり誰も聞いていないでしょう」と比丘たちは言いました。聖者が「いいえ、毎回たくさんのサードゥ! という声があがりますよ」と答えた。「では、あなたは説法してみてください」と頼んだところで、聖者が正式的に告知をして、自分が覚えているたった一つの偈を唱えたのです。するとサードゥ! という声で森中が響いてしまったのです。

「なんだ、神々も特別にこのお坊さんをひいきにしているのか」と二人は思いました。この出来事を、のちに、その比丘二人が釈尊に報告しました。お釈迦さまは、「神々は特別に誰かの肩を持っているわけではありません。教えを理解していることに、経験していることに、素直に感動しているのです」と、説きました。エピソードはここで終わり。

仏教はただの言葉ではありません。真理の言葉なのです。真理と言っても、淡々と事実を述べているだけでもないのです。仏説には、この上のない不可思議な力があります。それは聞いた人のこころがたちまち、清らかになることです。汚れたこころが、きれいになることです。悩み苦しみがなくなることです。こころが向上して、涅槃に達することです。仏説の、人の悩み苦しみをなくし、たちまち幸福にしてあげる力を、後世の人々は呪術的な意味で捉えたのです。「真言」になったのです。厄介な話です。仏説の力は、神秘的なものではありません。「真理的」な力です。心理的にこころが治るのです。まさに言葉の力です、と言えば、異議を立てにくいですが、だからといって、ダラダラと呪文を唱えても微塵も効き目がないことも理解した方がよいと思います。

学ぼうとすれば、一生学んでも学びきれないほどブッダの語られた真理は無尽蔵なのです。しかし、たった一つの法門で、たった一つの偈で、すべての真理を理解することもできるのです。真剣に聞いて理解しようとする人のこころが、ブッダのひと言葉にでも納得するならば、その人のこころはそれと同時に変わるのです。向上するのです。度を越した無知なひとでない限り、ブッダの話を学んでこころが向上しない人はいません。幸福にならない人はいません。ギャーテー・ギャーテー……や、オーム○○や、オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカや、オン・カカカビ・サンマ・エイ・ソワカや、そういった言葉に力があると勘違いしてはならないのです。言葉ではなく、その言葉が持つ意味に力があるのです。ブッダの言葉の意味は真理なので、したがって、仏説にまさる幸福をもたらす言葉はないのです。

「先に自分が実践してから他人に説く人は、堕落しない」とは、お釈迦さまの言葉です。自分の修行を後回しにして、他人に説教する人は、世に多いのです。その人々は、皆に尊敬されることを期待しています。尊敬を受けて、豊かになって、それから人生で堕落するケースがいくらでも見受けられるのです。またこの世の中でほとんどの人々が道徳や倫理を語るが、守る人々は少ないのです。世は善くならないのです。この世の人々の言葉に、力がないのです。先に自分が実践しておけば、言葉に力があるのです。つまり、説得力があるのです。右に述べたエピソードの聖者が、毎回毎回、四行の偈しか唱えなかったのに、同じ偈を何回聞いても、神々が感動したのです。その偈を唱えるとき、その聖者のこころが、偈の内容に(仏道と悟りに)入るのです。聞く人々も、感動するのは、当然のことです。

学識だけで人々を指導できると思ったら、考えが甘すぎです。現代社会も知識人に導かれていないのです。貪瞋痴に目がくらんだ、財産欲、権力欲、名誉欲の衝動で生きている人々が、この世を牛耳っているのです。現代社会の指導者・リーダーは誰ですか? と訊かれたら、一般の人々は世界を牛耳っている人々の名前を挙げる。それは勘違いなのです。彼らは自分たちを抑えつけている人々なのです。導いている人々ではないのです。

人々を幸福に導く、本当のリーダーは誰でしょうかと、知っておいたほうがよいのです。我々の人格向上に、善い人間になるために、悟りに達するために、導いてくれる本当のリーダーは誰でしょうかと、知っておいたほうがよいのです。

学識のあった二人の比丘が、張り切って説法したのに周りから何の反応もなかったのです。法門一つしか覚えていなかった比丘が、その四行を唱えると、周りが歓声で沸き立ったのです。二人の比丘は、「神々も人々をえこひいきするものなんですねぇ」とお釈迦さまにこぼしました。しかし神々は、えこひいきをしたわけではありません。本物には、誰でも惹かれるのです。このポイントをお釈迦さまがこの比丘二人に教えてあげたのです。

人々に役に立つことをしたいと思うならば、真理を教えてあげるべきです。ウソを教えても迷信や信仰を刺激しても、役には立ちません。真理を知ることで、無知がなくなるのです。ただしい生き方が見えてくるのです。真理を知る人に、自分の過ちをただすことができるのです。真理を知る人は、本来不完全な人生を完成させるのです。未熟な人格を円熟させるのです。ですから、人々に真理を語るべきです。お釈迦さまが語ったのは、真理なのです。それはダンマ・法というのです。人々に仏法を教えることこそが、その人々の役に立つ行為なのです。

では法を語ればよいのでしょうか。語っただけでは、効き目がないのです。力もないのです。学識として仏教を学ぶことは、我々にはそれほど難しい作業ではありません。すべて暗記しなくてはいけなかったので、昔は難しかったでしょう。活字文明の現代は、学識は本の中であれば充分です。ですから誰でも簡単に、学識者になれるのです。たくさんのテキストを参照して、仏教以外の知識と比較して他人に語ることができる先生方は、いることはいるのです。その先生方の話を聞いて、本を読んで、我々は仏法を学ぶのです。しかし、学ぶだけです。知識が増えるだけです。知識が増えると、なおさら生きるのが苦しくなるのです。性格が素直でなくなるのです。「頭のいい」子供の間違いを直して躾することが、産んだ母親にもできなくなるのです。学識だけで頭が固まると、柔軟性はなくなります。その人の管理は、できなくなるのです。知識を学ぶことはとても大事なことです。しかし学ぶだけなら、かえって傲慢な、頑固な人間になってしまうだけです。

仏教の立場からは、人々は真理・法を学ぶべきなのです。真理を学ばない限り、人格向上を見込めないのです。我々の指導者になるのは、法を知る人なのです。しかし、より多く語るからと言って、本物の法を知る人にはなりません。三蔵経を丸暗記していても、その人のこころが法を持っていないのです。三蔵経を丸暗記しても、三蔵経典を買い求めて本棚に整理しておいても、同じことです。必要なとき、参照できるのです。三蔵経典を持っている人は、「法を持っている」人ではありません。

ブッダの説かれた法は、四行、二行だけでも充分なのです。ブッダが法を完全に語ったのです。長さで言えば仏法はいろいろです。長部経典に編集されているお経は長いのです。経典一つの本文だけで、小冊子一冊くらいの分量があります。しかし、それで仏道のすべてを語られているのです。中部経典のお経は短いのです。小冊子一冊にするためには、経典四つぐらい必要です。しかし、経典一つで解脱に達するところまで仏道を語りつくしているのです。相応部経典のなかでもっとも短い経典になると、四行の偈ひとつ、または二つで、仏道を語りつくすのです。長い経典もありますが、中部経典の経典一つほどは長くはないのです。経典の長さは、まちまちです。しかし、大事なポイントは経典一つがそれだけで道を語りつくしていることです。ですから、我々は、経典ひとつ、法門ひとつを学ぶだけであっても、知識的には充分なのです。経典には、四行の偈であっても、解脱に達することができるように、アドバイスが入っているのです。

それなら、なぜたくさん経典があるのでしょうか。それは一人ひとりの理解能力の差に合わせているからです。人格に、好みに、合わせているからです。人間は一人ひとりが人格的に違います。私が感動する言葉に、友人も感動するとは限らない。私に理解の難しい言葉が、友人にも理解できないとは限らない。仏典を読んでみると、自分にぴったり当てはまる経典がひとつか二つ、必ずあるのです。我々が網羅的に経典を読んでみて、「マイ経典(自分に個人的に説かれたブッダの生の教え)」を見つけられたら、最高に優れている宝物を掘り出したことになるのです。

それから、「マイ経典」を学ぶのです。そのアドバイスにしたがって、ブッダの説かれた安穏、解脱の境地に達するまで、日々精進するのです。教えを自分の身体をもって経験する人のことは、「法を持つ者(dhammadharo)」と言うのです。三蔵経典を丸暗記して、見事に説法できる人であっても、dhammadharoではないのです。悟りに達しなくても、「今日のうち悟りに達しよう」という気持ちで日々精進する人も、dhammadharo なのです。この人には、こころに向上があっても、堕落はありえないのです。

修行中の人も、法の体得者と同じ扱いをするのは、如何なものかと思われるでしょう。悟りに達する修行は、sati 気づきの実践なのです。気づきの実践をしている瞬間瞬間に、こころは一時的に貪瞋痴から離れるのです。こころが貪瞋痴で汚れても、たちまち気づきを実践して、治すのです。妄想を完全に停止した覚者のこころの真似をし続けるようなものです。喩えで考えましょう。俳優たちは、舞台に上がる前に稽古をするのです。稽古だからといって、いい加減でふざけてやるわけではないのです。真剣まじめなのです。稽古中であっても、観る人は感動します。衣装も何もなく、普段着のままで汗をダラダラたらしながらするリハーサルを観ても、見る人々は感動するのです。リハーサルで感動させる能力が身に付いたならば、本番になるのです。修行中はリハーサル中の俳優と同じです。ですから、自分が実践している教えを他人に語ると、他人のこころは感動して実践したくなるのです。ゆえにお釈迦さまは、教えの説得力という立場から見て、修行中の人も、法の体得者も、同じ扱いにしているのです。

Dhammadharo が語る場合は、その言葉に摩訶不思議な力があるのです。その言葉を聞く人々のこころは、よい方向へ変わるのです。さまざまな問題で悩んでいる人々は、法を自分の身体で体験している人のアドバイスを受けるならば、悩みを解決できるのです。こころが変わる教えこそが、人々の役にたつのです。法を知ることよりも大事なのは、法を持つことです。人々は仏法を学識的に学ぶだけで満足してはならないのです。人の死後を定めるときは、学歴は効きません。学者であっても知識がない人であっても、富豪であっても貧乏な人であっても、俗世間的な価値観と関係なく、死後幸福になるのは「こころが清らかな人」なのです。

今回のポイント

  • 言葉に力があるとは限りません。
  • 真理の言葉にのみ確実に力があるのです。
  • ただの説法には説得力がない。
  • 法を持つ者のみ、人を導く。

経典の言葉

Dhammapada Chapter XIX DHAMMATTHA VAGGA
第19章  法に依って立つ章

  • Na tāvatā dhammadharo, Yāvatā bahu bhāsati;
    Yo ca appampi sutvāna, Dhammaṃ kāyena passati;
    Sa ve dhammadharo hoti, Yo dhammaṃ nappamajjatī.
  • 教えをば 多く語るも あながちに 伝持者ならず
    たとえ法 少しく聞くも 身に奉じ 放逸ならず
    この人ぞ まこと法持者
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 259)