パティパダー巻頭法話

No.156(2008年2月)

沈黙行とは黙ることではない

仏道とは聖なる沈黙行なのです Noble silence

アルボムッレ・スマナサーラ長老

お釈迦様のことは釈迦牟尼仏陀と言います。今月は、この「牟尼」という言葉について話してみます。Muni とは、仙人、聖者という意味です。仏教はこの単語をこの意味で、解脱に達した聖者に対して使っています。しかしインドでは、muniの使い方はそれほど厳密ではなかったのです。聖者に対しても、修行者に対しても、同じようにmuniと呼んだのです。時々、有名な宗教家をmuniというあだ名で呼ぶ場合もあったのです。さらに生まれてきた子供に名付ける場合、名前の接頭語か接尾語としてmuniを使用することもある。これらの習慣は現代インドにまで引き継がれています。Muniという語があまりにも一般的に使われるので、仏教徒は困ったのです。仏教から見れば、これは聖者を意味する言葉です。Muniと言えば、お釈迦様なのです。それで解決方法として、お釈迦様をmuniではなく、muninda, munīndra と呼ぶようにしました。Muniは聖者で、inda, indra は神々の王です。人間の王にもinda, indraと使います。仏教ではお釈迦様をmuniたちの王として尊敬するようにしたのです。さらに munirāja 牟尼王、mahāmuni 大牟尼などの言葉も使っているのです。

なぜそれほど、muniという言葉にこだわるのでしょうか。はじめからこの言葉は、在家生活を離れて山に隠れて修行する人々に使う単語だったのです。子供に名前としてつける場合は、聖者を侮辱するつもりではなく、子供に祝福する気持ちで使うだけです。しかし、宗教家に対して使う場合は、どのような修行をする人、どのような精神状態に達した人に向かってこの言葉を使うべきなのか、という意味の定義が必要になるのです。

言葉の語源にさかのぼってみましょう。インドにはたくさんの宗教がありました。みなそれぞれ自由に聖なる道を探していたので、互い違いの宗教がたくさん現れるのは、当然のことでした。しかし相手の宗教に対立して、反抗して、新しい宗教を作ろうという目論見はなかったのです。宗教同士の関係は、穏やかで友好的でした。宗教家の中で、修行として「沈黙を守る」という行がありました。厳密に沈黙を守る行者たちは、誰とも言葉を交わさないのです。これはけっこう厳しい修行です。一日二日くらい黙っている程度のことではないのです。修行だから一生、行うのです。それから、「フーン、ウーム、ヘー、アッ、オッ」などの何の意味ももたないとっさに出る音さえも、止めるべきなのです。それだけでも厳しいですが、食事をいただくために托鉢に出なくてはいけない。その時は、人々からあいさつされたり、話しかけられたりするのです。その時も、沈黙を守らなくてはならないのです。

こういうケースを考えましょう。修行者の前に人がしゃがんで礼をしたりする。後ろから毒蛇が這ってくるのが修行者に見える。この人が不注意に立つと、蛇にかまれる危険性がある。修行者が戒を守るべきか、戒を破って人に注意するべきか、大きな問題です。手足を使って身振り手振りで伝えることも、厳密に言えば、他人としゃべることですから。このように厳密に戒を守ろうと思うならば、人間との関わりはほぼ不可能になります。厳密主義者たちは、人里から離れて生活するのです。人々もその人のことを行者として知っているが、何のコミュニケーションもないので、何者かとさっぱり解らないのです。しかしインド人は、修行者をみな区別なく尊敬するのです。このようにまったく読み取れない行者たちがその修行を一生続けることになると、一般社会はその行者たちのことを仙人として、一聖者として尊敬するのです。というわけで、沈黙行を守る人が自然と聖者として尊敬されるような風潮が現れたのです。Muniというのは、moneyya(沈黙行)を守る人のことです。言葉としては、muniとは「沈黙行者」ということなのです。

厳密に沈黙行を守ることは、とても厳しい苦行になることであると、理解できると思います。宗教家たちにとっても、これはかなり不便なので、いくらかの条件をつけて修行を緩やかにしています。たとえば、音を使わず手で指し示すことぐらいはする。または、いくつかの決まり文句だけ言う。その場合は、自分が頭の中で呪文や聖典文句などを唱えているならば、それだけ人々にあいさつの代わりに言う。これは日本の習慣から考えると解りやすいでしょう。日本で托鉢する僧侶たちは、お布施を入れても「ありがとう」とは言わないのです。代わりにずうっと真言かお経文句を唱えるのです。熱心に法華経を信じる方々の中には、人に会う時も別れる時も、披露宴のあいさつの時も、葬式でお悔やみを言う時も、「南無妙法……」だけ唱える人もいる。お経文句の代わりに、沈黙行者たちが自分で選んだ祝福の決まり文句を言う場合もあります。沈黙行者たちも、他の長老格の修行者たちから学ぶ時は、その師匠と言葉を交わすのです。その場合も日常のことではなく、教えの中身の話に限ります。

お釈迦様の弟子たちの中でも、たった一人、沈黙行者がいたのです。お釈迦様がお生まれになってから間もなく、スッドーダナ王の元師匠であったアシタ仙人が訪ねてきました。修行して禅定に達していたこの仙人は、王子の将来を観たところで、悟りに達して仏陀になることが解ったのですが、同時に自分の命がまもなく尽きるのだいうことも知っていたのです。ですから、王子を見てまず穏やかに微笑んで、それから自分が仏陀から教えを仰ぐことができないことに、涙をこぼしたのです。この仙人はその日、自分の甥っ子(ナーラカ)にこの旨を伝えて、仏陀の弟子になりなさいと言ったのです。ナーラカはその日に、将来の仏陀を師匠として出家しました。それから三十五年以上、彼は誰とも話すことなく、一人で生活したのです。また一箇所に一晩しか泊らないということにしていたのです。その方が、執着なく、人と関わりもなく、いられるからです。三十五年が過ぎて、仏陀が説法しているという話が耳に入ってから、ナーラカはお釈迦様に会ったのです。会って、話したのです。決して自分が、お釈迦様が生まれて一週間も経たないうちに、仏陀のために出家して修行してきた者であるなどと、自己紹介することは一切なし。訊いたのは、「正しい沈黙行とは何か」だけです。それに対する仏陀の説法を聴いて悟りに達したナーラカ聖者は、それっきりお釈迦様にさえも会わなかったのです。

本格的な沈黙行を実践したのは、仏弟子たちの中でたった一人でしたが、仏陀は一貫して、沈黙を守ることは尊い生き方であると説かれたのです。きりがなくしゃべること、場を盛り上げるためにしゃべること、話術を広めるためにしゃべることなど品格に欠けている生き方であるので、仏弟子たちは言葉で伝えなくてはならない用がない限り、聖なる沈黙を守るべき(ariyo tunh bhāvo)と戒めたのです。在家仏弟子たちにも、嘘と粗悪語、無駄話と両舌を禁止しているのです。一般的に言えば、仏教では言葉の数が少ない方が、また言っている言葉が意味に富んでいる方が、品格があるということになるのです。

お釈迦様は中正の立場で、muniという語を理解して解説していたのです。Muniとは聖者のことです。Moneyya は聖者に達する修行方法です。しかし何もしゃべらず黙っているだけで、聖者になれるはずもないのです。なぜ我々は話したくなるのか、ということを発見して、話したくなる原因をこころの中から取り除くことが、本格的なmoneyyaという修行なのです。それで、言葉とは何か、と知る必要が生じる。まず人間のあいだで、日常生活の上で互いに伝えなくてはいけない言葉がある。それから、経験豊かな先輩たちが、後輩たちにその経験を教えてあげなくてはいけないので、言葉を使うことになる。この二つのはたらきは、人間にとって欠かせないものなので、言葉を使って話さなければいけなくなるのです。この程度の言葉を禁止することは不可能です。それから人々は、情報交換のために話すのです。対話を行ったり、哲学者や宗教家のあいだで互いの意見に対して論争したり、話し合ったりすることも、情報交換なのです。この場合は、何をしゃべってもいい、ということにはならないのです。相手の役に立つ、悪行為をなくす、善行為を行うための励みになる言葉でないと、修行の世界の人にはふさわしくないのです。要するに、情報交換の目的で話す場合は、慈しみによる言論統制を敷かなければならないのです。また人は、楽しむ目的で話す。感情を引き起こす目的で話す(歌、文学など)。俗世間では、余った時間をこのような言葉を話すのに費やすことは避けられないが、修行としては、こころが汚れるので、成り立たないのです。ですから、修行する人にとっては、禁止なのです。また人は、相手を騙して利益を得るために、気に入らない人々を攻撃する手段として、自分のエゴを強調するためにしゃべる。物事をよく理解できない無知な人々も、言葉の意味に対して何の躊躇もなくしゃべりまくる。これらの言葉は、たとえ修行しない在家生活する人々に対しても、たいへんな迷惑が掛かります。不幸をもたらします。したがって、悪業なのです。修行者だけではなく、在家の人々も止めるべき言葉です。

このように、お釈迦様の教えをまとめてみると、言葉は三種類になります。第一は、生活の上で話す必要がある言葉。第二は、慈しみによる統制された情報交換のための言葉。第三は、話してはいけない禁止すべき言葉。中部経典の五十八、abhayarājakumāra-sutta 無畏王子経で、お釈迦様がご自分の言葉の管理について、語られています。経典の中身を一行にまとめると、「聞く相手に好まれるか否かに関わらず、相手の役に立つ事で、また真実のみであるならば、時と場を考慮して話す」ということです。

仏教はmoneyyaは聖者に達する道であるとしつつ、「ただ形だけの沈黙行ではない」とするのです。お釈迦様も、出家仏弟子たちも、よく人に説法をなさったものです。しかし、自分たちがmoneyyaの人々であると公言するのです。当然、moneyyaを修行する他宗教の方々から、「よくしゃべっているくせに何が沈黙行だ」と批判されることになる。ですから、仏教の沈黙行にariya聖なる、という形容詞を付けておいたのです。形だけの沈黙ではなく、理性に基づいた分析の上で成り立った、無駄話を完全に止める行為、という意味で「聖なる沈黙行」です。仏教の沈黙行を実践すると、必ず智慧が開発されるのです。ただ黙っているだけでは、何も得られません。

Moneyya沈黙行を完成して聖者(muni)になるとは、どういうことでしょうか。眼耳鼻舌身意で色声香味触法という情報を取り入れる人間は、そのままそれを認識しないで、データを捏造して認識する。実在しないものが実在するような錯覚が起る。起こる順番で言えば、データが触れて感じる → 感じたデータをまとめて捏造して知る → 知ったものが概念になる → 概念に言葉というラベルを張っておく、です。話すとは、言葉というラベルを音にして外へ出すことですが、頭の中ででも外に音を出さず自分一人でしゃべることもできます。データを捏造するために、いままであった好き嫌いなどの感情を使用するし、「きれいな花だ」など捏造した概念を作った時点で、新たに感情が生まれてこころが汚れるのです。仏弟子たちは、ありのままに観察するという修行をして、色声香味触法のデータが捏造に変わってしまうプロセスを発見して、それからありのままの事実は何なのかと知るのです。貪瞋痴などの煩悩が、捏造が作り出した幻覚の結果であると発見すると同時に、修行者に幻覚が消えるので、煩悩も二度と生まれないように消えてしまうのです。それが悟りです。悟りに達した聖者の頭の中で、概念の竜巻も荒波もないのです。必要性が生じない限り、こころの中に言葉は現れないのです。強いて言えば、こころが沈黙、という状態に達するのです。それでmuniなのです。

無知な人にさえ簡単にできる、黙っていることだけでは、muniになりません。天秤を持って精密に計るように悪を捨てて、善を取る。智慧のある人こそがmuniなのです。存在を知りつくした人がmuniであると、仏陀が説かれたのです。

今回のポイント

  • 形の沈黙行は苦行になる
  • 沈黙だけでは何も得られない
  • 人には話すべき時も黙るべき時もある
  • 言葉は慈しみにより統制するべきである
  • こころの中の感情が滅することが沈黙行の完成である

経典の言葉

Dhammapada Chapter XIX DHAMMATTHA VAGGA
第19章  法に依って立つ章

  • Na monena munī hoti, Mūlha rūpo aviddasu;
    Yo ca tulam’va paggayha, Varaṃ ādāya pandito. (Dh.268)

    Pāpāni parivajjeti, Sa munī tena so muni;
    Yo munāti ubho loke, “Muni” tena pavuccati.(Dh.269)

  • ただ沈黙をするだけで 愚かに迷い無智なれば
    沈黙聖者牟尼ムニならず
    手にはかりをば持つ如く 悪をば捨てて善をとり
    この世あの世を知り尽くす 賢こき人ぞ聖者ムニと言わるる
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 268,269)