パティパダー巻頭法話
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No.17 (1996年7月)
「人生の目的 PART-1」
〜生きることは本番のないリハーサルか〜
A・スマナサーラ長老

 我々は生まれたときから死ぬまで、いつも必死で生きています。
小さいときは勉強したりスポーツしたり、頭と体を鍛えるために忙しく過します。それは大人になってから社会人として生きるための準備です。未来のための教育ですから、計画どおりにいけば幸いですが、そううまくいかないこともあります。もしうまくいかないとすれば、今生きることについては意味を持たないということになりますね。

「将来のため、将来のため」と大人が言うことは、子供に「今やることはただのリハーサルでしかない。本番ではない。今を生きることには意味がない」と言っているのと同じことです。
子供達は「将来のため」と言われ、自分の意志とは別にやらされるむずかしい勉強に嫌気がさしてしまったり、時には「今」楽しいことへ走ってしまったりします。そのうえ、大人になっても将来のために努力する傾向は消えません。目的や夢があるとき大人も結構頑張りますが、夢が消えたら無気力になって困ることがしばしばあります。子供の時から努力は未来のためだと性格の中に刷り込まれていますから、大人の社会でも何か目的を作ったり夢を作ったりして頑張ることは美徳として認められています。極端に考えると、みんな死ぬまで明日のために準備することだけで生きているとも言えるのではないでしょうか。結局生きるということは準備することだけになってしまいます。

では一体いつ「生きている」という本番が出てくるのかという疑問が当然生れてくるでしょう。普段はそういうことに気付いていないかもしれませんが、皆様もたまに人生の目的などを考えたり探したりするのではないでしょうか。それは遊びにふける子供たちの考え方と同じく、今やっていることを無意味だと、なぜ将来のためだけに頑張らなくちゃいけないのか、と疑問を感じることです。悪ガキ達が先に気付いたことに、あとになって大人が気付いただけのことです。

 とはいえ今の瞬間、精一杯生きて充実感を感じられれば人生に対して問題は生まれませんが、そう簡単にはうまくいかないのが人間です。先のことを考えない、計画を立てない、特別に生きる目的などないというような生き方は様々に不満や混乱を生じさせます。やっぱり人生には何か生きる目的があった方が落ちつくものなのです。そこで今月は生きる目的とは何かを考えてみましょう。

 普通の人間は、家族のため、お金のため、知識、名誉、権力等々のため、というような生き方をしていますが、当然ながら感性の研ぎすまされた人は、そのような生き方には不満を感じるはずです。また、そのような目的を達成しても、最後に、一体自分自身の人生って何だったんだろうと、空しく思うことにもなります。

 昔のインドの文化では、花は香りがなければきれいなだけで意味がないと思っていたようです。

それを人生にも例えています。家族、財産、名誉などを手にし、社会的、外見的に人生を完成しても、それは香りのない花のようなものだというのです。インドにおいても我々現代人と同じく、家族の幸せや財産に恵まれていること、社会的地位があること、知識人であること、などを人生の目的として当然のことと考えていました。そういうことは、決して否定すべきものではないのですがそれだけを生きる目的にするのは、あまりにも空しいことです。そのようなものはたとえ獲得できたとしても、自分から確実に離れていきます。家族も離れるし、財産もなくなるし、社会的な地位もなくなるし、知識があっても歳をとると忘れたり、ボケる場合もあります。最後には、自分自身には何もなくなります。

 釈迦尊の教えから考えると、何か自分と一体になるものを得た方がよいのです。そういうものは自分と一緒ですからなくなりません。では自分から離れないものは一体何かというと、自分の人格だけしかないのです。まずはそのような意味から、人格の完成を目指して努力することは、生きる目的となるべきものだと言うことができると思います。我々は何をするにしても、そのすることによって自分の人格がいい方向へ変わるか変わらないかを確かめながら生きるならば、一生力強く、しっかりと生きていられるだろうと思います。古い言葉に言い換えれば、徳を積みなさいということです。私に何か「得」がありますかと考えるケチな話とは違います。いつも、自分の短所を減らし、長所が増えるように努力することです。また人間は気のままに行動するので、他人に害を与えたり迷惑をかけたりします。つい怒りに捕われてしまいます。嘘をついたり嫉妬したり、また自分の失敗や悩み事を酒や麻薬に逃げたりします。このようなものから離れる努力を仏教では戒(si^la)といいますが、そのようにいい人格を作るために努力することは生きる目的として素晴らしいものです。しかしそれも、むやみにやるのではなく知性的にやらないといい結果にはなりません。

 釈迦尊はこうおっしゃいます。
「花を上手に集めれば美しい花輪を作れるように、人として生まれた限りは多くの徳を積むべきである」(Dhammapada−53)
ひとつひとつの徳を1本1本の花に見立て、それを上手に組み立ててこそ美しい人格を完成することができるということです。

 花の香りにしても風によってのみ広がります。同じく我々の世界でも、世俗的に言う財産、名誉などは、ある社会条件の中でのみ認められるのです。でも人格は、徳というものから香っているならば、それはどんな条件にも制限されることなく広く認められるのです。
「白檀、ジャスミンの花などの香りも風に逆らっては広がらない。善き人の戒(徳)の香りは風に逆らってもどこまでも広がっていく」(Dhammapada−54)

 生きる目的は何だろうと悩みながら時間を無駄にすることより、人格を完成の方向へ持っていくために生きているのだと思った方がいいのではないでしょうか。我々の性格では、直さなくてはならないものはいくらでもあります。次から次へと欠点を見つけると、それらを直すために励まなくてはいけないというエネルギーも生まれてきます。そうすると、死ぬまで元気で生きていられるはずです。これからどうしようかという疑問が生まれません。その人は死ぬときは確実に素晴らしい人間として亡くなります。その人にだけ、日本でよく言われる「生きていてよかった」という言葉を言う権利があります。他の人々はただ生きているだけだといえるのではないでしょうか。

 人格完成のためにはたくさん方法があります。諸々の宗教で道徳、生き方、修行として教えられているものでもあります。自分中心に考えて他人の気持ちを無視して生きる生き方を直すこと、自も他も全く平等であると理解して生き方を変えること、自分が唯一の存在であると誰の心にも隠れている高慢を直す努力などなどいくらでもありますがここでは省略させていただきます。

今回のポイント

◎経典の言葉
Candanam cagaram vâpi − uppalam atha vassikî
Etesam gandha jâtânam − sîla gando anuttaro.
白檀、タガラ、蓮華、ジャスミンなどの香りよりも、徳の香りが最高である。(Dhammapada−55)
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