パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.157 (2008年3月)
人は名前に勝るべき

 〜仏道は品格にすぐれた生き方〜
 Noble Life
A・スマナサーラ長老

 ある日、お釈迦様が舎衛城の北の門から托鉢にでかけました。北の方の川には、魚を捕って生活している漁師がいました。この人に悟りに達する能力があることを察知なさったお釈迦さまは、「ではこのまま、この漁師のところに行こう」と、比丘たちと一緒に、川の方へ進みました。

 悟りを開く能力のある人々を察知して、そちらまで御足を運んで人々を悟りへ導くエピソードはたくさんあります。悪く言えば、能率が一番高い方法だとも言えます。悟る能力がない人には、無量の慈悲に満ちた釈尊も説法しないのでしょうか? そうではありません。あらゆる悩み苦しみに滅多打ちにされた方々が、釈尊に出会い、自分の悩みを告げたならば、確実に、見事にその問題を解決してあげて、幸福になれる方法を教えるのです。しかし、何週間も何ヶ月間もかけて、自分の御足を伸ばして、ご自分の意志でお歩きになるのは、相手に悟りに達する能力がある時だけです。その時は、一人で行く場合もあるし、他の比丘たちを連れて行く場合もあるのです。

 基本的には、悟りに達する能力は誰にでもあると言えます。しかし、ほとんどの人々は、解脱の方向へ全然興味を持たない。五欲に溺れて生活することがすべてだと思っているのです。その上、さまざまな罪を犯して、自分のこころに分厚い蓋を被せてしまう。そのような人々は、悟るどころか仏教に興味を持つことさえもなく、人生を終えるのです。生れてくる人間が、悟りを開ける能力、という種を持っていると思いましょう。立派な種があったからと言って、それが勝手に実って大豊作をもたらす、ということはあり得ません。その種をふさわしい土地に植えて、肥料や水をあげたりして、面倒を見なくてはいけない。時によって、雑草を取ったり、枝を切ったりしなくてはいけない。そのように、手間をかけて大豊作を得られるのです。悟りの種を持って生まれる我々人間も、悟りを開いて究極の幸福に達したいと思うならば、それなりの手間をかけて「悟れる可能性」という種を育てなくてはならないのです。

 生命のこころというのは、不思議なものです。育てると言っても、簡単にいくものではありません。「勉強しなさい」と責めただけでは、子供は勉強しないのです。我々も、自分の意志で勉強しなくてはいけないと思って頑張っても、時々は早く軽々と理解する。時々、頑張ってはいるが中身は何がなんだかさっぱり解らなくなる。人のしつけやアドバイスを受ける時でも、時々、素直に聞く気持ちになる。時々、スムーズに人のアドバイスがこころに棲みついて一生忘れられないものにもなる。時々、腹が立って攻撃したくなる。その場合さえも、相手がこちらのことを心配して言っているのだと重々解っている。しかし、どうしようもないのです。こころが反発してしまうのです。こころはこのような、なかなか読み取れない行動をします。お釈迦さまは、真理が人のこころに簡単に素直に入る、その瞬間を見抜くのです。長い道のりを歩いて人を尋ねて行くのは、その人のこころが、真理に向かってこころの扉を開いている時なのです。説法を聞いただけで悟りに達する人もいるし、説法を聞いて仏道に入って修行してから悟りに達する人もいるのです。

 では、元のエピソードに戻りましょう。お釈迦さまが、漁師がいるところに行きました。漁師さんも漁具を片づけて、お釈迦さまに頭を下げたのです。その時、お釈迦さまは少々珍しいことをなさいました。自分を囲んでいた比丘たち一人ひとりに、名前を訊きました。君は何という名前ですか、と。漁師さんも、確実に自分の名前を訊かれる順番が来るのだと解って、こころの準備をしていたのです。それが、本人は気付いてないが、ブッダと対話するためにこころの扉を開けた瞬間なのです。残念ながらこのエピソードは、注釈書で極限のところまで省略されています。注釈書の編者は、それほど面白くないエピソードだと思ったのでしょう。省略された一ヶ所だけ、私にイメージできるように書いておきます。

「君の名前は何ですか?」「尊師、アーナンダと申します。」「アーナンダ、この名前は君にふさわしい。君はこころのなかに悩み苦しみなく、喜び(アーナンダ)を感じているからです。」

「では、君の名前は何ですか?」「尊師、私はプンナと申します。」「プンナ、君にその名前はふさわしい。君はこころの短所をすべて無くして、人格を完全(プンナ)にしているのです。」

「君は、何という名前ですか?」「尊師、私はバッディヤと申します。」「不善を無くして、善(バッダ)に達している者だから、君の名前もふさわしいのです。」

「君の名前は?」「尊師、私はマハーナーマと呼ばれる者です。」「大名という意味ですねぇ。やはり君は、悟りに達して輪廻を乗り越えて、解脱に達しているから、まさしく大名と言うべきです。ふさわしい名前です。」

 このような調子で、お釈迦さまは一人ひとりの比丘が自分にふさわしい名前で呼ばれていることを褒めていったのです。これは無理な話ではありません。インド文化では、人に何か幸福を呼び寄せるような意味の入った名前を付けるのです。日本の文化も似ていますね。橋本、木下、山岡などの何の意味もない苗字はあるが、それは誰にもどうすることもできません。しかし親は、善徳、秀世、智彦、優子、愛子などの意味のある名前を期待いっぱい膨らませて付けるのです。親の期待を裏切って名前負けしている人がほとんどですが、我々は名前に勝てるように、努力しなくてはならないのです。仏教の場合は、出家すると在家の名前を取り消して、戒名を与えます。戒名は本人に戒めを含んだ意味深い名前になるのです。

 ここで、名前で人の運命が左右されると仏教が認めているのではないかと、迷信に陥っては困ります。人に付ける名前に、何の意味もありません。それはただ、その人を呼ぶための音に過ぎない、と説かれているのです。しかし、名前に負けるなよ、と言うことは意味のある戒めの言葉です。お釈迦さまが一人ひとりの名前を訊いて、その意味にふさわしい生き方をしているのだと説明していったのです。この長い話を、あの漁師さんは真剣に聞いていました。自分の順番を待っていたのです。偉大なる釈迦牟尼ブッダが、自分をどのように褒めてくれるかと、こころは期待にあふれて、浮き浮きしていました。本人はいとも簡単にブッダの真理の話を聞く、こころの準備をばっちりしていたことに気付かなかったでしょう(ここまでのくだりは、私が注釈書の内容に付け加えたものです)。

 では、最後に本番です。釈尊は漁師の顔を見て、「君は何という名前で呼ばれているのか?」と訊いたのです。彼は恐縮しながら、「尊師、自分はアーリヤâriyaと呼ばれています」と返事しました。お釈迦さまは、当てが外れたような顔をなさっただろうと思います。「君の名前はねぇ、残念ながらふさわしくないのです。君の生き方と、君の名前は、正反対なのです」と、言葉を返したのです。漁師さんは、仏弟子たちと同じく、名前で褒められるような生き方をしたくなりました。その生き方について訊きたくなりました。そこで釈尊は、彼にやさしく教えてあげたのです。

 「殺生して、生命の命を奪って生計を立てる生き方では、アーリヤにはなりません。一切の生命に対して、憐れみを持って生活する人こそが、アーリヤなのです」と。アーリヤという単語は、お釈迦さまが当時の言葉のなかで、あえて選んで使ったものです。この言葉は、他の宗教では当時は使っていなかったのです。紀元前1500年頃、インドにアーリヤ民族が侵入して、インドを支配し始めました。結果として、モヘンジョダロなどの古代文明が崩壊して、新しい文化が栄えたのです。正確ではないが、その新しい文化にアーリヤ文化と言います。いままでインドに続いているのは、その文化です。ですから、アーリヤと言えば、土着民族よりはいくらか上、というニュアンスがある。実際の歴史のなかでは、そういう感情的なことではなく、アーリヤ民族は土着民族の知識能力を学び、融合しながら、インド特有の文明を開発したのです。ですから、崩壊した古代文明の代わりに、さまざまな点で優れた新たな文明が現われてきたのです。物質を重んじることを控えて、精神的な開発を重視することも、アーリヤ文明の一つの特色です。

 お釈迦さまは諸々の信仰のなかで具体的に真理を発見して、人はだれであっても知るべき真理と、真理に達する道を語り続けたのです。歴史の流れから考えると、仏教は諸宗教のなかで、まさに「アーリヤ教」になる。どの教えよりも優れている、という意味を持っているのです。お釈迦さまが発見なさった四つの真理を、四聖諦と呼びます。とはパーリ語でariyaなのです。ブッダの説かれた正しい道は、八正道です。八正道のも、パーリ語ではariyaなのです。ですから、ariyaとは、民族的、感情的な意味は何一つもない、「仏教」という意味になります。優れている、文化的である、迷信信仰ではない、理性に基づいた教えである、品格のある教えであり生き方である、という意味で使われているのです。釈尊は仏弟子たちにも、かなり程度の高い水準で、文化的な人間として生きるべきだと厳しく戒められました。食の求め方、食べ方、歩き方、話す方法、服の着方、住む所の整理整頓の仕方、身のふるまい方などなど、すべて明確に出家弟子たちに規則として教えられました。当時のインドの人々は、仏教徒のこの品格の良さにかなり惹かれていたのです。

 お釈迦さまはあの漁師さんにも、「アーリヤらしく生きるべきである」と説かれました。漁師や狩人たちは、誰にも迷惑をかけないで自由に生きている生命を捕って、その肉体を売って生活している。それは明らかに、誰かを殺して自分が生きることなのです。人々は肉魚を食べて生活しているから、この程度の殺生は悪いと思わない。逆に正しいと正当化したがるのです。しかし、無数の生命の命を絶つことで生計を立てているならば、それは決して品格の高い生き方と言えません。でも世間は、それは善いことだとしているのです。我々の社会では、漁師さん、お肉屋さんには、それほど立場がありません。しかし、世界の状況を観察してみてください。

 戦争に行って闘って、たくさん敵を殺して帰ってくる人が、英雄なのです。控え目に平和で生活している国を侵略して、大量に人を殺して、自分の国の一部にすることが、歴史に載せるべき素晴らしいことだと思っているのです。ただの人殺しやただの強盗だと言わない。この世では、一人を殺したら殺人罪で、百人殺したらヒーローだと認めるのです。人間が幸福で平和に生きるために使うべき地球の資源の半分以上、人を殺すために必要な武器開発に使っています。戦闘機一機に使うお金で、アフリカで食べ物も薬もなく死にかけている子供たちを何人救えることでしょうか。世界で人を殺すために使うお金の一部でも投資すれば、経済状況が悪化して貧困のどん底に陥って、なかなか立ち上がれない国々をどれぐらい自給自足できるようにしてあげられるでしょうか。いまも世界の国々は、自分たちの軍事力を自慢しています。巨大な軍事力を持っていることこそ、国民のプライドだと思っているのです。

 殺して生きることが勇者の生き方だと、世界は思っています。ということは、ジャッカルもハイエナも勇者なのです。誰かに殺された肉を食べるハゲタカは、かっこ悪いのです。人間が語る品格のよい生き方とは、こんな程度のものです。ブッダは、弱い人を脅すことではなく、助けてあげることを、品格のよい生き方にするのです。無知で、怒りで、自分に悪いことをしようとたくらむ人を憐れんで、その人を助けてあげて、その人のこころのなかにある無知や怒りがなくなるようにと苦労を惜しまないことが、釈尊の説かれた品格のよい生き方なのです。仏教は「私の嫌いな人も、私を嫌っている人も、幸福でありますように」と朝晩念じる宗教です。「神よ、私を幸福にしたまえ」とお祈りすることはみじめな生き方だと、仏教は思うのです。

 品格のある生き方、アーリヤ人生は、感情に負ける臆病者に想像さえもできない道なのです。怨みを持つ、敵意を持つ人を許し、さらにその人が幸福になるようにはからうことは、人格的に偉大なる人でない限りは難しいことです。漁師のアーリヤさんは、ブッダの説かれた道を選んで、出家して、悟りに達しました。名前にふさわしい、アーリヤになったのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XIX DHAMMATTHA VAGGA 第19章  法(ダンマ)に依って立つ章

 Na tena ariyo hoti;
 Yena pânâni himsati;
 Ahimsâ sabbapânânam,
 Ariyo’ti pavuccati.
      (Dhammapada 270)

 生贄(いけにえ)のため生類(しょうるい)を
 殺し聖者とはならず
 すべてのいのち損わず
 はじめて聖者と言わるなれ
     (ダンマパダ270)   (訳・江原通子)
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