パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.168 (2009年2月)
実践法の向きと不向き

 〜冥想指導は簡単なものではない〜
 Your practice needs fine tuning
A・スマナサーラ長老

 お釈迦様から直々(じきじき)、説法を聞いて指導を受けた人々が、かなり速く最終解脱に達したというエピソードはたくさんあります。経典に記されたところによると、それが珍しいことではないのです。珍しいこととして記されているのは、釈尊の説法を聞いても解脱に達しなかったことです。解脱に達することができなかった何人かのエピソードが、面白く記されているのです。ブッダに会うことができれば、解脱に達することは当たり前のことでした。ブッダの教えは、実証できるsanditthika(サンディッティカ)ものなのです。また修行に一生をかけて励む必要もありません。結果は早いakâliko(アカーリコー)のです。
 仏教はこのポイントを、他宗教に対比して強調します。神などの超越した概念を信仰して修行する場合は、「いまここで各自に経験して確かめられる」(dittheva dhamme sayam abhiññâya)とは言えないのです。たとえば一神教の教理を参照してみましょう。絶対的な神が存在するか否か、また、その神を信仰することで永遠な境地に達せられるか否か、を確かめる方法はないのです。よく言われることは、「神に創造された、能力の限られた人間に、無限の能力が備わっている創造主を理解することは不可能で、あり得ない」ということです。しかし、この論理も神がいなければ成立しません。論理とは、経験で理解できないものを何とか理解する手段です。

ですからこの言葉は、論理にならないのです。冥想などを実践する宗教もあります。成功者たちはこのような神秘体験がありました、などなどと語るが、それですべてを分かったとは、生命としての問題を最終的に解決したとは言えないのです。もっとがんばれば、違う経験を体験する。修行方法を変えれば、また違う経験を体験する。
各宗教の教えも、様々な角度から解釈・解説すると変わるものです。たとえば、お釈迦様の時代では他宗教の方々は一貫して、魂が実在すると信じていました。しかしその魂の姿はどのようなものかと訊かれると、人によって解説は変わってしまう。それによって、教えも変わってしまいます。修行というのは、教えを理論として実践するものです。ということは、教えによっても冥想体験が変わってしまうことになります。ですから、誰一人にも「我は最終境地に達しました」と言えなかったのです。

 この弱点を見極めたお釈迦様が、一切の主観をやめて、厳密な客観性をもって観察する方法を説かれたのです。それから、お釈迦さまも弟子たちも、修行によって同質の悟りに達するのです。お釈迦様が悟りについて語る場合は必ず、「為すべき事を為し終えた。修行を完了しました。もはやこれ以上、行うこと(生まれ変わること)はありません」と最終結論をつけます。釈尊の語られる最終解脱は、曖昧さ、疑いは微塵も生じない、確かな経験であることは、中部二十七、小象跡喩経(Cûlahatthipadopamasutta)で論証されています。

 仏道は結果が早い、ということも、派手に強調するポイントです。長部二十二、大念処経(Mahâsatipatthânasutta)には、気づきを実践するならば、七日で最終解脱(阿羅漢果)か不還果の境地に達する結果が得られますよと、明言されています。ここで、相応部六処篇チッタ相応九、アチェーラカッサパ経(Acelakassapasutta)のエピソードを省略して紹介します。

 在家信者のチッタ居士に、アチェーラカッサパという遍歴行者の友人がいました。彼がチッタ居士の住んでいるマッチカーサンダ町にやって来ました。チッタさんはさっそく友人を訪ねて、対話を始めました。「あなたは出家して何年経っていますか?」「三十年も経ちました」
「この三十年で、人間を超越した聖者の智慧と言うに相応しい、安穏に過ごせる何らかの智慧を経験していますか?」「いいえ、経験していません。ただ裸行と剃頭行と抜髪行を続けているだけです」(現代人がやっている楽な丸刈りとは違います。髪の毛を一本ずつ抜く。それから、たまに灰などの粉を塗る。それを月一回か二回、行います。それ自体が、一つの修行として見なされていたのです)。その言葉を聞いたチッタ居士は、「なんと不思議でしょう、なんと稀有でしょう。三十年修行しても、人間を超越した聖者の智慧に相応しい、安穏に過ごせる何らの智慧にも達することなく、裸形、剃頭行、抜髪行のみで終わるような、善く説かれた教えがあるとは!」

次にアチェーラカッサパが質問します。「居士よ、貴方は、在家信者(仏弟子)となって、何年経っていますか?」「私も、三十年経っています」「この三十年で、貴方は人間を超越した聖者の智慧と言うに相応しい、安穏に過ごせる何らかの智慧を経験していますか?」「在家でありながら、私は意のままに、こころを欲から離し、不善法から離し、離すことにより生じる喜と楽を備えた尋(じん)と伺(し)がある初禅に到達して住しています。……第二禅、……第三禅、……喜も楽も越えて捨(しゃ)を備えた第四禅に到達して住しています。もし私が釈尊より先に死ぬならば、釈尊が『この居士はこの世に再び生まれる煩悩を断じて、不還果(ふげんか)になっている』と私のことを認定されるでしょう」。

チッタ居士がこう言うとアチェーラカッサパは、「なんと不思議でしょう、なんと稀有(けう)でしょう。法がなんと善く説かれたことか。在家生活しているにも関わらず、弟子たちが人間を超越した聖者の智慧に相応しい、安穏に過ごせる智慧に達しているとは! 私も、釈尊のもとで出家いたします」。 チッタ居士に紹介されて釈尊の弟子として出家したアチェーラカッサパは、間もないうちに最終解脱に達しました。輪廻を終了し、為すべき事を為し終えました。というわけで、仏教は結果が早いのです。

 まるで冷や水をかけられるような話になってしまったかと思います。経典でも注釈書でも、人をたちまち悟りに導かれる能力は、正覚者(しょうがくしゃ)である釈尊の特別な能力だと説明されています。釈尊もご自分が、無上の調御丈夫(ちょうごじょうぶ)anuttaro(アヌッタロー) purisadammasârathi(プリサダンマサーラティ) 天人師(てんにんし)satthâ(サッター) deva(デーワ)manussânam(マヌッサーナン)であることを明言しているのです。ですから、弟子たちから指導を受けても、成功する確率はお釈迦様との比較にならないのは確かです。

 私たち一般人の気持ちにも配慮されているようです。
釈尊と直々に会うことができなかったので、修行しても成功するわけがないでしょうと、逃げ道を探すことも不可能ではありません。今月はこのポイントを考えてみましょう。釈尊には、一切の生命のâsava(アーサワ)anusaya(アヌサヤ)を発見できる能力があったのです。Âsava とは、煩悩のことです。煩悩のリストなら、釈尊に説かれているので、覚えておくのは難しくはありません。難しいのはその煩悩がどのような仕組みで人のこころを管理するのか、ということです。たとえば、欲という煩悩があります。しかし、この煩悩はすべての生命に同じように機能するのではないのです。人によって、欲の機能が変わります。

同じ人にしても、その都度その都度、様々な形で欲がはたらくのです。時々、「これは欲だ」と明確に知ることはできます。しかし、分からない場合もあります。欲が強すぎて、身動きできなくなる、うまく喋れなくなることもあるでしょう。周りから見れば、「落ち着いている、興奮しない人。だから欲が少ない」と判断されることもあり得る。怒り、嫉妬、無知などの他の煩悩も絡んでくると、煩悩のはたらきを解明できるのは、ブッダ以外誰もいないと納得せざるを得ないのです。

 そのうえ、表に出ない煩悩の層もあるのです。表に出ないという意味は、他人に発見できないだけではなく、本人にもその煩悩が隠れていて発見できない、ということです。深層を構成する煩悩は表に出ないが、表で機能している煩悩の土台になるので、影響があることだけは確かです。深層の煩悩は、anusaya といいます。睡眠煩悩と訳すこともできます。しかし正確ではありません。睡眠するものは、目覚めたら正体が分かります。

Anusaya の意味は、「こころの深層の構成」ということです。土台は、表に出たり、建物の屋根になったりはしません。動いたりもしません。建物のことは隅(すみ)から隅まで観察できるが、建物がある限り、土台のことは知り得ない。しかし建物の運命を土台が左右するのです。

 anusaya 深層煩悩は、âsava 表層煩悩と変わった別のものでもありません。同じものです。ですから、こころのはたらきを明確に知ることは、とてつもなく難しい仕事です。お釈迦様には、表層煩悩、深層煩悩、またそのはたらきが、手に取るように分かるのです。人を調教することについては、お釈迦様が、神々も含む一切の生命よりも優れているのです。

 それで話は終わりません。人々に様々な能力もあるのです。善行為をしたり、感情を制御したりすると、それなりの能力が身に付くものです。俗世間の科学・技術・芸術・スポーツなどを学ぶ時も、知識が増えるだけではなく、こころの制御という能力も何らかの形で身に付くのです。煩悩を無くすための引き金になるのは、その能力です。お釈迦様には、人の見るとその人が過去からどの能力を引き継いできたか、また、どの程度にその能力を使用できるのかと、また、手に取ったように分かるのです。それは、人の弱点だけではなく、その人の人格を完成させるために使うべき方法まで、いとも簡単に発見できるということです。お釈迦様にたった一回会っただけで、人が最終解脱に達するということは、何の不思議でもありません。不思議なのは、お釈迦様に出会うチャンスがあっても、一緒に生活するチャンスがあっても、悟りに達することができなかった人もいたことです。中部十二、大獅子吼経(Mahâsîhanâdasutta)に記されているスナッカッタは、悟りに達することができませんでした。その代わりに彼は、「釈尊には超越した智慧がありません、完成した論理で語っているだけです」と悪口を言ったのです。しかし彼の批判は、批判にならなかったのです。なぜならば、「それでも釈尊に言われるとおりに実践すれば、結果がありますよ」と言ったからです。
悟りに達する能力がなかったスナッカッタにさえ、たとえ少々でも修行の結果があったのです。

 もう一つ、大事なエピソードがあります。
智慧の第一人者であるサーリプッタ尊者と仲良くしていた、金細工職人の家族がいました。その家の息子が、サーリプッタ尊者を師匠に立てて出家したのです。自分の弟子を早く悟りの境地に導きたかった尊者は、こう考えました。この若者が生まれてから今まで、美しい物以外、見たことがない。金の装飾品を注文した富豪の美人たちを毎日のように見てきた。人の体を見て、その身体をどのように装飾品で飾ったら美しく際立って見えるのか、ということがこの人々の職業なのだ。しかし世界は、美しいばかりではない。美しいとは、表面だけのこと。美しいものばかり見て、美しく見せることを職業にすると、そのこころは必ず、欲で汚染されているだろう。欲の汚染に対処するのは、不浄随観である。このように結論に達して、サーリプッタ尊者はあの若者に、人間の身体とは不浄の部品で構成されているものだ、身体は不浄の集まりだ、と観察するように指導なさったのです。若者も本気になって冥想実践を始めました。しかし、ぜんぜん理解できません。集中もできません。いくら、不浄だ、不浄だ、と念じても、その気持ちはこころの中に入り込みません。
修行をしても、結果はゼロでした。四ヶ月間、真剣に修行の苦労をしたが、自分に能力がないことに、とても落ち込みました。還俗(げんぞく)するしか道がなくなりました。

 この若者のことをお釈迦様が察知しました。還俗しようと決めた彼を呼び、真剣真面目に苦労しながら修行したことも、彼自身から聞きました。お釈迦様は彼がダメな人間であるとも、もっとがんばりなさいとも、そんな早く諦めるのかとも、仰らなかったのです。とても美しい、形が揃った蓮の花一輪をもって、彼に差し上げたのです。恐らく彼は、この偉大なるお釈迦様が自分の苦労を充分認めてくれて、お別れのプレゼントでも下さったのではないかと思ったでしょう。お釈迦様がこのように言われました。「家に帰るまで、この花を見つめてごらんなさい」。美しい花が目に入った瞬間、彼のこころに喜びが沸いてきたのです。美を発見できるプロだったので、こころが落ち着いたのです。修行するという負担もなく、ただ喜んで花を見つめればよいのです。しかし、花に釘付けになった状態でいると、当然のことに花が萎(しお)れていきます。蓮の花は、面白いものです。朝咲いて、午後になるとまた元のつぼみに戻るのです。三日目くらいになると、満開に咲くのです。その時は、とても美しい。
しかし、その日に限って、午後になると萎れて、花びらが一つずつ落ちるのです。お釈迦様があげたのは、満開になった一輪の蓮の花です。花びらの萎れと同時に、この若者のこころも変わっていったのです。ものごとは瞬間瞬間変化するものだ、やっぱり釈尊が説かれたように一切は無常なのだ、執着には値しないものだ、と発見して、完全たる悟りに達したのです。智慧の第一人者であるサーリプッタ尊者に、四ヶ月間かけてできなかったことを、お釈迦様は恐らく二、三時間以内で、実現してしまったのです。

 このエピソードのネタを披露します。今世だけではなく過去世も、この若者は金細工職人だったので、どんなものからでも、美の形をつくりだす能力が身に付いていたのです。美しいものなら喜びを感じるし、何時間でも集中することもできたのです。欲があった、というよりは、プロの目利きだったのです。お釈迦様はこの能力を駆使したのです。方法さえ合っているならば、煩悩を絶つことは睡蓮の茎を折るくらい容易いことだと語られたのです。ですから、煩悩を絶つことは、決して叶わない目標というよりは、手を伸ばせば手に入るくらいの目標だと理解しても一向に構いません。我がままを張らないで、俗世間の知識で汚染しないで、釈尊が説かれたように実践すれば、結果は確実です。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XX MAGGA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第20章 道の章
 
 “Ucchinda sinehamattano,
 kumudam sâradikamva pâninâ;
 Santimaggameva brûhaya,
 nibbânam sugatena desita” nti.
      (Dhammapada 285)
 
  秋蓮(しゅうれん)手もて折るごとく
  我が自己愛を打ち砕け
  寂静の道 直(ひた)に行け
  善逝(スガタ)は説きぬ 涅槃(ニッバーナ)
      (ダンマパダ285)   (訳・江原通子)
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