パティパダー巻頭法話
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No.155 (2008年1月)
「托鉢は乞食行ではありません」

 〜真理に達することで比丘になる〜
 Liberate your mind to become a genuine monk
A・スマナサーラ長老

 出家した仏弟子たちのことは比丘と言います。それはパーリ語でbhikkhuです。サンスクリット語では、bhik2uです。サンスクリット語のbhikSuという語根の意味は、施しを求める、困窮する、です。パーリ語のbhikkhati、サンスクリット語の bhikSati は、施しを求める、という動詞になるのです。Bhikkhu(パ)bhikSu(サ)は、施しを求める人、という意味です。簡単に言えば、乞食です。論理的には、自分では収入を得る能力がなく、他人の恵みで生計を立てている人はみな、Bhikkhu(パ)bhik2u(サ)になるのです。しかし、サンスクリット語でもパーリ語でも、乞食のことを比丘と言わないのです。乞食に対して yâcaka などの別な単語があるのです。では、比丘と呼ばれる乞食は誰でしょうか? 

 バラモン教のバラモンたちは、派手で贅沢な生活をしていました。しかし豊かでないと贅沢はできません。バラモン人みなが豊かというわけではなかったのです。生活に苦労した人々のほうが多かったのです。豊かなバラモンたちは時折期間を決めて、貧しいバラモンたちはしょっちゅう、清貧行を実践していました。清貧行を実践するときは、施しを乞うのです。その場合は、カースト差別も気にしないで、どなたからでも施しをいただくのは基本でしたが、バラモンたちは経済的余裕のある上位カーストの家から施しをもらったでしょうと思います。ですから、乞食は貧困に陥った人々の生活手段に限ったものではなく、宗教の世界における修行の一環でもあったのです。

 バラモン教だけが宗教ではありません。バラモン人の伝統に対立して、別な方法で修行する人々もたくさんいたのです。その中で現在まで生き残っている宗教が二つあります。仏教とジャイナ教です。精神世界に興味のある人々は、だいたいバラモン伝統に好意的ではなかったのです。バラモン教では、聖職者はバラモンの家で生まれたバラモン・カーストの人だけに限られているのです。宗教は万人に開放していなかったのです。人は誰でも死後のことを考えて修行するべきだと思う人々は、必然的にバラモン伝統と違った道を歩むのです。バラモン伝統の修行者たちも、非バラモン伝統の修行者たちも共に、修行に入ると、日常生活は一般人の施しによってまかなったのです。托鉢するだけでも修行だと、思われるようになっていたのです。自分のわがままや好き嫌いの感情を通すことは、托鉢行をする人には不可能です。ですから托鉢だけでも修行になると思われても、それは無理のない考えです。というわけで、比丘というのは、修行の一環として乞食で生活している人、という意味になるのです。他の宗教の人々は、生涯、托鉢していたわけではありません。仏弟子たちは、生涯、出家として生活していたのです。悟りに達した人々がいる宗教として、人間の悩み苦しみに具体的に対応してくれる宗教として、万人に解放され差別に断言的に逆らった宗教として、仏教はインドで広く認められたのです。在家信者として国王たちや大富豪たち、商人たちがたくさんいたが、仏弟子たちは托鉢で生活していたのです。ですから、仏弟子たちといえば托鉢行者たちなのです。それでブッダの現れた時代から現在まで、比丘と言えば仏教の出家を意味するようになっているのです。

 お釈迦さまの時代で、あるバラモン人がいました。その人は贅沢することをやめて、清貧行を営んでいたのです。人生の長い間、彼は托鉢で生きてきたのです。当然、論理的に考えても、言語上で見ても、bhikkhuなのです。しかし、bhikkhuという語は共通語ではなく、もっぱら仏教が使う専用語になっていたのです。そのうえ、出家仏弟子たち(比丘)は、社会から高い尊敬を受けていたのです。このバラモン人はおそらく、bhikkhuという語を仏教が独り占めにしていることに少々違和感を覚えていたでしょう。彼がお釈迦さまに会って、このように話しました。「托鉢で生計を立てている人は、比丘なのです。私も托鉢で生計を立てています。ですから、あなた方比丘と同等に尊敬を受けるべきではないのですか?」

 お釈迦さまがこのバラモン人に答えられました。答えの中に、なぜ比丘という語が仏教特有の専門用語になったのかと、明確に語られています。人の家に乞食に行っただけで比丘にはならない。乞食は生活手段に過ぎないのです。身体に障害があって仕事をできなくても何とかして生きていきたいと思われる人々も、怠けで仕事の苦労をしたくないと思われる人々も、他人の施しで生活するのです。仏弟子たちは、何としてでも生きていきたいという気持ちは毛頭ないのです。何としてでも死ぬ前に一切の煩悩をなくし、完全たる解脱に達するのだと、覚悟を決めているのです。生活の心配は二の次なのです。

 修行の一環として乞食行する人は、それに加えて様々な習慣も実践するのです。一般人とまったくも変わらない服装で、髪の毛を整えて人の家を訪ねても、托鉢に来たとは誰もわからないのです。托鉢を要求しても、断られたり追い出されたりする可能性もあるのです。現代的にイメージしてみましょう。皆様の家に、サラリーマン風の背広を身にまとい、ブランドのネクタイを着けてビジネス鞄を持った人が来て、玄関の呼び鈴を鳴らす。ドアを開けてみたら何か大事な用事があって来たと思うでしょう。それでその人から、「弁当を買うために、私に1000円ください」と言われたら、びっくりするでしょう。頭がおかしい変な人だと思って、怖くもなるでしょう。もしかすると、110番を回すでしょう。しかし、髭がボウボウ生えて、お風呂に入った形跡もない、明らかにホームレスであるとわかる人が「ご飯を食べてない」と言ったら、何の躊躇もなく、家にあるご飯をあげるでしょう。あるいは、コンビニで買ってくださいと500円くらいでもあげるでしょう。ということは、乞食行にもそれなりの制服姿がある、ということです。

 当時のインドで乞食行を行った人々は、施しをもらうために様々な工夫をしたのです。人を褒め称える歌を作って、家の前で歌う。家族で乞食をするならば、子供を歌にあわせて踊らせる。言語能力ある人々は、その場で相手の名前を聞いて、その名前を入れて即興で歌をつくって歌うのです。また、さまざまな祝福の呪文や祈祷の言葉を覚えて、人の前で祝福の呪文を唱える(呪文を唱える場合は、必ず布施をするのです。なぜならば、布施をしなかったら、呪詛で家族を不幸に陥れるとみな信じていたからです)。

 そのほかの方法もあるのです。裸で乞食をすること、鹿の皮・木の皮などを身にまとうこと、ハンカチくらいの布きれで身体の前だけ隠しておくこと、髪の毛を伸ばすか剃ること、裸体に灰を油で練ったものを塗りつけること、杖・水がめ・三叉の槍などを法具として持つこと、完全沈黙を守るか猿の声のように一つの声しか挨拶代わりに出さないかすること、なども、托鉢行者たちが行うのです。お釈迦さまは、こういった托鉢行者たちの品のない生き方を嫌になるほど見ていたのです。表面的な行だけで中身は何もない。修行者だ、苦行しているのだ、と他人にアピールする目的で、表面的なパフォーマンスをやっていたのです。本人たちは正直に宗教心を持っているのか、あるいはただの詐欺師かと、区別がつかないのです。はっきり言うと、何としてでも他人に施してもらえるように工夫しているだけです。お腹を満たすためなら、どんなみじめなことでもやる、という気持ちでしょう。

 求道者ならぬ求食道者なのです。ですからお釈迦さまが、「品のない汚れた生き方をして、他人の家で食を求めるだけでは、決して比丘にはならない」と乞食行を行うバラモン人に答えたのです。同格と認めるどころか、相手にもしなかったのです。

 人を批判しただけでは、その人のためになりません。生命に対する限りのない憐れみを持っているお釈迦さまが人を批判したならば、次にその人に正しい道を案内してあげることになるのです。ではお釈迦さまの智慧から見られる比丘とは誰のことでしょうかと、考えてみましょう。前に比丘は共通語ではなく、仏教特有の専門用語だと書きました。しかしお釈迦さまが「比丘とは私の弟子たちの一般名詞だ」と返事しないのは当然です。まず説かれたのは、善と悪を乗り越えていること。普通の宗教では、悪を止めて善を行うために努力する。それに対して仏教は、善も悪も乗り越えることを説く。悪を戒める人は、悪行為の結果である苦を嫌がるのです。善を行う場合は、その結果として幸福を期待するのです。この世で幸福、あの世で幸福、死後永遠に幸福で生きること、などを期待する。何も結果がないと言うならば、苦労して善行為を行っても面白くないでしょう。しかしお釈迦さまから見れば、善のみを行うために必死な人は、生きることに執着しているのです。束縛があるのです。お釈迦さまが発見した真理によると、「存在」というものは無常だからこそ成り立つのです。すべては因縁によって成り立つものです。因縁によって成り立ったものは、その原因の力が尽きたところで、壊れてしまうのです。幸福で永遠に生きると期待して、それなりの何処かに生まれ変わっても、その善行為の力が尽きたところでその存在は壊れてしまうのです。乞食行者は俗世間の財産を持たない。その執着をあきらめている。もしかすると、家族も持っていない。その執着もあきらめている。在家のように楽な生活はしない。その執着もあきらめている。そこから考えると、何かに執着すること、何かに依存することをあきらめるから、乞食行者になるのです。しかし、実際に乞食行をやっている人々は、生きることに執着している。生計を立てる目的ではなく、真剣にこころ清らかにする目的で乞食行者になる人も、永遠な命に執着している。お釈迦さまは、無執着のこころと乞食行を不可分のものとして見るのです。それなら、悪にも執着しない、善にも執着しない人が、命にさえも執着しないので、本物の乞食行者なのです。本物の比丘なのです。同格に認めてほしければ、そのバラモンさんも、表面的な形にとらわれることなく、善悪からこころを解放することに精進しなくてはならないのです。

 本物の比丘も、托鉢で人から施されたご飯で命をつないでいるのです。しかし、それは生きていなくてはならないから食事をとっているわけではないのです。まだ肉体が壊れて死んでいないから、食事を摂っているのです。では断食すればいいのではないかと、異論が思い浮かぶでしょう。断食して死にたくなるほど何か嫌なことでもあるならば、激しい絶望感に襲われたならば、そうするでしょうと思います。執着を捨てた人には、何に対してもいやな気持は生まれません。希望はないから、絶望感に襲われることもありません。ですから、悟りに達した人は、死ぬまで待つのです。真理を発見した人は、一日でも生きていると、たくさんの人々に安らぎへの道を教えられるので、人々は助かるのです。生きることで自分に得はないが、周りに多大な得があるのです。だから、聖者は托鉢をする。しかしこの世に対して、悟りの智慧でもって、すべては無常であること、執着に値しないことを明確に知っているのです。仏弟子たちは、托鉢に出ても、施しを促す行為を何一つもしないのです。相手に自分が托鉢に来たことを知らせるために、咳払いをすることさえもしないのです。「智慧を開発して、完全たる無執着のこころで生活する人こそが文字通りの比丘である」と、お釈迦さまは乞食行を行っていたバラモンに教えてあげたのです。悟りに達した人は、托鉢をしてもしなくても、本物の比丘なのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XIX DHAMMATTHA VAGGA 第19章  法(ダンマ)に依って立つ章

Na tena bhikkhu so hoti,
Yâvatâ bhikkhate pare;
Vissam dhammam samâdâya,
Bhikkhu hoti na tâvatâ.
     (Dhammapada 266) 

Yodha puññañca pâpañca,
Bâhetvâ brahmacariyavâ;
Saxkhâya loke carati,
Sa ve ‘‘bhikkhû’’ti vuccati.
     (Dhammapada 267) 

食(じき)をば他人(ひと)に乞えばとて
それのみにては比丘ならず
あやまちの法受持すれば
それにて彼は比丘ならず
     (ダンマパダ266)

この現世(うつしよ)の善悪を
超え 清浄の行(ぎょう)に生き
思慮深く世を歩む人
彼こそ比丘と呼ぶに相応(ふさわ)し
     (ダンマパダ267)    (訳・江原通子)
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