パティパダー巻頭法話
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No.159 (2008年5月)
ブッダは宗教の革命者

 〜すべてを知りたい人は仏教を知る〜
 Revolution of faith
A・スマナサーラ長老

 今月はテーラワーダ仏教徒がお釈迦さまの誕生と成道と般涅槃を祝う月です。要するに、世に仏教が現われたことを祝うのです。人類に初めて智慧の眼があらわれた月です。誰にも束縛されることなく、自分自身の力で完全たる自由を実現できる方法を世に発表された月です。宗教と言えば、仏教だけが宗教ではありません。ブッダが現われる以前も、いくつかの宗教がありました。ブッダが涅槃に入られた以降も、いくつかの宗教が現われました。仏教と他の宗教との間で、何か似ているところがないのでしょうか。仏教も他宗教も、開祖様と聖典が変わっただけで中身はほぼ同じでしょうか。結局のところ、どんな宗教も言っていることは同じでしょうか。

 どんな宗教の真髄も同じだとするならば、世界の人類に仲よくすることができるのです。しかし宗教者たちの間では、宗教の真髄は同じだ、という考えはないようです。宗教者たちの間にあるのは、我こそ真の神を信仰している、我こそ真の聖典を読んでいる、他の信仰は正しくない、という立場なのです。平和になるどころか、信仰がからんで戦争、争い、テロ行為などまで起きているのです。すべての宗教の真髄が同じであると信じているのは、インドのヒンドゥー教だけです。しかし、ヒンドゥー教の立場は、ヒンドゥー教が巨大な器で、どの宗教でもその中に入る、ということです。結局は、ヒンドゥー教こそが世界宗教の母体だと言っているのです。しかし、他宗教の方々は、ヒンドゥー教の一部にはなりたくない。というわけで、信仰を用いて人類に平和と幸福をもたらすことは、事実上できないことになっているのです。

 諸宗教の似ているところを考えましょう。宗教は面白い物語から話が始まるのです。この物語の内容は、いかにしてこの世は現われたのか、どのように人間が現われたのか、という起源の説明です。皆、ある時期で森羅万象が創造されたと語る。その、創造した力に「神」という名をつけているのです。宗教の違いの第一は、神の本名の違いです。それから、神の性格も違います。宗教は、「人間は皆、堕落している、罪びとである」と説くが、堕落した起源の話は、宗教によって違うのです。堕落した状態から立ち上がる方法は、神が教えていますが、その方法も各絶対神によって違っているのです。森羅万象の創造の仕組みは、二種類です。ヒンドゥー教では、神自身が二分化して、一分は展開して森羅万象になったと説く。他の宗教では、森羅万象を神とまったく別なものとして、それが神の言葉と意志によって現われたと説く。諸宗教の神話の筋書きは、ほぼ同じ類のものです。現代社会にあらわれ続ける、いわゆる新興宗教でも、筋書きは同じです。

 宗教は、矛盾が好きか、矛盾に気づいていないか、どちらかです。過去のある時点で現象世界が創造されたと、また人間が不完全で堕落しているとするならば、その創造者は不完全で、下手な存在と言うのが道理ですが、「神は完全であり、万能である」と言うのです。できた作品に欠陥があっても、作者には責任はない、という態度です。面白いことに、欠陥の責任は作品が負わなくてはいけないのです。要するに、人間が罪の責任を負わなくてはならないのです。もしも人間が幸福に生きられることになったならば、それは断言的に「神の恵み」になります。さらに罪を犯して、不幸に陥ることになったならば、それは神の責任ではなく、「悪魔の誘惑」になる。神の作品をいじる力を持つ別な存在がいるとすれば、その存在は神に管理されない自由なものになるはずです。しかし、その存在も神の支配下にあると言うのです。なのに、悪魔に誘惑される責任は、神は負わないのです。悪魔を何とかしてくれないのです。このように、矛盾に矛盾を重ねて語るのは、宗教の特色です。矛盾を示すことは神に対する侮辱で、大罪なのです。

 まじめに神を信じる人々は、まじめに神を侮辱するという矛盾した生き方をしているのです。この世の中にあるすべてのものは、神が作ったものであるならば、すべては神の作品になります。神が何かの理由があって作ったものでしょう。そうなると、神の作品を、神を信仰する人の好き勝手にいじることは、できないはずです。もし作品をいじったならば、それは神の意志に反する行為です。なのに、他宗教を弾圧したり、人を裁いたり、殺したりするのです。自然を破壊したりするのです。「神を守る」という大それた態度を取って、人類に(神の作品に)迷惑をかけているのです。このような行為は明らかに神を侮辱することになるが、宗教家たちはそれこそ正しい行為だと教えるのです。聖典を批判しただけで、その批判した人に処刑命令を出すならば、それは神の仕事を自分で奪ったことになります。神とは異端者を裁く能力もない無能な存在だと、示していることと変わりはないのです。神を信仰しないと、神を侮辱することもできない、という矛盾はこれで理解できると思います。

 ある時期、森羅万象があらわれて、ある時期、すべてを破壊する、という物語では、森羅万象を創造する前にどうだったかは語れない。「最期の審判」の後、どうなるのかも語れない。しかし神話物語では、世界の状況を説明する場合、まず「はじめ」の話をするのです。実は、はじめはどうだったのかと語れないはずです。想像できないはずです。我々が知っているのは、すでにある世界に生まれてきた、ということだけ。私は生まれる前にどうだったか、と親などに聞くと、親たちは自分が知っている少々の過去の話をするでしょう。それ以外、人間が歴史で発見する事実以外、また科学者が発見する事実以外、知れないのです。証拠なく考えることは、舵が壊れた船で航海するのと同じです。「卵が先か? 鶏が先か?」という話があります。このまま答えを探すと、見つからないのです。簡単な抜け道は、「最初に神が鶏を創造した」とするか、「最初に神が卵を創造した」とするかです。しかし、それも答えではないでしょう?結局、最初は卵か鶏か、という疑問は残ったまま。だから、すべての宗教の考えに巨大な欠陥があります。それは、「はじめ」を探すことです。神がすべてを創造したという人々は、誰かが創造しないと存在は成り立たないと言う。それなら、「神を誰が創造したのか?」という疑問が起こる。それには、「神を誰も創造する必要はない、永遠にいるのだ」と答えるのです。創造されていないのに、神の存在がある。創造されないと我々には存在がない、という論理です。創造されなくても存在があると同時に、創造しないと存在がありえない、という矛盾を誇らしげに信仰するのです。

 はじめはどうだったかと、起源物語を語るとき、語る人は自分の妄想を語っていることになるのです。それがまずい。だから、「神が私に告げた」ということにするのです。自分が語るのは、自分の妄想ではなく、神の言葉なのです。ちょっと待って。なぜ神は人類の中からあなたを選んだのでしょうか。なぜ神が直接すべての人間にいっぺんに語らないのでしょうか。なぜ神が人間のこころに作者が自分であることを刷り込んでおかないのでしょうか。それにも用意された答えがあります。「神は人間に自由意思を与えた」です。しかし、神がくれた自由意思を自由に使うと、なぜ神が激怒して罰を与えるのか、よく解りません。これも甚だしい矛盾なのです。「私に神が告げた」というと、その話を聞く我々には「無条件に信じる」という足かせが嵌められるのです。ですから、すべての宗教は人を神に束縛させる、こころの自由に反対する教えになるのです。

 このような宗教の背景の中で、仏教の立場は何なのかと考えておきましょう。はっきり言えば、以上書いてきた批判は仏教的な目で見た観察なのです。ですから、ブッダの教えは、世界にある諸宗教と似ても似つかないものだと理解しておきましょう。理性に基づいて客観的に具体的に考察することを、仏教は推薦するのです。根拠のない信仰は、危険視する。「信」というのは、論理的にものごとを納得することです。そのものごとが正しいか否か、実践によって確かめた結果得られるものを「確信」と言うのです。仏教にも諸宗教にも「信」はあるが、仏教の「信」は他と明確に違います。ですから仏教という宗教は、束縛ではなく自由を教えるのです。

 宗教には矛盾がつきものですが、仏教は「矛盾した話なら偽りに決まっている」という立場なのです。「はじめはどうだったのか?」という神話は、仏教にはありません。いまここに何かの現象がある。その現象は何かの原因であらわれた。その原因になった現象も、また何かの原因によってあらわれた。原因によってあらわれたので、いまの現象には自立することができない。原因が変わると、消えてしまう。いまの現象が消えて、その原因で新たな現象があらわれる。何を観察しても、この過程を見出すことができます。推測して言うと、「はじめ」ということも、「おわり」ということも成り立たないのです。だからといって、やたらに「無限」という言葉も使いません。「輪廻」というのです。仏教は神話を語るのではなく、科学的な、現実的な因果法則を語るのです。

 因果法則に基づいてものごとを考えると、誰かがすべてを作ったという推測は成り立たない。目の前でものごとがあらわれて、消えていくことの観察ができるのです。生命の場合も、さまざまな原因によって、さまざまな形とさまざまな能力を持つ複数の生命がいることがわかります。一個一個の生命は互い違いですが、仏教は差別を認めないのです。差別するためには、「私は他人より完全だ」ということを証明しなくてはなりません。因果法則によって一時的にあらわれた生命に、そんなことは言えない。証明もできないのです。それにもかかわらず激しい自我意識を持つことを、仏教は罪だとするのです。一切の生命は基本的に平等です。差を認めるが、差別を否定する。だから、一切の生命に対して、限りのない慈しみを抱くことが善だとするのです。ブッダの教えを実践する人は、いかなる生命にも迷惑をかけない。競争を止めて、共存することに挑戦するのです。他宗教の原理主義は極まりなく危険ですが、仏教の原理主義が極まりなく人類に平和をもたらすのです。

 宗教は人々に「このように生きなさい」という生き方を教えます。しかし、神話物語に基づいて生き方を語るので、教えが曖昧です。どこまで守れば完璧にその宗教を実践したことになるのかが、わからないのです。たとえば「殺すなかれ」とどんな宗教も説いています。しかし、「なぜ殺してはならないのか?」と説得することができないのです。そのうえ、「殺してもよい」という例外までつくる。曖昧な生き方では、曖昧な結果しか出ません。人が右へ向かうべきか、左へ向かうべきか、はっきりと教えてあげなかったら、どうなるでしょうか。生きるとはやり直しがきかない一方的なことです。人の歳も時間も取り戻すことは不可能です。ですから、「いま」という瞬間で何をするべきかと、明確に教えてくれなくては善くないのです。

 ブッダは、「一切を知りつくした」と説くのです。人格を完成した人です。こころは完全に清らかなのです。束縛は一切ないのです。完全たる自由を獲得したのです。ですから、人間にどのように生きるべきかと指導する権利は、ブッダにだけあるのです。道を知りつくした人こそが、迷っている人を道案内できるのです。そういうわけで、仏教は人間の知るべきことすべてを語っているのです。仏教を理解することで、生命に対して知るべきすべてを知ったことになるのです。それでも、知るべきことが無数に無制限にあると、この短い人生ですべてを知ることができなくなります。

 しかし、問題ありません。ブッダは全智者なのです。一切の生命にあらわれた偉大なる唯一な師なのです。生徒に解りやすく、覚えやすく、実践しやすく、余すことなく教えることが、師の仕事です。お釈迦さまはその仕事を見事に果たしました。人間の能力、知識範囲を超えた真理を発見したが、それは誰にでも理解できるように明確に分析して分類して、コンパクトにして、覚えやすくして、語られたのです。生命に対する真理は、四聖諦という、たった四つの言葉です。覚えやすいのです。その四つの真理を理解すると、他に理解するべきものは何もないのです。

 次は、我々がどのように生きるべきか、ということです。それは八正道です。項目は八あります。人間が歩むべき道は、この八より以上も以下もない。ブッダは完全に人の思考、言葉、行為を正しているのです。「生きる上で挑戦する目的とは何か?」という問題に、ひとことで「無執着」と説くのです。「尊い生命とは?」という疑問には、「智慧のある人」が答えです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XX MAGGA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第20章 道の章

Maggânatthangiko settho,
Saccânam caturo padâ;
Virâgo settho dhammânam,
Dipadânañca cakkhumâ.
(Dhammapada 273)

あらゆる道の最勝は
聖なる八支の「八聖道」(はっしょうどう)
あらゆる真理の最勝は
四(よつ)の聖なる 「四聖諦」(ししょうたい)
あらゆる教えの最勝は
離貪(ビラーガ)こそがすぐれたり
人間すべての最勝は
眼(まなこ)ある人ブッダなり
(ダンマパダ273)   (訳・江原通子
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