パティパダー巻頭法話
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No.153 (2007年11月)
「人の価値を決めるリトマス試験紙」

 〜売り込み能力に惑わされないように〜
 How do we appreciate human life?
A・スマナサーラ長老

 あなたのとりえは何ですか? あなたのチャームポイントは何ですか? 何もないと返事せざるを得ないならば、とても寂しいものですね。本当に何のとりえもないと思っているならば、社会の立場から見ると問題です。社会の役に立たない人間になります。社会の役に立たない人には、自分の生計を立てることが厳しくなります。大人になっているのに、独立することも、仕事にも就くこともできず、親のすねをかじっている「ひきこもり」のような人々もいるのです。何のとりえもない人は、誰かに寄生して生活する。しかし、たとえ親であっても、子供が寄生するのは好まないのです。みな独立して、自分の力で生きられることは健全な状態です。

 「とりえ」と言っても本当の意味は、われわれは社会に貢献できる何かの能力を持たなくてはいけない、ということです。社会に貢献すると、社会がその人を支えてくれるのです。われわれが仕事と言っているのは、このことです。誰の役にもたたない行為は、仕事と言えないのです。仕事らしきものでも、自分の楽しみのためにする場合、それは趣味です。趣味のために自分がお金を払わなくてはいけない。プロの写真家は、好き放題写真を撮って、高収入を得ている。プロほどの腕前があっても、趣味の写真家は撮影のためにたくさんお金を費やしてしまいます。社会に役にたつ場合、それは自分の収入になるのです。収入にならなくても、社会の役に立つ行為をたくさんおこなう人もいるのです。その人々の行為は「福祉活動しているのだ」「ボランティアしているのだ」と賞賛されるのです。仏教の立場から見ると、善行為をしているのです。善行為をおこなう人が幸福になることは、決まっている法則です。

 人は誰でも社会の役に立ちますか? 社会の役に立たない人もいるのでしょうか? この問いにはYES、NOでは答えられません。人間の社会に生れたからには、その社会に貢献できる何かの能力を生れつき持っている、ということは業の法則です。業の法則はお釈迦さまの語られた真理なので、間違いはありません。ですから答えは、「人間であるならば人間の社会に貢献できる能力はみな持っている」ということになります。しかし事実はそうではありません。社会の役に立たない人々は、多すぎです。社会に支えられないほどです。この問題は、これだけに留まりません。役に立たない性格をさらに完成させて、社会の迷惑になる生き方をする人々も多すぎなのです。ただでさえ苦労している人間の社会が、迷惑種族のせいで壊れかけているのです。人類の将来は、明るくなるとは言いがたいのです。将来のことはおいておきましょう。いま現在も、世界はたくさんの解決できない問題、民族紛争、宗教戦争、宗派間抗争、資源争奪戦、国境紛争、環境汚染、などなどによって打ちひしがれているのです。

 社会の役に立たない人々は、身を引いて、ひきこもりでいるから、あまり存在感さえもないのです。その状態を突破して社会に迷惑をかける種族は、社会に出て派手に暴れるのです。政権を取ったり、テロ集団を結成したり、犯罪組織をつくったりするのです。導師になったりして、みなをマインドコントロールするのです。地球環境汚染を防ぎましょう、平和を築きましょう、と活動する人々に対して、激しく異論を立てて反対運動をするのです。たとえ国連の総意が示されても、拒否権を行使するのです。独裁政権を築いて、人々の人権どころか生きる権利さえも奪って、全世界が国連で自制を求めても、断固として無視するのです。核兵器をつくるなよと言っても、国家主権を盾に要求を拒絶するのです。隣国を危険にさらす国家主権があるかどうかは、常識的に考えればわかるはずです。社会に迷惑をかける種族が、社会の役に立たない種族をはるかにこえていることは、簡単に理解できると思います。それなら、人類には明るい現在はないことは確かですが、明るい将来を夢見ることもできないようになるのです。

 業の法則からみると、人間ならだれでも社会の役にたつ、価値のある存在になるのです。たとえば身体に障碍を持って生れた人であっても、感動するほど社会に貢献する人々もいるのです。脳の機能障害を持っている人々を観察してみると、受ける強烈なインパクトは「とてもかわいい」ということです。われわれに「かわいい」というインパクトを与えてくれると、わたしたちは安らぎを感じるのです。ストレスが飛んでいくのです。それなら、その人々は、一般の人々に負けないくらい、社会に貢献しているのです。金では評価できない宝物を与えているのです。

 ややこしいのは、社会に役に立たない種族と、社会に迷惑をかける種族なのです。地球の多数派なのです。この二大種族は、ブッダが説かれた真理である業の法則にも、異議を申し立てているようです。迷惑種族にとっては、「仏教が嫌い」ということは明らかなのです。しかし彼らに、真理にたいして異論を立てることはできません。幸福になる能力・社会に貢献できる能力を持って生れているのです。生れるときは誰でも、能力を発揮しているわけではありません。生れるのは自分ひとりで何ひとつもできない赤ちゃんなのです。しかし、能力という種火があるのです。それはていねいに燃料を加えて、大きな火にしなくてはいけないのです。教育を受けたり、技術を身につけたり、道徳を学んだりして、大人にならなくてはいけないのです。様々な障害を乗り越える、忍耐力も身につけなくてはならないのです。この二大種族は、この課程で失敗しているのです。実の詰まった種だからといって、必ず大木になるという保証はありません。たどらなくてはいけないプロセスがあるのです。その過程で失敗すると、大木にならないのです。

 業は因果法則の中で機能するものです。この世のすべての現象は、因縁によってあらわれるものです。条件が少々でも変われば、結果も変わるのです。生れた赤ちゃんをうらなう占い師が、「この子は人類を救うほどの大人物になる」と予言しても、成長する過程で失敗したならば、大破壊者で終わる可能性もおおいにあるのです。「うちの子はよい人間になるに決まっている」などの「〜に決まっている」という考えがあります。仏教から見れば、邪見です。「〜に決まっている」は成り立たないのです。現象は無常なのです。無常は因縁によって起こるものです。ですから人間は、成長する過程で「〜に決まっている」という考えを捨てて、つねに気をつけて生活しなくてはいけないのです。

 社会の役に立たない種族と、迷惑をかける種族は、なぜ現れるのでしょうか? 成長の過程で、この人々のこころは汚れてしまうのです。さまざまな汚れが起きて、こころが役にたてないようになるまで、汚染してしまうのです。たとえばまだ未熟なのに、自分のことを高く評価する。エゴが割り込む。しかし仲間がその人をからかったり、笑ったりする。何のこともないできごとです。しかし、自分の空虚なプライドが傷つく。社会に顔を出せなくなる。それで、ひきこもることになるのです。社会人になっても、突然、大金持ちになりたくなる。またはライバルに対して、強い怒りを感じるようになる。こころが汚染されるのです。それから社会に迷惑をかける種族の仲間になるのです。大事業を営んだりして、世界の億万長者のランキングに入っている人々もいる。そのなかで、自分の産業事業で環境が汚染されるのか、気にもしない。労働条件はどうなっているのか、気にもしない。気にするのは、ただどれぐらい儲かるのか、自分が作る商品で世界制覇できるのか、ということです。彼らは迷惑種族の一員です。俗世間は、成功しているのだと、うらやましい気分になるでしょう。たしかに成功しているのです。しかし、それは社会に迷惑をかける行為においてです。

 高いレベルの教育を受けたり、科学者になったり、技術士になったり、大実業家になったり、政権を取ったりしても、「成功者だ」「モデルになる人だ」と結論するのは早いのです。何があってもこころが汚れたらおしまいです。その人々の能力が人類の不幸のためにはたらきだすのです。アルカイダのようなテロ組織に、科学者やエンジニア、実業家も参加しているのです。彼らは貧乏だから、失敗しているから、社会に対して恨みを持っているわけではないのです。金も名誉も贅沢も期待しないのです。ただ破壊してやりたい、という病気で病んでいるのです。こころは汚染されているのです。時々、みなに信頼されている、マスコミに携わっている人々も、痴漢や暴行などの罪で逮捕される場合があります。立派な人であっても、こころが汚染されたらおしまいです。

 生きている上では、さまざまなものに出会う。明日どんなことになるのか、ということは、推測できません。さまざまな出来事に遭遇するたびに、われわれのこころは、かならず反応する。こころが汚れるのは、その反応するときです。とつぜん貪欲に陥ったり、憤怒に駆られたり、無知になって途方にくれたりするのです。いままでおとなしく仕事もまじめで、遅刻することも休むことも一度もなく、家族を大事にしていた、また愛想もよい人であっても、とつぜん殺人を犯してしまうケースもないとはいえないのです。わたしたちは、死ぬ間際まで、こころが汚染されないよう、気をゆるめずに生きなければならないのです。「わたしは安全だ」と実際に言えるのは、悟りに達した人のみです。

 ふつうの人々は、自分を売り込む、ということをやっているのです。それは悪いことではありません。自分を売り込まなければ、どのような能力を持っている人かと社会がわからないのです。自分を売り込むことに、アピールすることに達者な人の狙いは的中します。能力があっても、売り込みが下手なら認められないことも現実です。社会人として人を評価するときは、ほとんどの人々は相手の売り込み能力にまるめこまれるのです。入社面接の場合も、服装が決まっていて、歩く座るなどのしぐさが端整で、そのうえ言葉の使い方もたくみなら、合格するのは目に見えているのです。

 売り込み能力だけで人を評価できるのでしょうか? お釈迦さまは、たとえ学識があっても、言葉たくみであっても、整った美しい体格であっても、その人のこころのなかに嫉妬、エゴイズム、狡猾さがあるならば、善い人間とはいえないのだ、と説かれるのです。要するにこころが汚れたならば、確実に「何のとりえもない人間」になってしまうのです。罪を犯す人は、その人に学識、能力、権力などがあっても、社会の制裁からは逃れられません。たとえ逃れたとしても、業からは逃れられないのです。人の価値は、その人の「とりえ」で評価できません。知識人であっても、大富豪家であっても、権力者であっても、絶世の美男美女であっても、こころが汚れているならば、信頼できる善い人にならないのです。何のとりえもないと言っても、こころが汚れていない人は、善い人なのです。それこそ、その人の「とりえ」なのです。

 もし人が智慧でもって、嫉妬、物惜しみ、怒りなどの汚れを根こそぎに取り除いているならば、こころを決して汚れない状態に育てているならば、その人は正真正銘の善人です。悟りに達した人こそ、最高の善人です。こころに汚れがあるかないかは、その人の価値を決めるリトマス試験紙なのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XIX DHAMMATTHA VAGGA 第19章  法(ダンマ)に依って立つ章

Na vâkkraza mattena,
Vazza pokkharatâya vâ;
Sâdhurûpo naro hoti,
Issukî maccharî sawho.
(Dhammapada 262) 

Yassa c'etam samucchinnam,
Mûla ghaccam samûhatam;
Sa vantadoso medhâvi,
Sâdhurûpo' ti vuccati.
(Dhammapada 263)

  嫉妬・吝嗇(りんしょく)・狡猾(こうかつ)を
 口のきき方一つにて
 蓮の顔(かんばせ)持てばとて
 「端嚴(たんごん)の人」とよも言わじ
       (ダンマパダ262)

 そを根絶し瞋(ドーサ)をば
 腹の底から吐き出して
 思慮深き時はじめてに
 人呼びて言う「端嚴(たんごん)の人」
       (ダンマパダ263)   (訳・江原通子)
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