パティパダー巻頭法話
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No.152 (2007年10月)
「虚ろな老いぼれ」と「年長者」

 〜無為に年を重ねるよりも徳を重ねること〜
 Life without virtues is meaningless.
A・スマナサーラ長老

 三十人ぐらいの比丘たちが森の中で修行していました。もう一度法を聴いて、修行のアドバイスを受けて至らないところを改めたいと思った比丘たちは、お釈迦さまに会いに出かけました。舎衛城の祇園精舎を訪ねて、お釈迦さまに会いました。その時、お釈迦さまが、「こちらに入る途中で大長老ひとりに会いませんでしたか?」と尋ねました。比丘たちは、「いいえ、会いませんでした。身体がとても小さい、出家ひとりに会いましたが、あの人は長老ではなく、沙弥でしょう」と答えたのです。この三十人の比丘たちは、修行が進んでいて、もうそろそろ悟りをひらくべき時期になっていました。ですからお釈迦さまは、悟りをひらけるようにインパクト強く真理を説かなくてはいけないと、思っておられたのです。ですから、「あなた方は、大長老ひとりに会いませんでしたか?」と聞いたのです。

 お釈迦さまがその比丘たちに「あなた方が会った比丘が、大長老ですよ。年下の沙弥ではありません。人を見かけで判断してはいけない」と説法をはじめたのです。これはLakuntaka Bhaddiya大阿羅漢のことです。この長老の身体は、成長していなかったのです。過去のひとつの悪業の所為で、成長障害に罹っていたのです。しかし大変徳を積んだ方でしたので、見る人にはその長老が、可愛い子供に見えたのです。ですから、悟りをひらいていなかった一般の出家者たちに、からかわれたこともあったのです。在家信者さんも、敬意をはらうことはまったく無く、子供扱いすることもたびたびでした。しかし、Lakuntaka Bhaddiya長老が大阿羅漢なのです。聖者なのです。みな尊敬して説法を聞いたりアドバイスを受けたりするべき大師なのです。でもみんな、子供の顔をしていたこの長老から、あまり説法を聞く気にならなかったみたいです。

 聖者になった方々をからかうのは、大きな罪になります。子供だと勘違いしていたからといって、聖者をからかった罪には変わりはないのです。もし冥想修行する人が、聖者をからかったり軽視したりしたことがあったならば、その聖者に謝って懺悔しない限り、冥想修行は進みません。この長老のことで、お釈迦さまも心配なさっておられたのです。それは、決してLakuntaka Bhaddiya長老がかわいそう、という気持ちではなかったのです。人々が不注意でこの長老をからかうと、大変な罪を犯すので、そのことを心配していたのです。無知な人のことを憐れんでおられたのです。

 というわけで、森からやってきた比丘たちに、Lakuntaka Bhaddiya長老のことを題材にして、説法なさったのです。ポイントは、身体を見て、長老のことを子供だと勘違いしたことです。比丘たちは見かけで判断したのです。表面的な容姿で価値判断するのは、一般人なのです。内面的な資質で判断するのが仏教なのです。世界は物事を表面で判断するので、中身がある本物に出会うことはなかなかないのです。

 人間も他の生命も、こころと身体という二つでできています。こころは変わらない実体ではなく、瞬間瞬間、絶えず変わっていくひとつの流れなのです。身体はいかがでしょうか。身体も同じく、瞬間的に絶えず変わっていく流れなのです。この世に生まれるのは、3キログラムぐらいの小さな赤ちゃんなのです。しかし、亡くなるのはくたびれ果てた老人です。人間の細胞はだいたい三ヶ月で入れ替わります。半年くらい経ってみると、まったく別な身体に入れ替わっていると、理解した方がよいのです。身体も変化する流れで、こころも変化する流れなのです。人が亡くなったら、肉体はこの世で置いておく。身体の流れが、死と同時に止まる。しかし、こころは、ずーっと流れていくのです。死後も流れるからといって、こころの変化は身体の変化より遅いわけではありません。指を鳴らすぐらいの時間であっても、こころが無数回、生まれて消えるのです。

 「流れ」という言葉をよく理解した方がよいのです。滝、川、なども流れなのです。滝があると思っても、それは俗世間的な言葉で、実際は、滝は瞬間瞬間変わるものです。二回同じ滝を見られませんが、我々は観光PRまでして、皆に見てもらおうと思っているのです。同じ滝を見ているのだ、という気持ちが錯覚であることは、簡単に理解できると思います。こころの無常の速さを理解するためには、光はよい例です。光速は一秒間に30万qです。蛍光灯の光で我々は仕事をしていると思っても、一秒間に30万qの速さで光が流れているのです。決して同じ光を見ることはできないのです。同じ光を見ているのだ、という気持ちは、脳の錯覚に過ぎません。こころは光の速度よりも速いものです。人間が「私がいる、魂がある」と誤解するのは、こころの速さを実感できないからです。今月、強調したいポイントは、この無常の話ではなく、こころが滝のごとく一本の流れであることです。身体が壊れても、こころが同じスピードで流れてゆくのです。輪廻転生する主体はまったくありえないと断言しながら、仏教は輪廻転生があると言うのは、このこころの流れのことです。

 それで価値の問題に戻りましょう。人間は、こころを成長することに興味はない。肉体のことなら無我夢中なのです。生きる力のすべてを絞って、肉体の面倒を見ているのです。しかし、死の瞬間で肉体を捨てなくてはならないのです。人はこの世で肉体のために獲得する財産、名誉、家族、などのすべてを、死によって捨てなくてはいけないのです。しかし身体のためになるものを得ることに努力する以外、人は何もしないのです。もし、こころを成長させたならば、こころ清らかにしたらならば、智慧を開発する努力をしたならば、その影響はこころに入るものです。こころは一本の流れなので、死によって断絶することはないのです。これを解りやすく言えば、死後もっていけるものは、こころの財産だけだ、ということです。そういうわけで、人の価値は見た目でするものではないのです。こころの成長の度合い、人格、などで評価するべきです。

 こころの徳で生命の価値が成り立つのだということを世間に説得するために、仏教は並ならぬ努力をしてきたのです。カースト制度の激しい出自差別で病んでいたインド社会に、お釈迦さまが真っ向から攻撃を加えたのです。たとえバラモンであろうとも泥棒する人は盗人であると、たとえシュードラ(不可触民)の人であってもこころがきれいな人は尊い人間であると、説いたのです。しかしこの世で、差別を取り除くことはいまだにできずにいます。口先だけで「平等」と語るが、実際の社会ではまったく実行していないのです。人間は、民族の名前で、国の名前で、肌の色で、語る言語で、差別する。身体の形でも人を差別する。人に徳があるか否かは、考えようともしない。この現状は、人間の「無知の壁」がいかに厚いかということを語っているのです。(もしかすると巨大隕石が落下しても破れないくらい、この「無知の壁」が厚いかも。)

 修行のアドバイスを受けるために、森から出てお釈迦さまを訪ねた30人の比丘たちに、我々が何に価値を入れるべきかということを、お釈迦さまはLakuntaka Bhaddiya大阿羅漢を例にして語られたのです。「Lakuntaka Bhaddiyaは沙弥(子供)ではありません。大長老です。人は歳を経て白髪になったからといって長老にはなりません。ただの老いぼれです。」と、説明されたのです。これが大事なポイントです。我々は年寄りを尊敬するべきだ、というのは当然なことです。しかしこの言葉は、断言的ではないのです。人々は歳を経るとともに、後輩から尊敬を受けられるような人間にならなくてはならないのです。
 仏教では、年齢が上の人と、徳が上の人と、「年長者」は二種類です。一般社会の間では、年齢が上の人を尊敬します。しかし、徳が上の人は、断言的に「年長者」としてみなすのです。年齢が上の人であっても、徳が上の年長者を尊敬しなくてはいけないのです。何の道徳も身に付けることなく、智慧を得る努力もすることなく、年齢だけ食っている人に対して、お釈迦さまは「moghajinna(虚ろな老いぼれ)」と言うのです。

 仏教の立場から長老と言えるのは、すべての生命より徳が高い方のことです。悟りに達した聖者は、一切の生命より優れているのです。長老なのです。すべての生命に尊敬を受ける資格を得ているのです。ですから、長老というために、まずこころで「真理」を理解しなくてはいけないのです。世間の知識をいっぱいためて、知識人になっても、世間の知識は一時的なのです。死後、役に立たないのです。また、世間の知識によって、こころは欲、怒り、高慢、自我、などの煩悩に汚れるのです。だからなかなか長老になれません。ブッダの説かれた真理を理解すると、こころが清らかになるのです。こころは成長しているのです。長老になる道を歩んでいるのです。仏道を実践して、真理を自分で発見して、煩悩を絶って、解脱に達したならば、本物の長老なのです。長老のこころは、生命に対する慈しみで溢れているのです。こころは平安なのです。煩悩を滅尽しているから、堕落することはありえないのです。

 我々も、俗世間的の宝ではなく、こころの宝を獲得する努力をしなくてはいけないのです。俗世間的な宝というのは、結局は、この地球の土なのです。金がある、豪邸がある、ヨットを持っている、プライベートジェット機を持っている、などなどは自慢の種ですが、実はたくさんの土を自分のものだと勘違いして、虚ろな自慢をしているだけです。ジェット機を何機も持っている人よりは、ウソをつかない、という一つの道徳でも守り抜く人の方が優れているのです。年長者なのです。世間の知識をすべて頭に叩き込んでいる人よりは、一切の物事は無常である、と知っている人、たとえ俗世間の学識は何も無くとも、智慧のある人です。人の価値は、見た目ではありません。人の価値は、こころにある徳によって定めるものです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XIX DHAMMATTHA VAGGA 第19章  法(ダンマ)に依って立つ章

Na tena thero so hoti,
Yenassa palitam siro;
Paripakko vayo tassa,
Moghajinnoti vuccati.
(Dhammapada 260) 

Yamhi saccañca dhammo ca,
Ahimsâ samyamo damo;
Sa ve vantamalo dhîro,
Thero iti pavuccatî.
(Dhammapada 261)

 たとえその髪白くとも
 何によりての長老ぞ
 齢(よわい)むなしく闌(た)けぬれば
 人呼びて言う「ただの老いぼれ」
       (ダンマパダ260)

 真実・真理・不殺生
 自制 調御の彼まさに
 けがれをすべて吐き捨てし
 賢(けん)長老と世には云わるる
       (ダンマパダ261)   (訳・江原通子)
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