パティパダー巻頭法話
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No.162 (2008年8月)
生命の創造者は苦である

 〜苦を知る人こそ苦を乗り越えられる〜
 Suffering is the producer and administrator of life.
A・スマナサーラ長老

 「諸行は苦である」とは、有名なブッダの言葉です。正真正銘のブッダの言葉ですが、素直に受け入れられる言葉ではないと思います。そんなことを言われても、いろいろ楽しいこともあるのではないかと、つい思ってしまうのが普通です。でも、気をつけてみてください。正覚者である、完全智者であるブッダの金言に、反対しようと思っているところでしょう。私たちに、ブッダの智慧に対してチャレンジすることができるでしょうか。ですから、みな控え目に、首をかしげながら、しぶしぶ認めようとするのです。それでいいのではないかと、決して言いたくはないのです。言葉で表現しなくても、気持ちとしては納得がいってないことは確かです。

 分からない、理解できない、納得いかない、という気持ちは仕方がありません。しかし、違うのではないかと思うことは、真理を発見する過程では妨げになる可能性があります。釈尊が、「諸行は苦であると智慧でもって知る人は、一切の苦しみを乗り越えるのだ。これこそが、解脱の道なのだ。」と説かれるので、諸行は苦であると知ること自体が、解脱なのです。仏道そのものなのです。いま、我々は解脱に達していないのですから、諸行は苦であると分かるはずもありません。人は、いままで知らなかったことをこれから知ってやるぞ、と励むべきなのです。

 諸行とは、sankhârâのことです。因縁によって現れる、因縁によって合成される、また因縁によって壊れる、現象のことはsankhârâと言うのです。本来のものではない、一時的である、現象でありまた幻想である、ということはsankhârâという語の意味なのです。我々が経験する世界は、泡沫のようなもので、執着に値しないのです。ブッダが最初に、誰にでも順番でいえば理解しやすい「無常」という真理を語るのです。次に、「無常たるものは苦である」と、語るのです。ですから、無常と苦は同義語だと理解しても構わないのです。無常を理解すれば、苦も理解したことになっているのです。無常について、先月号で簡単に論じました。だからその内容をコピー&ペーストして、「無常」を「苦」に置き換えれば済む話です。

 しかし、釈尊が真理を語る場合は、無意味に同義語を使って、わざと説法を長くしているとは思えません。苦という単語を使わなくてはいけない、理由があるのです。無常とは、客観的に一切の現象を観察する時、達する最終結論なのです。苦とは、無常たる現象によって生命が何を体験するのか、何を感じるのか、ということです。「無常」という真理を生命に当てはめると、「苦」になるのです。現代科学者のように、生命のことをないがしろにして客観的に物質だけ分析するのは、仏教から見れば片手落ちなのです。発達したナノテクノロジーで、素粒子レベルまで物質を知り尽くしているでしょう。高度な技術に頼って、膨大な宇宙のことも理解してゆくことでしょう。これから、宇宙旅行の夢を見る時代になるでしょう。しかし、まだ全然研究していない課題があるのです。それは、生命とは何ですか? ということです。生命科学という分野があるが、遺伝子をいじっているので、ある特定の物質構成が生命だと思っているようです。現代科学では、生命とは結局物質なのです。

 難しい話は措いておいて、単純に考えてみます。私はここで生きているから、宇宙に興味を抱いています。私はここで生きているから、ミクロの世界に驚きます。もし私が生きていなければ、そういうことはまったく関係ない、知り得ない世界なのです。ですから、「生命がものごとを観察する」という立場が、現代科学にしても必要なのです。仏教は「生きる」ということの科学なのです。物理について語る時も、「生きる」という課題から決して離れないのです。ですから、仏教からは、現代物理学のようなものは現れてこないのです。そうではなく、「無常」という客観的な真理の発見の次、「苦」という真理に達するのです。我々はいろんなことに興味を持つのです。太陽の重さや大きさまで知りたいのです。一秒間で太陽の質量がどれくらい減るのかと、知りたいのです。しかし、何でも知りたがり屋では、何にもならないということに気付かないのです。ものを知るのはよいことですが、いつでもその知識が「私に何の関係があるのか? 生命の役に立つのか?」というガイドラインを忘れてはならないのです。それなら、有効な知識のみを発達するのです。危険で無駄な知識は、発達しないのです。

 次の問題は、「苦」の意味です。無常だから苦である、という意味は説明しました。その意味では、すべての物質、宇宙そのもの、一切の生命、みな「苦」なのです。それで意味は終わりません。生命との関わりも語らなくてはいけないのです。「私に何の関係があるのか?」ということです。

 机が苦です。私も苦です。この二つの言葉を聞いて、何か違和感を覚えるでしょう。その通りです。机の苦と、私の苦は、同じものではありません。「無常」だけ重視すれば、同じですが、何かが違いますね。高くついた机が、無常だから壊れてしまった。それを買った私が、その現実を認めたくはないのです。困っているのです。製造会社にだまされたような気分です。粗大ゴミとして処分するのは簡単ではないのです。そのように、シンプルな無常の原理は、私に当てはめるとかなり複雑になります。高価な机が壊れて、私が困る時は、私にも、無常だから変化が起きたのです。買った時は気分がよかった。品物が来るまで待ち遠しかった。部屋に据え付ける時、また使う時、楽しかった。机が壊れた瞬間に、私は変わってしまった。変わった私は、前の私と違って、悩んでいるのです。怒っているのです。

 無常という真理に対して、無関心にいることはできるのです。今も宇宙のどこかで太陽が爆発して無くなったり、新しい太陽が誕生したり、などの恐ろしい出来事が起きている。しかし関係ないのです。無視できます。地震はごく当たり前の自然現象です。全然不思議ではありません。怖くなる必要もないのです。しかしそれは、無人島で地震が起きる時だけです。我々が生きているところで地震が起きると、悩まずに困らずに苦しまずにいられないのです。ここで考えてほしい面白いポイントがあります。なぜ悩むことができるのでしょうか? ということです。自分が無常だからです。地震が起こる。身体でそれを感じる。ということは、身体が変化したということです。「危ない。避難しなくては」と判断する。なぜ判断できたのかというと、こころが無常だからです。ものごとが無常だからといって苦になるのではなく、私も同じ無常だからこそ、苦になるのです。このポイントを覚えておきましょう。

 ここまでの説明で、「無常だから苦になるのだ」という事実をいくらか理解できたと思います。もう一つ問題があります。「生きる」とは、無常に逆らうことです。無常を認めないことです。事実に真理にそむくことは、理性のある人が取る立場ではないが、生命は必死で、事実に真理に真っ向から逆らおうと挑戦しているのです。言葉を変えて言うと、生きるとは、死なないための努力なのです。呼吸するのも、ご飯を食べるのも、その他の行為をするのも、死なないためなのです。しかし、何かをしようとした瞬間で、自分が変わっているのです。お腹がすいた自分と、ご飯を食べている自分と、ご飯を食べてからの自分が、同一の自分ではないのです。(そのように思うおろか者もいます。空腹の自分と満腹の自分が同じだとするならば、ご飯を食べても意味がないのです。)死なないためにいろいろやってはいるが、そのやることによって、自分が変わって、死に続けているのです。妄想ばかりをしている無知な知識では分かってないが、こころはこの矛盾を感じているのです。ですから生命は心底、やりきれない、きりがない、終わりが見えない、納得いかない、満足できない、落ち着かない、じっとしていられない、という気分で悩んでいるのです。この気持ちは、「苦」というのです。まさか幸福だとは言わないでしょう。

 こちらにも矛盾があります。私は確実に死ぬから、死なないために、確実に死に至る行為をしているのです。この文章は分かりにくいので、「ご飯を食べなかったら死ぬ。ご飯を食べるから老いて死ぬ。食べなくても死ぬ。食べても死ぬ」というようなニュアンスで理解してもけっこうです。死にたくない、生きていきたい、と思う生命は、生きるということで、死を早めているだけです。

 生命にはもう一つの苦があります。無常に逆らうことが生きることだと書きました。無常でなければ、何をやっても何の変化も起きません。無常でなければ、いくらスポーツをして身体を鍛えようとしても、意味はありません。我々の努力がそれなりに実るのは、無常だからです。しかし、私たちはその事実を認めたくはないのです。子供はよく食べて、よく遊んで、早く成長してほしいのです。体重計に乗って、どれくらい増えたのかと調べるのは楽しみです。しかしいつのまにか、変化してほしくないと勝手に思い始めるのです。いつまでも若くてセクシーで体力があってほしいと思うのです。その期待をかなえるために、金も努力も惜しまないのです。しかし赤ちゃんが大人に成長した同じスピードで、中年が老人になるのです。物質の変化のスピードを変えることはそう簡単ではありません。生命は相反する二つの期待を持っているのです。(一)早く変わってほしい、(二)絶対変わってほしくない、です。それで結果は、苦なのです。一切の現象が変わることは、普遍的な真理です。生命はそれに真っ向からそむく努力をするのです。その努力自体が(生きることが)、たいへんなのです。苦なのです。結果は、負けるに決まっているのです。無常は変えられません。絶対負ける、絶対叶わないことに挑戦するのは、「苦」以外の何物でもないのです。

 命は苦で成り立っているのです。苦によって構成されているのです。苦によって生命が生かされているのです。生命の創造主は、苦なのです。生命の支配者・管理者は、苦なのです。「生きることが苦である」とは、四聖諦の第一です。

Dukkham eva hi sambhoti,
Dukkham titthati veti ca;
Nâññatra dukkhâ sambhoti,
Nâññam dukkhâ nirujjhati.
[Sanyutta Nikâya, Bhikkhun] Sanyutta(S.1.196)]

生まれるのは苦である。
あるのも苦である。消えるのも苦である。

苦以外生まれるものはない。
苦以外消えるものもない。
(相応部詩偈相応比丘尼の章) 

 これはヴァジラー阿羅漢尼がマーラと対話した時に唱えた偈です。マーラは俗世間の一般人の思考・考えを代表しているのです。生きることには、幸福・楽しみというものは、客観的にみると成り立たないのだ、というのが仏教のスタンスです。

 では、この意味を理解してみましょう。命(いのち)・生きる、ということの意味は何でしょうか。机は生き物ではありません。私は生き物です。机は物体です。私も物体です。しかし、同じではないのです。私に「感覚」があります。机に感覚がないのです。違いはそれだけです。ですから、命・生きるとは、感覚がある、ということです。この感覚が、苦なのです。長い時間立っていると、感覚が苦であることが分かるのです。座っていても同じ結果です。息を吐いて止めてみると、耐えがたい苦です。息を吸って止めてみても、耐えがたい苦です。苦があるから、呼吸している。ご飯を食べている。寝たり起きたりしている。仕事をしたり休んだりしている。しかし、すべては苦です。楽しいだろうと思って映画を観ても、終わりになるとクタクタに疲れているのです。面白くなくなっているのです。苦だから、車に気をつける。苦だから、安全運転する。苦だから、地震などの災害に備える。

 もしこの身体に、楽な感覚が生まれたら、大変なことになるのです。ご飯を食べる時、楽しいと思っているでしょう。本当にご飯を食べることが楽しいなら、止められなくなるのです。胃袋が破裂して死ぬかもしれません。寝ることは楽しいと思うでしょう。もしそれが楽しいなら、起きられないのです。一切の感覚は苦だからこそ、我々はいかなる行為でも極限に達する前に止めて、別な行為に変えるのです。人が楽だと思っている現象は、実は勘違いなのです。お腹が空いていると、苦しいのです。それでご飯を食べる。最初は美味しくて楽しくなるのです。しかし食べ続けると、美味しく感じなくなって、苦しくなる。極限に行く前に、止めるのです。なぜ最初は、楽を感じたのでしょうか? 最初の一口二口で、空腹という苦がいきなり消えたからです。「苦が消えること」を、人々は楽だと理解しているのです。しかし問題は、苦を苦で消すことなのです。生命は瞬間たりとも休むことなく、苦から苦への引っ越しをしているのです。当然、過去の苦が消えることを経験するから、それを「楽」だと勘違いしているから、「生きることは苦である」という、正覚者の話には、素直に納得できない気持ちもわかるのです。

 釈尊が楽を理性に基づいて定義するのです。「苦が無くなることが、楽である」と。四聖諦の三番目です。涅槃・解脱というのは、生きるという苦しみの完全たる超越なのです。ですから、「nibbânam paramam sukham.涅槃こそが最高の幸福である。」と説くのです。諸行は苦であると智慧でもって知る人が、最高の幸福に達するのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XX MAGGA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第20章 道の章
 
 Sabbe sankhârâ dukkhâ’ti,
 Yadâ paññâya passati;
 Atha nibbindati dukkhe,
 Esa maggo visuddhiyâ.
    (Dhammapada 278)

 一切は苦と明らかな
 智慧もて悟るその時は
 人苦しみに遠ざかり
 清らかな道開けゆく
    (ダンマパダ278)   (訳・江原通子)
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