パティパダー巻頭法話
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No.160 (2008年6月)
正しく生きる道は一つしかない

 〜微笑みが絶えない八正道〜
 Select perfect way of living against all nonsense
A・スマナサーラ長老

 生きるということは、「生きる」という言葉どおり、止まっているものではなく、機能なのです。行為です。動きです。瞬間とも、「止まる」ことはありません。生きることに限らず、この存在の中にある、物質を含む一切の現象は、動いています。止まっていないのです。動いているというと、すぐ頭に浮かぶのは、移動する動きです。しかし、咲いた花は萎れるでしょう。これも動きです。つぼみの時から萎れるまで同じスピードで動いていたのです。移動はしなかったのです。仏教で言う動きは「移動」ではありません。仏教は「変化する、無常」という用語を使っています。だから、絶えず動いている、と言えるのです。

 話を生きることの問題に戻しましょう。生きるとは「動き」です。生きている我々は、移動という動きも、変化するという動きも、同時に行っているのです。歩く、座る、食べる、寝るなどの動きをしています。料理をする、勉強をする、仕事をする、遊ぶ、などの動きもしているのです。我々は、寝ていても動きだけは止まりません。生命には自分の意志で行う動きを自由に変えたりすることができるのです。休み時間があると、その時間に散歩をしようか、テレビを見ようか、本を読もうか、などの選択が成り立ちます。自分の意志で何かを決めて、その動きをするのです。

 絶えず動く生命が、自分の意志で動きを変える。これはとても大事なポイントなのです。動きを変えることはできても、止めることはできないのです。何かの動きをしなくてはいけないのです。そこでどんな動きにしようかという問題が起こる。それから動きを選択する意志が、どのような基準で判断するのかと知る必要があるのです。我々は何の躊躇もなく、いとも簡単に、また瞬時に、動きの選択をします。意志の判断基準に気づかないのです。意志の判断基準をしっかりと覚えておけば、大変役に立ちます。意志の判断基準は、とてもシンプルです。楽になりたい、苦しみを避けたい、という二つ、否ひとつです。単純すぎだと思いますか?  そのとおりです。 意志の判断基準は単純です。 ではそれが悪いのですか?  いいえ、決してそうではありません。不幸になりたい、苦しみたい、失敗したい、損をしたい,非難侮辱されたい、と思う生き物がいるならば、相当おかしいのです。ありえないことです。

 仏教が示すのは、別なポイントです。楽になりたい、苦しみを避けたい、という明確な判断で動きを変えて生きている生命は、皆、断言的に幸福になるはずです。しかし、幸福になるどころか苦のどん底に陥っている。悩み苦しみが絶えないのです。必死で苦労して開発をしたり、発展したり、政治制度、経済制度を変えたり、改良したりする。そのうえ知識人のアドバイスを受けて、他の国々のやり方を学んだりもする。その結果は? と言えば、社会は日々変わりますが、人間の悩み苦しみは、現状維持か、よりひどくなるか、です。これがお釈迦様の立場から見ると、笑わずにはいられないほどおかしい状態なのです。「この寒さが大嫌いだ」と思って、裸で雪の中に飛び込んだり、「この暑さは耐えられない」と思って火の中に飛び込んだりするようなものです。どうせ飛び込むなら逆の方がいいと思いますが、なかなかそうする気配はないのです。

 では、人間の悩み苦しみがなくならないのはなぜでしょうか。希望の数といえば無限ですが、叶うものはほんのわずかか、皆無かです。切望は成功することですが、結果と言えば失敗することばかりです。ではなぜこうなるのでしょうか。答えは明白です。意志の判断が間違っているからです。判断基準に合ってないからです。被害者を有罪にして、加害者を無罪にする。その上、被害者に弁償までさせるような判断をしているのです。このような真似をする人がいるならば、我々はその人に対して、「愚か者、無知」と言わざるを得ないのです。実は、釈尊は悟りに達していない人に対して、「愚か者、無知」と称しているのです。

 「幸福になりたければ、死後永遠の天国に行きたければ、唯一の神を信じなさい」と言われると、そんなものがいるか否かも調べることなく信じるのです。「罪を悔い改めなさい」と言われると、罪を犯した覚えが全くないにもかかわらず、また、「私は何の罪を犯したのか?」と相手に訊くこともなく、涙と鼻水を垂らしながら懺悔して、犯したといわれる、わけもわからない罪を悔い改めるのです。「唯一の神を朝晩、または一日五回褒めたたえなさい」と言われると、真剣にやるのです。「全知全能の神なのに、毎日讃えたり、祈りをしたりしないとダメなのですか? 神は認知症ですか?」とは問わないのです。地理的にガンジス河の源流はどこかと皆知っているにもかかわらず、「神の髪の毛からその河が始まる」と真面目に信じているのです。ひどく汚染されているその河に日の出前に飛び込めば、すべての罪が洗い流されて心が浄化して幸福になると信じるのです。罪とは、汗と埃のことなのでしょうか。罪とは、怒り憎しみなどではないでしょうか。馬鹿を信じる者にとって、そんな疑問はどうでもいいのです。河で、また洗礼することで、心の罪が洗い流せるのであれば、人間どもは必死で魚やカエルや水蛇、カメなどを礼拝したり、拝んだりした方が理にかなっているでしょう。なぜならば水の中で生まれて生きていて、水の中で死ぬから、その生命の心の清らかさは言葉で言い表せないほど高いはずです。「南無妙法蓮華経」という宇宙大曼荼羅の呪文を唱えれば、商売繁盛、家内安全、学業成就、無病息災、ではなく、世界支配までできると思っている方々は、決して、ふざけているわけではないのです。真剣真面目なのです。しかし結果は、皆に煙たがれる、家庭は崩壊する、試験は落第する、お医者さんの腕がなければ病気で死ぬことです。

 人間のしていることは、理性ある人に、ありあまるほどの笑いを提供しているだけです。国家を営んでいる人々さえも、似たような判断しか、しません。イラクを爆撃すれば、イラク人は合衆国をもろ手をあげて讃嘆するだろうと世界に発表し、開戦したが、若いアメリカ兵たちはその国の街を歩けない状態なのです。イラクに平和を与えたどころか、イラク人が気楽に共殺しすることになっただけ。中国を批判すれば、北朝鮮を侮辱すれば……などなどの考えはあるが、期待した結果は出るのでしょうか。

 ポイントを整理整頓しましょう。生命は、楽になりたい、苦しみを避けたいのです。それならアベコベに判断しないで、意志の判断基準に完全に合致する判断をして、動きを変えなくてはいけないのです。「こうすればいいと思う、これを試してみよう、皆やってるからやってみよう、一か八かわからないがやってみよう」などの中途半端あいまいな判断で生きることほど、不幸、苦しみを招くものはないのです。病気になった人は、薬なら何でもいいや、と手当たりしだい薬を飲むものではありません。自動車なんて動けばいいじゃんと、無免許の人が運転手になってはならないのです。パソコンでフライトシュミレーションのゲームができるようになったからといって、飛行機の操縦席に座らせていいものではない。それよりも何よりも、自分が生きることが大事ではないでしょうか。ゲームができなくても、数学ができなくても、有名な学校を卒業できなくても、人は生きているのです。幸福に生きていなくてはだめです。ですから、老若男女、皆、「どのように生きるべきか」を知る必要はない、などと言えるのでしょうか。

 それでもあいまいな生き方を教えてくれるならば、それは極悪の行為です。「いろいろ生き方があります。それなりに選べばいいですよ」と理性ぶった人が言っても、我々の判断ははじめからもあべこべで、結果は同じなのです。お釈迦様の言葉を使うならば、「無知な人は行ってはいけないことを行い、行うべきことを行わない」のです。なので、何でもいいから一つを選んでやりなさいという躾は、成立しません。我々には、「火遊びをするな、危険です。信号を無視するな、危険です」のように、異論が立たない、他の選択が成り立たない、しっかりした生き方を教えてほしいのです。

 疑問の成立しない、異論が成り立たない、誰にでも認めざるを得ない、確実に苦しみを減らし、幸福を増す道(生き方)が必要です。そんな道あるわけないでしょう、と苦笑いする必要はないのです。
お釈迦さまは、その完全たる道を発見して解き明かされました。その道を実践すれば、完全たる幸福に達することは確実だと、自分自身で証明なさったのです。その道とは八正道(はっしょうどう)です。いわゆる八つの生き方です。それで疑問ですが、その八つの生き方を選んだところで、自分たちの日常生活はどうなるのか? 生活に差し障らないのか? 心配はいりません。一日五回の祈りも、滝行、千日行、巡礼、苦行、洗礼などなど、時間を無駄に食う行為もないのです。どちらかというと、仏教は無駄に大反対です。人の命は短い。それも秒単位で減っていく。経た時間は永遠に戻りません。たった一分でも無駄に過ごせば、取り返しのつかない損なのです。そのような立場なので、お釈迦さまが、人の時間を無駄に食い殺すことなど推薦するはずもないのです。

 八正道の中身を見ると、この意味が解ります。面白いほど、特別なことは何もおっしゃってないのです。

 第一は正見(しょうけん)」。見とは、見解、見方です。人は常に何かの見解、何かの見方に基づいて生きている。その見解が間違っているならば、何をやっても駄目になるのは当たり前でしょう。その見解を正しなさいという話です。邪見が危険だというのは、当然の話です。そうなると、正見って何のこと? という疑問が正直に起きます。この世の中のねじ曲がった無数の見解を直すという、あり得ない行為には挑戦しないのです。それは両手で海の水をすくって、海を空にしようとするようなものです。それは止める。他人の見解を放っておく。かわりに、一切の物事は無常である、一時的である、瞬間に変わる、という明白な事実を念頭に置いておく。起きている時間、ずーっとです。これを実践したからと言って、時間は無駄になりません。実践を始めたその時から、心は穏やかになります。怒ったり、落ち込んだり、異常な欲を出したりすることがなくなります。何が起きても、驚くことも、怯えることもなく、微笑んでいられるのです。

 第二は正思惟(しょうしゆい)」。単純に言えば、考えることです。人は寝ていても、夢という形で考えているのです。お釈迦様がおっしゃるのは、間違った思考はとても危険、という当たり前のことです。人は何を考えれば「正しい」のかと知らない。思考をどのように管理すればよいのかわからないのです。とにかく考える。止まることはできない。ネガティブ思考であろうが、恐ろしい思考であろうが、いったん頭の中で回転し始めたら、止めようがないのです。自己破壊に陥るまでやり続けるのです。お釈迦様は、欲に絡んだ思考、怒り憎しみに絡んだ思考、加害的な思考をストップしなさいとおっしゃるのです。その他の思考は自由です。正思惟で時間が無駄になるどころか、役に立つ、幸福になる思考をするため、余るほど時間が現れるのです。この項目を実践し始めた時、人の抱える精神的な病、精神的な苦しみが消えていくのです。人の暗い顔が、笑顔に変わるのです。

 第三は正語(しょうご)」。人は誰でもしゃべる。しかし、ウソをついたり、人を非難侮辱する言葉を話したり、噂話、無駄話をしたりしてひどい目に遭っている。不幸になっている。生きるためにあるわずかな時間を極端に無駄遣いしているのです。それさえやめれば、正語です。しゃべる言葉は有意義になります。相手が真剣に耳を傾ける人間になります。他人に信頼されます。その上、時間が余る。粗悪語、無駄話、嘘などを語ると、心が悪の感情で腐るのです。精神病に陥るのです。正語でこれがなくなって、微笑みが現れるのです。

 第四の正業(しょうごう)」は、行為のことです。殺生、窃盗、邪な行為をやめれば、正業です。この三つの悪を犯して幸福になると言える人は、この世にいません。

 次に説くのは仕事のことです。仕事のために悪を犯すなよというのです。悪を犯すと、仕事をして幸せに生きることができないのです。これは第五の正命(しょうみょう)」です。

 第六は、正精進(しょうしょうじん)」と言います。悪いことをしないように、善いことを行うように、努力することです。これにも、人の時間は無駄にかからないのです。時間の有効利用なのです。また、とてもカッコいい頑張り屋なのです。

 第七は正念(しょうねん)」。空想漬けになって人生を台無しにするのではなく、いまここで、自分が行う現実に気づいていることです。失敗という言葉は、その人の人生から消えるのです。

 第八は、正定(しょうじょう)」。混乱・興奮しないで落ち着いていること、集中力があることです。集中力があると、人生は楽しいのです。

 お釈迦様が説く、絶対的に正しい生き方は、この八項目に限られます。得体の知れないものを盲目的に信仰することもなく、死んでから幸福になるぞ、という曖昧さもなく、いまここで、具体的に幸福に生きるための生き方なのです。ですからお釈迦様は、「八正道は幸福になるための唯一な道であり、ほかの方法は存在もしないのだ」と断言なさったのです。他宗教の言葉も断言的ですが、教えを批判することを禁止しています。「神を冒涜することだ。永遠な地獄へ直行する重罪だ」と、愚か者を脅すのです。右も左も解らない極限に無知な人が、神の言葉、という名を借りて、断言的な言葉を羅列するだけです。お釈迦様は、断言するべきところを断言する。分析するべきところは分析する。否定するべきところは否定して、成り立たないアイデアに対して沈黙をするのです。お釈迦様が断言なさる場合は、愚か者のように、これを非難すれば罰が当たるよ、と脅さないのです。かわりに、「間違っているならば、行なって御覧なさい」と、我々人類に挑戦しているのです。八正道が間違っている生き方だとはいうことは、「唯一神が森羅万象を創造した」という原始人思考をいまだ誇らしげに妄信している人々にも、言えないはずなのです。

 神を信じると、人は奴隷になる。自由を失う。尊厳がなくなる。24時間、嫉妬と恨みの神に見張られている、という巨大妄想で、怯えることになる。たとえ神を信仰しても、永遠な天国があるとも知らないし、気分屋の神が最終審判をおこなうまで、幸福になる保証は全くない。そのうえ、祈りに、ミサに、巡礼に、行をおこなうことに、時間もなくなるのです。八正道は違います。人は自由になります。尊厳が守られます。実践を始めたその時から幸福になるので、実践を完成すれば、完全たる幸福になれるのだという、確信さえもついてくる。

 考慮すべきポイントがあります。人類は、誰かが自分を救ってくれると呑気に思っているのです。それは、無知と怠けの巣窟です。そのようなことを真面目に信じているならば、なぜ誰かに、自分の代わりにご飯を食べてもらわないのでしょうか。自分の代わりに誰かに勉強してもらわないのでしょうか。いい加減、人はアベコベを止めるべきなのです。母が子をいくら愛していると言っても、母には子供の代わりに食べてあげることも、勉強してあげることも、できないのです。自分のことを自分で行う、というのは、太陽が東から昇る、というくらい明白な事柄です。八正道、即ち、「どのように生きれば正しいのか」と、お釈迦様が教えてくれるのです。師匠としてのお釈迦様の仕事は、それで終わりです。監視したり、脅したり、見張ったりすると、その人の自由がなくなるのです。「私の仕事は教えてあげることです。実践に励むのは、あなた方の仕事です」と、説かれたのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XX MAGGA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第20章 道の章
 
Eseva maggo natthañño, Dassanassa visuddhiyâ;
Etañhi tumhe patipajjatha, Mârassetam pamohanam.
(Dhammapada 274)
 
Etañhi tumhe patipannâ, Dukkhassantam karissatha;
Akkhâto vo mayâ maggo, Aññâya sallakantanam.
(Dhammapada 275)
 
Tumhehi kiccamâtappam, Akkhâtâro tathâgatâ;
Patipannâ pamokkhanti, Jhâyino mârabandhanâ.
(Dhammapada 276)
 
 
これぞ二つとなき道ぞ
智見の眼(まなこ)浄らかに
汝達この道踏みて行け
この道 魔(マーラ)を幻惑す
(ダンマパダ274)
 
この道を行く卿(おんみ)らは
もろもろの苦を終らせん
箭(や)を抜く道を我は知り
われ卿らにこれを説く
(ダンマパダ275)
 
卿(おんみ)ら勤め修行せよ
如来(タターガタ)は道を説く
定(じょう)に励みて道行かば
魔(マーラ)の縛を脱すべし
(ダンマパダ276)   (訳・江原通子)
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