パティパダー巻頭法話
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No.173 (2009年7月)
苦労しないで楽に達する道

 〜大楽を得るために小楽を捨てる〜
 Progress from lesser happiness to major happiness
A・スマナサーラ長老

 少量の幸福を捨てることで、大量の幸福を実現できる見込みがあるならば、少量の幸福を捨てるものだと、お釈迦様が説かれています。この方程式は仏教独特なものだと言えるものではないのです。一般常識です。金融関係の商行為であるならば、当たり前の話です。

金持ちの人々は、よりたくさんの金を期待して株売買などを行うのです。株を買う場合は、必ず株価が上がるだろうと推測するのです。推測だけで、儲ける目的で株を買って、株価が下落して全財産がなくなるのも、よくあることです。そのような結果になるのはなぜでしょうか? 知識が欲の感情で覆われている。具体的に推測する能力が衰えている。ですから、その推測は現実と一致しないのです。

 世界はふつうにこのように言う。「百万円投資するならば、一年間で百五十万円が返ってくるのです」と。

それで誰でも、投資したくなります。必ず百五十万円なるのかと、伺います。商売の世界だから確実にとは言えないのだ、リスクもあるのだ、と答える。投資する気持ちは薄らぎます。百万円を無くしたくはないのです。それで、相手がまた「投資しなかったら利益は何も得られませんよ」と答える。投資する人は、さらにディレンマに陥る。理性で考えると、投資すべきか否かという答えは出てこない。臆病者の人は、投資しないことにする。徐々に消えていく自己資金を見ながら、投資した方がよかったのではないか、チャンスを逃したのではないかと、悩む。欲に目がくらんだ人は、進んで投資する。しかし、株が下がったりして元本が目減りしていくのを見ながら、投資しなかった方がよかったのではないかと、悩む。投資するべきか、してはいけないのか、という極端な選択は、同じ結果を出すのです。理性のある人は、三番目の道を選ぶ。

三番目の道は難しい。客観的に現在の経済状況を調べてみる。経済が全体的に成長の方向へ行っているのだと分かったら、百五十万円も返ってこなくても、いくらかは利息が返ってくるものだと知る。自分はどうしても金を増やさなくてはいけない理由がある。それで投資することにする。また、余分なお金は現状では必要でないとするならば、余計な投資をしてややこしいことに絡むのを避ける。投資しないことにする。このように考えて判断することが、三番目の道です。投資してもしなくても、悩むことにはなりません。

 「少量の幸福を捨てることで、大量の幸福に達する見込みがあるならば、少量の幸福を捨てるべき」というのは、誰にでも分かりやすいシンプルな言葉かもしれませんが、実は少量の幸福と大量の幸福が何かと、理解する能力が欠かせないのです。ですから、理性のある人であるならば、この言葉のとおりに実行できるのです。理性は欠かせない、ということを、お釈迦様が明確に説くのです。

 ふつうの世界でよく謳われることは、「苦あれば楽あり」「苦労は買ってでもしろ」のような言葉です。要するに、楽に達するためには苦労しなくてはいけない、ということです。世の中のことを観察すると、現実はそうではないかとも思われます。しかし、言葉としては問題があります。苦労して楽に達したならば、それをよしとするためには、苦労よりは楽の方が大きくなくてはならないのです。苦労は大量で、楽は少量であるならば、その努力はわりにあわないのです。それなら、その苦労をする必要もないのです。俗世間の生き方について、欲におぼれることについて、お釈迦様が大量の苦労と少量の楽しみの生き方だと説かれるのです。

 何としてでも豊かになりたい、成功したい、という希望が皆にあるのです。世間は一斉に、この世で豊かさに達することを推薦しているのです。その話に乗っている私たちも、金を儲けることに、成功することに、結婚することに、子供を育てることに、有名になることに、権力を握ることに、必死なのです。
一向に考えないポイントは、その目的に達しても幸福になるのか、楽になるのか、ということです。
たいへん苦労して、国の首相になるかもしれません。しかし、首相になったことで幸福になったのか、楽なのか、人間として達するべき境地に達したのかは、別問題でしょう。トップの政治家になってから、うまく政治ができなくて、様々な犯罪を起こして、国民を不幸に陥れるケースも世の中で少なくありません。そのような人々は、政権から追われたり、裁判にかけられたり、収監されたり、死刑になったりもするのです。このような生き方は確かに、苦労して楽に達する生き方です。しかし、大量の苦労をして、わずかな楽に達する生き方でもあります。仏教なら、推薦しない道なのです。俗世間の生き方はほとんど、このように大量の苦労をして、少量の楽に達する道なのです。

 ですから、「少量の楽を捨てることで、大量の楽に達する」という方程式で生きることが、正しい道なのです。苦労して楽に達する道の場合は、少量の苦であっても、負なのです。達した楽から、差し引かなければならないのです。少量の楽を捨てて、大量の楽に達する道はこのように説明できます。たとえば、十万円の価値ある品物を一万円で買うことができたならば、明らかにお買い得なのです。一万円あった時も、うれしいのです。一万円で、十万円の価値ある品物が手に入ったことも、うれしいのです。残念ながら、ここで苦はないのです。仏道は、この道なのです。受難して楽を得る道ではないのです。楽をしながら、さらに上の楽に達する道なのです。その道を歩むことは、究極の楽に達するまで、この上の楽がないと実感できるまで、止めないのです。仏教に対して様々な意見を述べる方々は忘れているポイントなので、よく覚えておきましょう。

 ある日、ジャイナ教の行者たちがお釈迦様をこのように批判したのです。

'Na kho, âvuso gotama, sukhena sukham
adhigantabbam, dukkhena kho sukham
adhigantabbam; sukhena câvuso gotama,
sukham adhigantabbam abhavissa, râjâ
mâgadho seniyo bimbisâro sukham
adhigaccheyya, râjâ mâgadho seniyo bimbisâro
sukhavihâritaro âyasmatâ gotamenâ' ti.(M-14)

 「ゴータマさん、楽から楽に達することはできません。もし楽から楽に達することができるというならば、マガダ国のセーニヤ・ビンビサーラ王様がゴータマさんよりも優れた幸福に達していることになります。」

 このように批判を受けたのは、お釈迦様がジャイナ教の苦行を激しく批判したからです。彼らは究極の楽に達するために、極限に苦行しなくてはいけないのだと思っていたのです。彼らの開祖が、「過去の業でいま苦しんでいるのだ。であるならば、いま苦行をして過去の業を燃やしましょう。新しい業を作らないことにしましょう。それで業が消えるのです。業がなくなったら、苦がないのです。苦がないならば、究極の楽なのです」と説かれていたのです。
お釈迦様は、「君たちは過去にいたことを知っているのか。過去で悪業をしたことを知っているのか。過去の悪業の量はどれくらいなのかと知っているのか。いまの苦行で、どれくらい悪業が燃えて、どれぐらい悪業が残っているのかと知っているのか」と、質問されたところで、すべての質問に「知りません」という答えが返ってきたのです。
お釈迦様は結論を出す。「それなら、皆と同じく楽に生きられるのに、あなた方はむやみに、意図的に、苦しんでいるのです。まさかあなた方は、過去世で殺人者・強盗・強姦魔だったのではないか」と。お釈迦様がユーモアで、彼らの修行が間違っていると説かれたところです。非難されたわけではないのです。それでもその言葉が、ジャイナの行者たちの気に障ったのです。

 ジャイナ行者たちの批判に対して、お釈迦様は答えをする。
「あなた方は調べることもしないで、無責任に、根拠のない言葉で、私を批判しようとします。しかし、私はさらにあなた方に質問します。マガダ国王に七日間、身体を停止したままで、言葉を発することもなく、昼も夜も究極の幸福を感じていることはできますか?」

 できません、という返事がきます。
それでお釈迦様は、「では六日間は? 五日間は? 四日間は? 三日間は? 二日間は? 一日だったら?」と日にちを減じていきました。また、できません、という答えが返ってくる。
お釈迦様は、「自分には七日間も、昼も夜も身体を完全停止したままで、言葉の働きも停止して、究極の幸福を感じていることはできるのだ」と説くのです。

 最後に、ジャイナ行者たちが、「究極な楽を感じているのはお釈迦様である」と、認めざるを得なかったのです。

(Evam sante âyasmâva gotamo sukhavihâritaro raññâ mâgadhena seniyena bimbisârenâ.
 それなら、ゴータマさんはビンビサーラ国王よりは楽をしていることになります。)

この経典のポイントは、仏道を歩んで究極な幸福(解脱)に達するためには、苦労・苦行する必要はないのだ、ということです。要するに、仏道は苦労して楽に達する道ではないのです。少量の楽を捨てて、大量の楽に達する道なのです。俗っぽく言えば、十万円の価値ある品物を一万円で手に入れる道なのです。

 しかし、問題があります。これは誰にでも出来るわけではないのです。感情に操られて、やみくもに、一か八かという気持ちで問題に飛び込む人には、できないのです。状況を明確に判断する理性のある人なら、実現できる道です。

 仏教には厳しい戒律があるでしょう。禁欲生活を推薦しているでしょう。世の中の楽しみを否定しているでしょう。生きることは苦であると、悲観主義を語っているでしょう。この世の楽しみを捨てて、苦しい修行をして、よく分からない「解脱」という境地に達しなさいと言っているでしょう。そもそも冥想実践とは、苦しくてやりづらいものでしょう。金を儲けて、家族を養って、楽しく生きることを戒めているでしょう。

このような批判は、仏教には限りなく降りかかっているのです。それはすべて、根拠のない、証拠のない、仏道を理解していない人々の感情的な批判であり、感想であります。仏教を学んだことのない他宗教の方々も、身を乗り出してまで言う批判なのです。このような批判には、言葉は厳しいですが、一行で答えられます。「あなた方は、何も知らない、理解能力もない、真理を理解する気持ちもない、愚か者であると宣言しているのです」と。

 殺生しない、盗みは犯さない、邪な行為をしない、嘘をつかない、麻薬・酒などを使用しないということで、人生が苦しくなった試しはないのです。しかし、殺生することで、殺人を犯すことで、不幸になったことはあり過ぎではないでしょうか。盗むことで、自分が破壊するだけではなく、他人の大事な財産がなくなったり、銀行や会社が倒産したりしたことはあり過ぎではないでしょうか。邪な行為で、どれくらい家族が不幸になったことでしょうか。どれぐらい子供たちが、親から離れて苦労するはめになったことでしょうか。嘘をついて人をだまして、国をだまして、世間をだまして、何か善いことがひとつでもあったのでしょうか。正真正銘の嘘つきだからと、会社に内定が決まったケースはひとつでもあるのでしょうか。酒を飲むことが資格になる場合があるのでしょうか。アル中に、麻薬中毒者に求人を呼びかける仕事なんかはあるのでしょうか。

ですから、戒律は厳しい、苦しい、守りたくないというのは、自分自身が右も左も理解できない極限な愚か者であると宣言することではないでしょうか。何かの意見を述べる前に、充分な証拠を調べてから、言うべきでしょう。結局は、仏道は厳しいのだという人々は、自分たちを不幸に陥れる原因を放っておいてくださいと言っているだけです。人間の危険性を放っておいてくださいと言っているだけです。人間は幸福になること、平和でいること、仲良くすること、豊かになること、貧困がなくなることが嫌で、大反対しているだけです。

 冥想実践も厳しいと言っている人々がいるのですが、そうとう勘違いしているのです。世の中にある様々な宗教のしきたりを見て、仏教の冥想が厳しいと言うのはどういうわけでしょうか。苦行があるのは、他宗教です。苦行をしても、他宗教の中でこころの安らぎの境地に達した人は、一人もいないのです。贅沢に生きられるのに、わざと迷信的な苦行を選んで好んで行うのは、お釈迦様がユーモアで仰ったとおりに、過去世で悪業を積んで、楽に生きる資格がないからではないでしょうか。仏教の冥想実践はどういうものかと調べると、苦行は微塵もないことが分かるはずです。仏教の冥想実践をスタートした時点から、こころが安らぎを感じ始めるのです。こころが、成長をはじめるのです。こころに潜んでいる欠点・弱点は、徐々に消えてゆくのです。見る見るうちに人生は、明るくなるのです。いまここで幸福になるのだ、という保証は、仏教だけです。他宗教が語る幸福は、死んでから得るものです。死んでからその教えが間違っていたと分かっても、後の祭りです。いまここで幸福になると保証しているから、たとえ一週間でも試してみることができるのです。間違っていると分かったら、いつでも止めることもできるのです。

 こころの悩みが多い人に、冥想は最初にやりにくいものだと思えるのはしょうがないことです。重病の患者が苦しいのだと叫ぶのは、どうしようもないことです。重病の患者に限って、治療さえも苦しく感じるのです。しかし、治療をはじめたら、病気が減っていくから苦しみも減り、楽になるのです。重病の患者は苦しいから治療が嫌だというのではなく、治療を受けるべきです。こころは問題だらけで重病な人も、冥想は苦しいと文句を言うものではなく、少々、忍耐するべきなのです。仏道は楽から楽へ行く道なのです。正確に言えば、少量の楽を捨てて大量の楽に達する道なのです。

今回のポイント

◎今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXI PAKINNAKA VAGGA
ダンマパダ(法句経) 第21章 種々なるものの章
 
290. "Mattâsukhapariccâgâ,
   passe ce vipulam sukham;
   Caje mattâsukham dhîro,
   sampassam vipulam sukha"nti.

   もし大楽(たいらく)を得るなれば
   小さき楽は捨てよかし
   賢人大楽 手にしつつ
   捨て去るものぞ小さき楽
      (ダンマパダ290)   (訳・江原通子)
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